第7章:察するという過信
水曜の朝、灰色の雲が空の低いところに張りついていた。澄伽が目を覚ますと、部屋の中は普段より薄暗かった。
雨が降るのかもしれない、と澄伽はカーテンを開けながら考えた。空気の重さがいつもと違う何かを予感させる朝だった。
昨夜の余韻は、まだ胸の奥に残っていた。「期待してる」という燈真の一言。あの言葉の温度を、澄伽は一晩眠っても手放せずにいた。
布団の中で、澄伽はしばらくその言葉の意味を反芻していた。期待に応えるということが、これほど自分を高揚させるとは思わなかった。同時に、応えられなかったときの不安が微かに胸をよぎる。
朝食のトーストをかじりながら、澄伽は今日も昨日のような小さな行動をまた続けられるだろうかと考えていた。一度きりの出来心ではなく、これからも続けていきたいという気持ちが自分の中に芽生えているのを感じた。
身支度をしながら、澄伽は今日も何か小さなことを返せたらいいと考えていた。昨日の充足感をもう一度味わいたいという気持ちが素直に湧いてくる。
鏡の前で髪を整えながら、澄伽は自分の表情が以前よりも柔らかくなっていることに気づいた。理由は考えるまでもなく、はっきりしていた。
その柔らかさを保ったまま今日一日を過ごせたらいいと、澄伽は玄関を出る前に小さく思った。まだ何も起きていないその瞬間の自分は、まだ知らないでいられる幸福の中にいた。
清澄白河の駅までの道は湿った匂いを含んでおり、まだ降ってはいないが空気そのものが雨の気配を運んでいた。
橋の上を渡るとき、川面はいつもより鈍い灰色を映していた。天気の変わり目はこの街の表情まで変えてしまうらしく、澄伽はその変化をどこか他人事のように眺めていた。
普段なら気にも留めない空模様が、今朝は妙に意味を持って見える気がした。何かが起こる予感というほど大げさなものではないが、いつもと違う色調の朝が澄伽の心にわずかな緊張を運んできていた。
オフィスに着くと、燈真の姿はまだなかった。時計を見ると、いつもより十分ほど早い時間だった。単に自分が早く着いただけのはずなのに、澄伽は少しだけ落ち着かない気持ちになった。
デスクに座り、澄伽はパソコンの電源を入れながら隣の島の空いた椅子を横目で見た。昨日はあそこに座っていた燈真の姿を思い出すだけで今朝の空気がわずかに違って感じられた。
キーボードの上に指を置いたまま、澄伽はしばらく動かずにいた。今日という一日が、昨日の延長線上にいるのか、それとも別の何かの始まりなのか。答えの出ない予感だけが胸の奥に薄く漂っていた。
十五分ほど遅れて、燈真がフロアに現れた。傘を持たずに来たのか、肩のあたりが薄く湿っている。
「おはよう」
「おはよう。濡れた?」
「ちょっとな。傘忘れた」
そう言って燈真は軽く笑ったが、澄伽はその言葉をどう受け止めればいいのか一瞬迷ってしまった。傘を貸そうか、と言いかけて言葉が喉の奥で止まる。
タイミングを逃したまま、澄伽は結局何も言えなかった。自分の中の小さな決意があっけなく空回りしたことに、澄伽は密かに落胆した。
言おうとした言葉が口の中で行き場を失い、消えていく感覚を澄伽はこれまで味わったことがなかった。昨日はあれほど自然に動けたのに、今日はどうしても最初の一歩が踏み出せない。
自分でも説明のつかないためらいだった。傘を貸すというそれだけの単純な行為がなぜこんなにも大きな壁のように感じられるのか、理由を探しても明確な答えは見つからなかった。
昨日までなら、こんなことで迷うことはなかったはずだ。行動と気持ちの間に、これほど大きな距離ができてしまったのは、いったいいつからなのだろう。振り返っても、その境目ははっきりしなかった。
午前中、澄伽は資料のミスに気づき、燈真に確認する必要が生じた。
「これ、数字合ってる?」
差し出した資料に目を通す燈真の表情がいつもより硬い。
「ああ、うん。多分」
「多分」という曖昧な返事だった。いつもならもう少し具体的な答えが返ってくるはずだった。澄伽はその違和感を飲み込みながら自分のデスクに戻る。
椅子に座り直しながら、澄伽は今の短いやり取りを何度も反芻した。「多分」という一言だけでは、彼が本当に確認したのかどうかもわからない。それでも、それ以上聞き返す勇気は湧かなかった。
