第2章:当たり前の名前
朝の光がカーテンの隙間から白く差し込んでいた。澄伽が目を覚ますと、体の重さは昨日よりずっと軽かった。
熱は下がったらしく、額に触れてみるとひんやりとした感触が指先に伝わってきた。
それでも体のどこかにまだ昨日の名残が居座っているようで、倦怠感というほどではないが、皮膚の表面が少しだけ敏感になっているような感覚だった。
布団から出て、いつも通りにカーテンを開ける。空はまだ薄い水色で、雲の輪郭がやわらかい。
洗面所の鏡に映る顔は昨日よりずっと血色がいい。澄伽はその顔を見ながら昨夜のことを思い出していた。
紙コップの熱、喉飴の小袋、信号待ちの沈黙。
どれも思い返せば些細な出来事のはずなのに、朝の光の中で思い出すと昨夜とは違う色を帯びて見えた。
けれど今朝は、その些細さの中に何かが引っかかっている。歯を磨きながら、澄伽はその引っかかりの正体を探そうとしたが、結局うまく言葉にできなかった。
身支度を済ませ、朝食に卵を一つ焼く。昨日はコーヒーだけで済ませたことを思い出すと、それだけで少し体が軽くなった気がした。
フライパンの上で卵が跳ねる音を聞きながら、澄伽はぼんやりと昨夜の自分の問いを思い出していた。どうしてあの人だけ、あそこまでわかったんだろう。
答えの出ない問いを抱えたまま眠りについたはずなのに、今朝の頭は意外なほどすっきりしている。ただ、その問いの続きがまだどこかで小さく息をしていた。
玄関を出ると、空気はもう秋の匂いを帯びていた。清澄白河の路地には、開店準備をする店の音が控えめに響いている。
シャッターを上げる音、水を撒く音、自転車のスタンドを立てる音、どれもこの街の朝を構成する小さな部品のようだった。
いつもなら聞き流してしまう音の一つひとつが、今朝はやけに輪郭を持って耳に届く。体調が戻った分、感覚そのものが敏感になっているのかもしれない。
門前仲町へ続く通りの角で、澄伽は一瞬だけ足を止めた。理由は自分でもわからない。ただ、何かを確かめたいような、そんな気分だった。
駅までの道を歩きながら、澄伽は昨日の帰り道を思い出す。川沿いの匂い、燈真の半歩後ろの気配、腕時計を直す指先。
昨夜まではただの記憶だったそれらが、今朝になってなぜか違う質感を持ってよみがえってくる。
改札を抜け、ホームに立つ。電車を待つ間、澄伽はいつものように反対側のホームを眺めていた。人の流れは、今日もいつも通りだった。
車両に乗り込むと、昨日よりずっと呼吸が楽だった。窓の外を流れる景色を眺めながら、澄伽はふと、燈真が今朝もいつも通り出社しているだろうかと考えている自分に気づく。
そんなことを気にするのは、これまでにはなかったことだった。
エレベーターを降り、フロアに足を踏み入れると、朝の空気にはコーヒーとプリンターのインクの匂いが混じっていた。誰かがラジオ体操の音楽を小さく流している。
オフィスに着くと、燈真はすでに自分のデスクで資料を広げており、顔を上げていつもの調子でこちらに笑いかけてきた。
「澄伽、顔色戻ったな」
「うん、おかげさまで」
「おかげさまって、大げさな」
そう言って燈真は笑ったが、その笑い方に澄伽はふと違和感を覚えた。安堵したような、確かめるような、いつもより少しだけ柔らかい笑い方だった。
「昨日は、ありがとう」
「別に。ついでのことだから」
またその言葉だ、と澄伽は思う。ついでの言葉の裏に、何が隠れているのか。
そんなことを考えたのは、これが初めてだった。これまでなら、ついでという言葉をそのまま受け取って、それ以上深追いすることはなかった。
パソコンを立ち上げながら、澄伽は昨日の給湯室での後輩の一言をふと思い出す。月岡さんは時任さんにほんと優しい。あのときは聞き流したつもりだったのに、朝になって蘇ってくる。
隣の島から、燈真がキーボードを叩く音が規則正しく響いてくる。その音のリズムまで、今朝はやけに耳に残った。
十時から急遽、短いミーティングが入った。取引先の要望変更に伴う対応を、両部署ですり合わせる場だった。
普段なら意見がぶつかることも多い場面だが、今日は燈真が先に澄伽の案を持ち出した。
「これ、時任さんの案のほうが筋がいいと思うんですけど」
その一言で話し合いはあっさりとまとまり、澄伽は少し驚きながら燈真の横顔を盗み見た。彼はいつも通りの表情で次の議題に話を移していた。
会議室を出た後、先輩が澄伽に耳打ちした。
