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俳句 楽園のリアリズム(パート1ーその4)

 「俳句 楽園のリアリズム(パート1ーその4)をおとどけします。当然とも思いますが、まだほんのかすかなポエジーしか味わえなくても気にしないでいただきたい。前例のないこのにはまだなっていませんがのやり方があまりにも有効なので、そのうち、私たちの心のなかの「夢想のメカニズム」が始動して、いやでも、本格的な極上のポエジーを味わえるようになるのは、確実なこととして約束されているのですから。





 ところで、いままでに読んできた俳句作品の提示の仕方などからなんとなく分かっていただけるのではないかとは思うけれど、短歌とちがって、俳句作品の背後には作者なんかいらない、というのがぼくの俳句に対する基本的な考え方だ。(利用させてもらう感謝の気持をこめて作者名を添えてはいるけれど)

 それでは、作者のいない一句のうしろには、いったいだれがいるのだろう?

 そう思ったときだった。5・7・5と言葉をたどったときに聞こえてくるのは作者の声ではない、あれは、ほんとうは天使のつぶやき。作者がいないはずの背後のひとの気配、じつは、あれは天使の息づかいだったのだ……。ふっと、そんな、とっぴな考えが浮かんできたことがある。

 そうとでも考えなければ、作者なんかに関係なく、すべての俳句が、モーツァルトの音楽みたいに、ぼくたちに楽園=天国の幸福を体験させてくれる、そのことの説明がつかなくなってしまうではないか?

 無限の宇宙性と無垢の幼児性。そのふたつをかねそなえた永遠の子供。これが、ぼくにとっての天使のイメージだ。天使の目に映った世界だからこそ、俳句を読んで見えてくる世界が、すべて、すでに理想化された世界の色彩で彩られていて、まるで天国や楽園を目にしているかのように感じられるのではないだろうか……   



  船を生む水平線や春の海


  むらさきに明けゆく闇や春の雨



 ぼくたち大人がふだん「精神の鏡」に映し出しているような、味もそっけもないあんな世界が天使の目に映るはずがない。夢想する子供とおなじように、天使にはものを知覚する必要なんて、たぶん、ないのだから。

 モーツァルトが天使たちのための音楽というイメージからの連想だったかもしれない。まさに、ぼくたち、幼少時代の〈イマージュの楽園〉では、だれだって天使みたいな存在だったらしいのだから、それほどとっぴな発想ではなかった、と言えないことはないとも思う。

 モーツァルトの音楽は、天使たちのための音楽をこっそり耳にしてしまった天才が、それを人類にもたらした奇蹟というしかない。

 ただ残念なのは、天使の聴覚をもつひとはまれにしかいないということだ。その点、天使の目にした世界をそのまま見せてくれる俳句のほうが<天使たちの幸福>をいくらか体験しやすいような気がする。

 もともと美しい世界を天使が見たというのではない。天使が目にした世界だから、俳句のイマージュはあんなにも美しいのだ。

 俳句作品の一句一句があらわにするのは、まさに、地上に出現してしまった天国。四季折々の、この世の楽園。

 5・7・5と俳句の言葉をたどるとき、そのときだけは、ぼくたち、天使の視覚を自分のものにすることができるかもしれない。そうして、それは、とりもなおさず、だれもが遠い昔に自分のものにしていた、幼少時代という〈イマージュの楽園〉における天使のような子供の視覚でもあるはずなのだ。

 つまり、つぎの高屋窓秋(たかやそうしゅう)の俳句作品。5・7・5と天使になりきって言葉をたどってみれば、そこに出現するのは、まさに、この世の、冬の楽園そのもの……



  山鳩よみればまはりに雪がふる



 静まりかえった林のなかとかで山鳩の鳴き声を耳にしながら、ひっそりと降りはじめた白い雪に目をむける、天使の視線……。

 まあちょっと無理があっただろうか。俳句が天使の(ポエジー)だなんて、やっぱり、いくらなんでもとっぴだったかもしれない。けれども、こんなふうに空想させるほどにも、俳句のイマージュはくっきりとして美しいのだ。そうして、驚かずにいられないのは、先ほどの日野草城の2句にしてもそうだけれど、これからここで読んでいくような俳句にかぎっていうなら、実際にどんな俳句も天使の詩としても読めてしまうことだ。

