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やさしさの意味を知るまで  作者: reika1021


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4/10

第4章:缶コーヒーの重さ

朝の光がいつもより淡く部屋に差し込んでいた。澄伽が目を覚ますと、窓の外は薄い雲に覆われていた。


秋はすでに深まりかけており、空気の匂いは数日前とは明らかに違っていた。


金木犀だろうか。どこからか甘い香りがほのかに漂ってくる。窓を少しだけ開けると、その香りが部屋の中まで忍び込んできた。


布団の中で澄伽はしばらく天井を見つめていた。昨夜届いた燈真からの短いメッセージがまだ頭の隅に残っている。


「ありがとう、助かった」それだけの一文だった。


その素っ気なさがかえって澄伽の中に長く留まっていた。寝不足のはずなのに、頭の芯はやけに冴えている。


身支度を整えながら、澄伽は鞄の底にある喉飴の小袋を見つけた。まだ渡せていない。渡すつもりで買ったものがこんなにも長く鞄の中に残っているとは思わなかった。


小袋を取り出し、テーブルの上に一度置いてみる。今日こそ渡せるだろうか、そんなことを考える自分が少し子どもじみているようにも思えた。


結局、小袋をそのまま鞄に戻し、澄伽は玄関へ向かった。渡すきっかけはいつも向こうからやってくるものだと、これまでの経験がなんとなく教えてくれている。


清澄白河の駅までの道を歩く間、澄伽はその小袋のことをぼんやりと考えていた。渡すべきかどうかよりも、渡すことに意味を持たせすぎている自分に少し呆れていた。


たかがお菓子だ、と思おうとしても、なぜか気軽には扱えなかった。


渡すという行為そのものに、澄伽はまだ慣れていなかった。もらうことには慣れているのに、渡すことにはこんなにも身構えてしまう。その不均衡さに、澄伽は今さらながら気づかされる。


橋のたもとを過ぎると、川面には朝もやがうっすらと漂っていた。空気が湿り気を帯び、頬に触れる感触がいつもより柔らかい。季節の変わり目特有のにおいが鼻先をかすめていく。


対岸の遊歩道をジョギングする人影がゆっくりと横切っていった。息の白さはまだ見えないが、朝の冷え込みは確かに一段深まっている。澄伽は襟元をわずかに合わせ、駅への歩を進めた。


改札を抜け、いつもの車両に乗り込む。窓の外を流れる景色は、今日も変わらない。


車内はほどよく空いていて、澄伽はつり革に軽く手を添えたまま、流れる街並みを眺めていた。ビルの隙間から差し込む朝日が、車内の床に細かな縞模様を描いている。


オフィスに着くと、燈真はすでに落ち着いた様子でデスクに向かっていた。昨日の疲れた顔はもう見当たらない。


「澄伽、おはよう」


「おはよう。もう平気?」


「うん、昨日はごめん。ちょっと変な感じで」


そう言って燈真は軽く肩をすくめた。その仕草に、澄伽は密かに安堵した。


昨日の疲れた表情とは違い、今朝の燈真の目にはいつもの落ち着きが戻っていたが、それでも、あの日見た弱さの気配は澄伽の記憶の中にまだ残っていた。


午前中はいつも通りの業務が淡々と進んだ。会議、資料作成、簡単な打ち合わせ。特別なことは何もない、いつもの一日だった。


けれど、いつもの一日が続くことに、澄伽は今日は少しだけ違う感覚を抱いていた。何も起きない一日を、ただ何も起きないままにしておきたくない、という漠然とした気持ちが胸の奥に小さく芽生えていた。


資料に向き合いながらも、澄伽の意識は時々隣の島へと流れていった。そのたびに、自分でその流れを押し戻す。仕事に集中しなければと思うほど、意識は逆に彼のほうへ引き寄せられていくようだった。


キーボードを打つ手を止め、澄伽は小さく息を吐いた。こんな調子で今日一日を乗り切れるのだろうか、そう思いながらもその落ち着かなさ自体をどこか嫌ではないと感じている自分がいた。


昼休み、澄伽は同僚たちと連れ立って外へ出た。空はいつの間にか晴れ、秋の日差しが街路樹の葉を透かして道に模様を落としている。


食事の間、燈真の姿はなかった。別の用事で外出しているらしく、澄伽はその不在をいつもより意識してしまう自分に気づいた。


同僚たちとの会話に相槌を打ちながらも、澄伽の視線は何度も窓の外へ流れた。通りを行き交う人の中に燈真の姿を探している自分に気づくたびに、澄伽は小さく苦笑した。


食後、店を出ると、通りの向こうで金木犀の木が控えめに花をつけているのが見えた。誰かが立ち止まってその香りを確かめている。澄伽もつられて足を緩め、ほんの数秒だけその香りに意識を委ねた。


