俳句 楽園のリアリズム(パート1・完結ーその5)
今回はパート1のおしまいとなる「俳句楽園のリアリズム(パート1ーその5)」をおとどけします。
この、第一回目の「俳句パート」をここまで読んでいただいただけでも、楽園の果実か、なるほどと、なんとなく古くさい感じのする俳句のイメージが、すっかり塗り替えられたことに意外な思いをされた方も少なくはないのではないだろうか。
さらに、俳句にふさわしそうなバシュラールの言葉をいくつか紹介させてもらって、これからどっさり読んでいくことになる俳句が、もしかしたらほんとうに世界一すぐれた詩型なのかもしれないという思いを、決定的なものに変えてしまうことにしよう。
「われわれは断片を通してしか詩の衝撃
を受け入れることはできないのである。
断片だけがわれわれに見合っている」
「イマージュは孤立のなかにあってはじ
めて一切の力を発揮できるのだ」
「宇宙的な語、人間存在にものの存在を
あたえる語がある。だからこそ詩人は『
宇宙を閉じこめるためには文章のなかよ
りも一語のなかの方が容易である』とい
うことができた。語は夢想により、無限
なものになりかわり、最初の貧弱な限定
を棄ててしまう」
「ときにはイマージュが単純であればあ
るほど夢想はますます大きくなる」
「単純なかたちのイマージュは学殖を必
要としない。イマージュは意識の素朴な
財なのだ」
「この孤独の状態では、追憶そのものが
絵画的にかたまってくる。舞台装置がド
ラマに優先する」
「いっさいの意味への気遣いに煩わされ
ることなく、わたしはイマージュを生きる」
「意味作用に対する隷属から解放された
言葉」
「静謐さの勝利、世界への信頼の頂点で
ある詩的夢想」
いくらでもノートから書き抜くことができるけれど、もうひとつ「一行の詩の小箱」なんていうのもある。これらの引用文は、たくさんの行の連なった、言葉の意味作用に満ち満ちたふつうの詩に対して言われているのだから、驚かないではいられない。まるで、俳句の特性とその魅力について述べられているような気がしてこないだろうか。
どうやらバシュラールは、詩の全体なんかよりも、旅先の風景をのんびりと眺めるように、道草をくうみたいにして一行一行の詩的なイマージュを味わうことを愛したらしい。
「夢想家の語ることばは『世界』の名詞
となる。名詞たちは大文字に接近する。
すると、『世界』は大きくなり、世界を夢
想する人間は『大きく』なる。イマージ
ュのなかでこのように大きくなることは、
しばしば理性的人間にたいする抗議なの
である。それは詩人が詩的陶酔を理性的
人間に打ち明けてみるだけで十分であろ
う。理性的人間はおそらく陶酔という語
でひとつの抽象語を作りながら理解する
にちがいない。しかし詩人は、陶酔が本
物であるために世界の盃で飲むのである。
もう隠喩では詩人は満足しない。詩人に
はイマージュが必要なのである」
一篇全体の人間的なドラマよりも背後の舞台装置としての「世界」や、まあ、俳句ではなくてふつうの詩を読んでいたのだから、ぼくたちみたいに「世界」を写生した絵画のように美しい詩的情景だけを味わうというわけにもいかず、言葉の意味作用が作りあげるもっと複雑で文学的な詩的イマージュを断片的にとらえて味わうことを愛したらしくて、事実、バシュラールは個々のイマージュの美しさに心を奪われてしまって、詩の全体の構成なんてどうでもよくなってしまった、みたいなことをどこかで言っていたように思う。
「(そのイマージュが)詩の構成上いかな
る位置と役割をしめているかを決定する
ことは、二次的な作業である」
「われわれは断片を通してしか詩の衝撃
を受け入れることはできないのである。
断片だけがわれわれに見合っている」
フランス語で俳句を書けるわけもなく(名詞や動詞に助詞や助動詞がくっつくだけで、少ない語数で、じつに多くを意味してしまう日本語だから、俳句や短歌という短詩がきっと可能になるのだろう)ありえない仮定だけれど、バシュラールがもしも俳句を読む機会があったとしたら、たった2、3の世界の断片だけで作られていて、幼少時代の世界を思わせるようなひとつの美しい詩的情景だけがあらわになった、俳句という単純でいて奥深いこの一行詩を、絶対、心から愛さないではいられなかっただろう、とぼくは思う。先ほどたくさん引用させてもらった言葉のすべてがそのことを証明しているだろう。
