第5章:近くて言えぬ夜
週末を挟んだ月曜の朝は、いつもより冷たい光で始まった。澄伽が目を覚ますと、窓ガラスにうっすらと結露が浮かんでいた。
指先でその曇りを拭うと、外の景色がわずかに歪んで見えたが、歪みの向こうにはいつもと変わらない清澄白河の空が広がっていた。
布団の中で、澄伽はしばらく体を起こさずにいた。金曜の夜から続いていた高揚感は、二日間の休日を経て少しだけ形を変えている。
高揚感というよりも、今はもっと落ち着いたけれど根の深い何かに変わっていて、浮ついた気持ちではなく、静かに定着していく実感に近かった。
天井の木目を目で追いながら、澄伽はふとこの二日間の自分の変化を振り返った。土曜の朝はまだ金曜の夜の余韻に浮かれていたが、それが日曜の夜にはもっと重心の低い、腹の底に落ち着くような感覚に変わっていた。
週末の二日間、澄伽は何度も金曜の帰り道を思い出していた。橋の上での一言、缶コーヒーの重さ、改札での名残惜しい別れ。どれも、忘れようとして忘れられるものではなかった。
土曜の午後、澄伽は一人で近所のカフェに入り、何をするでもなく窓の外を眺めて過ごした。日曜は溜まっていた洗濯を済ませながら、頭の片隅ではずっと月曜のことを考えていた。
カフェの窓際の席で、澄伽は何度もスマートフォンを取り出してはまた鞄にしまうという動作を繰り返していた。連絡を取るべき理由は何もない。それなのに指先だけが何かを求めていた。
洗濯物を干しながら、澄伽はふと金曜の夜に渡した喉飴のことを思い出す。あの小袋を燈真は今も持ち歩いているのだろうか、という些細なことが妙に気にかかった。
身支度を整えながら、澄伽は鏡の中の自分に問いかけた。今日、燈真とどんな顔で会えばいいのだろう。答えの出ないまま、澄伽は玄関を出た。
清澄白河の駅までの道は、週末の静けさをまだ引きずっているようだった。人通りはいつもより少なく、川面の音がやけにはっきりと聞こえた。
橋の欄干に触れると、金曜の夜の記憶がすぐそこにあるような錯覚を覚えた。同じ場所、同じ時間帯でも、今日は誰も隣にいない。その事実が思いのほか大きく感じられた。
橋を渡り切ったところで振り返ると、川の上流から朝もやが薄く流れてきていた。季節が少しずつ形を変えていくように、澄伽の中の何かも静かに移り変わろうとしているのかもしれない。
改札を抜け、電車に揺られながら澄伽は、窓に映る自分の表情を確かめた。緊張しているような、それでいて何かを期待しているような複雑な顔が、そこにあった。
車窓の外を流れる景色に澄伽はしばらく視線を預けた。見慣れたはずの通勤風景が今朝は妙に新鮮に映った。
同じ路線、同じ時間、同じ車両。それなのに、乗っている自分の中身だけが少しずつ違うものに変わっていく気がした。
オフィスに着くと、燈真はすでにデスクについていた。顔を上げた彼と澄伽の目が、一瞬だけ合った。
「おはよう」
「おはよう」
いつも通りの挨拶のはずだったのに、互いの声にほんの一拍、間があった気がした。
パソコンを立ち上げながら、澄伽は自分の心臓が少しだけ速く動いていることに気づいた。たった四文字の挨拶にこんなにも反応してしまう自分が少しおかしかった。
隣の島から聞こえてくる燈真のキーボードの音はいつもと変わらないリズムを刻んでいるが、その規則正しさが今朝はやけに意識に上ってきた。
規則正しい音の中に時折、わずかな乱れが混じる。その乱れの瞬間だけ、澄伽は思わず耳を澄ませてしまう自分に気づいた。
午前中、業務連絡のために燈真の島へ向かう用事があったが、いつもなら気軽に近づけるはずのその数メートルが今日はやけに長く感じられた。
「これ、確認お願いします」
「ああ、うん」
事務的な言葉のやりとりだったのに、澄伽は資料を渡す瞬間、指先が触れることを意識してしまい、必要以上に距離を取って手渡した。
燈真もまた、いつもより丁寧に資料を受け取った。互いの間に、これまでなかった種類の慎重さが生まれていた。
その慎重さはほんの一瞬のことだったはずなのに、その一瞬が澄伽の中で妙に長く引き伸ばされて記憶に残った。
デスクに戻る途中、澄伽は自分の不自然な動きを振り返って小さくため息をついた。意識すればするほどぎこちなくなる。わかっていてもどうにもならなかった。
椅子に座り直しながら、澄伽はパソコンの画面越しに隣の島の様子をちらりとうかがう。燈真は何事もなかったかのように電話対応を始めており、その落ち着きぶりがかえって澄伽の心をざわつかせた。
