俳句 楽園のリアリズム(パート2-その1)
さてきょうも素晴らしいポエジーとの出会いを求めて俳句を読んでいってみよう。
人生における極上の喜びのうち、旅情のほうは旅に出てご自分の身をもって体験していただくしかないけれど、ポエジーなら、この本のなかの俳句を読んで実際に味わっていただくことができるはずだ。散歩のような小さな旅でたっぷりと旅情を満喫したうえに、この本のなかで、俳句のイマージュでポエジーに出会い、ポエジーを味わうことを自分のものにすることできたなら、ぼくたちの人生は数倍は幸福なものになるにちがいない。それは、確実なこととして約束されていることになるだろう。
旅と俳句で、あるいは、約束どおり、多少ハンディはあっても旅抜きの俳句だけでも、ぼくたちはこれから、だれもが最高と思えるような人生を手に入れることになるのだ。
「わたしたちを幼少時代につれもどす夢
想がなぜあれほど魅惑的で、あれほどた
ましいにとって価値あるものとみえるのか」
人生の黄金時代、この世の楽園ともいうべき幼少時代の、あの、100%の《美》、100%の幸福こそが、旅情やポエジーの遠い源泉なのだった。復活するぼくたちの幼少時代のレベルに応じてという条件はつくけれど、そうした完璧な美や幸福の何%分かを、旅情やポエジーは、この人生に確実にもたらしてくれるはずなのだ。
「この美はわたしたちの内部、記憶の底
にとどまっている」
「わたしたちの幼少時代はすべて再想像
されるべき状態にとどまっている」
前にも言ったように、始まりがあり終わりがある人生だからこそ、始まりのあの幼少時代の楽園のような世界があったのであって、旅情やポエジーというかたちで、ぼくたちはその幸福をもう一度味わいなおすという、この人生における至福を体験できるのだ。せっかく始まりと終わりのある人生に生まれて、それだからこそ味わうことのできるこの最高の快楽を味わわないで終ってしまうとしたら、せっかくの人生、あまりにももったいない。
「何ごとも起こらなかったあの時間には、
世界はかくも美しかった。わたしたちは
静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの
である」
世界が美しくなくなってしまったいまでも夢想ということを再開することができれば、そうした最高の幸福=快楽を、ぼくたちだれもが、例外なく、この人生で追体験することが可能になるはず。
「最初の幸福にたいし感謝をささげなが
ら、わたしはそれをふたたびくりかえし
てみたいのである」
これが『夢想の詩学』の第3章「幼少時代へ向う夢想」結びのバシュラールの言葉だった。
「わたしたちの過去への夢想、幼少時代
を探し求める夢想は、実際には起こらな
かった生に、想像された人生に、生命を
ふたたびもたらすように思われる。夢想
のなかで、わたしたちは運命が利用でき
なかったいろいろの可能性と接触する」
「実際の幼少時代を想起するよりも、夢
想のなかで幼少時代を思い起こそうとす
ると、わたしたちは幼少時代のさまざま
な可能性をよみがえらせることができる。
わたしたちの幼少時代がそうでありえた
かもしれないあらゆることを夢想し、歴
史と伝説の境目まで夢想をのばすことが
できる。わたしたちはみずからの孤独の
思い出にふれるために、孤独な子供にす
ぎなかった自分たちの世界を理想化する
のである」
「しかしこのイマージュは原則として完
全にわたしたちのものであるとはいえな
い。それはわたしたちの単なる思い出よ
りもっと深い根をもつからである。わた
したちの幼少時代は人間の幼少時代、生
の栄光に達した存在の幼少時代を証言し
ているからである」
こんなバシュラールの言葉があるように、それをふたたびくりかえしてみたいと思ってもだれも最初の幸福のことなんてぜんぜん覚えていないわけだし、ぼくたちの幼少時代が実際に100%の《美》による100%の幸福で満たされていたかどうか、つまり、実際に楽園みたいだったかどうかなんて、そんなことは、どうだっていいことなのだった。