「一行の詩の小箱」
一篇の詩の全体から切り離された一行の詩の断片と、たったの一行でひとつの完結した世界をしっかり表現してしまっている俳句と。おなじ一行でも、この違いは大きい。
俳句こそ、ぼくたちを陶酔にさそう名詞の詩。一行だけで完結した、小さなイマージュの宝石箱。本格的な極上のポエジーだけを、手軽に、もっとも純粋なかたちで味わわせてくれる、まさに、この世の至宝。(ああ、俳句のある日本に生まれてほんとうによかった)
「夢想家の語ることばは『世界』の名詞
となる。名詞たちは大文字に接近する。
すると『世界』は大きくなり、世界を夢
想する人間は『大きく』なる。(中略)し
かし詩人は、陶酔が本物であるために世
界の盃で飲むのである。もう隠喩では詩
人は満足しない。詩人には(ぼくたちに
も!)イマージュが必要なのである」
たとえば自然詠と呼ばれる「世界」だけを詠んだような短歌もあるけれど、短歌は一首の背後に俳句とちがってその作者を意識させてしまうので、ぼくなんかどうしてもそこにそれを詠まずにいられなかった人間の、人生的なドラマ、つまり、記憶の彼方の〈楽園の時〉ではなくて、その歌人の、なつかしくて愛すべき〈人生の時〉を感受してしまう(もちろん、それが短歌のたまらない魅力でもあるのだけれど)。
世界中どこを探したって、舞台装置が人間的なドラマに優先していて、しかも、たったの一行で完結しているような理想的な詩は、俳句をおいてほかには、たぶん、みつからないのではないだろうか。
「何ごとも起こらなかったあの時間には、
世界はかくも美しかった。わたしたちは
静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの
である」
俳句は、人間的なドラマが始まる以前の、静謐な夢想の世界、幼少時代の色彩で彩られた<イマージュの楽園>そのままの世界を、5・7・5と言葉をたどるだけで、くっきりと、こんにも美しく浮き彫りにしてくれる……
雪解けの光に濡れし胡桃の木
牛も聞きゐる雪解雫の奏でる音
青柳志解樹が中身をこさえた、小さな、一行のイマージュの宝石箱……
落葉松が立つ寒明けの星空へ
駅を出て骨董屋まで春みぞれ
「いっさいの意味への気遣いに煩わされ
ることなく、わたしはイマージュを生き
る……
三月の峡やいづこも水はしり
渓流の響きにふるへ辛夷散る
「幼少時代の世界を再びみいだすために
は、俳句の言葉が、真実のイマージュが
あればいい。幼少時代がなければ真実の
宇宙性はない。宇宙的な歌がなければポ
エジーはない。俳句はわたしたちに幼少
時代の宇宙性をめざめさせる……
星が降る剪定終へし林檎園
花辛夷信濃は風の強き国
「断片だけがわれわれに見合っている」
最後に、日野草城の作品をとりあげて、ほんのちょっとだけ俳句の勉強みたいなことをしてみたいと思う。
つまり、そう、まさに、俳句が、小さな、一行のイマージュの宝石箱にほかならない、というそのことを。
「意味作用に対する隷属から解放された言葉」で作られていて「いっさいの意味への気遣いに煩わされずにイマージュを生きる」ことのできる「単純」でいて奥深い、ことにもポエジーをはじめて味わうためには最高に理想的な詩。「孤立」していて、それだけで完結した、美しい詩の「断片」。それこそが、まさに、俳句という一行詩なのだ。
「断片だけがわれわれに見合っている」
「イマージュは孤立のなかにあってはじ
めて一切の力を発揮できる」
たった2、3の世界の断片(つまり、名詞だ)だけで成りたつ、たった一行の単純な俳句が詩として自立できてしまうのも、もちろん日本語のすぐれた特性抜きには考えられないことだけれど、一句の俳句作品はかならず完結したひとつの世界を表しているはずだという俳句の暗黙の約束みたいなものと、そうして、なによりも、5・7・5の俳句の音数律がイマージュだけをこんなにもくっきりと浮き彫りにしてくれるおかげ。