 たとえばつぎの穴井太(あないふとし)の俳句作品。作者には申し訳ないけれど、天使に席をゆずってもらって、一句の背後に天使をイメージして読んでみよう。

 5・7・5と天使の言葉をたどっただけでありありと目に浮かぶ、この世の夢の楽園とは……



  土曜日の光る(つばめ)に追い越され


  卓上の林檎(りんご)がひかる雪の気配


  (かじか)みし()の鉛筆より蝶生(うま)


  りんご置く風にとびたちそうな海図


  明日は日曜ポケットに花の種



 ポエジーはともかくとして、天使の目に映った世界として、とか、天使の心に浮かんだイマージュとして、すんなりと読めてしまったのではないだろうか。これって、俳句のイマージュの特異性とものすごい可能性を示している、とぼくには思えるのだ。


 5・7・5の音数律にあわせて俳句の言葉を選んでそれを一行に並べたのは作者だったとしても、俳句作品のなかで俳句形式が、それらの表すただのイメージをすべてイマージュに変換しながらひとつの詩的情景(イマージュ)をくっきりと浮き彫りにしてくれるから、一句一句の俳句作品はこんなにも純粋な《美》で輝いている……



  土曜日の光る燕に追い越され



 穴井太の5句がすべて天使の(ポエジー)として読めてしまったのはこうした俳句形式の恩寵といったもののおかげだったのだと思うけれど、作者がだれだれだろうと、俳句のイマージュが個人の感性などを超えた宇宙的幸福のさまざまなニュアンスを感じさせてくれるのは、そのイマージュのほんとうの意味での作者とは、天使は論外だとしても、天使とほとんど変わらないよみがえった子供の魂にほかならなかったから、と、そう考えてみるのも悪くないかもしれない。


  「夢想する子供とは何とすばらしい宇宙

  的な存在であろうか」


  「この幸福な孤独のなかで夢想する子供

  は、宇宙的な夢想、わたしたちを世界に

  結びつける夢想を知っているのである」


  「わたしたちは名前のついていない幼少

  時代、生の純粋な水源、最初の生、最初

  の人生に到達する。しかもこの生はわた

  したちの内部にある ーもう一度強調し

  ておこうー わたしたちの内部に残存し

  ているのだ」


 〈イマージュの楽園〉のなかで宇宙的幸福を生きていた幼少時代の子供の魂には個性など(生れながらの性格や個性の違いはまぎれもないけれど、少なくとも夢想する子供の魂には)存在しない。だれもの心のなかにおなじように残存しているもの、それが、精神や知性などが形成される以前の、人生の黄金時代、この世の楽園を生きていた、まさに天使のような、子供の魂。


  「しかしこのイマージュは原則としてわ

  たしたちのものであるとはいえない。そ

  れはわたしたちの単なる思い出よりもっ

  と深い根をもつからである。わたしたち

  の幼少時代は人間の幼少時代、生の栄光

  に達した存在の幼少時代を証言している」


 だれの作った俳句だろうと天使の(ポエジー)として読めてしまったり、そのイマージュのほんとうの意味での作者を、だれもの内部に残存している名前をつけて区別する必要のない子供の魂だと考えたりすることが可能なのも、人類史上最高の幸福を実現してしまったバシュラールの教えによると、俳句のあらゆるイマージュはぼくたち自身の思い出よりもっと深い根をもっているものだから。俳句のイマージュが呼びさますのは、ぼくたち自身の幼少時代というよりも、理想化されたもうひとつの幼少時代、つまり、生の栄光に達した存在の幼少時代にほかならないから、なのだ。

 やっぱり、ぼくたちの幼少時代が実際に楽園みたいだったかどうかなんて、そんなことはどうでもいいことだし、あまり覚えていない自分の幼少時代の記憶だけにこだわる必要なんてまったくないみたいだ。


  「わたしたちの幼少時代は人間の幼少時

  代、生の栄光に達した存在の幼少時代を

  証言している」


 俳句とかのイマージュが、ぼくたち自身のものとはいえないそうでありえたかもしれない理想化された幼少時代を呼びさましてしまったりするのは、まぎれもなく自分の幼少時代を再想像したと感じる至福の瞬間にも、ぼくたちの幼少時代は、生の栄光に達した存在の幼少時代になぜか置き換えられてしまうことになるから。つまり、そう、理想化された、人生の黄金時代、この世の夢の楽園、に。