そう、だれもの内部に残存している「幼少時代の核」があらわになった状態で、イマージュを受けとりながらそうでありえたかもしれない理想化された幼少時代を思い起こす、その単純なプロセスのなかに、ぼくたちに最高の幸福=快楽を体験させてしまうメカニズムみたいなものがひそんでいるとしか考えられない。まさに、夢想のメカニズムが。
詩人たちの作品とあるところを俳句作品に変えてしまったつぎのバシュラールの文章も、そうしたメカニズムの存在を証明し、そうして、ぼくたちのやり方の正当性と有効性を完全に保証してくれていることになるだろう。
「俳句作品を読むことによって、しばし
ばたった一句の俳句のイマージュの助け
によって、わたしたちの内部に、もうひ
とつの幼少時代の状態、わたしたちの幼
い頃の思い出よりももっと昔へと遡る幼
少時代のある状態を甦らせることが可能
になるだろう……
山鳩よみればまはりに雪がふる
だから、なんとしてもぼくたちの内部に残存しているはずの「幼少時代の核」をあらわにしてしまうこと。それだけが、夢想するための、つまり、イマージュの助けによって旅情やポエジーを味わうために必要にして十分な、ただひとつの条件なのだった。
「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ
らゆるバリエーションはとりもなおさず、
わたしたちのなかにある幼少時代の核が
休みなく活動している証拠なのである」
「わたしたちの幼少時代の宇宙的な広大
さはわたしたちの内面に残されている。
それは孤独な夢想のなかにまた出現する。
この宇宙的な幼少時代の核はこのときわ
たしたちの内部で見せかけの記憶のよう
な働きをする」
旅情は旅に出て身をもって体験していただくしかないなんて言ったけれど、じつは、ほんとうを言うと、旅先で作られたような俳句を読むだけでも、部屋のなかで(つまり、この本のなかで)わざわざ旅になんか出なくたって、この極上の喜びを味わえてしまえそうな気がする。
そうだとすると、映画で味わった旅情だってぜんぜんかまわないと思うけれど、過去の旅とかですでに旅情を味わったことのあるほとんどの方にとっては、約束どおり、いまさら旅になんか出なくたって、旅先で作られたと思われる俳句を読んで部屋のなかで旅情を味わってしまうのが、俳句で本格的なポエジーを味わうための最初のきっかけになってくれるかもしれない。
『夢想のメカニズム』についてシンプルにまとめたメモのなかでは……ひとたび「幼少時代の核」が復活すると、目にする世界や過去の記憶や詩の言葉が、幼少時代の夢想を再現させる美的機能をもったイマージュとして「心の鏡」に映し出され、ぼくたちはそうしたイマージュによって幼少時代の幸福な夢想をそっくり真似することになり、心は、幼少時代の夢想の幸福、宇宙的幸福、ポエジーで満たされる……というふうに、旅先で味わう旅情もふくめて、大人になって追体験する幼少時代の夢想の幸福を、ポエジーという言葉で代表させておいた。
それというのも、旅情とポエジーって、体験する「場」がちがうだけで、おなじように幼少時代の並はずれた宇宙的幸福を遠い源泉とする、ほとんどおなじ喜びの感情なのではないかと思われるから。
面倒くさい言葉なんかをとおさなくたって、旅に出るだけで、その旅先でだれもが比較的簡単に味わうことのできる詩よりも純度の高い詩情。それこそが、まさに、旅情というものにほかならないのだった。
「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代
の思い出は、まちがいなくたましいの奥
底での〈幻想の聖歌〉なのである」
「ポエジー、美的なあらゆる歓喜の絶頂」
旅先で作られたと思われる俳句を読んで旅情を味わってしまうことに成功するなら、それがきっかけになって、わざわざ旅になんか出なくたって、部屋のなかで、この本のなかの俳句を読んだり、そのうちふつうの詩を読んだりするだけでも、旅情にも負けない人生の至福をぼくたちはほとんど毎日のように味わえるようにだってなるはずだ……。まあそれはこれから徐々にということで、とりあえずは俳句で旅情が味わえるか試してみよう。
