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俳句 楽園のリアリズム(パート3-その1)

 1200枚ある全編をとおしで一回読んでいただくだけでも、俳人たちの作品を全部で700句以上、それもおなじ句を何度も使わせたもらっているのでそれらを加えると(700句+α)の俳句作品のポエジーを味わうことになります。俳句のポエジーは一度味わえばそれでおしまいというものではないし、おなじ句をくりかえし味わうほどにそのポエジーもさらに、大きくて、深くて、ゆたかで、より本格的なものにレベルアップしていくことが期待されるので、ひとつのパートを小分けにした本稿は、何度でもくりかえして読んでいただくのが有効だと考えます。そうしていただければ、パートを小分けにした部分ごとに読んだ回数もちがってくるので正確とはいえませんが、単純にイメージすれば《(700句+α)×読んだ回数》分の次第にレベルアップしていくポエジーを、この本の読者の方どなたもが味わうことになります。そのことが、そのくりかえしが、人生そのものをほんの少しグレードアップさせる感性をほんの少しだけ変革したり、ふつうの詩をどうにか味わえる程度の詩的想像力や詩的感受性や詩的言語感覚を育成することにもつながると考えます。ほかに俳句や、いまの段階で詩を読んだりしなくたって。


 さてきょうも素晴らしいポエジーとの出会いを求めて俳句を読んでいってみよう。  

 ここでぼくたち、俳句を読んで作者の思いや感情を追体験しようというのではない。幼少時代という〈イマージュの楽園〉で遠い日にひたっていたのとおなじ、イマージュによる宇宙的とまでいわれる夢想の幸福を、もう一度追体験したいだけ。そのために、俳句を利用させてもらっているのだ。


  「最初の幸福にたいし感謝をささげなが

  ら、わたしはそれをふたたびくりかえし

  てみたいのである」


 昨日の散歩のような小さな旅で味わったみたいな夢想の幸福を、部屋のなかで、俳句を読むだけでしっかりと体験してしまうこと。それが、理想だ。

 昨日旅先で味わった旅情がそうだったように、夢想なんてことを意識しなくたって俳句を読むだけでしっかりと夢想なんかしてしまって、いつでも最高のポエジーを味わってしまうこと。それが、理想だ。


 「幼少時代の核」があらわになった状態で「イマージュ」の幸福にうっとりすること。これが「夢想」という言葉の過不足のない定義だった。


 いまの段階では、旅先に身を置くときと俳句を前にしたときにだけ、ぼくたちの幼少時代がしぜんと目をさましてくれることに、幸運にもぼくたちだけが気がついたのだった。



  「俳句がわれわれに差し出す新しいイマ

  ―ジュを前にしたときの、この歓び……



  避暑の宿夕風にみな灯りけり



 たった一行の俳句作品がくっきりと浮き彫りにしてくれる詩的情景(イマージュ)を、そのままぼくたちの心のなかの湖面のようなどこかでしっかりと受けとめてあげるだけでいい。もぎたての果実をかじれば新鮮な香りと甘さが口いっぱいに広がるように、そのどこかがイマージュを受けとめれば、きまって、ポエジーという新鮮な夢想の幸福がぼくたちの心に満ちあふれてくることになる。

 たったこれだけの単純さが、俳句の言葉がポエジーを生む『夢想のメカニズム』のすべて。そうして、それを機能させるただひとつの条件が、ぼくたちの幼少時代の復活。

  

  「イマージュを賞讃する場合にしか、ひ

  とは真の意味でイマージュを受けとっ

  ていない……  



  青蔦に降り足りし夜の星の色



  「わたしたちの夢想のなかでわたしたち

  は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた

  たび見るのである……



  空よりも碧き朝顔咲きにけり



 このように(そのうち、確実にこう言えるようになるはずだけれど)幼少時代の色彩で彩られたイマージュを受けとめてポエジーが生まれたそのとき、隠されていた「幼少時代の核」がいつの間にかあらわになって、湖面のようなどこかで俳句のイマージュが受けとめられたことをぼくたちは知ることになる。

 そうだった。いつの間にかあらわになってしまった「幼少時代の核」を中心にして、ぼくたちはいつでも、夢想なんかしていた(らしい)ときの幼少時代の魂の、湖面のようなどこかが出現してしまった状態を、いやでも復活させることになるはずなのだった。


   「幼少時代はひとつのたましいの状態で

   ありつづけている」


 楽園のような世界のなかで、まばゆい幸福につつまれていたときの、あの、宇宙的なたましいのある状態を。そのとき世界は、まぶしいほどのイマージュの美しさに、限りなく輝いていたものだった……



