俳句 楽園のリアリズム(パート2・完結ーその5)
今回はパート2のおしまいとなる「俳句 楽園のリアリズム(パート2-その5)」をおとどけします。
「読書の喜びと耳のしあわせ……
川に沿へば川のひびきの春近し
パン買いに近道とれば秋の蝶
こんなふうに俳句の音数律が美しい詩的情景をくっきりと浮き彫りにしてくれるとき、つぎのようなバシュラールの文章もいっそうよく理解できるような気がする。人類史上最高の幸福を実現してしまったひとの残してくれたものだけに、どれをとっても、その言葉は、ほんとうに、最高に素晴らしい。それらは、生涯、価値を持ちつづけるはずの言葉なのであって、断じて、7、8回読んだきりで
おしまいにしてしまえるようなものではないのだ。
そのひとつひとつには、ぼくたちだれもが、例外なく、最高のポエジーを味わったり、最高の幸福を自分のものにしたりするために有効な、考えうる最高のヒントがあふれるほどに含まれている。なんといっても、この本に引用させてもらっているのは、人類史上最高の幸福を実現してしまったひとがぼくたちに書き残してくれた言葉の、エッセンス中のエッセンスなのだから。
やっぱり、詩や詩人とあるところを、俳句とか俳句形式とかに置き換えて引用させてもらうと、俄然、バシュラールの文章に生命が吹きこまれ、ぼくたち日本人にとっては最高のかたちで生かされることになるようだ。それというのも、俳句こそ、バシュラールが詩に求めた理想の、全部とはいわないまでもその多くを、ほぼ完璧に実現させてしまっている詩にほかならないからだった。
「対象の影響下に、つまり世界のひとつ
の果実、あるいは世界の一本の花の影
響下に世界を置くことによって、俳句
が提供する世界のなかに生きることは、
なんとよろこばしいことだろう」
「夢想するわたしを魅惑し、また俳句が
わたしたちに分かちあたえることができ
るもの、それがこのわたしのものたる非
―我である。世界のなかに存在している
わたしの信頼感をわたしに体験すること
を許すもの、それがこのわたしのものた
る非―我である」
<意識とはつねに何ものかについての意識である>という言葉を、現象学の入門書みたいなもののなかでずうっと昔に読んだことがあるけれど、意識の対象となる、ぼくたちの意識以外のすべてが「非―我」ということなのだろう。
「非―我が夢想する自我を魅了する。俳
句のイマージュを、読者がまったく自己
のものと感じることができるのは、その
ようなわれわれのうちなる非―我の作用
なのだ」
「非―我」がぼくたち俳句の読者を魅了することになるのも、だれものうちなる「世界」の記憶の作用。俳句を読むとき、ぼくたちの記憶のなかの非―我のすべてが、ポエジーを味わうための詩的財産となってくれる。雪や雨や馬や汽車やうどんがそうだったように。
「きみはよく見た。だから夢想する権利
がある」
非―我とは、事物だけにかぎらず、晩夏とか、意識の対象となるすべて、つまり、俳句や詩のイマージュとなるすべての対象をさす言葉だと考えていいだろう。おなじことになると思うけれど、あらゆる名詞が、ぼくたちにとって宝物のような非―我となるというわけだ。つまり、普遍的なあらゆる名詞が、俳句による「言葉の夢想」のなかでは、だれにとっても、きわめて個人的な素晴らしい詩的財産となってくれるはずなのだ。
「単純なかたちのイマージュは学殖を必
要としない。イマージュは素朴な意識の
財なのだ」
俳句でポエジーを味わうために必要なのは、だれもがおなじものとして共有する「幼少時代」と、これもまただれもがおなじものとして共有する椿や雨や木々の芽といった「世界」の、つまり、非―我の記憶だけ。
そうした非―我の感覚的な記憶に個人差などというものは考えられないのだし、一行のなかのいくつかの非―我が協力しあって作りあげるひとつの詩的情景が、個人の感性などを超えた遠い日の宇宙的な感覚を呼びさましてくれる俳句でなら、だれもが、おなじような極上のポエジー、すなわち、遠い日の宇宙的幸福をもう一度味わうことができるようになるのではないか、そう、この本さえあれば。
「対象の影響下に、つまり世界のひとつ
の果実、あるいは世界の一本の花の影響
下に世界を置くことによって、俳句が提