たとえばこんな高浜虚子の俳句。あわただしい日常から完全に解き放たれた、ゆったりした時の流れのなか、しみじみとした旅の孤独に身をまかせて、枯れ果てたさびしい野の道をひとりさすらう旅人。ふと遠くの山に目をやると、そこにだけ雲間からこぼれる陽があたっていて、神々しいほどに美しい。心のなかの湖面のようなどこかがとらえた、旅先の、美しいひとつの風景。
旅人の心になりきって5・7・5とゆっくり言葉をたどってみれば、そこに見えてくるのは、旅情を誘う旅先のひとつの風景……
遠山に日の当りたる枯野かな
旅人の目に映ったひとつの風景。いつか遠い昔、遠い旅先で眺めたことがあるような、そんな気のするどこかなつかしくて美しい風景を、俳句の言葉をとおしてしっかりと目にすることができたのではないだろうか。
まあ、気持よく晴れわたって遠くの山々にもお日さまが当たっている単純な景とも、朝日か夕日を受けてその日最初か最後の輝きを見せている風景とも、どちらにもとれるけれど、ぼくの心に浮かんだのは、映画でこんなシーンを見たことのある影響なのだろうか、雲間からこぼれる陽ざしを受けている風景だった。最初に浮かんだ情景だけが、ぼくたちにとってはその俳句の唯一の詩的情景となるのだから、こればかりはどうしようもない。
限定性が少なくてどうとでもとれる範囲内であるなら、好きなように詩的情景を思い描く自由が許されているのは、俳句だけのもつ魅力だといっていいだろう。
つぎの、700句のうちの1句目として、はじめに読んだ大井雅人の句。
海と坂晩夏まぶしき港町
前の高浜虚子の句にしてもそうだけれど、作者の虚子や雅人そのひとというよりも、なんて言ったらいいか、作者も読者もふくめた(変な言い方かもしれないけれど)名前をつけて区別する必要のない普遍的な旅人が目にした風景。旅に出ればだれもがおなじものとして眺めることになる、遠い日の記憶がよみがえってくるような、そんな、なつかしくて美しいイマージュとしての風景。俳句がくっきりと浮き彫りにしてくれているのは、そんな、旅人ならだれもが目にする、なつかしくて美しい、旅先の風景のイマージュだといっていい。
精神などのまだ発達していない、幸福な孤独のなかで夢想する子供の魂には、まだ大人のようにきわだった個性などあるはずがない。というか、大人にしても精神とちがってその魂は、旅先でめざめる旅人の魂を考察してみれば分かることだけれど、だれもがおなじものとして共有するものであって、もともと名前をつけて区別したりする必要のない普遍的なものなのかもしれないのだ。
「夢想は精神の欠如ではない。むしろそ
れはたましいの充実を知った一刻からあ
たえられる恩恵なのである」
まあ、話がややこしくなるのでいまの段階では精神と魂の違いなんてどうでもいいけれど、精神だけが支配しがちな現代人の心のなかに、真似をしてひらがな表記をしてしまいたくなるような、風のように軽やかで自由なほんとうのたましいを呼びもどすためには、これもやっぱり、旅先とかでぼくたちの幼少時代を何度も復活させることがいちばん有効なのかもしれない。
「孤独な子供がイマージュのなかに住む
ように、わたしたちが世界に住めば、そ
れだけ楽しく世界に住むことになる。子
供の夢想のなかではイマージュはすべて
にまさっている。経験はそのあとにやっ
てくる。経験はあらゆる夢想の飛翔の抑
制物となる。子供は大きく見るし、美し
く見る。幼少時代へ向う夢想は最初のイ
マージュの美しさをわたしたちに取り戻
してくれる。世界は今もなお同じように
美しいだろうか」
宇宙的な孤独のなかで幸福な夢想にひたっていたその後のさまざまな不幸な経験が、魂や感性を後退させて精神や知性を形成することになるのではないか。精神や知性などというものが発達して、人間としての個性が豊かになるほど、ひとは、幼少時代の<イマ―ジュの楽園〉から次第に遠ざかり、子供の心を完全に失うと同時にそこから永久に追放されることになるのだ、きっと。
