第1章:平熱のふりをして
窓の外はまだ薄い青に沈んでいた。澄伽が目を覚ますと、体の奥に鈍い熱がわだかまっていた。
頭の芯が重く、起き上がると天井が一瞬だけ遠くなった。
喉の奥には、飲み込むたびにざらつく違和感が張りついている。指先で額に触れると、いつもより体温が高い気がした。
それでも、布団を畳み、いつも通りの手順で支度をした。
歯を磨き、髪を結ぶ。鏡の前で自分の顔色を確かめると、少し青い。
けれど、休むという選択肢は澄伽の中では最初から数に入っていない。
体調が悪いという理由で予定を崩すことに、澄伽は強い抵抗を感じてしまうのだ。誰かに迷惑をかけるくらいなら、多少の無理は自分の中に収めてしまいたかった。それが澄伽のやり方だった。
朝食はコーヒーだけで済ませ、胃の中に何かを入れる気力は湧かなかった。
カップを流しに置いたとき、指先がわずかに震えていることに気づいたが、それも気づかなかったことにした。
スマートフォンの画面に、実家の母から短いメッセージが届いていた。近所で風邪が流行っているらしいという何気ない一文だけの連絡だ。
既読だけをつけて、返信は後回しにする。今の自分に返す言葉が見つからない。
母はきっと、澄伽の暮らしぶりを詳しくは知らない。仕事のこと、東京での毎日のこと、そして燈真のことも。
話せば心配されるだろうし、話さなければそれでいい、という距離感を澄伽は無意識のうちに保ってきた。
玄関で靴ひもを結びながら、澄伽はふと目覚まし時計の音を思い出していた。今朝の自分は、いつもより一拍遅れて起き上がった気がする。
体の重さが意識よりも先に朝を知らせていたのかもしれない。鞄の中身を確かめ、忘れ物がないかを指先で数える。いつもの手順を一つずつなぞることで体調の不安を頭の隅へ押しやろうとしていた。
玄関の姿見に映った自分を、澄伽はもう一度だけ見た。表情はいつも通りだった。少なくとも、そう見えるはずだった。
清澄白河の駅に向かう道はいつもと変わらなかった。開いたばかりの喫茶店から漂う豆の香り、川沿いを渡る風の湿り気、まだ眠そうな自転車のベルの音。
見慣れた景色が、今朝だけはやけに輪郭を持って迫ってくる。歩道のタイルの継ぎ目が、いつもより鮮明に目に映った。
街路樹の葉の縁も朝の光を受けて妙に白く光っている。熱があるときに限って世界のほうが妙に近づいてくる、そんな感覚だった。
橋のたもとを過ぎる時、川面を渡る風がひときわ冷たかった。澄伽は無意識に襟元を寄せる。
季節はまだそこまで冷え込んでいないはずなのに、体だけが季節を先取りしているようだった。
改札を抜けるころには、額にうっすらと汗がにじんでいた。
冷房の効いた車両に乗り込むと、その汗がすぐに冷たくなった。座席には座らなかった。座ってしまえば、立ち上がる自信がなかったからだ。
車窓を流れる川の水面が、朝の光を細かく砕いていた。澄伽は、その光の粒を目で追う。
呼吸が浅い。数を数えるように、吸って、止めて、吐く。それだけを繰り返した。
隣に立つ会社員らしき男が欠伸を噛み殺しながらスマートフォンを眺めており、車内アナウンスの声がいつもより遠くに聞こえた。
世界が薄い膜を一枚隔てた向こうにあるような、そんな感覚だった。周りの誰もが澄伽の体調のことなど知らない。それが少しだけ心細く、同時に少しだけ気楽でもあった。
停車のたびにドアが開き、湿った外気が車内に流れ込んでくる。その一瞬だけ、澄伽は目を閉じて息を整えた。
オフィスに着いたのはいつもより5分早い時間だったが、誰よりも先に来ていたかったわけではない。
ただ、今日は少しでも早く机に着いて、何でもない顔をしている時間を長く取りたかった。
エレベーターの中で、澄伽は自分の顔を鏡代わりのステンレス扉に映してみた。思ったよりひどくはない。少なくとも自分ではそう思いたかった。
