第8章:不在という答え
木曜の朝、昨夜の雨が上がったばかりの匂いがまだ残っていた。澄伽が目を覚ますと、窓の外にはまだ湿った空気が薄く漂っていた。
濡れたアスファルトの匂いが開けた窓から流れ込んできて、澄伽は昨夜の眠りの浅さを思い出す。
夢の中で何度も同じ場面を繰り返していたような気がするが、目が覚めるとすでに何の場面だったか輪郭を失っていた。ただ、胸の奥に残る重さだけが、それが穏やかな夢ではなかったことを教えてくれた。
布団を出る前、澄伽はしばらく天井を見つめていた。灰色がかった木目の模様を目でたどしながら、今日という一日がどんな色をしているのか想像しようとしてみるが、なかなか形にならなかった。
身支度を整える手つきはいつもより緩慢で、鏡の中の自分の顔には疲れの色がにじんでいた。
歯を磨きながら、澄伽は昨夜の落差を思い出した。温かなやり取りと事務的な短い言葉たち。
その差を目の当たりにした夜だった。それなのに、朝になってもその重さは少しも軽くなっていなかった。
朝食は取らずに澄伽は玄関へ向かった。食欲がないわけではないが、何かを口にする気分にはなれなかった。
冷蔵庫の中には昨日買ったヨーグルトが残っていたが、それを取り出す気力も湧かなかった。空腹のまま出社することへの抵抗感よりも、今は他のことを考える余裕がないという事実のほうが澄伽の中では優先されていた。
清澄白河の駅までの道は雨上がり特有の透明な光に満ちており、石畳の表面が朝の光を反射して白く輝いていた。
澄伽は、水たまりに映る空の色を避けながら歩いた。避けるという行為そのものが、今の自分の心境を表しているようで、少しおかしかった。触れたくないものから、無意識に距離を取ろうとしているのだ。
避けているつもりでも、視線はどうしても水面に吸い寄せられた。映る空の青さは思っていたよりも澄んでいて、澄伽の内側の曇りとは対照的だった。
橋の上から見下ろす川面は、昨日の濁りが少しずつ落ち着きを取り戻していた。澄伽はその変化を眺めながら、自分の心もこんなふうに落ち着いてくれたらと思う。
水の流れは止まらない。上流から下流へ、絶えず形を変えながら進んでいくその様子を見ていると、澄伽の中の澱みもいつかは自然に流れ去っていくのだろうかと根拠のない期待を抱いてしまう。
改札を抜けるとき、澄伽はふと足を止めて来た道を振り返った。誰かが隣にいるはずのない朝だとわかっていながら、その確認をせずにはいられなかった。
誰もいない歩道を見つめる時間はほんの数秒だったはずだが、その数秒の間に澄伽の胸にはさまざまな思いが去来した。
この確認をいつまで続けることになるのだろう、という答えの出ない問いを抱えたまま、澄伽は改札を通り抜けた。
オフィスに着くと、燈真はすでにデスクについていた。顔を上げた彼の表情は、昨日よりは幾分か穏やかに見える。
「おはよう」
「おはよう」
短いやりとりだったが、昨日ほどの硬さはなかった。それでも、以前のような自然な流れは戻ってこない。何かが完全に元に戻ったわけではないことを、澄伽は肌で感じ取っていた。
パソコンを立ち上げながら、澄伽はその表情の微妙な変化を頭の中で反芻していた。穏やかさが戻ってきたことに安堵する一方で、その穏やかさの奥にまだ触れられていない何かが残っているようにも感じられた。
隣の島から聞こえてくる燈真のキーボードを打つ音は、今朝はいつもより力が入っているように感じられた。何かに集中しようとしている、あるいは何かから目を逸らそうとしている、そのどちらかのような硬さだった。
その音のリズムを聞き分けようとする自分に、澄伽は苦笑した。たかがキーボードの打鍵音一つで、こんなにも相手の心情を読み取ろうとしてしまうのは、これもまた恋という感情がもたらす副産物なのかもしれない。
午前中、業務上の会話はいくつか交わされたが、それでも業務以外の言葉は一つもなかった。
これまでなら、資料の合間にふと交わされていたはずの軽口や他愛のない世間話、そういうものがこの二日間ですっかり姿を消していた。
会議室で隣り合わせになる場面もあったが、そこでも交わされるのは議題に関する言葉だけだった。以前は、会議の合間の小さな雑談が互いの距離を自然に保つ役割を果たしていたのかもしれない。しかし、その雑談がないだけで、こんなにも空気が違って感じられるとは、澄伽は思ってもみなかった。