「経験はあらゆる夢想の飛翔の抑制物と
なる」
「何ごとも起こらなかったあの時間には、
世界はかくも美しかった。わたしたちは
静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの
である」
「孤独な子供がイマージュのなかに住む
ように、わたしたちが世界に住めば、そ
れだけ楽しく世界に住むことになる。子
供の夢想のなかではイマージュはすべて
にまさっている」
何ごとも起こらない(ただ単調なだけと感じる方もいるかもしれないけれど)散歩のような小さな旅に出て街のなかや住宅街や田舎道をぶらぶら歩きつづけるだけでも、旅というものの特性が「旅の孤独」をごくしぜんと子供のころの「宇宙的な孤独」へと移行させてしまうから、そこではぼくたちの幼少時代もまたしぜんと復活してしまうことになるから、それだけで、ぼくたちはそこを旅先と感じることができる。だれもがおなじものとして共有する幼少時代を旅先で復活させることのできたものだけが旅人の名にふさわしい。
「しばしばわたしたちが幼い頃へと導く
坂道を降りていくことは、偶然として片
づけられることではないのである」
「わたしたちは名前のついていない幼少
時代、生の純粋な水源、最初の生、最初
の人生に到達する。しかもこの生はわた
したちの内部にある ーもう一度強調し
ておこうー わたしたちの内面に残存し
ているのだ」
それだから、旅先で、心地よい旅情にひたっているとき、ぼくたちは、自分の個性や名前などきれいさっぱり捨てさって、あわただしい毎日の生活から完全に解き放たれた普遍的な無名の旅人になりきっているはず。旅人の心とは、まさに、旅先でめざめた名前をつけて区別する必要のない普遍的な子供の心。
もちろん、子供の心に逆戻りできるわけもなく、正確には、子供のころに夢想なんかしていた(らしい)ときの心のある状態でもって旅先の風景や事物を眺めるということになるのだろうけれど、ぼくたちにとって大切なのは単純化してしまうことなのだから、まあ、そんなことはどうでもいいことだろう。
「幼少時代はひとつのたましいの状態で
ありつづけている」
俳句を読むときもまったくおなじで、最高に素晴らしいポエジーに出会えたとき、そんなことを意識しなくたって、ぼくたちだれもが、名前をつけて区別する必要のない普遍的な幼少時代のたましいの、夢想なんかしていた(らしい)ときのそのある状態だけをしっかりと復活させてしまっているはず。
どのような詩にもまして俳句はぼくたちを強引に夢想に誘ってくれるので、詩とあるところを俳句とかに勝手に書き換えた(だって、詩なんかより俳句に変えてしまったほうが、絶対、ぼくたち日本人にとってはより真実となってくれるだろうから)もう何度も引用させてもらっているつぎの文章は、やっぱり、俳句のイマージュのものすごい可能性をぼくたちに教えてくれることになるようだ。
「俳句作品を読むことによって、しばし
ばたった一句の俳句のイマージュの助け
によって、わたしたちの内部に、もうひ
とつの幼少時代の状態、わたしたちの幼
い頃の思い出よりももっと昔へと溯る幼
少時代のある状態を甦らせることが可能
になるだろう……
土曜日の光る燕に追い越され
思いきった言い方をしてしまうと、俳句にとって作者など余計な存在なのだ。一句の背後に作者などを思い浮かべてしまったら、せっかく俳句形式が召喚してくれた普遍的な子供のたましいも、どこかに姿をくらましてしまうことになるだろう。(そうは言っても、加藤楸邨みたいに一句の背後からなかなかどいてくれないような気のする作者も少なくはないのだけれど)
「夢想のなかには非常に深い夢想があっ
て、そういう夢想がわたしたちを自己の
なかのきわめて深いところに運んでいき
わたしたちを自己の歴史から解放する。
これらの夢想はわたしたちを自分の名前
から自由にする。これらの夢想はわたし