「俳句のひとつの詩的情景ごとに幸福の
ひとつのタイプが対応する」
ぼくたちはそこに、つまりひとつの俳句作品を前にして、名詞たちが呼び起こしてくれる事物たちと、それらが全力で協力しあって作りあげる完結したひとつの詩的情景をみいだすことになる……
船を生む水平線や春の海
俳句だけは、言葉の意味を気遣う必要はない。俳句の言葉に意味があるとしても、それは、名詞の表す事物をありありと呼び起こしたり、ひとつの詩的情景を作りあげるためにだけ役立ち、イマージュが出現してしまえばそのなかに完全に融けこんでしまうことになるのだから。
5音/7音/5音と区切るようにしてゆっくり言葉をたどると(もっと美しい比喩を思いつかなかったのが非常に残念だけれど)まるで一本の短くて細い腸詰が「/」のところでぎゅっとしめつけられてウィンナ・ソーセージが3つできあがるみたいに、イマージュだけがくっきりと浮かびあがって見えてこないだろうか。風景画とかの絵画のように、文学的な重苦しさから完全に解放されているのが、俳句のたまらない魅力なのだ。
船を生む/水平線や/春の海
また、一行に隠されている沈黙を表示してみると、こんな具合になるだろう。
沈黙→船を生む(沈黙)/水平線や(沈黙)/春の海 ←沈黙
一行のなかに隠されているばかりではなくて、さらには沈黙に縁どられてもいる俳句が、沈黙が支配していたぼくたちの幼少時代を呼びさましてしまうのは、ごく自然なこと。
一行の俳句作品は一句一句が沈黙に縁どられていて、まるで印刷された一句の上下左右にまで沈黙がおしよせているかのようだ。
沈 黙
↓
沈 沈
→ 船を生む水平線や春の海 ←
黙 黙
↑
沈 黙
「何ごとも起こらなかったあの時間には、
世界はかくも美しかった。わたしたちは
静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの
である……
むらさきに明けゆく闇や春の雨
「記憶のなかにくだってゆくように、沈
黙へおもむく詩がある……
夕暮となりて旅情や揚雲雀
「夢想家の夢想とはかれ自身の沈黙の生
である。この沈黙こそ詩人がわたしたち
に伝達しようとしているものなのである」
ついでだからもう一句、なかにはタンポポ色した暮色という情景を思い描いた方もいたかもしれないつぎの作品をとりあげてみよう。
蒲公英の暮色に下りぬ馬車の客
「蒲公英の暮色」で、タンポポの咲き乱れたあたりに降りてきた暮色をイメージできたのなら言うことないけれど、俳句を読みなれていないひとが散文とか詩の一行のように読みくだすだけだったら、もしかしたら、タンポポのような暮色とかタンポポ色した暮色とかいったイメージを受けとってしまった方もなかにはいたかもしれない。俳句だって詩なのだからタンポポ色した暮色でぜんぜんかまわないようだけれど、伝統的に省略をきかせた俳句という一行詩の読み方は、ちょっとちがうみたいだ。
5音/7音/5音と区切るようにして、ゆっくり読んでみよう。「/」の部分の沈黙が、そんなひとにもまったくちがう情景を浮き彫りにしてくれるかもしれない。
蒲公英の(沈黙)/暮色に下りぬ(沈黙)/馬車の客
語法上はタンポポの「の」は暮色に直接かかっているわけで、普通に読んだのではタンポポ色した暮色とも読めてしまうけれど、それを、「/」の部分に沈黙を置いて、5音/7音/5音と区切るようにしてゆっくり読んでみると、沈黙のもたらす効果というか、世界のひとつの事物を美しいイマージュに変換しながらそのポエジーといっしょに受けとめる、俳句独特の「や」を使った基本形の変奏なのかもしれないという気もしてくる。
蒲公英や/暮色に下りぬ/馬車の客
こう書くと情景の中心が馬車の客からタンポポに移ってしまってニュアンスはかなりちがってしまうけれど、一句全体の詩的情景はこれにちかいような気がする。……タンポポの(咲き乱れたあたりの)暮色に客(たぶんひとりの貴婦人か令嬢)が馬車から降り立ったシーン。