  「わたしたちのなかで、今なおわたした

  ちの内部で、つねにわたしたちの内面で、

  幼少時代はひとつのたましいの状態であ

  りつづけている」


 だから、かえって、自分の幼少時代に単純な信頼をよせることだけがぼくたちには大切になってくるのであって、幼少時代はひとつのたましいの状態でありつづけているという  この言葉は、ぼくたちの試みの正当性と有効性をずばりシンプルに保障してくれていることになる。それにしても、この文章のたましいを魂と漢字にしてしまうと、重たくなるというかなんだかニュアンスもちょっと変わってきてしまうような気がする。

 霊魂という言葉ほどではないにしても、魂という言葉はたしかにいかにも重たい。あまりにも重たすぎるので、ほんとうは魂のなかだけに出現するのだから「魂の鏡」と呼ぶべきだったのをぼくは「心の鏡」ですますことにしたのだったし、『夢想の詩学』の訳者、及川馥がたましいとひらがな表記を選んだのも分かるような気がする。

 ぼくたち大人の心は、活発で活動的な精神と感受性ゆたかな魂とがゴチャ混ぜになった状態が理想なのだと思うけれど、ぼくたち大人の魂にしても、真似をしてたましいとひらがな表記をしてしまいたいほどにも、それは本来、風のように軽やかでのびやかで自由なはずのものであって、だれもがおなじものとしてその記憶を共有する宇宙的な子供のたましいを遠い源泉とするもの。


  「ひとのたましいは幼少時代の価値に決

  して無関心ではない」


 おそらく夢想とは、狭い自分の個性などから解放された、風のように自由なたましいの領域でなされるものにちがいないのだ。複雑で持続的で人それぞれにそれなりに個性的な精神なんかとちがって、真似をしてひらがな表記をしたくなるようなたましいとは、もしかしたら、だれもがおなじものとして共有する、普遍的な、望ましいある心の状態をさす言葉だったのかもしれない。


  「夢想は精神の欠如ではない。むしろそ

  れはたましいの充実を知った一刻からあ

  たえられる恩恵なのである」


 こんなに素晴らしいたくさんの作品をとどけてくれた俳人のみなさまには申し訳ないと思うけれど、だから、本来普遍的なたましいの領域で創作され享受されるはずの俳句にとって、作者の名前なんてどうだっていい。

 俳句の読者にしても、磨き抜かれた感受性だの、研ぎ澄まされた感受性だのなんて、まったく必要ない。だれものたましいのなかにおなじように残存しているはずの、子供のころの素朴な感受性(つまり「心の鏡」だ)を取り戻すことができれば、それで十分。というか、それこそが必要なこと。


  「子供のすべての夢はポエジーの飛翔を

  十分におこなうようにもう一度みなおさ

  れるべきである」


 俳句の作者にしたって、狭い自分の個性なんか捨てさって、遠い日に夢想なんかしていたころの、広く世界に向かって開かれた宇宙的なたましいの状態を復活させられなければ、ほんとうの意味で世界の美しさに触れることなんてできないだろうし、一句を、ほんとうのイマージュやポエジーで充たすこともできないはず。(ところが、実際には、どのような心の状態で作られた俳句だろうと、一句のなかのただのイメージを、結果として、俳句形式が、すべて、イマージュに変換してしまうことになるのだけれど。これを、俳句形式の恩寵という)


