第19話:怖いの
あるカフェのテラス席に、アルキュオネとエレクトラは座っていた。例によって、二人の両側の席には、黒服の男が陣取っていた。
「……この間は……思わずぶってごめんなさい……」
落ち合ってからずっとそわそわしていたエレクトラだったが、席につくと早々に頭を下げた。黒服の男たちがチラリと彼女を見る。
「え? 誰を?」
アルキュオネは眉を顰めた。エレクトラは驚いて目を瞠った。
「覚えてないの?」
アルキュオネは苦笑した。視線を落とす。
「ごめん。エレクトラが怒ってたのは覚えてる。私、ぶたれたの?」
エレクトラは呆れたように息をついた。
「……もういいわ……」
紫茶が運ばれてきた。会話のないまま、二人はそれぞれのカップに砂糖やミルクを入れた。
かき混ぜた後、スプーンを置いたアルキュオネは、カップを持つことなく、両手をテーブルの上で組んだ。エレクトラはカップを口に運びながら、アルキュオネの言葉を待っていた。
「……私……この間、ロージェを傷付けたんじゃないか、って思って……」
ようやく相談を口にしたアルキュオネに、エレクトラはカップを置いた。
「そう思うなら、どうしてロージェに会いに行かないの?」
彼女の言葉に、アルキュオネは唇を噛んだ。
「……怖いの……」
エレクトラは苦笑した。
「ロージェが?」
「違うわ」
アルキュオネも苦笑した。
「私の選択が、まだ誰かを……ロージェを……傷付けるんじゃないかって」
そう言うと、アルキュオネは人々の行き交う通りに目をやった。ハンザ・ミルの大会があった日の、医務室でのエレクトラとの会話を思い出す。
「知らずに傷付けるより、知って傷付いた方がいい……」
眉間に皺を寄せた彼女は目を伏せた。
「……偉そうにそんなことを言ったけど、結局、私は……私が、一番ロージェを傷付けた……」
エレクトラは息をついた。
「触れ合うってそういうことでしょ?」
「……え?」
顔を上げたアルキュオネを、彼女は真っ直ぐに見据えた。
「傷付けることを怖がってたら、触れ合うことなんかできない」
翡翠色の視線に堪えられずに、アルキュオネは紫茶へと目を落とした。雲の天蓋を映す、赤紫色の表面を見つめる。
エレクトラの言うことは分かる。でも――
私は……触れ合いたいの?……
違う……私は、善意の人なんかじゃない……
「ラスティを尾行した時、何のためにって、エレクトラは聞いたよね?」
そう言ったアルキュオネは、エレクトラを見返した。眉根を寄せる。
「私はずっと、誰かの役に立ちたい、って思ってた。でも、聞こえはいいけど、結局、私はそれで、自分の価値を確認したいだけなの。自分が役に立つ人間なんだってこと、ここにいてもいいんだってことを確かめたいだけなの。身勝手な人間なのよ……」
肘を立てた両手の中に、アルキュオネは眉間を埋めた。
少し驚いた顔で、エレクトラはそんなアルキュオネを見つめていた。
やがて目を伏せると、再びカップを手に取る。
しかし、口をつける前に、エレクトラはそれを皿の上に戻した。
「……私は、別にあなたに何もしてもらってない。ああ、スイーツは奢ってもらったか……まあでも、それくらい」
手の中からアルキュオネが顔を上げるのを待って、エレクトラは続けた。
「……それでも、私はあなたが好きよ。ロージェも、きっとそうだと思う」
エレクトラは一度視線を落とした。
そして、もう一度、アルキュオネの瑠璃色の瞳を見つめる。
「役に立つから――役に立ったから、大切に思うわけじゃない。好きだから、大切なのよ」
エレクトラの言葉に、アルキュオネは目を見開いていた。
しかし、次第に視線が下がる。眉宇が翳っていく。
「一体、私のどこが好きなの?」
アルキュオネの言葉に、身を引いたエレクトラは腕を組んだ。
「そうね……よくレポートを忘れるところとか、尾行で変な変装するところとか、墓地で大騒ぎするところとか……そういうところは、あんまり好きじゃないかも……」
そう言うと、彼女は腕組みを解いた。少し身を乗り出す。