供する世界のなかに生きることは、なん
とよろこばしいことだろう……
コスモスの残りの花を雲が訪ふ
「夢想するわたしを魅惑し、また俳句が
わたしたちに分かちあたえることができ
るもの、それがこのわたしのものたる非
―我である。世界のなかに存在している
わたしの信頼感をわたしに体験すること
を許すもの、それがこのわたしのものた
る非―我である……
秋風の白樺梢を触れあへる
「非―我が夢想する自我を魅了する。俳
句のイマージュを、読者がまったく自己
のものと感じることができるのは、その
ようなわれわれのうちなる非―我の作用
なのだ……
女生徒に秋の欅が陽を散らし
普遍的なあらゆる名詞が、俳句による言葉の夢想のなかでは、だれにとっても、きわめて個人的な詩的財産となってくれる……
霧の灯をかぞへ一つの灯へ帰る
「きみはよく見た。だから夢想する権利
がある」
「わたしたちの幸福には全世界が貢献す
るようになる。あらゆるものが夢想によ
り、夢想のなかで美しくなるのである……
夕ぐれの山見てをれば小鳥くる
「ひとつの世界をつくるために万物が一
致協力する俳句の宇宙論……
七夕の笹がささやくほどの風
「世界のなかに存在しているわたしの信
頼感をわたしに体験することを許すもの、
それがこのわたしのものたる非―我であ
る」
「世界への信頼の頂点である詩的夢想」
「世界が人間にたいして提供するこうし
たあらゆる供物を前にして……」
最後のは、それ以前には感謝の気持をこめて世界への信頼の頂点である詩的夢想なんて言っていたバシュラール、最晩年の言葉だけれど、世界が自分に提供するものすべてを<供物>と言ってしまうなんて、すごい。ちょっとすごすぎる。<供物>って、神や仏に対する捧げもののことではなかったっけ? さすがは人類史上最高の幸福を実現してしまった、ガストン・バシュラール。
「讃辞の世界に住むことは、なんと世界
に密着することだろう。愛されたどんな
ものでも讃辞による存在となる。世界の
事物を愛しながらひとは世界を讃美する
ことを学ぶ。つまりひとはパロールの宇
宙に入るのである。
そのとき世界とその夢想家はどんな新
しい連帯関係に入ることか。語られた夢
想は孤独な夢想家の孤独を世界のあらゆ
る存在に開かれた連帯関係に変容させる」
ぼくたちが読みはじめた俳句こそ、まさに讃辞の詩。なにもかもを讃辞に変えてしまうや・かな・けりといった助詞や助動詞を使ったパターンを基本形とする俳句こそ、まさに世界を讃嘆するための詩。つまり、そう、ぼくたちもこれから俳句作品のなかの事物を愛しながら世界を讃美することを学ぶことになるのだ。
「そのとき世界とその夢想家はどんな新
しい連帯関係に入ることか。語られた
夢想は孤独な夢想家の孤独を世界のあ
らゆる存在に開かれた連帯関係に変容
させる……
遠山に日の当りたる枯野かな
「夢想する人は夢想の幸福のなかに世界
をひたし、幸福な世界の安逸のなかにひ
たる。夢想家はみずからの安楽さと幸福
な世界との二重の意識である」
ぼくたちがこうした域に達するだけだってすごいことなのに、それにしても、世界を讃美することと、世界からの〈供物〉を受けとることとの、この隔たりは大きい。最晩年のバシュラールときたら、自分の世界のなかで、ほんとうに、王様のように世界に君臨してしまっていたのではないだろうか。
「たましいはもはや世界の一隅につなぎ
とめられてはいない。それは世界の中心
に、みずからの世界の中心にいる」
そうなんだ。社会のなかでは歯車のひとつにしかすぎないようなぼくたちだって、世界のなかではだれだって自分の世界の中心。
「夢想はわたしたちを世界のなかにおく
のであって、社会のなかにおくのではな
い」
他者を意識する必要のない自分だけの孤独な世界のなかでなら、子供のときにそうだったように、そのときだけは、だれだって、自分の世界の中心、わが領土に君臨する王侯貴族だろうじゃないか。
「人間は夢想のなかでは主権者であるが、
観察の心理学は現実の人間のみを研究す
るので、王位を奪われた存在にしか出会
わないのである」
王位を奪われた日常生活はともかくとして、俳句や詩を前にして夢想することが許されたときくらいはバシュラールの真似をして、ぼくたちだって、わが領土からの、つまり、この世界からの捧げものを、玉座にふんぞりかえって王様のように受けとってやればいい。