いつもなら軽口の一つも挟まれるはずの場面でそれが一切なかったことに、澄伽は改めて違和感を覚えた。何かが噛み合っていないという感覚だけが午前中ずっと胸の奥に居座り続けた。
パソコンの画面を見つめながらも、澄伽の意識は資料の数字よりも燈真の表情の変化に向いていた。仕事に集中しようとするたび、その意識が引き戻されていく。集中力の欠如を自覚しながらも、澄伽はどうすることもできなかった。
昼休み、澄伽は同僚たちとの食事の席で燈真の様子について何気なく尋ねられた。
「月岡さん、今日ちょっと元気なくない?」
「そう? 気づかなかった」
嘘だった。澄伽は朝から、燈真の様子がどこか違うことに気づいていた。ただ、それを言葉にすることがなぜかためらわれた。
同僚の何気ない一言が、澄伽の中の小さなとげをさらに深く押し込んだ。気づいていないふりをすることでその違和感が消えるわけではないとわかっていながら、澄伽は話題を変えて食事を続けた。
定食屋の窓の外では、灰色の空がさらに重みを増していた。遠くから、誰かが傘を忘れたことを話題にしている声が聞こえてきた。澄伽はその会話を聞き流しながら、燈真の濡れた肩のことを思い出していた。
味噌汁をすすりながら、澄伽は自分の中で何かが小さくざわついているのを感じた。心配しているという事実を誰かに知られたくない一方で、誰かに気づいてほしいという矛盾した気持ちもあった。
その矛盾を持て余したまま、澄伽は箸を置いた。誰かに話せば少しは楽になるのかもしれないが、この気持ちをまだ言葉にする準備は澄伽の中にできていなかった。
午後、澄伽はコーヒーを淹れようかと何度も考えたが、そのたびに手が止まった。昨日の行動が今日も同じように喜ばれる保証はない、そう考えると体が動かなかった。
昨日は自然にできたことが、今日はどうしてこんなにも重く感じられるのだろう。相手の反応一つでこんなにも自分の行動が左右されてしまうことに、澄伽は少しだけ戸惑いを覚えていた。
給湯室の前まで歩いていきながら、澄伽は結局引き返すことを3度繰り返した。昨日はあれほど自然に一歩を踏み出せたのに、今日は同じ場所に立つだけで足がすくんでしまう。
何かが違う。それだけは、はっきりとわかった。
夕方、澄伽は資料を届けに営業企画部の島へ行った。燈真はデスクに突っ伏すようにして資料に目を通していた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。ちょっと疲れただけ」
その返事の速さに澄伽は違和感を覚える。大丈夫という言葉があまりにも早口で、まるでそれ以上聞かれたくないと言っているようだった。
澄伽はそれ以上踏み込めず、資料だけを置いて自分の席に戻った。もっと何か言うべきだったのではないか、という後悔がすぐに胸を占め始めた。
デスクに戻る道すがら、澄伽は自分の踏み込めなさを情けなく思った。以前の燈真なら、こういうとき澄伽の異変にすぐ気づいて声をかけてくれたはずだ。自分にはまだ、そこまでの勇気や観察眼がないのかもしれない。
その落ち込みを振り払うように澄伽は椅子に深く座り直した。今日一日で気づいたことはまた明日少しずつ挽回していけばいい、と自分に言い聞かせても胸の重さは簡単には晴れなかった。
窓の外ではもう本格的に雨が降り始めており、ガラスを打つ音がフロアの喧騒に混じっていた。誰かが窓際でカーテンを閉める音がいつもより大きく響いた気がした。
退勤の時間、澄伽が帰り支度をしていると、燈真が先に立ち上がった。
「今日、先に帰るわ」
「あ、うん」
いつもなら交わされるはずの帰り道についての一言がなく、澄伽はその不在に気づきながらも引き止める言葉を見つけられなかった。
エレベーターホールへ向かう燈真の背中を澄伽はしばらく目で追っていたが、いつもより歩調が速く、振り返ることもなく彼はそのまま扉の向こうへ消えていった。
その背中にはいつもの余裕がなく、急いで一人になりたいという意志のようなものが後ろ姿からも伝わってくる気がした。声をかけることさえ今の澄伽にはためらわれた。
残された澄伽はしばらく自分のデスクに座ったまま動けずにいた。何かを見送ったような、それでいて何かを取り逃したような落ち着かない感覚だけが胸に残っていた。