平然としているように見える横顔の奥で、本当は何を考えているのか。澄伽にはまだ、それを読み取るだけの手がかりがなかった。
読み取れないというもどかしさが澄伽の中で新しい感覚として育ち始めていた。これまでは燈真の考えていることなど深く探ろうとも思わなかったが、今はその一挙手一投足の裏側を知りたくてたまらない。
昼休み、澄伽は同僚たちと連れ立って食事に出た。会話の内容はいつも通りだったが、澄伽の相槌は心なしかいつもより遅れがちだった。
「時任さん、今日どうしたの? 心ここにあらずって感じ」
「え、そんなことないよ」
「週末、何かあった?」
図星を突かれ、澄伽は言葉に詰まった。何もなかったとは言い切れないし、かといって何があったのかを説明することもできなかった。
「ただの寝不足」
そうごまかしながら、澄伽は味噌汁を口に運ぶ。ごまかすときの言葉がまた同じものになっていることに、自分でも気づいていた。
同僚は特に深追いすることなく次の話題に移っていき、その気楽さに澄伽は密かに安堵した。誰かに気づかれるのはまだ早すぎる気がした。
早すぎると思う一方で、いつかは誰かに気づかれる日が来るのだろうかとも思う。その日が来たとき、自分はどんな顔をしているのだろう、という想像がふと頭をよぎった。
食後、店を出ると空はすでに秋らしい高さを見せ、澄伽は同僚たちと歩調を合わせながらも頭の片隅で午後の予定を反芻していた。今日はまだ燈真と落ち着いて話す場面はない。
午後、燈真から声をかけられる場面があった。共有すべき資料の確認のためだったが、いつもより言葉数が少ない。
「これで大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ」
それだけだった。以前なら、ここに軽口の一つも挟まれていたはずだ。
天気の話や週末の予定の話、そういう余白が今日はすっぽりと抜け落ちている。
余白がないだけの会話はこんなにも味気ないものだったのかと、澄伽は今さらのように思い知らされた。
澄伽は自分のデスクに戻りながら、その余白の抜け落ち方が意図的なものなのか、それとも自分と同じようにぎこちなくなっているだけなのか判断がつかなかった。
判断がつかないまま、澄伽は画面に向き直った。仕事に集中しようとしても、思考の端はどうしても隣の島へ流れていってしまう。
キーボードを打つ手が何度か止まり、そのたびに澄伽は小さく首を振って意識を目の前の作業に引き戻そうとした。その繰り返しだけで午後の時間は静かに過ぎていった。
三時過ぎ、来月の店舗施策について両部署の担当者が集まる小さな打ち合わせが開かれた。席順は決まっておらず、澄伽が着席したとき隣の椅子だけが空いていた。
数分後、燈真がその空いた椅子に座った。特に狙ったわけではないのだろうが、それでも澄伽の心臓はまた小さく跳ねた。
打ち合わせの間、資料をめくる音や隣から漂うわずかな柔軟剤の匂いがやけに鮮明に意識に入ってくる。議論の内容は頭に入っているはずなのに、どこか上の空になっている自分がいた。
「時任さん、この部分どう思う?」
不意に話を振られ、澄伽は一瞬だけ言葉に詰まった。隣に座る燈真の視線が横からこちらに向いているのがわかる。
「あ、はい。その方向で問題ないと思います」
なんとか言葉を返しながら、澄伽は自分の頬が熱を持っているのを感じていた。打ち合わせが終わり、皆が席を立つ中、澄伽はしばらく資料を整理するふりをしてその場に留まっていた。
隣の椅子から燈真が立ち上がる気配がしても、澄伽はすぐには顔を上げなかった。彼が完全に会議室を出ていくまでその場に留まっていたい、という衝動的な気持ちが自分でも説明のつかないまま胸の中にあった。
夕方、澄伽はふと視線を上げて燈真の様子をうかがった。彼はパソコンの画面を見つめたまま、いつもより表情が硬い。
目が合いそうになった瞬間、澄伽は慌てて視線を逸らした。燈真も同じタイミングで視線を外したように見えた。
そんな些細な攻防が、今日は何度か繰り返された。互いに意識していることを、互いに悟られたくないという、奇妙な均衡だった。
窓の外の光が橙色に染まり始めても、フロアの空気だけがいつも通りの忙しさを保っていた。誰も澄伽たちの間に流れる微妙な緊張には気づいていない。それがせめてもの救いのように思えた。
電話の音、キーボードの音、誰かの笑い声。いつも通りの雑音の中に紛れて、澄伽の胸の内だけが静かに波立ち続けていた。