議題に集中しようとするたび、澄伽の視界の端に燈真の横顔が入り込んでくる。真剣な表情で資料を見つめるその姿はいつもと変わらないはずなのに、今の澄伽にはどこか手の届かない遠さを感じさせた。
昼前、澄伽は資料の確認で燈真の島へ行き、用件を伝えて必要な返事を受け取った。しかし、それ以上の会話は続かなかった。澄伽は席へ戻る足取りの中で、この短さに慣れつつある自分にも密かに戸惑っていた。
慣れるということは、諦めることに近いのかもしれない。そう思いながらも、澄伽はこの状況を打開する術をまだ見つけられずにいた。ただ日々をやり過ごすことしかできない自分が、少しもどかしかった。
昼休み、澄伽は同僚たちと連れ立って外に出た。燈真は別の予定があるらしく、今日も食事の席にはいなかった。
食事をしながら、澄伽はふと燈真と最後に一緒に昼を食べたのはいつだったか思い出そうとしたが、数日前のことのはずなのに記憶がはっきりしない。
定食屋の座卓に座り、澄伽は箸を進めながらも頭の片隅で数え続けていた。火曜、水曜、そして今日。
三日連続で昼を別々に過ごしていることになる。たった三日のはずなのに、その空白は想像以上に長く感じられた。
日数だけで測れば、たかが三日だ。それなのに、体感する時間はまるで違っていた。一日一日が、以前の何倍もの重さを持って澄伽の中を通り過ぎていく。
同僚たちの会話に相槌を打ちながら、澄伽は窓の外を眺めた。雨上がりの通りを傘をたたんだ人々が行き交い、その中に燈真の姿を探してしまう癖は、まだ抜けていなかった。
見つからないと分かっていても探すことをやめられず、その矛盾した行動を澄伽は自分でも滑稽に思いながら、それでも視線を止めることができなかった。
午後、澄伽はデスクで資料を整理しながら、隣の島の様子を何度も気にしていた。燈真は電話対応や外回りで席を空けている時間が長い。
空いた椅子を見るたび、澄伽は小さな喪失感を覚えた。物理的にそこにいないというだけのことなのに、その不在がこれほど気にかかるようになったのはいつからだろう。
椅子の背もたれにかけられたままの上着がまだそこに彼の気配を残している。姿がなくてもその残された気配だけで澄伽の視線は何度もそちらへ向いてしまう。
窓の外では雨上がりの雲が少しずつ切れ始め、午後の光が斜めに差し込んでいた。その光の筋を見ながら澄伽は、自分の意識が仕事に集中しきれていないことを自覚せざるを得なかった。
書類の文字を目で追っているつもりでも内容が頭に入ってこず、同じ行を何度も読み返す自分に気づき、澄伽は小さくため息をついた。
これでは仕事に支障が出てしまう、と自分に言い聞かせても意識の焦点はなかなか定まらなかった。感情というものがこんなにも思考の集中力を奪うものだとは澄伽はこれまで実感したことがなかった。
夕方近く、澄伽はようやく彼と顔を合わせる機会を得た。廊下ですれ違った際、燈真が軽く会釈をした。
「お疲れ」
「うん、お疲れ」
それだけだった。会話は続かず、そのまますれ違い、すれ違いざまに感じた空気の薄さに澄伽は言いようのない寂しさを覚えた。
すれ違いざま、燈真の横顔をほんの一瞬だけ見たが、表情は特に変わったふうには見えなかった。
それがかえって澄伽の胸をざわつかせた。何もなかったかのような顔をされることがこんなにも寂しいとは思わなかった。
廊下の奥へ消えていく背中を、澄伽はしばらく見送った。以前なら、こんな短いすれ違いでももう少し長く言葉を交わしていたはずだ。その差を数えることに澄伽は少しずつ疲れを感じ始めていた。
数え続けることの虚しさに、澄伽はようやく気づき始めていた。差を数えるたびに、その差が本当に埋まらないもののように思えてくる。それでも、数えることをやめられない自分がいた。
退勤の時間、澄伽は帰り支度をしながら燈真の島を見た。彼はまだ何か作業をしている様子だった。
声をかけるべきか迷ったが、結局澄伽は一人でオフィスを出た。今日で三日連続、一人で帰ることになる。
エレベーターの中で、澄伽は扉に映る自分の顔を見つめた。三日前とは違う、少し疲れた顔がそこにあった。表情の変化は微かなものだったが、澄伽自身にはその違いがはっきりとわかった。
