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念のためと夫に呼ばれ続けて、三年目の朝が来た  作者: 九葉(くずは)


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第10話 別の便箋

朝、私は本院昇任の辞令を、もう一度、机に広げた。


辞令の文面は、行政文書らしく、淡々としていた。「任、王立鋳貨院本院検査官兼起草補佐。発令、来月一日付。任地、王都リュネック」――短い行が、四行。私の名前が、フルネームで、ふた箇所に書かれていた。辞令の中で、私の名前は、辺境伯夫人ではなかった。鋳貨検査官、ヴィルジニー・ド・サン=アルディオ。家名のまま、職務名で書かれている。


家名を、私は、これからどうするか。今日、決めなくていい。決めなくていい、と思った。


辞令の隣に、もう一通、白い封筒があった。


差出人欄に、名前はなかった。封蝋もない。


中央財務監察庁の便箋ではなかった。支所宛の公文書でもなかった。


無地の、白い便箋。


私は、封を切った。


中の便箋は、一枚だけだった。


「ヴィルジニー様


公文書には書きませんでしたが、お手紙でお伝えしたいことがございます。


私はあなたの試金石の手元を、もう一度、見たいと思っています。


仕事の場ではないところで。


宿の机に、別の鉛筆を二本立てておきます。


シリル・ベルナトン」


短い手紙。


私は、その便箋を、しばらく、机の上で、平らに、置いていた。


紙の角を、折らなかった。



エドモンが、支所の机に、新しい木箱を、運んできた。


「君宛だ。本院から」


「これは」


「新しい試金石。本院鋳貨頭ヴェルニエ様から」


「新しい」


「うん」


私は、木箱を開けた。


中に、玄武岩の試金石が、白布の上に置かれている。三年前、エドモンから受け取った石より、少しだけ、長い。


「副所長」


「うん」


「古い試金石は」


「君がここに置いていきたければ、置いていけ」


「机に、ですか」


「うん。先代の手帳と一緒に、ここの机が、覚える」


「机が」


「うん。先代の手帳も、君が本院に持っていく、と決めれば、本院に持っていけ。ここに置いていく、と決めれば、ここに置いていけ。どちらでも、机は覚える」


私は、しばらく、考えた。


新しい試金石を、白布で軽く包んで、本院行きの荷物の脇に置いた。


古い試金石は、白布を畳んで、机の引き出しに、収めた。


先代の手帳は、支所の机に、開いたまま、置いた。


「副所長」


「うん」


「先代様の手帳、ここの机に、置いていきます」


「うん」


「義父の付箋は、書面の写しを取って、本院の文書綴にだけ、残します。原本はここに」


「うん」


「いずれ、ナエル様が、支所の応接間で、本院の試験の話をしに来た時、机の上で、お見せしたい本があります」


「分かった」


エドモンは、机の縁に、手を一度置いた。


「ヴィルジニー」


「はい」


「本院の起草補佐の仕事は、辺境支所からは見えない仕事だ」


「ええ」


「ただ、辺境の数字は、いつでも、支所から本院に届く」


「分かっております」


「君の机は、本院にも、辺境にも、置いておく」


「はい」



午後、ナエル・モンセールから、支所宛に、書状が届いた。


封筒の中に、検査官資格再受験の願書、二通。


一通は、本人の願書。


もう一通は、商会鋳貨ギルドからの推薦状。差出人「モンセール商会主バルテルミ・モンセール」。


「奥様、受験票の保管を、支所でお引き受けいただけますでしょうか。停職期間中、商会の手元に置くと、父の事務が再び口を出しそうで、不安でございます」


私は、短い返信を、書いた。


「ナエル様


受験票、支所の保管棚で承ります。


机の脇に、空けてあります。


ヴィルジニー」


封をして、明日の朝、支所の便で送る封筒の束に、添えた。



夕方、辺境伯邸から、書面が届いた。


差出人「サン=アルディオ辺境伯 オリヴィエ・ド・サン=アルディオ」。


中身は、家令選定通知の写し、所領財務の暫定統括への協力誓約、そして――


「ヴィルジニー殿


書類上の別居の手続き、家令代行と王立鋳貨院辺境支所を通して、了解いたしました。