「澄伽、おはよう」
声のした方を見ると、燈真が自分のデスクの椅子を引きながらこちらを見ていた。
営業企画部の島は、商品企画部と通路を挟んで向かい合っている。距離としては近くないが、それでも彼はいつも澄伽が来た気配にすぐ気づく。
「おはよう」
短く返した声が掠れ、喉の痛みが言葉の端に絡みついていた。
燈真の目がほんの一瞬だけ細くなった。何かを確かめるような、値踏みするような視線ではなく、ただ静かに観察する目だった。
「顔色、悪くない?」
「え、平気平気。ちょっと寝不足なだけ」
早口だった。自分でもわかるくらいの早口。
澄伽は視線をパソコンの画面へ移し、電源ボタンを押した。起動音がいつもより間延びして聞こえた。
画面が立ち上がるまでの数秒が、今日はやけに長く感じられた。
燈真はそれ以上何も言わなかったが、椅子に座り直す動作がほんの少しだけ遅かった。その一拍の遅れに澄伽は気づかないふりをした。
午前中の会議室はいつも通り冷たかった。商品企画部と営業企画部の合同ミーティングで、澄伽は新商品の店舗展開について資料を説明する役目だった。
「時任さん、この数値の根拠は?」
先輩社員の質問に答えながら、澄伽は自分の声が思ったより通っていないことに気づく。息が浅い。
言葉を継ぐたびに、肺の奥がわずかに軋んだ。それでも一つずつ丁寧に答えていく。
声の震えを悟られないよう、資料の数字だけを頼りに言葉を組み立てた。誰も気づいていないはずだ、と自分に言い聞かせながら。
会議室の隅で資料をめくる燈真の視線が一度だけこちらに向いたのを、澄伽は説明の合間に感じ取っていた。目が合うことはなかったが、見られているという感覚だけが皮膚の表面に残った。
会議の終わりがけ、上司が澄伽に声をかけてきた。
「時任さん、来週の店舗ヒアリングの件、資料できそう?」
「はい、木曜までにはまとめます」
「無理はしないでね。声、ちょっと変じゃない?」
「大丈夫です。少し喉が乾燥しているだけで」
そう答えながら、澄伽は自分の声がまた早口になっていることに気づいた。ごまかすときの癖が、今日は何度も顔を出す。
説明を終えて席に戻ると、燈真がさりげなくメモを差し出してきた。
「さっきの資料、店舗別の内訳を、うちのデータと突き合わせといたから」
「え、頼んでないよ」
「知ってる。ついでの作業でやっただけ」
そう言って燈真は自分の画面に視線を戻した。「ついで」という言葉の軽さに反して、そのデータは澄伽が午後にまとめて処理しようと思っていた面倒な部分だった。
助かったと思う気持ちより先に、いつもこうだ、という感覚が澄伽の中を通り過ぎる。
何年も前から、こういう瞬間は何度もあった気がした。ただ、それを数えたことは一度もない。数えるようなことでもないと、ずっと思ってきたからだ。
入社したばかりの頃、澄伽は今よりずっと余裕がなかった。慣れない業務に追われ、昼食を抜くことも珍しくなかった時期だ。
その頃、隣の部署にいた燈真が理由も言わずに差し入れの菓子パンを机に置いていったことがあった。あの時も彼は特に何かを説明せず、ただ当たり前のような顔をして立ち去っただけだった。
以来、二年近くが経つ。関係は少しずつ近くなったけれど、あの日の距離感だけが、変わらずそこにあり続けている。
昼休みになると、澄伽は自分のデスクで軽く目を閉じた。食欲がない。コンビニで買ったサンドイッチの包装を開ける気力さえ湧かなかった。
「はい、これ」
目を開けると、燈真が紙コップを差し出していた。中身は温かい生姜湯で、湯気は眼鏡の縁のあたりでゆっくりとほどけていく。
「別に、無理して飲まなくていいから」
そう言った彼の視線は、澄伽の顔ではなく置いたばかりの紙コップの縁のあたりで止まっていた。