目の下の陰影、口角の下がり方、細部を一つずつ確認するたびに、澄伽は自分がどれほど心をすり減らしているのかを思い知らされた。それでも、この状態を止める方法はまだ見つからなかった。
ビルを出ると、雨上がりの夕方特有の澄んだ空気が頬を撫でていった。傘を持たずに済んだことに澄伽は今日初めて安堵した。少なくとも今日は、誰の傘も気にしなくていい。
清澄白河の駅までの道を歩きながら、澄伽はこの数日間の変化を数えていた。朝の挨拶が短くなったこと、昼を一緒に食べなくなったこと、
帰り道が別々になったこと。どれも小さな変化だった。
それなのに、積み重なるとまるで何かが根本的に崩れてしまったかのような感覚があった。指を折って数えながら澄伽は、自分の指の動きの遅さに苦笑した。数えるまでもなく答えはすでに胸の中にあった。
それでも、こうして具体的に数え上げる行為には澄伽なりの意味があった。曖昧なままにしておくより、はっきりと形にすることで少しだけ自分の中の混乱が整理されていく気がした。
濡れた石畳を踏む足音がいつもより大きく響く気がした。誰かの足音と重なることのない自分だけの足音、その単独さが今日は特に耳についた。
歩幅を意識してみても、隣に合わせる相手がいない今は、それがどんな速さであっても構わなかった。速すぎても遅すぎても誰にもとがめられないその自由さが、かえって物寂しく感じられた。
橋の上を渡る際、澄伽はふと足を止めた。数日前、ここで交わした言葉の数々がまだ耳に残っている。
「澄伽と歩くと、無理に話さなくていい」というあの言葉が、今はどこか遠い記憶のように感じられた。
橋の欄干に手を置き、澄伽はしばらくそこに立ち止まっていた。数日前と同じ場所、同じ時間帯なのに、隣にいるはずの人がいないというだけで、景色の意味がこんなにも変わってしまう。
川面を流れる街灯の光の筋を目で追いながら、澄伽は自分の考えがいつも同じところに行き着くことに気づいていた。「燈真がいたら」「燈真がいれば」。
仮定形でしか今の景色を語れなくなっている自分がいた。
マンションに帰り着き、澄伽は電気をつけないまましばらく玄関に立っていた。この数日間の静けさが今夜は特に重く感じられた。
靴を脱ぐ動作の一つ一つにいつもよりも意識が向かい、何も特別なことをしていないのに疲労だけが体の奥に溜まっている。それは肉体的な疲れというより、心を使い果たしたことによる疲れだった。
靴をそろえる動作すら、今夜はやけに時間がかかった。丁寧にやっているつもりはないのに、手の動きが妙に緩慢になる。心の疲れが体の隅々にまで染み出しているようだった。
コートを椅子にかけ、澄伽はしばらく部屋の中央に立ち尽くしていた。誰もいない部屋が今夜はいつも以上に広く感じられた。
キッチンに立ち、澄伽は夕食の支度を始める。手を動かしながらも、頭の中では燈真とのやり取りが繰り返し再生されていた。
野菜を刻む音だけが静かな部屋に規則的に響き、その単調な作業に澄伽は自分の思考を委ねようとした。しかし、包丁を動かす手とは裏腹に心はずっと同じ場所を巡り続けていた。
まな板の上で人参の輪切りが少しずつ増えていく。単純な繰り返し作業のはずなのに、澄伽の意識はそこに留まらず絶えず別の場所へ流されていった。
鍋の中で湯が沸く音を聞きながら、澄伽はふと、これまで料理をするときに燈真のことを考えたことがあっただろうかと自問した。答えはすぐに出た。
これまではなかったが、今夜は、その存在がずっと頭の隅に居座っている。
食事を終え、澄伽はソファに座り込んだ。テレビをつける気にもなれず、ただ静かな部屋の中で自分の考えに向き合っていた。
天井を見上げながら、澄伽はここ数日の自分の変化を振り返った。以前なら、こんな風に一人で考え込むことは少なかった。
仕事、家事、趣味。日々のルーティンの中で感情が長く留まることはあまりなかった。
けれど今は違う。一つの感情がこんなにも長く、こんなにも深く澄伽の中に居座り続けている事実自体が、澄伽にとって新しい発見だった。
これまで燈真の存在は澄伽の日常のあちこちに自然に溶け込んでいた。朝の挨拶、昼の何気ない会話。
帰り道の並んだ歩調。それらが失われてみて初めて、澄伽はその存在の大きさを実感した。