この馬車はもしかしたら乗合馬車だったのかもしれず、この句が作られたと思われる大正時代に、どのような階層の人々が乗りあわせたのか見当もつかない。西部劇みたいな乗合馬車が日本にもあったのかどうかぼくは知らないし、貴婦人や令嬢は乗合馬車なんか利用せず、実際に馬車から降りたのは身なりの貧しい行商人だったかもしれない。タンポポにしても2、3本が道端にかわいい花をつけていただけかもしれない。
けれども、断片的な限定性の少ない俳句の言葉からひとつの詩的情景を、まあ5・7・5の音数律さえ意識すれば俳句形式の恩恵と規制を同時に受けることにもなるわけだし、その範囲内で好きなように思い描いて、ぼくたち読者が、実際には、一句一句、読むことによって俳句を作品として完成させることになる。それが、俳句を読む楽しみのひとつだ。
そんなつもりじゃないと作者に叱られたって、かまうものか。まあ、タンポポ、暮色、馬車ときて貴婦人や令嬢を連想するのは、ちょっと芸がなかったかもしれないけれど。
蒲公英の暮色に下りぬ馬車の客
「意味作用に対する隷属から解放された
言葉」
このように、俳句の言葉に意味があるとしてもそれはイマージュを作りあげるためにだけ役立ち、そのあと、意味作用に隷属していない俳句の言葉のその意味は、イマージュのなかに完全に融けこんでしまうことになる。
これからもややこしいのであまり区別しないでイマージュという言葉を使っていくことになると思うけれど、ぼくたち読者が最終的に完成させる俳句のイマージュとは、一句のなかの名詞が呼び起こす楽園の果実のように甘美な個々の事物たちと、それらが全力で協力しあって作りあげる魅力的なひとつの詩的情景とが複合したかたちで存在するものだということを、もう一度強調しておきたい。
短歌やふつうの詩とちがって、作者の思想だの思いだの感情だの、作句の意図だの言葉の意味性だの、そんな面倒くさいことはいっさい無視して、気楽にイマージだけを味わっていけるのが、俳句だけのもつ魅力なのだ。
だから、俳句にとつて、その作者なんて、やっぱり、ほんとうに、だれだっていい。けれど、作者に対する感謝の気持だけは忘れたくないし、読みにくい俳人の名前も少なくないしで、はじめて作品を使わせていただくときすべてふりがなをつけた作者名を添えているのは、せめてもの感謝の気持の表れだと理解していただきたい。それと、これはいけないことなのかもしれないけれど、原作にないふりがなを一部の読者を仲間はずれにしないために勝手につけてしまったものもあることを、俳人のみなさん、どうか許してください! 作者なんてだれだっていいなんて言っておいて、虫がいいお願いかもしれないけれど。
「詩人は、陶酔が本物であるために世界
の盃で飲むのである。もう隠喩では詩人
は満足しない。詩人にはイマージュが必
要なのである」
そう、俳句を読むときには詩人の素質をめざめさせることになるぼくたちにも、絶対、イマージュが必要なのだ。俳句こそ、まさに、ほんの少量で陶酔を誘う美酒、すなわち三口で飲み干すべき「世界」の名詞で満たされた、透明な小さなクリスタルの盃……
海と坂晩夏まぶしき港町
あるいは、一行のイマージュの宝石箱。
モーツァルトの音楽みたいに、というか、むしろモーツァルトよりも確実に(まあ、復活するぼくたちの幼少時代のレベル、つまり、ぼくたちの夢想そのもののレベルが上がったらという条件はつくけれど)この世で、最高の陶酔、まさに、天国=楽園の幸福をぼくたちに体験させてくれる、最高の詩。それこそが、まさに、俳句という一行詩なのだ。
「語は夢想により、無限なものになりか
わり、最初の貧弱な限定を棄ててしまう
……
星が降る剪定終へし林檎園
ぼくたちの幼少時代が復活すれば、たったそれだけで、まあ、歴史的かなづかいと助詞や助動詞の微妙なニュアンスが分からないとちょっと困るので高校初級程度の文語の読解力だけは必要だけどその条件さえ満たせば、だれもが簡単に、しかもだれもがうれしくなるほど公平に、俳句による「言葉の夢想」が体験できるようになるはずと、そうみなさんに確信していただきたくてついだらだらと長くなってしまったけれど、そのことを納得させてくれるバシュラールの言葉はすでに十分すぎるほど紹介させてもらったつもりだ。