  「わたしたちは、自分たちの幼少時代に

  溯る愛や愛着をそこにおかずには、水も

  火も樹も愛することはできないだろう。

  わたしたちは幼少時代によってそれらを

  愛するのである。世界のこういう美のす

  べてを、いまわたしたちが詩人の歌のな

  かで(この詩人の歌を俳句作品に変えて

  しまうと、バシュラールのこの文章はぼ

  くたちに日本人にとっては、たちまち生

  命を吹きこまれることになるようだ。す

  なわち、世界のこういう美のすべを、い

  まわたしたちが俳句作品のなかで)愛す

  るとすれば、甦った幼少時代、わたした

  ちのだれもが潜在的にもつあの幼少時代

  から発して復活された幼少時代のなかで、

  愛しているのである……



  山鳩よみればまはりに雪がふる



 俳句に作者の個性など必要ない。だれもがおなじものとして等しく共有する「幼少時代の核」のなかにインプットされた、ぼくたちの幼少時代とその宇宙的なたましい。

 「幼少時代の核」が復活して、それを中心にして、夢想なんかしていた(らしい)幼少時代の宇宙的なたましいのある状態があらわになったとき、俳句作品のなかに幼少時代の色彩で彩られた〈イマージュの楽園〉そっくりの世界をみいだして、自分自身で実際に体験したかどうかに関係なく、なぜか、遠い日の宇宙的幸福をよみがえらせながら、ぼくたち俳句の読者は、だれもがうれしくなるほど公平に、素晴らしいポエジーを味わうことになるのだ。


  「詩人によってあたえられた(これも詩

  人を俳句に変えてしまうとたちまち生命

  を吹きこまれることになるようだ。つま

  り、俳句によってあたえられた)イマー

  ジュが、わたしたちのなかに長く余韻を

  響かせている。イマージュは新しく、つ

  ねに新鮮であるが、その余韻はつねに同

  一である」


 そういえばバシュラールも、ポエジーの宇宙的幸福という均質性とそのバリエーション、ということをくりかえし言っていたと思う。


  「想像力の心理学は〈心理的バリエーシ

  ョン〉の教義であるべきである」


 個人の感性などを超えた広大な宇宙的幸福のバリエーションをもたらしてくれる俳句に作者の個性を求めることは、俳句のポエジーを縮小することにしかならないだろう。


  「わたしたちの幼少時代の宇宙的な広大

  さはわたしたちの内面に残されている。

  それは孤独な夢想のなかにまた出現する。

  この宇宙的な幼少時代の核はこのときわ

  たしたちの内部で見せかけの記憶のよう

  な働きをする…… 



  りんご置く風にとびたちそうな海図



  「幼少時代の世界を再びみいだすために

  は、俳句の言葉が、真実のイマージュが

  あればいい。幼少時代がなければ真実の

  宇宙性はない。宇宙的な歌がなければポ

  エジーはない。俳句はわたしたちに幼少

  時代の宇宙性をめざめさせる……



  卓上の林檎がひかる雪の気配



 これはちょっとこじつけになるけれど、このように、作者なんかに関係なくほとんどの俳句作品がおなじように宇宙的幸福を(いまはまだほんのかすかにといった程度でも)ぼくたちに体験させてくれることになるのも、一句の背後に天使をイメージして俳句が読めてしまうのも、それは、宇宙的な孤独のなかで夢想していた、名前をつけて区別する必要のない子供のたましいを、俳句形式が、一句の背後にすでに呼び寄せてくれていたおかげ、ということにならないだろうか。(ちょっとどころか、そうとうのこじつけになるけれど)

 短歌とちがって俳句は、その背後に作者なんかを意識しても意味がないというのがぼくの基本的な考えだけれど、それでは、一句の背後の作者不在の空席におさまるべき存在とはだれか? 天使はともかくとして、それは、まさに、真似をしてひらがな表記をしたくなるような、宇宙的な子供のたましい。俳句のイマージュを創造した主体を想定するとしたら、やっぱり、それ以外にほかのものはちょっと考えられないのではないだろうか……



  卓上の林檎がひかる雪の気配



 そうした名前をつけて区別する必要のない幼少時代のたましいが俳句作品の背後で世界を眺めているのでなかったら、ここで読んでいくような俳句のすべてを、天使が目にした世界として読めるはずはないのではないだろうか。

 なぜなら、天使の目に映るのと、幼い子供が目にする世界だけが、天国、あるいは天国と変わらない、まばゆい人生の楽園だからだ。

 それだから、作者を意識したりするのではなくて、天使はともかくとして、いわば俳句形式が召喚した一句の背後の幼少時代のたましいとピッタリ重なるようにして俳句を読めば、いやでもぼくたちの幼少時代も目をさまして、俳句作品のなかにまばゆい人生の楽園をみいだすことになるのではないだろうか。