午後、営業企画部から回ってきた資料に目を通していると、燈真が戻ってきた気配がした。振り返らなくても足音の速さでわかる自分に、澄伽は少し驚いた。


いつからこんな風に、姿を見なくても気配だけで彼だとわかるようになったのだろう。思い返しても、はっきりとした境目は見当たらなかった。


資料の続きに目を通していると、燈真がふと通りかかり、軽く手を挙げて挨拶をした。特別な会話はなかったが、それだけのことなのに、澄伽の一日の中でその一瞬が妙に鮮明な色を持って残った。


夕方が近づくころ、空の色はゆっくりと変わり始め、ビルの合間を抜ける光が金色から橙色へと質を変えていった。


窓辺に立つ観葉植物の葉先が傾いた光を受けて、輪郭を濃くしていた。澄伽はその光の角度から今日という一日がもう終わりに近づいていることを知る。


退勤の時間、澄伽が鞄を手に取ると、ちょうど燈真も席を立つところだった。


「あ、今日は同じタイミングだね」


「みたいだな。帰る?」


短いやりとりの後、澄伽と燈真は連れ立ってオフィスを出た。特別な約束をしたわけではない。ただ、時間が偶然重なっただけだった。


それでも、澄伽の胸の奥では、その偶然を少しだけ喜んでいる自分がいた。偶然が続けば続くほど、それを偶然と呼ぶことが難しくなっていく、という予感も同時に胸をよぎった。


ビルを出ると、外気はもう夜の気配を帯びていた。清澄白河の駅までの道を、いつものように並んで歩き始めた。


自動ドアが閉まる音を背中で聞きながら、澄伽は隣に燈真がいるという事実だけでいつもより呼吸が軽くなるのを感じていた。理由を探すことはもうやめにした。


「そういえば、これ」


澄伽は鞄から喉飴の小袋を取り出し、燈真に差し出した。


「何それ」


「この前、喉痛いって言ってたから。買ってたの、渡しそびれてて」


燈真は一瞬だけ驚いた顔をした後、小袋を受け取り、手のひらに乗せた。彼はしばらくその小袋を見つめていた。


「わざわざ買ったのか?」


「別に。ついでの」


そのセリフを使うのは、これで何度目だろう。燈真は小さく笑いながら、小袋をポケットにしまった。


「ありがとう。あの時、俺が澄伽にあげたやつと同じ味だな」


「うん、同じの買った」


「律儀だな」


そう言った燈真の声に、からかうような響きはなかった。むしろ、少しだけ照れているような、そんな声だった。


川沿いの道に差し掛かると、水面に街灯の光が細く伸びていた。昼間の温かさがまだ空気の底に残っている。


「今日、何か予定あるの?」


「特にないけど」


「そっか」


それだけの会話だったのに、澄伽はその短いやり取りの中に何かを期待している自分に気づく。


橋を渡る途中、燈真がふと足を止め、欄干にもたれて川を見下ろした。


「たまにさ、こうやって歩いてると、何も考えなくていい時間だなって思う」


「そうだね」


「澄伽と歩くと、特にそう思う」


その言葉に、澄伽は一瞬だけ息を止めた。何気ない口調だったからこそ、余計に胸に響いた。


川面を渡る風がその間をすり抜けていく。燈真の視線は水面に落ちたままで、澄伽の反応をうかがうような素振りはなかった。だからこそ、その言葉には作為のない重みがあった。


「私と歩くと、って」


「なんか、無理に話さなくていい感じっていうか」


燈真はそう言ってまた歩き出し、澄伽はその背中を追いながら今の言葉の意味を頭の中で何度も反芻した。


無理に話さなくていい。それは、居心地がいいという意味なのだろうか。それとも、もっと別の何かなのだろうか。


言葉の裏を探ろうとすればするほど、澄伽自身の胸の内も簡単には言葉にできないものへと変わっていくようだった。


門前仲町へ向かう道は、いつもより時間をかけて歩いているような気がした。歩調はいつも通りのはずなのに、体感する時間の流れが異なる。


閉店準備を始めた花屋の前を通りかかると、店主がバケツの水を歩道に流していた。湿った石畳の匂いがその場に漂っていく。


「あの花屋、いつも同じ時間に閉めるよな」


「よく見てるね」


「毎日通る道だし」


そう言われて、澄伽は今さらながら気づいた。この道を、燈真も自分と同じくらい丁寧に見ているのかもしれない、と。


店先のバケツに残った切り花が、水滴を垂らしながら夕闇に沈んでいく。誰かが選ばずに残した花にも、それぞれ名前があるはずだ。澄伽はそんなことを考えながら、燈真の隣を歩き続けた。