「月岡くん、時任さんの意見は通しやすいよなあ」
冗談めかした言い方だったが、澄伽はうまく笑い返せなかった。
午前中の残りの時間、澄伽は溜まっていた資料の整理に取りかかった。エアコンの吹き出し口は、ちょうど澄伽の席の真上にある。
冷たい風が首筋に当たるたび、澄伽は小さく肩をすくめていたが、隣の島から燈真が席を立ち、空調の向きを少しだけ変えていった。
「あ、それ別に」
「知ってる。ただ寒そうだったから」
たったそれだけの動作だった。今までなら気にも留めなかったはずの動作だ。
けれど今朝の澄伽は、その動作をしっかりと目で追ってしまう。エアコンの向きなど、誰が変えても不思議ではない。
ただ、燈真がそれをするタイミングが、いつも澄伽の様子を見た直後だということに、初めて気づいた。周りの誰かが寒そうにしていても、彼がすぐに動くところを、澄伽は見た覚えがなかった。
そのことに気づいてしまうと、もう気づかなかった頃には戻れない。澄伽はキーボードに向き直りながら、心の中だけでその発見を持て余していた。
昼が近づくころ、澄伽は取引先への提出書類を印刷しに席を立った。プリンターの前で紙詰まりが起き、慣れない手つきで奥のトレイを開けようとした。
「それ、逆から引かないと詰まる」
いつの間にか隣に来ていた燈真が慣れた手つきでトレイを開け、詰まった紙を取り除いた。
「よく知ってるね」
「前に散々やらされたから」
そう言って軽く笑う燈真の横顔を、澄伽はしばらく見つめてしまった。印刷された書類を整えながら、燈真は当たり前のようにそれを澄伽の手に渡した。
受け取るとき、指先が一瞬だけ重なる。どちらも何も言わず、それぞれの仕事に戻っていった。
誰かに何かを教わったわけでもないのに、こういう小さな知識がいつの間にか澄伽の役に立っている。
数えてみれば、似たようなことは何度もあった。パソコンの調子が悪いとき、資料のフォーマットが崩れたとき、いつも先に気づいて手を貸してくれるのは燈真だった。
これまでは、それを当然のことのように受け取ってきた。仕事ができる人だから、面倒見がいい性格だから、と。
そう理由をつけて、深く考えることを避けていたのかもしれない。理由をつけてしまえば、それ以上考えずに済む。楽なほうへ流れていただけなのだと、澄伽は今さらながら気づき始めていた。
隣の島から聞こえてくる燈真の声は、電話の相手が変わるたびに微妙にトーンを変える。取引先には丁寧に、後輩には気安く、上司には少し硬く。
澄伽はキーボードを打つ手を止め、しばらくその声の変化に耳を澄ませていたが、自分に向けられる声がそのどれとも違う気がした。気のせいだと思いたかったが、今日はどうしてもそう思い切れなかった。
昼休み、澄伽は同僚たちと連れ立って近くの定食屋へ向かった。門前仲町の路地を抜けると、揚げ物の匂いと出汁の香りが入り混じって漂ってくる。
暖簾をくぐると、店内はすでに混み合っていた。相席の座卓に案内され、澄伽は同僚たちと肩を寄せ合うように腰を下ろした。
注文を終えるころ、後輩の一人が思い出したように口を開いた。
「そういえば、時任さんって月岡さんとよく一緒にいますよね」
その言葉に、澄伽は箸を止めた。
「そうかな。部署が近いだけだと思うけど」
「近いって言っても、営業企画と商品企画でしょ。別に隣同士ってわけでもないのに」
その指摘に、澄伽はうまく言葉を返せなかった。改めて言われてみると、確かにそうだ。距離としては、決して近くない部署同士だった。
「昨日だって、時任さんが帰るときにわざわざ声をかけていましたよね」
「体調が悪かったから、心配してくれただけだよ」
「そういうところが優しいですよねえ」
後輩の言葉に他の同僚たちも軽くうなずく。澄伽はそれ以上何も言わず、味噌汁の椀に視線を落とした。
優しい。その一言が今日はやけに重く響く。誰にでも優しい人だからで片づけてしまえば、それ以上考えずに済むはずだった。
けれど今日の澄伽は、その片付け方に素直に頷けない自分がいることに気づいていた。 澄伽は箸を置き、話題を変えるように別の同僚に別件を尋ねた。誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ話をそらした。
話題は自然と週末の予定へと移っていき、誰かが新しくできたカフェの話をすると、別の誰かがそれに相槌を打った。澄伽もその輪に加わりながら、頭の片隅では別のことを考え続けていた。
