第10話 別の便箋
朝、私は本院昇任の辞令を、もう一度、机に広げた。
辞令の文面は、行政文書らしく、淡々としていた。「任、王立鋳貨院本院検査官兼起草補佐。発令、来月一日付。任地、王都リュネック」――短い行が、四行。私の名前が、フルネームで、ふた箇所に書かれていた。辞令の中で、私の名前は、辺境伯夫人ではなかった。鋳貨検査官、ヴィルジニー・ド・サン=アルディオ。家名のまま、職務名で書かれている。
家名を、私は、これからどうするか。今日、決めなくていい。決めなくていい、と思った。
辞令の隣に、もう一通、白い封筒があった。
差出人欄に、名前はなかった。封蝋もない。
中央財務監察庁の便箋ではなかった。支所宛の公文書でもなかった。
無地の、白い便箋。
私は、封を切った。
中の便箋は、一枚だけだった。
「ヴィルジニー様
公文書には書きませんでしたが、お手紙でお伝えしたいことがございます。
私はあなたの試金石の手元を、もう一度、見たいと思っています。
仕事の場ではないところで。
宿の机に、別の鉛筆を二本立てておきます。
シリル・ベルナトン」
短い手紙。
私は、その便箋を、しばらく、机の上で、平らに、置いていた。
紙の角を、折らなかった。
◇
エドモンが、支所の机に、新しい木箱を、運んできた。
「君宛だ。本院から」
「これは」
「新しい試金石。本院鋳貨頭ヴェルニエ様から」
「新しい」
「うん」
私は、木箱を開けた。
中に、玄武岩の試金石が、白布の上に置かれている。三年前、エドモンから受け取った石より、少しだけ、長い。
「副所長」
「うん」
「古い試金石は」
「君がここに置いていきたければ、置いていけ」
「机に、ですか」
「うん。先代の手帳と一緒に、ここの机が、覚える」
「机が」
「うん。先代の手帳も、君が本院に持っていく、と決めれば、本院に持っていけ。ここに置いていく、と決めれば、ここに置いていけ。どちらでも、机は覚える」
私は、しばらく、考えた。
新しい試金石を、白布で軽く包んで、本院行きの荷物の脇に置いた。
古い試金石は、白布を畳んで、机の引き出しに、収めた。
先代の手帳は、支所の机に、開いたまま、置いた。
「副所長」
「うん」
「先代様の手帳、ここの机に、置いていきます」
「うん」
「義父の付箋は、書面の写しを取って、本院の文書綴にだけ、残します。原本はここに」
「うん」
「いずれ、ナエル様が、支所の応接間で、本院の試験の話をしに来た時、机の上で、お見せしたい本があります」
「分かった」
エドモンは、机の縁に、手を一度置いた。
「ヴィルジニー」
「はい」
「本院の起草補佐の仕事は、辺境支所からは見えない仕事だ」
「ええ」
「ただ、辺境の数字は、いつでも、支所から本院に届く」
「分かっております」
「君の机は、本院にも、辺境にも、置いておく」
「はい」
◇
午後、ナエル・モンセールから、支所宛に、書状が届いた。
封筒の中に、検査官資格再受験の願書、二通。
一通は、本人の願書。
もう一通は、商会鋳貨ギルドからの推薦状。差出人「モンセール商会主バルテルミ・モンセール」。
「奥様、受験票の保管を、支所でお引き受けいただけますでしょうか。停職期間中、商会の手元に置くと、父の事務が再び口を出しそうで、不安でございます」
私は、短い返信を、書いた。
「ナエル様
受験票、支所の保管棚で承ります。
机の脇に、空けてあります。
ヴィルジニー」
封をして、明日の朝、支所の便で送る封筒の束に、添えた。
◇
夕方、辺境伯邸から、書面が届いた。
差出人「サン=アルディオ辺境伯 オリヴィエ・ド・サン=アルディオ」。
中身は、家令選定通知の写し、所領財務の暫定統括への協力誓約、そして――
「ヴィルジニー殿
書類上の別居の手続き、家令代行と王立鋳貨院辺境支所を通して、了解いたしました。
別居中の通信は、辺境伯家公的書類と、私個人の便箋とを、分けて差し上げます。