澄伽はその指先を少しだけ長く見てしまう。
「なんで生姜湯ってわかったの?」
「顔見ればわかるよ。澄伽が寒いときの顔してる」
そう返されて、澄伽は言葉に詰まった。寒いときの顔という表現がどんなものか、自分では説明できない。ただ、燈真にはそれが見えているらしかった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
短いやりとりの後、燈真はすぐに自分の仕事に戻った。
澄伽は紙コップを両手で包み、その熱をゆっくりと指先に移していく。考え事をするとき、澄伽は無意識に紙コップの縁を親指でなぞる癖がある。
今日はその動作をいつもより長く続けていた。
窓の外では正午の光がビルの間を白く満たし、人の声とキーボードの音が入り混じっていつも通りの昼が過ぎていく。
それなのに、澄伽の意識だけが少しだけ違う場所に置かれているようだった。
給湯室に立ち寄ると、後輩の一人が笑いながら声をかけてきた。
「月岡さん、時任さんには本当に優しいですよね」
「そうか?」
燈真は軽く笑って流した。深く答えるつもりはないらしい。
澄伽はその会話を扉の外から聞くともなしに聞いていたが、なぜかその一言だけが耳の奥にひっかかって残った。
同じ給湯室で、別の同期が澄伽に気づいて笑いかけてきた。
「時任さん、今日声かすれてない?大丈夫?」
「ちょっと喉をやられたみたい。平気だよ」
「無理しないでね」
その気遣いに澄伽は素直に頷く。同じ言葉でも燈真から向けられるものとはどこか温度が異なる気がした。理由はうまく説明できない。
同期の気遣いは言葉として届き、優しい言葉というかたちではっきりと受け取れる。
けれど燈真のそれは、言葉になる前の行動として先に届いてしまう。受け取り方がわからないまま、澄伽の中に静かに積み重なっていくものだった。
午後になると、体調はさらに下向きになった。会議の合間に資料を整理していると、視界の端が一瞬だけにじむ。
デスクに手をついて、それをやり過ごした。
「大丈夫?」
隣を通りかかった燈真が足を止めて、声をかけてきた。
「平気。ちょっと立ちくらみっていうか」
「顔、真っ白だけど」
「そんなことない、って」
澄伽はそう言いながらスマートフォンを手に取り、画面を見るふりをした。言いたくないことを飲み込むときの、いつもの癖だった。
燈真はそれ以上追及せず、代わりに近くの先輩に何か声をかけに行った。澄伽は、その背中を目の端で追いながら深呼吸を一つした。
数分後、澄伽が抱えていた店舗資料の一部がいつの間にか別の担当者に振り分けられていた。
「え、これ誰が?」
「俺が上に話しといた。今日はこっちで巻き取るからって」
「そんな、勝手に」
「勝手にやったのは謝る。でも、澄伽が今日中にやらなきゃいけない量じゃなかったから」
燈真の声には、いつもの軽さがなかった。
澄伽は反論しようとして口を開きかけたが、その言葉を飲み込んだ。反論する体力すら、今の自分にはないことに気づいたからだ。代わりに、小さくうなずくことしかできなかった。
デスクに戻ってからも体の重さは変わらなかったが、抱えていた仕事の一部が消えた分、呼吸だけが少し楽になった気がした。
途中、化粧室に立ち寄って鏡をのぞくと、朝よりも顔色が悪い。目の下にうっすらと影ができていた。
それでも、今にも倒れそうというほどではない。鏡の中の自分に、澄伽は小さくうなずいてみせた。
「大丈夫、あと少しだ」と、そう自分に言い聞かせるための儀式のようなものだった。
蛇口をひねって手のひらに水を受け、頬に当てる。冷たさが一瞬だけ意識を引き締めてくれた。
夕方が近づくころ、窓の外の光は少しずつ橙色を帯び始め、ビルの谷間を抜ける風の層は昼間より少し重くなった。