バシュラールの教えによると、旅になんか出なくたって、そのうち、夢想ということに習熟してくれば、夢想のなかではぼくたちひとりひとりがうれしくなるほど公平に王位をあたえられることになるらしいのだから、詩的夢想のなかで触れることになる非―我、つまり、読みはじめた700句の俳句のイマージュやいつか読むことになるたくさんの詩集のおびただしいイマージュこそ、わが領土、わが世界から捧げられる、考えうる最高の<供物>ということになってくれそうだ。
岡本差知子の作品をもう少し読んでみよう。俳句というクリスタルの器に盛られて、広大なわが領土から、どのような供物が領主であるぼくたちのためにとどけられているだろうか。5・7・5と言葉をたどって受けとる、世界からの詩の捧げものとは……
春の夜のワイングラスの並ぶ卓
青蔦に降り足りし夜の星の色
数駅は海岸沿ひに南風の中
「世界が人間にたいして提供するこうし
たあらゆる供物を前にして……
りんどうの藍より濡らす山の雨
葛の花むさしのの雨音もたず
雨が生む万の葡萄の熟れゆく香
ぼくたちの幼少時代が復活して俳句の言葉でもって「世界」を夢想することが可能になった瞬間から、俳句のなかの非―我、つまり、あらゆる名詞が、わが領土、わが楽園からの、わが人生への最高の贈物となってくれるのだ。
「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ
らゆるバリエーションはとりもなおさず、
わたしたちのなかにある幼少時代の核が
休みなく活動している証拠なのである」
ぼくたちの詩的な夢想をごくしぜんと誘う、俳句という一行の器を充たすもの。それは、楽園の果実のように新鮮で甘美な、非―我という、世界からの素晴らしい捧げもの。(予定になかったことなのに、勢いで、つい、究極の言葉の夢想みたいなことに突入してしまった。人類史上最高の幸福を実現してしまったひとの到達点を踏まえてこの試みを開始したぼくたちなのだから、いつかこんなことまでが可能になるはずだし、たぶん2周目以降には、こんなすごいことまでよく理解していただけるようになっているのではないかと思う。とりあえずつづけると……)
「わたしたちの幸福には全世界が貢献す
るようになる。あらゆるものが夢想によ
り、夢想のなかで美しくなるのである」
せっかくだからもう少し日野草城の作品でもって、わが領土、わが世界からの、俳句という器に盛られたこのうえない極上の捧げものを、王様のようにふんぞりかえって受けとってやることにしよう。バシュラールの真似をして「ぼくたちの幸福には全世界が貢献するようになった」だなんてつぶやきながら。
それを受けとるためには、5・7・5と言葉をゆっくりと区切るようにたどって、イマージュをくっきりと浮き彫りにしてあげるだけでよかった……
夏の雨きらりきらりと降りはじむ
夏草に砕けて赤き煉瓦かな
「わたしたちの幸福には全世界が貢献す
るようになる。あらゆるものが夢想によ
り、夢想のなかで美しくなるのである……
皿を待つナイフフォークや薔薇匂ふ
空よりも碧き朝顔咲きにけり
夕風の籐椅子二つあるばかり
「ひとつの世界をつくるために万物が一致協力する俳句の宇宙論……
寂しさや若葉にそゝぐ昼の雨
服軽くなりて五月の陽に歩む
「非―我が夢想する自我を魅了する。俳句
のイマージュを、読者がまったく自己のも
のと感じることができるのは、そのような
われわれのうちなる非―我の作用なのだ……
遠き灯の一つ二つや月見草
避暑の宿夕風にみな灯りけり
「わたしはまさしく語の夢想家であり、
書かれた語の夢想家である」
「新しいイマージュによって生命をあた
えられることに同意するときは、だれで
も古い書物のなかに虹色の輝きを発見す
るだろう」
生涯にわたってたくさんの著作を書き残したバシュラールのことだから、あくまでも誇張表現というしかないけれど「わたしの全生涯は読書生活である」なんて短い文章も、ぼくのノートには書き抜いてあった。
ところで、この本を読んでいただく目的のひとつでもあるのだけれど、書かれた言葉の夢想家になるって、いったいどのようなことをいうのだろう?