たちの現在の孤独を人生の最初の孤独へ
とつれていく」
夢想するための理想の状態は、自分の名前から自由になって、ちっぽけな自分の個性などからも解き放たれて、だれもがおなじものとしてその記憶を共有する、名前をつけて区別する必要のない普遍的な幼少時代を復活させることによって実現されるだろう。
バシュラールがよく使うぼくたち大人の孤独とは、ちょうど旅先における孤独とおなじように、日常の生活から完全に脱け出して自分の名前から自由になった、夢想の理想状態への前段階をさす言葉だったのかもしれない。
そうしたバシュラール的孤独に類似した旅の孤独が、ぼくたちを、幼少時代の孤独、人生最初の孤独へとつれていくことを偶然として片づけることなどできはしないのだ。
「何ごとも起こらなかったあの時間には、
世界はかくも美しかった。わたしたちは
静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの
である」
世界がまだかくも美しかったときの、静謐な夢想の世界のなかにいたときの、名前をつけて区別する必要のない宇宙的な子供のたましいの中心部を、バシュラールは「幼少時代の核」という言葉でとらえているのだった。
だれもの内部に確実に残存しているとバシュラールの教えてくれた「幼少時代の核」が5%でもあらわになれば、それを中心にして、幼少時代に夢想なんかしていた(らしい)ときの宇宙的なたましいの状態が5%だけよみがえり、そうして、5%分だけあらわになった湖面のようなどこかでイマージュをぼんやり受けとめるだけでも、あの、静謐な世界、夢想の世界、つまり、永久に追放されていたはずの幼少時代の<イマージュの楽園>が(おそらく、5%程度ではその記憶ばかりがほんの少し)よみがえることになるのは、明らか。
復活する幼少時代にもレベルのようなものがあると考えると、やっぱり、いま味わっているそれほどでもないポエジーが、そのうち、バシュラールの言うような、このうえない極上のポエジーにレベルアップするかもしれない、という希望をあたえてくれるようだ。
「わたしたちの夢想のなかでわたしたち
は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた
たび見るのである……
六月や風の行方の花しろし
「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ
らゆるバリエーションはとりもなおさず、
わたしたちのなかにある幼少時代の核が
休みなく活動している証拠なのである」
復活するぼくたちの幼少時代のレベルに応じてという条件はつくけれど、いずれにしても「幼少時代の核」があらわになったそこで、つまり、旅先や、あるいは、俳句作品を前にしてこの本のなかで、この世で味わうこともまれな極上の喜び、そう、旅情やポエジーといった詩的なバリエーションを、この本を手にしていただいたどなたにも、これから、たっぷりと味わっていただく予定なのだ。人類史上最高の幸福を実現してしまったバシュラールというひとに手助けしてもらいながら。
「湖の水に映った木のイマージュは現実
の情景の夢みられたイマージュそっくり
であった」
「わたしたちの夢想のなかでわたしたち
は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた
たび見るのである」
なぜといって「幼少時代の核」があらわになったとき、旅先や俳句作品を前にしたそこでぼくたちが受けとめるのは、幼少時代の色彩で彩られた世界。おなじことになると思うけれど、湖の水に映った木のイマージュみたいな、現実の情景の夢みられたイマージュそっくりのイマージュたちでなければならないのだから……
みづうみにいろをふかめて春の山
「この反映によって運ばれてきた色彩は、
すでに理想化された世界の色彩である」