一人でオフィスを出た澄伽は、清澄白河の駅までの道をいつもより速い足取りで歩いた。急ぐ理由は何もないのに体が勝手に前へ進もうとしている。
橋の上に差し掛かると、雨が降り始めていた。細かい霧のような雨が川面に無数の輪を作っている。
傘を持っていない澄伽はコートの襟を立てて足を速めた。濡れることよりも傘を持たずに出た燈真のことが気にかかる。
橋を渡り切ったところで澄伽はふと足を止め、振り返った。誰もいない橋の上を雨だけが静かに濡らしていく。いつもならここに並んで立っているはずの人がいないという事実が思いのほか大きな空白として胸に残った。
欄干に手を置くと、雨に濡れた金属の冷たさが指先に伝わった。その冷たさは今の自分の孤独感をそのまま体現しているようだった。
コンビニの灯りが見えてきたが、澄伽は今日は素通りした。あの店に入る理由も待っている相手もいない。ガラス越しに見える棚の明るさが今日はやけに遠く感じられた。
マンションに帰り着き、澄伽は濡れた髪をタオルで拭きながら今日一日を振り返った。何かが噛み合わなかった一日だった。理由ははっきりとはわからない。
コートを脱ぎ、水滴が滴る裾を見つめながら、澄伽は玄関先でしばらく立ち尽くしていた。昨日の帰り道の温かさとは対照的な、冷たく湿った夜だった。
靴を脱ぐ動作一つにも今日は妙に力が入らなかった。玄関の照明をつけるかどうかさえしばらく迷ってから、澄伽はようやくスイッチに手を伸ばした。
スマートフォンを開き、澄伽は燈真とのやり取りを見返してみた。業務連絡以外の会話は今日は一度もなかった。
これまでなら、他愛のない一言くらいは自然に交わされていたはずだ。その欠落が澄伽の胸に小さな穴を開けていく。
画面をスクロールする指先が途中で止まった。昨日のやり取りには確かに温かさがあった。
今日にはそれがない。並べてみると、その差はあまりにも明白だった。文字だけの記録なのに、そこに宿る温度の違いはこんなにもはっきりと見えるものなのかと、澄伽は改めて驚いていた。
夕食を作る気力も湧かず、澄伽は買い置きのパンで簡単に済ませた。いつもと同じ味のはずなのに、今夜はどこか味気なく感じられた。
咀嚼する音だけが静かな部屋に響き、誰かと言葉を交わしながら食べる夕食と一人で黙々と食べる夕食との違いを、澄伽はこれほど強く意識したことはなかった。
パンを飲み込むたび、澄伽は無意識に耳を澄ませていた。誰かからの連絡を待っているわけではないはずなのに、スマートフォンの画面が光るのをどこかで期待している自分がいた。
窓の外では雨がまだ降り続いており、街灯の光が雨粒を白く縁取っていた。
規則的に落ちる雨音を聞きながら、澄伽はカーテンの隙間から外を眺めた。誰かが傘を差して足早に通り過ぎていく。
その後ろ姿が、一瞬だけ燈真に見えて澄伽は思わず目を凝らしたが、もちろん別の誰かだった。
ソファに座り、澄伽は今日の燈真の言葉を一つずつ思い返した。「多分」「大丈夫」。
今日、先に帰るわ」どれも短く、そっけない言葉だった。
いつもなら、その短さの中にも燈真らしい柔らかさがにじんでいたはずだった。今日はその柔らかさがどこかへ消えてしまったように感じられる。
指先で座面の生地をなぞりながら、澄伽は言葉の温度差について考え続けていた。同じ言葉でも発する側の心の状態によってこんなにも受け取り方が変わるものなのかと改めて思い知らされる。
言葉というものがこれほど脆く、繊細なものだとはこれまで考えたこともなかった。近しい相手だからこそ細かなニュアンスの違いがこれほど鮮明に伝わってしまうのかもしれない。
澄伽は自分に問いかけた。何か気に障ることをしたのだろうか。
それとも、単に疲れているだけなのだろうか。答えの出ない問いを、澄伽はまた抱え込んでしまう。
思い当たる節は探せば探すほど見つからなかった。昨日別れたときの燈真は確かに笑っていたが、あの笑顔から今日の硬さまでの間に何があったのか、澄伽には想像もつかなかった。
朝から晩まで、澄伽は何度もその変化の理由を探し続けていた。仕事の重圧だろうか。それとも、プライベートな何かだろうか。
あるいは単純に体調が優れないだけなのかもしれない。可能性を並べても確信には至らなかった。
もしかしたら、自分とは何の関係もないところで何かがあったのかもしれない、そう考えることで澄伽は少しだけ気持ちを落ち着かせようとしたが、それでも拭いきれない不安が胸の奥に薄く残り続けていた。