  夏の雨きらりきらりと降りはじむ



  「夢想する子供とは何とすばらしい宇宙

  的な存在であろうか」


  「イマージュの世界そのもののなかに住む

  という幸福を、全宇宙のなかに浸みわた

  らせる……



  夏草に砕けて赤き煉瓦かな



  「人間と世界との詩的調和をあたえる原型」


 そんなふうにして復活した幼少時代のたましいのある状態、その宇宙的な感受性(つまり、湖面のようなどこかだ)が受けとめる俳句のイマージュが、どれもこれも、遠い日の〈イマージュの楽園〉における宇宙的幸福をぼくたちに思い出させてしまうのは当然ともいえるけれど、このことって、ほんとうに、たとえようもないほど、すごいこと。だって、俳句を読んでイマージュを受けとめているそのとき、ぼくたち俳句の読者だれもが、世界との詩的調和を取り戻すことになるのだから。


  「ひとつの詩的情景(イマージュ)ごと

  に幸福のひとつのタイプが対応する……



  遠き灯の一つ二つや月見草



  「わたしたちの幸福には全世界が貢献す

  るようになる。あらゆるものが夢想によ

  り、夢想のなかで美しくなるのである……


 

  夕風の籐椅子二つあるばかり



 目の前のそれほど美しいとは思えない世界をただ「写生」しただけでも、俳句作品は、結果として、幼少時代の楽園のような世界、つまり、遠い日の〈イマージュの楽園〉をリアルに写生してしまっている。冒頭を俳句形式に変えてしまったつぎのバシュラールの言葉など、そんな、俳句における「楽園のリアリズム」の素晴らしい説明になっているだろう。


  「俳句形式にひとたび対象(オブジェ)が取るや、対

  象そのものが存在を変化する。対象は詩

  的なものに昇格するのである……



  皿を待つナイフフォークや薔薇匂ふ



 こんなふうに詩人とあるところを俳句形式とか俳句とかに勝手に書き換えたりして利用させてもらうのも俳句でポエジーに出会うためには有効だけれど、バシュラールのものすごい言葉に手伝ってもらって、なんとしても、ポエジーとの出会いをこの本のなかで無理やりにでもつくりだしていきたいのだ。

 この本のなかの俳句でポエジーに出会うためには、新聞の文字とまったくおなじ活字で印刷された俳句の言葉を、なんとしても、それをとおし…むきだしのイマージュだけが浮き彫りにされて見えてくるようなものに変えてしまわなければならない。

 そのためにもこれからも無断で俳句とかに書き換えて引用させてもらうことも少なくはないと思うけれど、原文に俳句なんて言葉があるわけもないのだから元は詩とか詩人とかだったのだなと想像していただきたい。


 バシュラールは、邦訳された想像力やイマージュや夢想をめぐる2000ページ以上のなかで、ぼくの「バシュラール・ノート」に書き抜いた200くらいの断片的な言葉があれば、ぼくの人生には、もうそれだけで十分だと思っているのだし(それでも、ぼくの人生にはそれだけで十分だと思っていたのは事実だけれど、この本を書き進めるうちに読者のためにはもう少しバリエーションがほしくなって実際には『夢想の詩学』なんかをもう一度パラパラやってこっそりそれを300くらいに膨れあがらせてしまったことをここで告白しておかなくてはならない。もっとも、その半分もこの本のなかで紹介できないかもしれないけれど)俳句のイマージュでポエジーに出会うためにはそれだけでも十分すぎるほどだし、また、それらをくりかえし利用させてもらう以外に残念ながら方法はない。

 それだから、何度も引用させてもらっているおなじ文章でも、無理なお願いかもしれないけれど、それはもう読んだなんて、絶対、思わないでいただきたい。バシュラールの言葉の価値は、7、8回読んだきりでおしまいにしてしまえるようなものでは、断じて、ないのだから。

 何度もくりかえして利用させてもらうことになるバシュラールの文章は、人類史上最高の幸福を実現してしまった人の残してくれた言葉の、エッセンス中のエッセンス。まさに、人類の宝物といってしまっても言い過ぎにならないほどの、価値ある言葉。前後の文脈を無視してむしり取ってきたような断片で、ちょっと読みにくいところがあるのは当然だけれど、心をこめてじっくりと読みこんでいただきたい。  

 何度もくりかえして言わないではいられないけれど、そのひとつひとつには、ぼくたちがこの人生で最高の幸福を手に入れるための、最高の、生きたヒントがあふれるほどふくまれているはず。

 なぜなら、バシュラールがもたらしてくれて、ぼくたちがポエジーや旅情というかたちで味わうことになる夢想の幸福とは、まあ、復活する幼少時代のレベルに応じてという条件はつくけれど、幼少時代の宇宙的幸福を遠い源泉とする、最高に甘美な喜びの感情。まさに、あらゆる《美》のもたらす甘美な〈諧調〉そのもの。この人生における、このうえない至福にほかならないからだ。

 バシュラールの言葉が指し示してくれている幸福ときたら一生かけても到達できそうもないほどにも無限大に開かれているので、それを実現させてしまうまでは、ほんとうに、いつまでも価値をもちつづけるはずの言葉なのだ。

 それに、そうだ。もう少しバリエーションがほしければ、俳句は夢想やポエジーのためには理想的な詩型なものだから、バシュラールの文章の一部あるいは大半を勝手に変えてしまって、俳句の素晴らしさを言いあてた文章を作りあげることも、そうむずかしいことではない。たとえばこんな具合に。(元のままでも、もちろん、ぼくたちだれもがこの人生で体験可能な、夢想の幸福について、ものすごいことをバシュラールは言っているわけだけれど)