別居中の通信は、辺境伯家公的書類と、私個人の便箋とを、分けて差し上げます。


公的書類は、辺境伯家家令代行から、王立鋳貨院辺境支所宛に。


私個人の便箋は、追って、別途。


ヴィルジニー殿のご名前を、私は、これより、フルネームで書きます。


サン=アルディオ辺境伯 オリヴィエ・ド・サン=アルディオ」


宛先欄に「ヴィルジニー・ド・サン=アルディオ」と、フルネームで書かれていた。


私は、その通知を、書類綴に挟んだ。


返事は、今日は、書かない。


明日、別の便箋で、短く返す。



夜、私は新しい手帳の最後の頁に、ペンを置いた。


題は書かなかった。


ただ、こう、一行だけ書いた。


「数字に名前を寄せないでください、と私はもう一度、別の便箋に書いた」


書き終わって、私は、便箋を一枚、机に出した。


宛先「シリル・ベルナトン様」。


差出人「ヴィルジニー」。


辺境伯家のフルネームではなく、王立鋳貨院の肩書でもなく、私の名前だけで、書いた。


「ベルナトン様


別の便箋、ありがとうございました。


私もあなたの机に、鉛筆を二本立てに来たいと思っています。


仕事の場ではないところで。


これが、恋なのか、敬意なのか、私には、まだ分かりません。分けて呼びたくない、と書きそうになって、書きませんでした。


ただ、お湯の温度のお話を、本院に着任した最初の日に、させてください。


ヴィルジニー」


短い手紙だった。


封をして、封蝋を熱した。家紋でも院章でもなく、私個人の鋳貨師印を、押した。


便箋は、明日の朝、宿の机宛に、別の便箋で届く。



支所を出る朝、ジャネット・ラフォンが、支所の入口まで、迎えに来てくれた。


辺境伯邸の侍女として、ではない。


「奥様――いえ、ヴィルジニー様」


「ジャネット」


「これより、辺境伯邸の侍女ではなく、わたくし個人として、お側におりたく、お願いに上がりました」


「ジャネット」


「奥様の本院の机に、白湯のレモンを、お運びしたく」


「家のお仕事は」


「家令代行に、辞退の届けを出してまいりました」


私は、ジャネットの白い手袋の指先を、見た。指先が、いつも通り、まっすぐ揃っていた。


「ジャネット」


「はい」


「結びは」


「堅結びで」


「ええ」


ジャネットは、白布で包んだ新しい試金石を、麻紐で堅結びで二本、結び直してくれた。


それから、革張りの茶色い手帳――私個人の手帳――を、別の布で、丁寧に包んで、私の脇に置いた。


エドモンが、支所の二階の窓から、片手を上げた。


「気をつけて行ってこい」


「副所長」


「うん」


「机を、もう一つ、空けておいてください」


「うん。誰の机だ」


「ナエル様が、停職明けに、本院試験を受けてくる前の、控の机です」


「分かった」


私は、深く一礼して、馬車に乗った。


御者が、口笛を、小さく吹いた。


馬車が動き出してから、私は、膝の上の白布を、両手で押さえた。


新しい試金石。


革張りの手帳。


別の便箋で書いた手紙の控。


すべて、私個人の名前で、私の隣に、ある。


辺境伯邸の方角を、私は、一度だけ、振り返った。


煙突から、白い煙が、ゆっくり、立ち上っていた。改鋳所のではなく、辺境伯邸の厨房のものだ。料理人が、夫の朝食を、いつものように、整えている。


私は、振り返るのを、その一度で、やめた。


馬車は、王都に向かって、街道を進んだ。


街道脇の野の白い花が、五月の風で、ゆっくり揺れていた。三年前、嫁いだ年の街道は、私はあまり覚えていない。緊張で、窓の外を見る余裕がなかった。今、見ている街道は、当時より、明るかった。同じ街道が、自分の見え方一つで、こんなに違うらしい。


ジャネットが、私の隣で、白湯の杯を、ふたつ、お盆に整え始めた。


「ヴィルジニー様」


「ジャネット」


「お湯が、まだ温かいうちに」


「ありがとう」


私は、白湯を、両手で受け取った。レモンの皮が、湯の表面で、ゆっくり、円を描いていた。


別の便箋で書いた手紙が、明日の朝、宿の机に届く。


それから、本院で、机を並べる。


数字に名前を寄せないでください、と私はもう一度、別の便箋に書いた。

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