ただ、旅に出て旅先の「旅の孤独」に身を置くわけではなし、はじめのうちはやっぱり俳句を前にしても、ぼくたちの幼少時代はそう簡単に目をさましてはくれないかもしれない。けれど、散歩のようなほんの小さな旅でいいのだった。旅先で復活させるぼくたちの幼少時代と味わう旅情をレベルアップさせるその度合に応じて、最初は、この本のなかの俳句のポエジーとの出会いの可能性を高め、そのあとも、俳句のポエジーをどこまでもレベルアップさせてくれることになるだろうということだけは、何度でも強調しておきたい。
部屋のなかで旅先の至福が味わえるなんて、そんな夢みたいなことがそう簡単に実現してしまっていいわけがない……
花辛夷信濃は風の強き国
何度も中断しておなじところをくりかえし読んでいただくと計算もちがってきてしまうけれど、ぼくたち、この本のなかで、バシュラールの言葉に手助けしてもらいながら、単純に計算するだけでも《(700句+アルファ)×読んだ回数》分のポエジーを味わうことになるはずなのだった。
「ひとつのイマージュごとに幸福のひと
つのタイプが対応する」
第一回目はこのパートの序章みたいなものだから俳句作品とその導入部以外は一度読んでいただいただけで十分かもしれないけれど、次回からこの本をくりかえし有効に利用していただくためのお願いをしておきたい。
途中からはほとんどなくなるにしても、正直、一度読めばもう十分と感じられるような箇所がどうしても混ざりこんでしまった。そんなところは、くりかえし読む値打ちがありそうと思われるページまで読みすすんだらそこに付せんかなにかをつけておけば、2周目からはそこまですっとばすことができるようになるのでぜひ実行していただきたいと思う。
平行して旅先で旅情を満喫していただくのがあくまでも理想だけれど、それでも、この本の存在価値を高める意味でも、次回からは実際に旅になんか出なくたってこの本だけでもなんとかなるように工夫していくつもりなので期待していただきたい。
ぼくのノートに書き抜いたガストン・バシュラールの人類の宝物のような言葉と、次第にレベルアップしていく700句のポエジーとの相乗効果だけでも、この本をいつまでも上手に利用していただけたなら、いやでも、だれもが夢想なんてことにも少しずつ習熟してきて、その程度に応じて、夢想そのものがぼくたちを幸福にするメカニズムによって、そのうち、ご自分の人生がどこまでも味わい深くて甘美なものに変わってしまい、そのうえさらに、ふつうの詩の愛読者へと導かれることになるのは、やっぱり、確実なこととして約束されていることになるだろう。
「夢想が人生を調和させ、生への信頼を
準備する」
「詩的夢想のなかでは、あらゆる感覚が
覚醒し、調和する」
「ただ夢想だけがこういう感受性を覚醒
させることができる」
「夢想の詩的相は、意識を覚醒の状態の
ままに保つ金色のプシシスムにわれわれ
を近づける」
「詩によるプシシスムの解放に向かって
好ましい出発点を得たのだった」
俳句のポエジーをくりかえし味わってはそれと気づかずに夢想なんてことに習熟してしまう当然の結果として、ぼくたちの喜びの感情そのものが、蜜のように甘美でそれでいていっそう複雑で微妙な、さらに味わい深いものにグレードアップされ、面倒くさい詩なんか読まなくたって、NHK・BSで録りためた映画を見たり、岡村孝子とかお気に入りの歌手のⅭⅮを聞いてみるだけだって、だれもが、いつだって、人生って最高と思えるほどの喜びを味わえるようにだってなるだろう。
「言語が完全に高貴になったとき、音韻
上の現象とロゴスの現象がたがいに調和
する感性の極限点へ導く」
岡村孝子の歌の歌詞なんかかなり高貴になった言語だとぼくは思うけれど、バシュラールのこの文章は、たとえば「夢をあきらめないで」や「フォーエバー・ロマンス」や「心の草原」を聞くときにだって十分にあてはまる。歌の歌詞だって立派なロゴスなわけだし、詩の韻律なんかくらべものにならない、その曲と強力に調和した歌の言葉が、そのうち、感性がどの程度変革されてきたかにもよるけれど、この本の読者の方すべてを感性の極限点へと導いてくれるなんてことも、実際に起こってしまうかもしれない。べつに面倒くさい詩なんか読まなくたって。