やっぱり、ぼくたちの心のなかには、湖面のようなどこかが隠されていたとしか考えられない。そうして子供のときにそうだったように、そこは、だれもがおなじものとして共有する普遍的なところであって、ひとによって違いなどあるはずはない。
「のちにその幸福は旅人や俳句の読者の
幸福となるであろう」
そこでもって、幼少時代の色彩で彩られたイマージュを受けとめれば、きまって、遠い日の記憶が呼びさまされ、はるか時間の彼方、ぼくたちは〈イマージュの楽園〉における宇宙的とまでいわれる最初の幸福を、だれもが公平に、もちろん例外なく、素晴らしく追体験してしまうことになる、はず。
「子供のすべての夢はポエジーの飛翔を
十分におこなうようにもう一度みなおさ
れるべきである」
磨き抜かれた感受性だの、研ぎ澄まされた感受性だのによらなくたって、世界に向かって開かれた、子供のころの素朴な感受性(つまり「心の鏡」だ)さえ取り戻せれば、俳句による言葉の夢想のなかでも、だれもが、最高の《美》を味わうことができるのだ……
むらさきに明けゆく闇や春の雨
人間の不幸とは、個性だとかオリジナリティーだとか新しさだとかいったことにあまりにもこだわりすぎることにもあるようだ。短歌にとってはなによりも大切な作者の個性も、俳句にとって、少なくともこの本のなかで読んでいく俳句にとっては邪魔っけなだけだということは、これから俳句のポエジーを深く味わえば味わうほど、だんだん分かっていただけるようになるのではないかと思う。
だって、それこそが、ぼくたちが発見した俳句というものの本質でなければならないのだから。俳句に作者の個性を求めることは、やっぱり、俳句の本質から遠ざかることとしかぼくには思えない。俳句のイマージュがもたらしてくれるものこそ、個人の感性などを超えた、遠い日の〈イマージュの楽園〉における宇宙的幸福の、その数限りないバリエーションにほかならないのだから。
「幼少時代は深層心理学のいう方式その
ままのかたちで、あたかも本当の原型、
単純な幸福の原型としてあらわれる」
「人間を世界に結びつける原型、人間と
世界との詩的調和をあたえる原型」
幼少時代とは、まさに、世界との詩的調和をぼくたちにあたえてくれる、幸福の原型。
「このイマージュは原則として、完全に
わたしたちのものであるとはいえない。
それはわたしたちの単なる思い出よりも
っと深い根をもつからである。わたした
ちの幼少時代は人間の幼少時代、生の栄
光に達した存在の幼少時代を証言してい
る」
生の栄光に達した存在の幼少時代とは、人生の黄金時代、遠い日の<イマージュの楽園>をさす言葉と考えてもいいだろう。バシュラールの言葉に触れてだんだん見えてきたことだけれど、俳句のイマージュとは、ぼくたちのたんなる思い出よりもっと深い根をもつものなのかもしれないのだ。
たとえば、海図なんてものを子供のころ見たことなんかないはずなのに、それでも、つぎの句が、生の栄光に達した存在の幼少時代をなぜか呼びさましてしまうように……
りんご置く風にとびたちそうな海図
湖面のようなどこかがあらわになった状態で読むことになる俳句だけは、見かけの個性だのオリジナリティーだの新しさだのに関係なく、幼少時代という<イマージュの楽園>の事物たちそのまままのイマージュをぼくたちにとどけてくれる……
行く汽車のなき鉄橋の夕焼くる
作者の精神や知性や個性や言葉の意味性によって蝕まれていない、新鮮で甘美な、楽園の果実のようなイマージュを……
村役場までアカシアの花の道
「幼少時代の世界を再びみいだすために
は俳句の言葉が、真実のイマ―ジュがあ
ればいい。幼少時代がなければ真実の宇
宙性はない。宇宙的な歌がなければポエ
ジーはない。俳句はわたしたちに幼少時
代の宇宙性をめざめさせる……
星が降る剪定終へし林檎園
これも詩人とあるところを勝手に俳句に変えて引用させてもらったけれど、遠い日の<イマージュの楽園>の事物たちとまったくおなじ色彩で彩られたイマージュだけで出来あがっていて、ぼくたちの幼少時代の宇宙性をしぜんとめざめさせてくれる、考えうる最高に理想的な詩。それこそがまさに、俳句という一行詩なのだ。