定食を食べ終えるころには店内の喧騒にも慣れ、いつも通りの調子を取り戻していたが、さっきの一言だけが胃の底に小さな石のように残っていた。
定食屋を出て川沿いの道を戻る途中、澄伽はふと足を止めた。橋の上から見える水面は昼の光を細かく揺らしている。
昨日、この橋を燈真と並んで渡った。あの時の会話も、今思えば、燈真が澄伽の言葉を待つように歩調を合わせていた気がする。
橋の欄干に手をかけ、澄伽はしばらく水面の揺れを眺めていた。昼の光を受けた川面は、絶えず細かな波紋を作り続けている。
気のせいかもしれない、そう思おうとしても、一度気づいてしまった違和感は簡単には消えてくれなかった。むしろ考えれば考えるほど、違和感の輪郭がはっきりしていくようだった。
同僚たちの足音が遠ざかっていくのに気づき、澄伽は慌てて欄干から手を離した。一人だけまだこんなところで立ち止まっている自分が少し滑稽に思えた。
午後、澄伽は営業企画部への確認事項があり、燈真のデスクへ向かった。彼は電話対応の最中だったが、澄伽に気づくと片手で軽く待つよう合図をした。
電話を終えた燈真は、すぐに椅子を少しだけこちらに向けて、話しやすいように体ごと向き直った。その仕草も、これまでは気にも留めていなかった。
「さっきの店舗施策の件だけど」
「うん、聞くよ」
そう言って燈真はパソコンの画面から視線を外し、澄伽の言葉に集中した。他の誰かと話すときも、彼はいつもこうなのだろうか。
確認したいのに、確認する勇気が出ない。澄伽は用件だけを手短に伝え、逃げるように自分の席へ戻った。
戻る途中、通りかかった別の営業企画部の社員が燈真に何か軽口を叩いているのが聞こえ、燈真はいつも通りの調子で笑い返していた。
その笑い方は、さっき澄伽に向けていたものと確かに違って見えたが、何が違うのかうまく言葉にはできなかった。ただ、目の細め方か声の高さか、そのどちらかが微妙に違う気がした。
気のせいかもしれない、そう思おうとするたび、澄伽の中で別の自分が気のせいではないと囁いてくる。その囁きを澄伽はまだうまく扱いきれていなかった。
夕方が近づき、フロアの照明が少しずつ暖色に切り替わっていく。窓の外では、ビルの合間を抜ける風が昼間よりも湿り気を増していた。
夕方、退勤の準備をしていると、燈真が伝票を片手に商品企画部の島までやってきた。
「これ、確認お願いします」
営業的な口調で、他の社員にも聞こえる声量だった。澄伽はその声のトーンの切り替えに内心で小さく驚く。
自分に向けられる声と他の同僚に向けられる声。改めて意識してみると、確かにそこには微妙な違いがある気がした。
伝票を受け取りながら、澄伽は燈真の指先が触れそうで触れない距離で止まったことに気づいた。
「ありがとう」
「うん」
短いやり取りだった。それだけのことなのに、澄伽の胸の奥で小さな音が鳴った気がした。
退勤時刻になり、澄伽は一人でオフィスを出た。今日は燈真と帰るタイミングが合わなかった。
ビルの回転扉を抜けると、外気が頬に冷たい。振り返ると、まだ煌々と明かりのついたフロアの窓が見え、あの中のどこかにまだ燈真がいるはずだった。
声をかけるほどの用事もない。澄伽はそのまま駅に向かって歩き出した。
エレベーターの中で、澄伽は自分の顔を扉に映し出してみた。昨日とは違う理由で、頬がわずかに熱を持っているのがわかった。
清澄白河の駅までの道を、澄伽は一人で歩く。川沿いの風はもう夜の匂いを帯び始めていた。
いつもなら気にも留めない道のりが、今日はやけに長く感じられる。隣に誰もいないということが、これほど意識に上ることはこれまでになかった。
川沿いのベンチには、誰かが忘れていったビニール傘が一本、寂しく立てかけられていた。今日は朝から晴れていたはずだ。誰のものだろうと考えかけたが、澄伽はすぐにその考えを手放した。
橋を渡る途中、対岸を歩く人影が一瞬だけ燈真に見えたので、澄伽は思わず足を速めた。近づいてみるとまったく別の誰かだった。がっかりしたような少しほっとしたような自分でもよくわからない感情が胸をよぎった。
コンビニの灯りの前を通り過ぎる際、澄伽は昨日燈真が喉飴を買ってきたことを思い出し、あの店だ、と気づいた瞬間、足が止まった。
自動ドアが開き、店内の明るさと冷房の風が澄伽を包んだ。入る予定はなかったはずなのに、気づけば喉飴の並ぶ棚の前に立っていた。