店主が最後の一鉢を店内へ運び入れると、通りはまた元の静けさを取り戻した。夕方から夜へと移り変わる、その境目のような時間だった。


コンビニの灯りが見えてくると、澄伽は自然と歩調を緩めた。理由はわからないが、あの灯りを通り過ぎると駅までの距離が急に近づく気がしたのだ。


「寄ってく?」


「別に、いらないけど」


「じゃあ、俺だけ」


燈真がそう言って店に入っていく。澄伽は外で待ちながら、ガラス越しに彼の背中を眺めていた。


店内の照明に照らされた燈真の横顔は、いつもより輪郭がくっきりと見えた。棚の前で少し迷うような素振りを見せた後、彼は迷いを断ち切るように商品を手に取った。


戻ってきた燈真の手には、缶コーヒーが二つあった。


「はい、これ」


「え、いいの?」


「奢りたい気分だっただけ」


理由になっていない理由だったが、それでも澄伽は素直に受け取った。冷たい缶の感触が指先にじんわりと伝わってくる。


歩き出しながら、澄伽はプルタブに指をかけずにいた。すぐには飲みたくないという不思議な気持ちがあった。この缶を開けてしまえば何かが終わってしまうような、そんな気がした。


橋を渡り終えたところで、澄伽はふと気づいた。いつもならもう見えているはずの駅の明かりが、今日はまだ遠い。


「今日、なんか遠回りしてる?」


「してないと思うけど」


「そうだよね」


道は変わっていないはずなのに、駅までの距離がいつもより長く感じられた。


もしかしたら、歩く速さそのものがいつもより緩やかになっているのかもしれない。誰も口には出さないまま、互いにその緩やかさを選んでいるような気配があった。


門前仲町の交差点で信号待ちをする間、澄伽は缶コーヒーのプルタブを開けた。炭酸の抜ける小さな音が静かな夜に溶けていく。


「澄伽、コーヒー苦手だったっけ」


「ううん、好きだよ。ただ、この時間に飲むと眠れなくなりそう」


「じゃあ、返す?」


「そういう意味じゃないから」


そんな他愛のないやり取りがいつまでも続けばいいと澄伽は思った。思ってしまってから、自分でその思考に驚く。


信号が青に変わっても、どちらもすぐには足を踏み出さなかった。ほんの一拍だけ遅れて歩き出すその一拍の中に、言葉にならない何かが挟まっている気がした。


駅が近づくにつれ、澄伽の中で小さな焦りのようなものが芽生え始めた。この時間が終わってしまう、という事実がなぜか惜しく感じられた。


「そういえば、明日から週末だね」


「そうだな。何か予定あるのか?」


「特にないよ。燈真は?」


「俺も特に」


会話は途切れがちになりながらも途切れきることはなく、互いに次の話題を探しているようだった。


実際にはただ、時間を引き延ばしているだけなのかもしれない。


駅前のロータリーに差し掛かると、タクシーの列と人の流れが交錯していた。喧騒の中でも、隣を歩く燈真の気配だけがはっきりと澄伽の意識に届いている。


駅の改札が見えてきた。いつもならほっとするはずのその明かりが、今日はどこか名残惜しい。


「じゃあ、また月曜に」


「うん、また」


改札を抜ける前、燈真が一瞬だけ立ち止まった。


「今日、送らなくて悪いな。反対方向だし」


「別にいつも送ってもらってるわけじゃないし」


「そうだけど」


その一言の後に続く沈黙がいつもより長く感じられ、何かを言いかけた燈真は、それを飲み込んだように見えた。


改札の明かりが彼の頬の輪郭を白く縁取り、澄伽はその表情の変化を見逃すまいとほんの一瞬だけ息を止めた。


「じゃあ、また」


もう一度同じ言葉を繰り返して燈真は改札の向こうへ歩いていった。澄伽はその背中が人混みに紛れて見えなくなるまでその場に立っていた。


改札の電子音が規則的に鳴り続け、周りを行き交う人々の流れが澄伽の周りだけを避けていくように感じられた。


一人になった瞬間、澄伽は自分の中に生まれた感情の名前をようやく認めざるを得なかった。


もっと一緒にいたかった。


その事実はもう、友情という言葉だけでは説明がつかなかった。友人とならこんなふうに一分一秒を惜しむことはないはずだ。少なくともこれまでの澄伽は、そう思って生きてきた。