澄伽は残った仕事を片付けながら、何度も時計代わりに空の色を見上げていた。光が薄れていく速さだけが、今日一日の体感時間を教えてくれる気がした。
「今日、送るから」
退勤の準備をしていると、燈真が上着を羽織りながらそう言った。
「いいよ、一人で帰れる」
「知ってる。でも今日は送る」
有無を言わせない言い方ではなかったが、それ以上言い返す隙を与えない静かな言い方だった。
澄伽はため息をつくふりをしながら、内心では少しだけほっとしている自分に気づいていたが、その安堵の正体をまだ言葉にする気にはなれなかった。
清澄白河の駅を出ると、空気はすでに夜の匂いに変わっていた。川沿いの道を歩くと、水面に街灯の光が揺れて映っていた。
燈真は澄伽の半歩後ろを、いつもより少しだけ距離を詰めて歩いていた。並んで歩くたびに、車道側に立つ位置が自然に替わる。
会話を途切れさせないまま、彼はいつもそれをやってのけた。
川面をゆっくりと進む小さな船の音が遠くから響いてくる。エンジンの低い唸りが水面を伝って足元まで届くようだった。
夜の川は昼間よりも匂いが濃い。水とどこかの店の煮物の匂い、そして湿った土の気配が混ざり合って澄伽の鼻先をかすめていった。
途中のコンビニで燈真がふと足を止めた。
「ちょっと待ってて」
そう言い残して店に入っていく。澄伽は外の自動販売機の明かりをぼんやりと眺めながら待った。しばらくして戻ってきた燈真の手には、のど飴の小袋があった。
「これ、飴。喉痛いんだろ」
「そこまでしなくていいのに」
「ついでの。俺も欲しかったし」
そう言いながら燈真自身は何も口にしなかったが、澄伽はその矛盾に気づいていた。しかし、あえて指摘はしなかった。
小袋を受け取った手のひらに燈真の指先が一瞬だけ触れたが、ほんの一瞬のことでどちらも何も言わなかった。
ただ、その温度だけがしばらく手のひらに残っていた気がする。
「そういえば」と澄伽はふと思い出した。前に雨の日、燈真が何も言わずに傘を少しだけこちら側へ傾けてきたことがあった。あの時も、今日のような静かなやり方だった。
「明日、休んでいいんだよ」
「そんな大げさな。ただの風邪気味だし」
「大げさじゃないと、澄伽は絶対休まないだろ」
図星だった。澄伽は何も言い返せず川面に視線を落とし、橋の上を渡る風が火照った頬に心地よかった。
「燈真って、誰にでもこんな感じなの?」
ふと口をついて出た問いだった。深い意味はなかったつもりだった。
燈真は少し黙った。歩調は変わらなかったが、その沈黙の質がいつもより少しだけ長く感じられた。
「さあ、どうだろうな」
はぐらかすような答えだった。
澄伽はそれ以上追及せず、ただ隣を歩いた。答えを求めていたわけではなかったはずなのに、その曖昧さがなぜか胸の奥に小さく引っかかった。
給湯室で聞いた後輩の一言がふとまた頭をよぎった。あの一言と今のはぐらかし方が頭の中で妙に重なった。
門前仲町へ抜ける手前の交差点で信号が赤に変わり、並んで足を止めたとき、燈真の腕時計がわずかに動いた。位置を直す仕草だった。
本音を隠したいときの彼の癖だということを澄伽はまだ知らないが、その動きが妙に印象に残った。
マンションの前まで送ってもらった後、澄伽は玄関の鍵を取り出しながら振り返った。
「今日、ありがとう」
「明日、無理すんなよ」
燈真はそれだけ言って、来た道を戻っていった。街灯の下を歩く後ろ姿が少しずつ小さくなっていく。
角を曲がるまで見送ってから、澄伽はようやく鍵を差し込んだ。
部屋に入り、電気をつけないまま澄伽はしばらく玄関に立っていた。体の熱はまだ引いていない。
けれど、それとは別の何かが胸の奥にじんわりと残っている。