詩人になりたいなんて野心をもたず、とことんたんなる詩の読者に徹することができたのがバシュラールというひとの偉大さだと思うけれど、そんな彼の残してくれたいくつもの言葉が、時間の経済という点からいっても、一生、俳句や短歌や詩のただの読者でありつづけようと決めたこのぼくに、大きな希望をあたえてくれたのだった。
「わたしは詩的夢想の詩学を樹立したいのである。詩的夢想の詩学! これは大きな野望である。むしろ大それた野望というべきである。なぜなら、それは詩のすべての読者に、詩人の意識をあたえるということにひとしいのだから」
詩人になる必要なんてなかったのも、バシュラールときたら、詩を一篇読むだけで、詩人の意識を、つまり、その作者と同等の、あるいは、もしかしたらそれ以上のポエジーを、たぶんいつでも完璧に体験できてしまったから。イマージュとポエジーの本質。言語によって誕生するこの想像力の現象の本質を、詩人たちよりも深く理解していたからだ。
「言語のなかで、言語によって誕生する
この想像力の現象」
それにしても、どのようにしたら、ぼくたち、人生最高の幸福が約束された、バシュラールのような書かれた言葉の夢想家になることができるのだろうか?
「言語が完全に高貴になったとき、音韻
上の現象とロゴスの現象がたがいに調和
する、感性の極限点へみちびく」
たしかに一句一句の俳句作品は美しいイマージュをくっきりと浮き彫りにしてくれているような素晴らしい印象をぼくたちにあたえることになるけれど、実際には、5・7・5の音数律にあわせて書かれた言葉がただ一行に並べられているだけなのであって、それがぼくたちの夢想を誘い(まあ、そのうち)極上のポエジーをぼくたちに味わわせてくれることになるのも、結局は、言葉というものの偉大な力のおかげということになるだろう。
「その語をいくぶん〈暖める〉ようにし
てもらいたい。そうすると、語の意味の
なかで眠っていた語、意味の化石のよう
に生気のない語から、この上なく珍奇な
花が開くであろう。まさにしかり。語も
夢をみるのだ」
「語の意味のなかで眠っていた語、意味
の化石のように生気のない語から、この
上なく珍奇な花が開くであろう……
春の夜のワイングラスの並ぶ卓
「言語の生命そのもののなかに深く入り
こんでいくような夢想をしなければなら
ない……
数駅は海岸沿ひに南風の中
「語は内在的夢の力を失ってしまった。
名詞に結びついているこの夢像を回復す
るには、いまなお夢みている名詞、〈夜
の子供たち〉である名詞についての探求
をさらにつき進めねばなるまい」
俳句作品のなかにだれもがみいだすことになる、内在的夢の力を回復した、まさに、いまなお夢みている名詞たち……
青蔦に降り足りし夜の星の色
「まさにしかり、語も夢をみるのだ……
雨が生む万の葡萄の熟れゆく香
「イマージュはそれを夢想する語によっ
てつくられる……
葛の花むさしのの雨音もたず
「語は夢想により、無限なものになりか
わり、最初の貧弱な限定を棄ててしまう
……
夏の雨きらりきらりと降りはじむ
「語の内部のポエジーやひとつの単語の
内部の無限性を体験するには、いかにゆ
るやかに夢想することをわれわれはまな
ばなければならぬことか……
空よりも碧き朝顔咲きにけり
「語られた夢想は孤独な夢想家の孤独を
世界のあらゆる存在に開かれた連帯関係
に変容させる……
避暑の宿夕風にみな灯りけり
「讃辞の世界に住むことは、なんと世界
に密着することだろう……
遠き灯の一つ二つや月見草
「世界の事物を愛しながらひとは世界を
讃美することを学ぶ……
皿を待つナイフフォークや薔薇匂ふ
「言語の生命そのもののなかに深く入り
こんでいくような夢想をしなければなら
ない……
夕風の籐椅子二つあるばかり
「言語のなかで、言語によって誕生する
この想像力の現象……
夏草に砕けて赤き煉瓦かな
「命名された事物はその名前の夢想のな
かで蘇るであろうか。すべては夢想家の
夢想の感受性にかかっている……
りんどうの藍より濡らす山の雨
こうした俳句の一句一句が、ぼくたちを書かれた言葉の夢想家、つまり、ほんとうの意