退勤の時間が近づくと、澄伽は今日は一人で帰るべきかどうかずっと考えていた。燈真から声がかかるのを待つべきか、それとも自分から声をかけるべきか。
結局、どちらもできないまま澄伽は帰り支度を終えた。
「お先に」
「うん、お疲れ」
いつもと同じ言葉のはずなのに、今日はその軽さがどこか不自然に響いた。澄伽は小さくうなずき、一人でオフィスを出た。
エレベーターの扉が閉まる直前、澄伽はもう一度だけフロアを振り返ったが、燈真はすでに画面に向き直っていてこちらを見ていなかった。当たり前のことなのに、そのことが少しだけ寂しく感じられた。
清澄白河の駅までの道を、澄伽は一人で歩いた。金曜の夜に感じた、あの惜しむような時間の流れはどこにもなく、ただのいつもの帰り道に戻っていた。
橋の上に差し掛かると、澄伽は思わず足を止めた。金曜の夜、ここで燈真が口にした言葉を思い出さずにはいられなかった。
「澄伽と歩くと、無理に話さなくていい」あの一言の余韻が、まだ胸の底に残っている。
それなのに、今夜のこの静けさはあの夜の静けさとはまるで違う質のもので、心地よさではなく居心地の悪さに近い何かがそこにあった。
川面を見下ろしながら、澄伽は自分に問いかけた。この違いを生んだのはいったい何だろう。場所は同じで時間帯もほとんど同じなのに、隣に誰もいないというだけでこんなにも空気の質が変わってしまう。
対岸を歩く見知らぬ二つの人影が笑い合いながら通り過ぎていった。誰かと並んで歩くという行為の意味を、澄伽は今初めて意識しているような気がした。
マンションに帰り着き、澄伽は電気をつけないまましばらく玄関に立っていた。今日一日を振り返っても、燈真との距離が以前より近くなったのか遠くなったのか判断がつかなかった。
言葉は減ったけれど、意識する時間は増えた。その矛盾を、澄伽はうまく整理できずにいる。
靴を脱ぎ、コートを椅子にかけながら、澄伽は今日一日の重さを肩から下ろすように深く息を吐いた。
部屋の中は朝出ていったときのままの静けさを保っており、誰にも邪魔されないその静けさが、今夜はいつもより濃く感じられた。
玄関に立ったまま、澄伽はコートのボタンを一つずつ外していき、その単調な作業の間だけ、頭の中を空っぽにすることができた。
キッチンで水を一杯飲みながら、澄伽は今日の自分の不自然さを一つずつ思い返した。
資料を渡すときの距離の取り方、挨拶の後の一拍の間、視線を逸らすタイミング。
そのどれもが、これまでの澄伽ならしなかった行動だった。意識するということはこんなにも人を不自由にするのだと、澄伽は今更ながら思い知った。
スマートフォンを開き、社内チャットの履歴を眺める。燈真からの業務連絡はいつも通りの文面だった。それなのに澄伽は、その素っ気なさに少しだけ寂しさを覚えた。
自分から何かメッセージを送るべきだろうか、そう考えて指先を画面に近づけてはまた離す、という動作を澄伽は何度も繰り返した。
結局、何も送らないまま澄伽はスマートフォンを置いた。今送る言葉はきっと今の自分にはふさわしくない、そんな気がしたからだった。
送らなかったことへの後悔と、送らなくてよかったという安堵が、胸の中で同時に綱引きをしている。どちらが勝つとも決まらないまま、澄伽はソファへ移動した。
ソファの座面に体を預けると、今日一日の疲れが一気に押し寄せてくるようだった。肉体的な疲れというより、感情を持て余し続けたことによる疲れのように思えた。
ソファに座り、澄伽は今日一日の燈真の様子を思い返す。表情の硬さ、言葉数の少なさ、視線を逸らすタイミング。
もしかしたら燈真も同じように何かを意識しているのかもしれない、そう考えると少しだけ気持ちが軽くなる一方で別の不安も湧いてくる。
意識しているのだとしたら、それは澄伽にとって都合のいい方向なのだろうか、それとももっと別の理由があるのだろうか。答えの出ない問いを、澄伽はまた抱え込んでしまう。
同じ問いを繰り返すこと自体がもう答えの一部を示しているのかもしれない、そう思いながらも、澄伽はまだその答えを声に出す準備ができていなかった。
膝を抱えて、澄伽はしばらくその姿勢のまま天井を見上げていた。照明の光がいつもより白く冷たく感じられ、誰かに話を聞いてもらいたいような、それでいて誰にも話したくないような矛盾した気分だった。
窓の外を見ると、月が薄い雲の向こうに霞んでおり、金曜の夜のように澄み渡っていなかった。今夜の空は、どこか煮え切らない澄伽の気持ちを映しているようだった。