同じ銘柄の小袋を一つ手に取り、レジへ運ぶ。誰かに買ってあげるつもりなのか、自分のためなのか、澄伽自身にもよくわからないまま会計を済ませた。
橋の上に立ち止まり、川面を見下ろす。昼間見たときよりも、水面はずっと暗く沈んでいた。
昨日までの澄伽なら、燈真の行動を数えることなど考えもしなかった。飲み物、仕事の手助け、席を譲るしぐさ、声のトーン。
数えてみると、思いのほか多い。多すぎて、これが偶然だとは思えなくなってくる自分がいた。
マンションに帰り着き、電気をつけると、部屋はいつも通りの静けさに包まれた。澄伽は鞄を下ろし、ソファに深く腰をかけた。
今日一日の出来事を順番に思い返してみた。エアコンの向き、プリンターの前の横顔。
話しやすいように向き直った椅子、声のトーンの違い。
一つひとつは取るに足らない出来事だ。誰かに話したところで気のせいだと笑われるかもしれない。
それでも澄伽は、その一つひとつを頭の中で時系列に沿って並べ直してみた。すると、そこには確かな連続性があるように見えた。偶然が重なっただけだと片付けるには、あまりに丁寧すぎる連続だった。
思い返せば、入社して間もない頃からずっとそうだった気がする。目立った出来事は何一つない。ただ、困ったときにいつも、燈真の気配だけが少し早く近くにあった。
初めて大きなプレゼンを任された日、緊張で資料を配る手が震えていたことがある。その時、燈真がさりげなく隣を通りかかり、資料の束を半分持ってくれた。
礼を言う間もなく、彼は何事もなかったかのように自分の仕事に戻っていった。澄伽は、あの日のことをこれまで一度も特別な記憶として扱ってこなかった。忙しい時期にありがちな、ちょっとした親切として処理してきただけだった。
これまでの澄伽は、その近さに名前をつけようとしなかった。名前をつければ、何かが変わってしまう気がしていたからかもしれない。
台所で水を一杯飲み、澄伽はグラスを置く。窓の外を、電車の音がまた一度だけ通り過ぎていった。
同僚の指摘、後輩の一言、笑い方の違い。すべてを合わせて考えると、澄伽の中にある結論がゆっくりと形をなし始める。それでも、その結論を最後まで言葉にすることを澄伽はまだ自分に許していなかった。
それでも、澄伽の中で何かが確かに変わり始めていた。これまでは見えていなかったものが急に輪郭を持って見え始めている、そんな感覚だった。
言葉にしてしまえば、明日からの毎日が今までのようには戻れなくなる、そんな予感が澄伽の中でブレーキのように働いていた。
窓辺に立ち、外の景色を眺める。街灯の明かりが川面にゆっくりと揺れていた。
対岸に建つマンションの窓の明かりが、一つまた一つと消えていく。誰かの一日が、こうして静かに終わっていくのだろう。澄伽は、その明かりを数えながら、自分の中の落ち着かなさを持て余していた。
もしかして、私だけなのだろうか。
声に出さず、澄伽はその問いを胸の中で繰り返した。答えはまだ出ない。
けれど、その問いを持ったこと自体が昨日までの自分とは違う何かの始まりのように思えた。ソファに戻り、澄伽はしばらくその感覚を確かめるようにじっと動かずにいた。
夜が更けるにつれ、窓の外の音は少しずつ減っていく。遠くの電車の音、誰かの話し声、犬の鳴き声、そのどれもがいつもと変わらないはずなのに、今夜は妙に耳に残る。
洗面所で歯を磨きながら、澄伽は鏡の中の自分と目を合わせた。昨夜の弱った顔とは違う、いつも通りの顔がそこにあった。
それなのに、鏡の奥にいる自分だけが昨日までとは少し違う何かを抱えているように見える。歯ブラシを置き、澄伽は口をゆすいでからもう一度だけその顔を見つめ直した。
眠りにつく前、澄伽はもう一度だけ、今日一日の燈真の様子を思い返してみた。特別なことは何もなかったはずだ。
それなのに、特別ではないはずのその一つひとつが澄伽の眠りを浅くしていた。明日もまた同じ駅から同じ電車に乗る、そう思うと、なぜか胸の奥がわずかに疼いた。
布団に入り、天井の暗さに目を慣らしながら、澄伽は今日一日で増えた小さな疑問符を一つずつ数え直してみたが、数えるほどに答えはむしろ遠のいていくようだった。
それでも、この落ち着かなさを嫌だとは思わなかった。むしろ、どこか懐かしいような、それでいて初めてのような奇妙な感触がそこにはあった。
澄伽の二日目はこうして静かに終わった。昨日までとは違う目で同じ日常を見てしまったという小さな戸惑いだけを残して。