  「それは幼少時代の原型をわたしたちの

  内面によびさます」


 俳句は、一句をとりかこむ沈黙や、たった一行のなかにむきだしになった単純でいて素晴らしく宇宙的なイマージュたちが、実際にはどんな詩型よりも簡単にぼくたちの幼少時代をめざめさせてくれることになるのだろう。

 けれども、俳句形式が一句の背後に召喚した幼少時代のたましい、というイメージはいい。使える、と思う。一句の背後にあらかじめ召喚されていた幼少時代のたましいが、一句一句の俳句作品を幼少時代の色彩で彩られたイマージュで満たし、ぼくたちの幼少時代をしぜんとめざめさせてくれるから、俳句だけがこんなにも確実にぼくたちにポエジーを味わわせてくれることになるのだ、とか。

 作者がだれだろうと、いつでも、俳句がこんなにも美しく宇宙的なイマージュを浮き彫りにしてくれているような、そんな素晴らしい印象をあたえることになるのも、一句一句の背後で、召喚された幼少時代のたましいが宇宙的な夢想を満喫しているせい。俳句一句を読むことで、ぼくたち俳句の読者はその現場に立ちあうことができるのだ、だとか……



  山鳩よみればまはりに雪がふる



  「このようにして幼少時代を歌う詩人と

  読者とのあいだには、心のなかに生きて

  いる幼少時代を媒介にコミュニケーショ

  ンが成立する」


 俳句の場合作者はどうでもいいのであって、一句一句の俳句作品の背後の召喚された幼少時代とぼくたちの心のなかに生きている幼少時代を媒介に、コミュニケーションが成立する。それも宇宙的なコミュニケーションが。


  「俳句はわたしたちに幼少時代の宇宙 

  性をめざめさせる」


 それだからきっと、まあ、簡単にとは言わないけれど、この本を読みつづけていただければ、俳句だけが、そのうち確実に、この世の至福ともいうべき素晴らしいポエジーに出会わせてくれることになるにちがいないのだ。


  「ひとのたましいは幼少時代の価値に決

  して無関心ではない……



  村役場までアカシアの花の道



  「幼少時代がなければ真実の宇宙性はな

  い。宇宙的な歌がなければポエジーはな 

  い、俳句はわたしたちに幼少時代の宇宙

  性をめざめさせる……



  六月や風の行方の花しろし



  「幼少時代の世界を再びみいだすために

  は、俳句の言葉が、真実のイマージュが

  あればいい……

 


  雪解をよろこぶ籠の小鳥たち



  「それは幼少時代の原型をわたしたちの

  内面によびさます……



  みづうみにいろをふかめて春の山



  「ひとつの詩的情景(イマージュ)ごとに幸福のひとつ  

  のタイプが対応する……



  行く汽車のなき鉄橋の夕焼くる



  「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュア

  ンスをもたらす……



  春の闇より聞こえくる水の声



  「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代

  の思い出は、まちがいなくたましいの奥

  底での〈幻想の聖歌〉なのである……



  (うみ)()れてなほ鳴きやまず春の(とり)


 

 ……まあそんなわけで、俳句とは、モーツァルトの音楽にも匹敵する天国=楽園の幸福を、モーツァルトよりも確実に味わわせてくれる最高に理想的な詩だということを、そのうち、この本のなかでどなたにもうれしく実感していただくことになるだろう。

 もちろん、作者の思いや感情を追体験させてくれて、ポエジーといっしょに人生的な感動まで味わわせてくれるふつうの詩や短歌も素晴らしいけれど。少なくともポエジーの純粋さにおいては。

 至純にして至福、本格的な極上のポエジーだけを、ぼくたちの幼少時代が媒介となって、だれもに、公平に、例外なく、確実に味わわせてくれる、考えうる最高に理想的な詩。それこそがまさに、俳句という一行詩なのだ。


 モーツァルトを聴くかわりに俳句を読む。


 モーツァルトを聴いてみても<天使たちの喜び>がなかなかこちらにとどいてくれないもどかしさをぼくなんかいつも感じてしまったものだけれど、そのうち確実に、たった一行の俳句を読むだけで〈天使たちの喜び〉をいつでも味わえるようになるなんて、なんて素敵な人生が始まろうとしているのだろう。


    



 このパート1は次回でおしまいになります。そのつぎからはパート2をいくつかに小分けにしたものがはじまりますので、楽しみにしていただけたならありがたいことです。

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