公的書類は、辺境伯家家令代行から、王立鋳貨院辺境支所宛に。
私個人の便箋は、追って、別途。
ヴィルジニー殿のご名前を、私は、これより、フルネームで書きます。
サン=アルディオ辺境伯 オリヴィエ・ド・サン=アルディオ」
宛先欄に「ヴィルジニー・ド・サン=アルディオ」と、フルネームで書かれていた。
私は、その通知を、書類綴に挟んだ。
返事は、今日は、書かない。
明日、別の便箋で、短く返す。
◇
夜、私は新しい手帳の最後の頁に、ペンを置いた。
題は書かなかった。
ただ、こう、一行だけ書いた。
「数字に名前を寄せないでください、と私はもう一度、別の便箋に書いた」
書き終わって、私は、便箋を一枚、机に出した。
宛先「シリル・ベルナトン様」。
差出人「ヴィルジニー」。
辺境伯家のフルネームではなく、王立鋳貨院の肩書でもなく、私の名前だけで、書いた。
「ベルナトン様
別の便箋、ありがとうございました。
私もあなたの机に、鉛筆を二本立てに来たいと思っています。
仕事の場ではないところで。
これが、恋なのか、敬意なのか、私には、まだ分かりません。分けて呼びたくない、と書きそうになって、書きませんでした。
ただ、お湯の温度のお話を、本院に着任した最初の日に、させてください。
ヴィルジニー」
短い手紙だった。
封をして、封蝋を熱した。家紋でも院章でもなく、私個人の鋳貨師印を、押した。
便箋は、明日の朝、宿の机宛に、別の便箋で届く。
◇
支所を出る朝、ジャネット・ラフォンが、支所の入口まで、迎えに来てくれた。
辺境伯邸の侍女として、ではない。
「奥様――いえ、ヴィルジニー様」
「ジャネット」
「これより、辺境伯邸の侍女ではなく、わたくし個人として、お側におりたく、お願いに上がりました」
「ジャネット」
「奥様の本院の机に、白湯のレモンを、お運びしたく」
「家のお仕事は」
「家令代行に、辞退の届けを出してまいりました」
私は、ジャネットの白い手袋の指先を、見た。指先が、いつも通り、まっすぐ揃っていた。
「ジャネット」
「はい」
「結びは」
「堅結びで」
「ええ」
ジャネットは、白布で包んだ新しい試金石を、麻紐で堅結びで二本、結び直してくれた。
それから、革張りの茶色い手帳――私個人の手帳――を、別の布で、丁寧に包んで、私の脇に置いた。
エドモンが、支所の二階の窓から、片手を上げた。
「気をつけて行ってこい」
「副所長」
「うん」
「机を、もう一つ、空けておいてください」
「うん。誰の机だ」
「ナエル様が、停職明けに、本院試験を受けてくる前の、控の机です」
「分かった」
私は、深く一礼して、馬車に乗った。
御者が、口笛を、小さく吹いた。
馬車が動き出してから、私は、膝の上の白布を、両手で押さえた。
新しい試金石。
革張りの手帳。
別の便箋で書いた手紙の控。
すべて、私個人の名前で、私の隣に、ある。
辺境伯邸の方角を、私は、一度だけ、振り返った。
煙突から、白い煙が、ゆっくり、立ち上っていた。改鋳所のではなく、辺境伯邸の厨房のものだ。料理人が、夫の朝食を、いつものように、整えている。
私は、振り返るのを、その一度で、やめた。
馬車は、王都に向かって、街道を進んだ。
街道脇の野の白い花が、五月の風で、ゆっくり揺れていた。三年前、嫁いだ年の街道は、私はあまり覚えていない。緊張で、窓の外を見る余裕がなかった。今、見ている街道は、当時より、明るかった。同じ街道が、自分の見え方一つで、こんなに違うらしい。
ジャネットが、私の隣で、白湯の杯を、ふたつ、お盆に整え始めた。
「ヴィルジニー様」
「ジャネット」
「お湯が、まだ温かいうちに」
「ありがとう」
私は、白湯を、両手で受け取った。レモンの皮が、湯の表面で、ゆっくり、円を描いていた。
別の便箋で書いた手紙が、明日の朝、宿の机に届く。
それから、本院で、机を並べる。
数字に名前を寄せないでください、と私はもう一度、別の便箋に書いた。