味での詩の読者へと導いてくれることになるのは、やっぱり、間違いなさそう。
これから、この本のなかの700句で、復活するぼくたちの幼少時代をレベルアップさせながら、おそらくぼくたちの想像力を駆使して、言語の生命そのもののなかに深く入りこんでいくような「言葉の夢想」を、ぼくたちは、何度も、何度もくりかえすことになるのだもの。
「わたしたちは、自分たちの幼少時代に
溯る愛や愛着をそこにおかずには、水も
火も樹も愛することはできないだろう。
わたしたちは幼少時代によってそれらを
愛するのである。世界のこういう美のす
べてを、いまわたしたちが俳句作品のな
かで愛するとすれば、甦った幼少時代、
わたしたちのだれもが潜在的にもつあの
幼少時代から発して復活された幼少時代
のなかで、愛しているのである……
星を見に出て秋燈のおびただし
「わたしたちの幸福には全世界が貢献す
るようになる。あらゆるものが夢想によ
り、夢想のなかで美しくなるのである」
次第に覚醒させられることになる、幼少時代という〈イマージュの楽園〉における、世界の事物に対する遠い日の愛と感受性。
「ただ夢想だけがこういう感受性を覚醒
させることができる」
つまり、読みはじめた700句の俳句が、俳句はもちろん、ふつうの詩や、あるいは、短歌を読むときにも役立つ、あらゆる非―我(名詞)に対する新鮮な感受性を、素晴らしく育成してくれることになるのは間違いないこととして期待されるのだ。
最後にちょっと強調しておきたい。ごく一部の人たちをのぞくと、邦訳された2000ページを超えるバシュラールの著作を時間をかけていくら頑張って読みこんでみても、このぼくがそうだったようにエンドレスの堂々めぐりをするばかりで、これは本書のセールスポイントであり読み始めていただいた方の実感ともなるはずなので胸をはって言っておきたいのだけれど、『夢想=幸福のメカニズム』というアイデアと、それと、バシュラールの言葉の助力をえて次第に味わうことのできるようになるこの本のなかで利用させてもらっている俳句作品のポエジーのおかげで、この本のなかのバシュラールのすべて言葉に逆に生命が吹きこまれ最高のかたちで生かされることになるのだ。ぼくの「バシュラール・ノート」に書き抜いた200ほどの言葉があればそれだけで十分と思えるほどにも。
ちょっと分厚いようだけれどそれらの言葉がちりばめられたこの本を一生の宝物みたいに座右に置いて、気が向いたときに、時間をかけて、何度もくりかえし活用していただけたなら、人類史上最高の幸福を実現してしまつたひとの、そのバシュラール的幸福のおすそ分けを、だれもがたっぷりと受け取ることが可能になるだろう。バシュラールの何冊もの著作を頑張って読みこむことにくらべたら、最高に効率的なはずだし、結局は、なんという時間の経済だろう!
「きみはよく見た。だから夢想する権利
がある」
「そのとき世界とその夢想家はどんな新
しい連帯関係に入ることか。語られた
夢想は孤独な夢想家の孤独を世界のあ
らゆる存在に開かれた連帯関係に変容
させる」
「詩的言語を詩的に体験し、また根本的
確信としてそれをすでに語ることができ
ているならば、人の生は倍加することに
なるだろう」
「言語が完全に高貴になったとき、音韻
上の現象とロゴスの現象がたがいに調和
する、感性の極限点へみちびく」
「わたしは詩的夢想の詩学を樹立したい
のである。詩的夢想の詩学! これは大
きな野望である。むしろ大それた野望と
いうべきである。なぜなら、それは詩の
すべての読者に、詩人の意識をあたえる
ということにひとしいのだから」
ぼくの場合はバシュラールの著作をいくら
読みこんでみても詩人の意識をあたえられることはついになかったけれど、この本のなかの俳句を読むだけで、すべての読者に、ひととき、詩人の意識をあたえることが可能になったのではないだろうか。
手術後の休みを利用して(パート1)と(パート2)は一気にたくさん投稿できたのですが次回の(パート3)からは頑張っても週に一回くらいのペースになりますので、いま掲載されている10篇をなるべくゆっくり、じっくり読んでいただけたらなと思っております。