「……でも、そういうのを帳消しにしてくれる、笑顔が好きなの」
驚いて顔を上げたアルキュオネは、暫くの沈黙の後に、やがて苦笑した。
「それは……ただ単に、持って生まれたものでしょう?」
眉を上げたエレクトラは首を傾げた。
「いけないの? それは、あなたのものでしょう?」
私のもの?……それは、私のものと言っていいの?……
だって、それは、私の意志とは関係のないことじゃない……
考え込むアルキュオネの姿に息をつくと、エレクトラは紫茶を口に運んだ。街角に目をやる。
「ロージェは、今回のことで、あんたの従兄だけでなく、あんたも――両方とも失うんじゃないかって、言ってた」
アルキュオネは目を瞠った。
両方とも失う――それは、彼女が恐れていたことと同じだった。
ラスティだけじゃない。ロージェは、私を失うことも怖がっているの?……
困惑から抜け出せないアルキュオネに視線を戻すと、エレクトラは腕を組んだ。
「あんた達は、直接話すべきよ。私に言えるのはそれだけ」
そう言われて、アルキュオネは膝の上で両手を握り締めた。
ロージェに会うのが怖い……
傷付いた――いえ、傷付けた彼女の姿を見るのが怖い……
そして……
自分が、彼女にとって何の意味もない存在であることを思い知らされるのが怖い……
でも――
私が今できることは、それしかない――
「あ、あと、もう一つ」
エレクトラが言っていた。黒い眉をたわめると、心配そうにアルキュオネの顔を覗き込む。
「アーネ、あなたは一体、何を抱えているの?」
アルキュオネは小さく息を飲んだ。
今までに出来たどんな親友にも話せていないこと――
その存在すら、誰にも悟られないようにしてきたこと――それを覗かれたような気がして、心が俄かに硬直する。
目を閉じたアルキュオネは、一際ゆっくりと息を吐いた。喉が微かに震える。
「ごめん。話せるようになったら、話すわ」
目を合わせないまま、微かに微笑んで、アルキュオネは答えた。
「……そう……」
暫くの沈黙の後、そう言うと、エレクトラは再び街角の賑わいに目をやった。
「紫茶、冷めるわよ」
エレクトラに促されて、ハッとしたアルキュオネは紫茶を口にした。それはいつもより少し甘く、そして驚くほどぬるかった。
その時だった。街の喧騒が一段と大きくなった。
「号外! 号外!」
通りを歩く人々に号外を押し付けながら、新聞売りが走ってくる。
アルキュオネは身を固くした。思わず耳を塞ぐ。
「号外はもうたくさん!」
彼女の反応にエレクトラは眉を顰めたが、それでも次の瞬間には立ち上がっていた。
「良し悪しに関わらず、情報は速やかに入手すべきよ」
そう言うと、通り側に座っていた彼女は、新聞売りに近づいて号外を受け取った。
それに目を落としながら、席へと戻って来る。
しかし、彼女は足を止めた。大きな目が更に見開かれ、顔色が青ざめる。
エレクトラの様子に、アルキュオネは思わず両手で顔を覆った。
もういい!……もういいから!……
エレクトラは急にアルキュオネへと駆け寄った。
「アーネ! これを見て!」
顔を覆う彼女の前に、号外を差し出す。
号外が微かに震える音を聞きながら、アルキュオネは、ゆっくりと手を下ろした。全身が震えるほどの鼓動を感じる。
……ああ、神様、どうか!……
『神節典、改竄か?! ダイリット・サールは、恐怖の大魔王ではなかった?』
衝撃の見出しに、アルキュオネは目を見開いた。
『神節典の原版を所有していた、第三の弁護人であるリューダー司祭によると、現在の神節典二七三章は、数百年前に聖摂院によって改竄されており、ダイリット・サールとは、本来、天から舞い下りる<新たな時代の門を開く者>を意味していたという。加えて、司祭は、神節典には、<空を飛ぶことは罪である>とはどこにも記載されていないと主張し、法廷は大混乱に陥った……』
号外を手にしたアルキュオネは、思わず立ち上がっていた。何度も紙面を読み返す。
ラスティは、恐怖の大魔王じゃない?!……
「……銛が……刺さった!……」
驚愕の表情で、彼女は呟いた――