ぼくは現在、スマホの無料音楽アプリに、だいたいが5分以内の楽章に分断された全部で18人の作曲家によるフルート・ソナタとかの大好きなバロック音楽・841曲、苦手な交響曲などをのぞいたそれこそ天使たちのための音楽としか思えないディヴェルティメントなどのこれも気軽に聞くのにちょうどいい楽章で独立させられたモーツァルト・246曲。それに苦労して発掘したなつかしい洋楽・195曲、そうして、これまでの人生で折々耳にしてきた日本の歌・454曲を4つのプレイリストに分けてお気に入り登録して、感性の極限点はともかくとして、音楽や日本語の歌詞がこれほど新鮮に心に触れてきたことはいままでになかったなと思いながら、気が向いたときに気が向いたプレイリストをシャッフルで再生して楽しんでいる。
それにしても、詩の言葉の音韻上の現象は音楽のリズムやメロディーやハーモニーにはまったくかなわないと思うけれどそう多くはない曲をくりかえし聞くことになる歌よりロゴスの現象としては詩のほうが圧倒的に多彩なわけで、趣味の問題ということもあるし、あくまでもご本人次第ということになるけれど、詩を味わうことをこの人生の楽しみのひとつに加えるなら、すでに数限りない詩人たちが一生が何度あっても読み切れないほどの詩作品を残してくれているし、買い集めた全詩集なんかに収録された詩篇の数だけの詩的世界がぼくたちのものとなってくれるのだ。そのうち、詩を読むだけで、だれもが、さらに最高と思えるような人生を手に入れることになるのは、これもやっぱり、確実なこととして約束されていることになるだろう。
「詩的言語を詩的に体験し、また根本的
確信としてそれをすでに語ることができ
ているなら、人の生は倍加することにな
るだろう」
バシュラールの教えによると、どうやらそういうことになりそうなのだ。これは、ちょっと、そうとうに楽しみなことではないだろうか。
「わたしたちは書物のなかで眠りこけて
いる無数のイマージュを契機として、み
ずからの詩的意識を覚醒させることがで
きるのである」
この本をいつまでも身近に置いていただいて、気が向いたときに、全体にちりばめられた〈700句+アルファ〉の俳句で、次第にレベルアップしていくポエジーを何度もくりかえし味わっていただくことが、あらゆる詩的言語を次第に高貴なものへと変容させることにもつながるのではないだろうか。
「言語が完全に高貴になったとき、音韻
上の現象とロゴスの現象がたがいに調和
する感性の極限点へ導く」
「幼少時代の世界を再びみいだすために
は、俳句の言葉が、真実のイマージュが
あればいい……
土曜日の光る燕に追い越され
「わたしたちの夢想のなかでわたしたち
は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた
たび見るのである……
卓上の林檎がひかる雪の気配
「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュア
ンスをもたらす……
りんご置く風にとびたちそうな海図
「いっさいの意味への気遣いに煩わされ
ることなく、わたしはイマージュを生き
る……
悴みし掌の鉛筆より蝶生る
「俳句がさしだす言葉の幸福……
明日は日曜ポケットに花の種
「何ごとも起こらなかったあの時間には
世界はかくも美しかった。わたしたちは
静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの
である」
「このようにして子供は孤独な状態で夢
想に意のままにふけるようになるや、夢
想の幸福を知るのであり、のちにその幸
福は詩人の幸福となるであろう」
「詩的夢想のなかでは、あらゆる感覚が
覚醒し、調和する」
「ただ夢想だけがこういう感受性を覚醒
させることができる」
「ポエジーによる魂の解放に向かって好
ましい出発点を得たのだった」
次回はどうしてこうも旅というものにこだわるのかを納得していただけるはずの(パート2-その1)をおとどけします。
次回はすでに投稿している「俳句 楽園のリアリズム(2)」を気軽に読める長さに細分化した(パート2ーその1)をおとどけしますのでよろしくお願いします。