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やさしさの意味を知るまで

作者:reika1021
最終エピソード掲載日:2026/10/23
朝の清澄白河には、昨日までの夜を薄く溶かしたような光が残っている。駅へ向かう人の足音、まだ開ききらない店の扉、川の上を渡る湿った風。そのどれもが、時任澄伽にとっては見慣れた一日の始まりだった。

二十六歳。東京の生活にも仕事にもそれなりに慣れた。誰かに頼らなくても朝は来るし、疲れていても会社へ行ける。少しくらい無理をしたところで、誰にも気づかれないと思っていた。

月岡燈真だけを除いて。

同じ会社で働くひとつ年上の男で、気を遣わずに話せて冗談も言えてたまに帰り道が重なる、友人と呼ぶには少し近く恋と呼ぶには何も始まっていない関係だった。

澄伽がいつも選ぶ飲み物を覚えていることも、疲れた日にだけ歩く速度が少し遅くなることも、雨の日にはいつの間にか傘の乾いた側へ自分がいることも、ずっと燈真の性格なのだと思っていた。誰にでもそうなのだろうと、それ以上の意味を探したことはなかった。

ある朝、澄伽は体調の悪さを隠したまま仕事へ向かった。自分でも大したことではないと思っていた違和感に、燈真だけが気づいた。

理由を問い詰めるでもなく、心配を押しつけるでもなく、飲み物を差し出し、仕事を少しだけ軽くし、帰れる時間を自然に作る。その優しさはあまりにもいつも通りで、だからこそ夜になってから澄伽の胸に残った。

どうして、あの人だけわかったんだろう。

その小さな疑問を境に、何でもなかった日々が少しずつ形を変え始める。

今まで見落としていたものを拾い直すたび、澄伽は気づいてしまう。優しさには向きがあり、自分にだけ向けられていたものがあったのかもしれないと。

けれど、恋だと認めることは、今までの関係を失う怖さを知ることでもある。

澄伽が言えないのは「好き」ではない。

あなたがいないと寂しい、ということ。

そして燈真が言えないのもまた、「好き」ではなかった。

君にだけしている、ということ。

言葉にならないまま積み重なった気遣いと、何でもない会話のあとに残る沈黙。清澄白河から門前仲町へ続く見慣れた道で、同じはずの日常が少しずつ違って見えていく。

これは、恋が突然始まる物語ではない。

もう始まっていた恋にあとから気づいていく物語。

何でもない日に受け取った小さな優しさが、いつか特別な存在にしていたことを知るまでの、東京の静かな純愛です。
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