湯船に浸かりながら、澄伽は昨日との落差を思い知らされていた。昨日はあれほど満たされていたのに、今日はこんなにも寂しい。
その落差の大きさに、澄伽は自分の感情がどれほど燈真に依存しているのかを初めて自覚した。彼が少し様子を変えるだけでこれほど心が揺れる自分がいる。
これまでの澄伽なら、誰かの機嫌ひとつでこんなにも動揺することはなかったはずだった。それなのに今は、燈真のわずかな変化さえ見過ごせなくなっている。
湯気の向こうに揺れる自分の輪郭を見つめながら、澄伽は苦い笑いを漏らした。恋というものがこんなにも人を不安定にするものだとはこれまで想像もしていなかった。
安定していたはずの日常がたった一人の存在によってこんなにも簡単に揺らいでしまうという事実を、澄伽は戸惑いながらもどこかで納得している自分がいた。
浴槽の縁に頭を預け、澄伽は目を閉じた。まぶたの裏に浮かぶのは、傘を忘れて肩を濡らした燈真の姿だった。
あの姿を見た瞬間に、なぜ声をかけられなかったのか。悔やんでも時間は戻らない。
湯船を出て、澄伽は鏡に映る自分の顔を見つめた。疲れているようにも、何かを我慢しているようにも見える。
タオルで顔を拭きながら、澄伽はふと燈真が今ごろどんな夜を過ごしているのか想像した。一人で傘も差さずに帰った先で彼は何を思っているのだろう。想像しても答えは出なかった。
眠る前、澄伽はもう一度スマートフォンを開き、何かメッセージを送ろうとしたが、指が画面の上で止まった。何を書けばいいのかわからなかったのだ。
「大丈夫か」と聞くのは簡単だった。けれど、それを聞くことで、今日の彼の変化を自分が気にしていることを明かしてしまうことになる。
打っては消し、打っては消しを澄伽は何度も繰り返した。「心配してる」というそのままの言葉は重すぎる気がした。
「今日はどうだった」という軽い言葉では、今の気持ちを表しきれない気がした。ちょうどいい言葉が、どうしても見つからなかった。
画面に浮かんでは消える文字の残像を、澄伽はぼんやりと目で追っていた。伝えたいことがあるはずなのに、その輪郭がうまく掴めない。もどかしさだけが指先に残っていく。
結局、何も送らないまま澄伽はスマートフォンを閉じ、布団に入ってもなかなか寝つけなかった。
雨音が窓を叩く音だけが部屋の中に響いていた。その規則正しいリズムを聞きながら、澄伽は今日の一日をもう一度最初から辿り直してみた。
規則正しさというものがこんなにも人の心を落ち着かせると同時に疎外感を強める場合もあるのだと澄伽は初めて知った。雨は誰の心境も気にせずただ淡々と降り続いている。
傘を貸そうとして言えなかった朝。多分、という曖昧な返事。
「大丈夫」という早口の言葉。「先に帰るわ」という短い挨拶。
そのどれもが大きな出来事ではなかったが、積み重なると確かな距離になっていた。言わなくてもわかると思っていた自分の甘さを、澄伽は今夜思い知らされていた。
言葉にしなければ伝わらないことがこんなにもたくさんあったのだと、澄伽は今さらのように気づく。近い距離にいるからこそ言葉を省いてしまいがちだった。その省略が今日のようなすれ違いを生む土壌になっていたのかもしれない。
これまでの澄伽は、察するということを優しさの一形態だと思っていた。言わなくても伝わる関係こそが理想的な近さだと。けれど今日、その考え方の危うさを身をもって知った。
雨はまだ降り続いていた。窓を叩く音が少しずつ弱まっていくのを、澄伽は暗闇の中で聞いていた。
明日は今日とは違う一日になるだろうか、と澄伽は願う気持ちと、同じことが続くのではないかという不安が交互に浮かんでは消えていった。
願うことしかできない自分の無力さを、澄伽は静かに受け止めていた。関係というものは、一人の意志だけではどうにもならない部分がある。それでも、明日また彼と顔を合わせたときに何か一言でも自然に交わせたらいいと、澄伽は暗闇の中で小さく願った。
眠気が少しずつ訪れる中、澄伽は目を閉じた。雨音はまだ続いていたが、その音はいつしか子守歌のように意識の縁を優しく撫でていった。
澄伽の七日目はこうして静かに終わった。近しいはずの相手との間に初めて生まれた小さな溝を抱えたまま。