背景として当たり前にあったものが一つずつ欠けていく感覚は、想像していた以上に鋭い痛みを伴った。空気のように吸っていたものを急に取り上げられたような、そんな息苦しさに近かった。
思い返せば、澄伽は燈真の存在をこれまで一度も明確に意識したことがなかったのかもしれない。意識するまでもなくそこにあったから、今、意識せざるを得なくなっているという事実こそが澄伽の答えのすべてを物語っていた。
空気のように当たり前だったものが急に息苦しさに変わる、その変化の速さに澄伽はまだついていけずにいた。
窓の外を見ると、月がくっきりと浮かんでいた。数日前の曇り空とは違う、澄み切った夜空だった。
雲一つない夜空に月だけが静かに輝き、澄伽はしばらくその光を見つめ続けた。この数日間の曇りがまるで嘘だったかのように空は澄んでいた。
その澄んだ空を見上げながら、澄伽は自分の心の内をもう一度整理しようと試みた。燈真がいない朝はこんなにも味気ない。
燈真と話せない昼はこんなにも長く、燈真の声を聞けない夜はこんなにも静かすぎる。
一つひとつの言葉を、澄伽は声に出さずにゆっくりと確かめていった。味気ない、長い、静かすぎる。
どの言葉も、これまでの澄伽なら使わなかった表現だった。それだけ、自分の中の何かが変わってしまったということなのだろう。
この静けさが答えだったと、澄伽はようやくその事実を認めることができた。
これまで何度も自問してきた問いに、澄伽は今夜初めて正面から向き合った。「もしかして、私だけなのだろうか」「近いから言えない」
好きだからやってくれたのか。すべての問いが、一つの答えに収束していく。
「好きだ」という言葉が初めて澄伽の中ではっきりとした輪郭を持った。これまで曖昧に漂っていた感情が今夜、確かな形になった。
けれど、その確信を得たと同時に、澄伽の胸には新しい不安が生まれていた。この気持ちを認めたところで、今の距離をどう埋めればいいのか、まだわからなかった。
認めることと伝えることの間にはまだ大きな隔たりがあり、その隔たりの深さを澄伽はこれから何度も測り直すことになるのだろう。今夜はまだその第一歩を踏み出したに過ぎなかった。
長い階段の一段目に足をかけただけでまだ頂上は見えていないが、動かなかった昨日までとは確かに違う場所に自分は立っている、という実感だけが澄伽の中で唯一の確かな手応えだった。
ソファから立ち上がり、澄伽は洗面所へ行き、鏡に映る自分の顔を見つめながら静かに息を吐いた。認めた今、次に何をすればいいのか、答えはまだ見えてこない。
蛇口をひねって手のひらに水を受け、顔を洗う。冷たさが肌を引き締めると同時に、頭の中も少しだけ静まった気がした。
答えが出ないなら、今はそれでいい。焦る必要はない、と澄伽は自分に言い聞かせた。
眠る前、澄伽はスマートフォンを取り出し、燈真とのやり取りの履歴をまた見返してみた。数日前までの温かなやり取りとここ数日の事務的な短い言葉たち。
画面をさかのぼっていくと、先週の会話がまだそこに残っていた。喉飴を渡したときのやりとり、コーヒーの感想、たわいもない冗談。文字だけを見ても、あの頃の空気の柔らかさがよみがえってくる。
一つ一つのメッセージに、その日その瞬間の温度が閉じ込められているようだった。今はもう戻らないと決まったわけではないのに、澄伽はどうしても過去形で語りたくなる自分を止められなかった。
その落差を目にするたび、澄伽の胸は締めつけられたが、今度は目を逸らさずにその落差と向き合おうと決めていた。
逃げずに向き合うことが何かを変える最初の一歩になるはずだと澄伽は自分に言い聞かせた。答えはまだ何も出ていない。それでも認めることから始めるしかないのだと澄伽は静かに納得していた。
澄伽の八日目はこうして静かに終わった。失って初めて気づいた、日常に溶け込んでいた恋の輪郭をはっきりと胸に刻んだまま。
明日、この気持ちをどう扱えばいいのか、澄伽にはまだわからない。ただ、もう見て見ぬふりはできないという確信だけが静かに胸の中に残っていた。
布団に入り、澄伽は目を閉じた。今夜見る夢がどんなものになるのか、それすらも予測がつかなかったが、目が覚めたときにこの確信が消えていないことだけを澄伽は願っていた。