雲の輪郭が風に流され、月の光が現れては隠れることを繰り返していた。澄伽はしばらくその移ろいを眺め続けた。
その移ろいを見ているうちに、澄伽は、自分の気持ちも月と同じように雲間に見え隠れしているのかもしれない、と思った。はっきりと形を持つ瞬間もあれば、また見えなくなる瞬間もある。
夕食を簡単に済ませ、澄伽は湯船に浸かりながら今日一日を振り返り続けた。考えても答えの出ないことをそれでも考え続けてしまう、そんな性分を澄伽は自分でもよくわかっていた。
湯気が立ちのぼる中、澄伽は目を閉じて今日一日の出来事をもう一度だけ順番に並べ直してみた。挨拶の間、資料を渡すときの距離、視線の攻防。どれも小さな出来事なのに束ねると確かな重さになった。
浴室の壁に反響する水音がいつもより大きく耳に届き、静かな空間の中で澄伽は自分の呼吸の音まで意識してしまうほど思考が研ぎ澄まされていくのを感じた。
湯気の向こうに映る自分の顔を見つめながら、澄伽は小さくつぶやいた。近いはずなのに、言えない。近いからこそ、言えないのかもしれない。
その言葉の意味を、澄伽自身がまだ完全には理解していなかったが、口に出してみて少しだけ腑に落ちるものがあった。
もし今、気持ちを言葉にしてしまったら、この心地よい距離がもう戻らない何かに変わってしまうかもしれない、という恐れが澄伽の口を閉ざしている一番の理由なのだと、ようやく気づいた。
湯船の縁に頭を預け、澄伽は天井を見上げた。換気扇の音だけが規則正しく響き、その単調な音が今の澄伽にはかえって心を落ち着かせてくれた。
もし燈真がこの瞬間、同じように一人で何かを考えているのだとしたら、そう想像するだけで離れた場所にいながらもどこかで繋がっているような不思議な感覚があった。
燈真もまた同じような恐れを抱えているのだとしたら、この沈黙はすれ違いではなく似た者同士の慎重さなのかもしれない。
そう考えると、今日一日のぎこちなさにも少しだけ違う意味が見えてくる気がした。
湯船を出て、澄伽は寝る支度を始める。鏡に映る自分の顔はいつもより疲れて見えるが、それでも目の奥にはまだ小さな熱が残っている。
髪を乾かしながら、澄伽はドライヤーの音に紛れてもう一度だけ今日の一連の出来事を反芻した。何度反芻しても答えらしきものは見つからないが、答えが見つからないこと自体にはもう嫌悪感を抱かなくなっていた。
ドライヤーの温風が首筋をかすめるたび、澄伽は小さく肩をすくめた。その些細な刺激さえ、今夜はいつもより敏感に感じられる気がした。
布団に入り、澄伽はもう一度だけ、今日一日の記憶をたどる。
挨拶の一拍の間、資料を渡すときの距離、視線が重なりかけた瞬間。
そのどれもが、これまでにはなかった緊張を孕んでいた。緊張は心地よさとは違う。それでも澄伽は、その緊張を嫌なものだとは思えなかった。
むしろ、その緊張の中にこそこれまで気づかなかった何かが潜んでいるような気がした。名前をつけることはまだできないが、そこに確かな熱があることだけは疑いようがなかった。
天井の暗さに目を慣らしながら、澄伽は今日一日の中で一番印象に残った瞬間を選び直してみた。挨拶の一拍か、視線の攻防か、それとも資料を渡すときの距離か。
選びきれないまま、澄伽は小さく笑った。選びきれないということ自体が今の自分の状態をよく表している気がした。
打ち合わせの席で隣に座ったときのあの緊張の質を、澄伽は最後にもう一度だけ思い出す。偶然だったはずのその隣同士が今夜は特別な意味を持って記憶に刻まれていた。
眠りにつく前、澄伽は小さく息を吐いた。明日もまた同じ駅から同じ電車に乗る。燈真とどんな顔で会うことになるのかまだわからない。
わからないことがこんなにも胸をざわつかせるとは思わなかったが、それでもそのざわつきを澄伽はもう嫌だとは思わなくなっていた。
わからないまま眠りにつくということが、これまでの澄伽には苦手なことだった。答えの出ない状態をなるべく早く片づけたいと考えるほうだった。それなのに今は、わからないことをそのまま抱えていることに不思議な充足感すら覚えている。
窓の外を電車の音が一度だけ通り過ぎ、やがて静寂に吸い込まれていった。その静寂の中で澄伽は、ゆっくりと目を閉じた。
澄伽の五日目は、こうして静かに終わった。近づいたはずなのに、言葉は減っていくという矛盾した実感だけを残して。
その矛盾は翌朝になればまた新しい形を見せるのかもしれないが、答えを急がず、澄伽はただその日が来るのを待つことにした。