「ひとのたましいは幼少時代の価値に決
して無関心ではない」
そう、一句一句のなかに、だれもがたやすく幼少時代の世界をふたたびみいだすことのできる俳句が、どのような詩にもまして純粋なポエジーをぼくたちに味わわせてくれることになるのは、やっぱり、間違いなさそうだ。
至純にして至福、本格的な極上のポエジーだけを、だれもが比較的簡単に味わえるような詩は、俳句をおいてほかには考えられない。
学校教育とかで、作者の思想だの創作の意図だのテーマだのを読み解くことを、ぼくたちはどれほど強いられてきたことか。俳句にとっては、そんなこと、どうだっていい。そう言い切れる気楽さは、最高だ。そんな気楽さでむきだしのイマージュだけを味わっていけるのが、俳句だけのもつ魅力。風景画とかの絵画のように文学的な重苦しさから完全に解放されているのが、俳句のたまらない魅力なのだ……
船を生む水平線や春の海
一句一句の俳句を読んでポエジーを味わうために必要なのは、だれもがおなじものとして共有する「幼少時代」と、これもまただれもがおなじものとして共有する「世界」の記憶だけ。たったそれだけで、俳句でなら、だれでも簡単に、しかもだれもがうれしくなるほど公平に、ポエジーというこの世の至福を味わうことができるはずなのだ。(まあ、これも復活する幼少時代のレベルによることで、ほどほどのポエジーなら、何回か旅に出ただけのいまの段階でも、あるいは、過去の旅の記憶を上手に生かすことができれば、そのうち、絶対、確実に)
「単純なかたちのイマージュは学殖を必
要としない。イマージュは素朴な意識の
財なのだ」
その事物にまつわる思い出には個人差があるとしても、単純な、俳句のイマージュを作りあげる船や水平線や春の海やタンポポや馬車の感覚的な記憶に個人差などというものは考えられないのだし、この本のなかの700句でポエジーを味わうためには十分な、ありあまるほどの世界の記憶を、すでに、ぼくたちだれもが公平に自分の素朴な〈意識の財〉としているはず。
「きみはよく見た。だから夢想する権利
がある」
このことに、ぼくたちは、もっと自信をもつていいのだ。つまり、だれもが知っている普遍的なあらゆる名詞が、俳句を読むときには、ぼくたちひとりひとりにとって、きわめて個人的な詩的財産として役立ってくれるはずなのだ、と……
蒲公英の暮色に下りぬ馬車の客
「幼少時代はひとつのたましいの状態で
ありつづけている」
どのようなやり方であれ、だれもの心のなかにおなじように残存しているはずの、遠い日に宇宙的幸福にひたっていた(らしい)ときの、宇宙的なたましいのある状態を復活させてあげること。やっぱり、それがすべて。
「構成のみごとな完全な詩をつくるには、
精神があらかじめ草案をえがく必要があ
ろう。しかし単純な詩的イマージュには、
草案はない。必要なのはたましいの運動
だけ。一つの詩的イマージュによって、
たましいはその現存を告知する……
雪解けの光に濡れし胡桃の木
「夢想は精神の欠如ではない。むしろそ
れはたましいの充実を知った一刻からあ
たえられる恩恵なのである……
三月の峡やいづこも水走り
「夢想はたましいの世界をあたえる……
駅を出て骨董屋まで春みぞれ
「ひとのたましいは幼少時代の価値に決
して無関心ではない……
牛も聞きゐる雪解雫の奏でる音
「俳句作品を読むことによって、しばし
ばたった一句の俳句のイマージュの助け
によって、わたしたちの内部に、もうひ
とつの幼少時代の状態、わたしたちの幼
い頃の思い出よりももっと昔へと遡る幼
少時代のある状態を甦らせることが可能
になるだろう……
落葉松が立つ寒明けの星空へ
「わたしたちの夢想のなかでわたしたち
は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた
たび見るのである……
渓流の響きにふるへ辛夷散る
「俳句のひとつの詩的情景ごとに幸福の
ひとつのタイプが対応する……
花辛夷信濃は風の強き国