もらった喉飴の小袋をコートのポケットから取り出し、小さな包み紙を開けて口に含むと、薄荷の香りがゆっくりと喉の奥に広がった。その香りと一緒に、今日一日の記憶が静かに蘇ってくる。
洗面所で熱を測ると、微熱と呼ぶには少し高い数字が出た。鏡に映る自分の顔を見つめながら、澄伽はしばらく動けずにいた。
飲み物を選んでくれたこと、仕事を勝手に引き受けたこと。
送ると言って聞かなかったこと、喉飴を買ってきてくれたこと。
どれも、燈真らしいと言えばそれまでの行動だ。今までも似たようなことは何度もあった。
数えきれないくらいあった気がする。振り返れば、その一つひとつに彼の判断の速さが宿っていたのかもしれない。
それなのに、今夜はなぜか、その一つひとつが澄伽の中で重さを持って残っている。まるでこれまで背景として流していた景色に初めて焦点が合ったような感覚だった。
靴を脱ぎ、明かりのないリビングに立ったまま、澄伽は今日一日の出来事を順に思い返した。
紙コップの熱、腕時計に触れる指先。
信号待ちの沈黙、薄荷の香り。
一つひとつは取るに足らない小さな出来事だ。それなのに、並べてみると確かな一貫性があるように思えてくる。
偶然が続いただけなのだろうか、それとも最初から何か理由があったのだろうか。答えは澄伽の中にまだ形を持っていなかった。
どうしてあの人だけ、あそこまでわかったんだろう。
声に出さず、澄伽はその問いを繰り返した。答えは出ない。
給湯室での後輩の言葉がまた耳の奥で響く。「月岡さんは時任さんに優しい」。
そう言われて燈真は否定せず、ただはぐらかしただけだった。あの間の取り方に何か理由があるのだろうか。
考えてもわからないことを、澄伽はいつまでも考え続けてしまう性分だった。
ソファに腰を下ろし天井を見上げると、今日という一日の輪郭が少しずつぼやけていくのがわかった。それでも、燈真の言葉や仕草だけが輪郭を失わずに残り続けている。
母からの未読のメッセージを思い出し、澄伽は短く返信を打った。「大丈夫、ちゃんと休むから」と。そう書きながら、自分の言葉の軽さに少しだけ苦笑いが漏れた。
送信してすぐ、電話がかかってきた。母だった。
「メッセージ見たけど、本当に大丈夫なの?」
「うん、平気。ちょっと喉をやられただけ」
「無理しちゃだめよ。一人暮らしなんだから」
「わかってる」
短いやりとりの後、電話は切れた。受話口から伝わってきた母の心配そうな声と、燈真の静かな気遣いが、頭の中でどこか重なって聞こえた。
心配してくれる人がいることはありがたいが、遠くにいる母の声よりも、今日一日そばにいた燈真の沈黙のほうがなぜか強く胸に残っていた。
戸棚から取り出した風邪薬を水と一緒に飲み込むと、喉を通る感触がいつもより大きく感じられた。
明かりを最小限に落とし、布団に潜り込む。体はまだほてっているのに、指先だけがやけに冷たい。その温度差が今日という一日の落ち着かなさをそのまま表しているようだった。
明日も同じ駅から同じ電車に乗り、同じオフィスへ向かうのだろう。燈真はきっと、いつもの調子で「おはよう」と声をかけてくる。
それだけのことだとわかっている。わかっているはずなのに、その光景を思い浮かべるだけで胸の奥がわずかに疼いた。
理由を探そうとして、澄伽はすぐにその考えをやめた。今はただ、眠ることだけを考えたかった。
眠りに落ちる直前まで、その疑問は静かに胸の底に残り続けていた。窓の外では、川沿いの街灯が変わらない光を灯し続けている。
今日という一日を見送るように、光の輪だけがゆっくりと濃くなっていった。
遠くで電車の音が一度だけ響き、やがて静けさに吸い込まれていった。部屋の空気は朝よりも幾分重く感じられた。
澄伽の一日はこうして静かに終わり、まだ何も始まっていない。ただ、何かが動き始めた予感だけが暗い部屋の中にそっと置かれていた。