改札の向こうへ消えていった背中を思い出しながら、澄伽は自分の反対方向のホームへと歩き出した。足取りは来た時よりも重かった。


ホームのベンチに座り、電車を待つ間、澄伽は缶コーヒーを一口飲んだ。ぬるくなり始めた液体が喉を通り過ぎ、苦味の奥にかすかな甘さが残った。


反対側のホームに視線を移すと、同じように電車を待つ人々の姿があった。誰もがそれぞれの一日を抱えてこの時間にここに立っている、そう思うと自分の胸の内もそれほど特別なものではないのかもしれないと思えてきた。


電車が滑り込んでくる音に紛れて、澄伽はもう一度だけ、今日一日の出来事を頭の中でたどり直した。


喉飴を渡したときの燈真の照れたような表情、橋の上での何気ない一言、「無理に話さなくていい」という言葉の余韻。


車内の窓に映る自分の顔を見ながら、澄伽はしばらくぼんやりとしていた。マンションへの帰り道、澄伽は缶コーヒーを飲みながら今日一日の会話を何度も反芻していた。


「無理に話さなくていい」という燈真の言葉、遠回りしたような感覚、駅の明かりへの名残惜しさ。


そのどれもが、これまでの澄伽なら気にも留めなかった些細な出来事だ。それなのに、今夜はその些細な出来事の一つひとつが確かな重みを持って積み重なっていく。


部屋に着き、電気をつけると、いつもより静けさが際立って感じられた。澄伽は鞄を下ろし、ソファに座り込んだ。


コートを脱ぐ間も忘れて、澄伽はしばらくそのまま動かずにいた。窓の外を通り過ぎる車のライトが天井に一瞬だけ光の帯を描いては消えていく。


缶コーヒーの残りを飲み干しながら、澄伽は今日のことを整理しようとしたが、整理しようとすればするほど感情のほうが先に膨らんでいく。


好きだと認めるにはまだ何かが足りない気がしたが、会えない日を想像すると確かに胸のどこかが軋む。


その軋みの正体を、澄伽は言葉にしようとしてはその都度、手前で止めていた。名前をつけてしまえば後戻りできなくなる気がしたからだ。


膝を抱え、澄伽はしばらくその姿勢のまま動かなかった。部屋の静けさが今夜は妙に優しく感じられた。


窓の外の音が夜の深まりとともに少しずつ静まっていく中、澄伽はしばらくそのまま動かずにいた。


遠くで救急車のサイレンが一度だけ響き、やがて夜の底へ吸い込まれていった。その音が消えた後の静けさがいつもよりも深く感じられた。


これまでの自分なら、今日という一日を「楽しかった」の一言で片づけていたはずだ。それなのに今夜は、その一言だけでは収まりきらない何かが胸の中に残っている。


洗面所で顔を洗いながら、澄伽は鏡の中の自分に問いかけてみる。今日一日、何度燈真の言葉を思い出しただろう。


数えようとして途中でやめた。答えのようなものは、数えきれないということだった。


もっと一緒にいたい。会えない日は少し長く感じられ、並んで歩く時間がいつもより短く終わってほしくないと思う。


そのどれもが恋という言葉に近いものだと、澄伽は薄々気づき始めていたが、まだそれを声に出す勇気はなかった。


声に出すという行為がこれほど重く感じられたことはこれまでになかったし、言葉にした瞬間、今の心地よい距離感が壊れてしまうかもしれないという恐れが澄伽の口を静かに閉ざしていた。


布団に入り、澄伽は今日一日の記憶を最後にもう一度たどる。喉飴を受け取ったときの燈真の、少し照れたような表情。もっとあの表情を見ていたいと思う自分がいた。


眠る前、澄伽はもう一度だけ、駅で別れた瞬間の燈真の顔を思い出す。何かを言いかけて飲み込んだような表情。


あの続きの言葉が何だったのか、澄伽にはわからない。ただ、その続きを知りたいと強く思う自分がいることだけがはっきりとわかった。


まぶたを閉じても、今日一日の光景が次々と浮かんでは消えていく。橋の欄干、缶コーヒーの冷たさ、改札の明かり、そのどれもがこれまでとは違う色を帯びて、記憶に刻まれていた。


眠りに落ちる直前、澄伽の唇から小さなつぶやきが漏れた。誰にも聞かれることのない、それでいて確かに形を持った一言だった。


窓の外では、金木犀の香りがまだ夜気に溶けきらずに漂っていた。眠りに落ちる寸前、澄伽はその香りを深く吸い込む。今日という一日の記憶が、その香りと一緒に体のどこか深いところへ沈んでいくようだった。


澄伽の四日目はこうして静かに終わった。友情では説明できない何かが確かにそこにあるという実感だけを残して。


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