  「夢想はわたしたちが世界に住むことを、

  世界の幸福をつかみ、そのなかに安住す

  ることを助ける」


  「賞讃された事物から世界の並木道が四方

  八方へと通じている」


  「ボスコ(詩的散文の作家の名)の本を

  読んでいると、世界の安逸さが四方から

  わたしたちの内におしよせてくる。イマ

  ージュの安楽さにみちたこの休息からや

  がて、作家は休息の拡大する宇宙を読者

  に体験させる」

  

  「詩人のおかげでわたしたちは驚嘆するとい

  う動詞の純粋で単純な主語となる」


  「心変わらぬ夢想をつづけて、夢想する

  自我と夢想を歓迎する対象そのものを再

  発見することは、存在のこの上ない証拠

  である」

 

 こんなバシュラールの言葉からつぎのような文章が出来あがってしまう。これで、ポエジーとの出会いを手助けしてくれる言葉が、4つプラスされたことになるだろう。


 <俳句を読んでいると、美しい世界の幸福が、四方八方からぼくたちの心におしよせてくる……



  りんどうの藍より濡らす山の雨



 <俳句はわたしたちが世界に住むことを、世界の幸福をつかみ、そのなかに安住することを助ける……



  雨が生む万の葡萄の熟れゆく香



 <俳句とは、どのような詩にもまして、ぼくたちの夢想を歓迎してくれている詩である……



  葛の花むさしのの雨音もたず

 


 〈俳句形式のおかげでぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる……



  数駅は海岸沿ひに南風(はえ)の中



 こんな具合に、バシュラールの言葉にちょっと手を加えるだけで、俳句の素晴らしさを言いあてた文章をいくらでも作りだすことはできる。たしかに、俳句でポエジーを味わうための導入部として利用できる文章がふえれば、それだけ、俳句の本格的なポエジーとの出会いの可能性を高めてくれるということはあるかもしれないけれど、考えてもみれば、文章の一部を俳句とかに書き換えてしまうだけだって申し訳ないと思っているのに、こんなことばかりしていたら原作者も訳者もあまりいい気持はしないかもしれない。

 そんなことをしなくたってぼくのノートに書き抜いたものだけだって、俳句や詩のポエジーを味わうこともふくめて、バシュラールがぼくたちに指し示してくれている、この人生で体験可能な幸福の内容って、ほんとうにすごい。それをすべて実現させてしまったりしたら、それこそ、通常の100倍は幸福な人生をぼくたちだれもが確実に手に入れてしまうことになるだろう。

 それら人類の宝物みたいなバシュラールの言葉が、旅や俳句のおかげで、この本のなかで、ほんとうの意味で、最高のかたちで生かされていることは、いまの段階でも、やっぱり、どなたにも素晴らしく実感していただいているのではないかと思う。


 ところで、はじめから言葉の意味作用に邪魔されてイマージュのよく見えてこないふつうの詩を読むよりも、イマージュだけがむきだしになったぼくたちの俳句のほうが、この人生ではじめてポエジーに出会うためには圧倒的に有利なはず。最初から小説を読むみたいな調子で詩を読んでみたってポエジーなんか味わえるわけがない。

 詩でポエジーを味わうためには、どうしてもその前に、人生のどこかでポエジーに出会ったことがある、という幸運な偶然が必要になってくる。この人生で詩集を手にとってみることも稀なことだと思うけれど、たまたまなんの気なしに詩集のページを開いたときに、たまたまそのひとの「幼少時代の核」もあらわになっていて、偶然、湖面のようなどこかで詩のイマージュが受けとめられた……。 

 そんな、100人にひとり、もしかしたら1000人にひとりの確率でしか起こらないようなポエジーとの出会いという幸運な偶然を、俳句を利用させてもらって、この本のなかで意図的につくりだそうとしているというわけなのだった。

 だれだって、この人生で、一度でもポエジーという最高の喜びに出会ったなら、そのとびきりの喜びの感情を、生涯、忘れることなんてできないだろう。


  「ごく簡単に詩人はある様態の思い出の

  前にわたしたちをつれてゆく。わたした

  ちのなかで、今なおわたしたちの内部で、           

  つねにわたしたちの内面で、幼少時代は

  ひとつのたましいの状態でありつづけて

  いる」


 こんな素晴らしいバシュラールの言葉も、ポエジーに出会ったことのないひとにとっては、一生、無縁というしかない。残念ながら、そうしたひとを、ふつうの詩は、ごく簡単に「ある様態の思い出」、つまり、宇宙的な幼少時代の思い出の前につれていってくれたりはしない。けれども、つぎのように書き換えてみたらどうだろう。


  「ごく簡単に俳句はある様態の思い出の

  前にわたしたちをつれてゆく。わたし

  たちのなかで、今なおわたしたちの内

  部で、つねにわたしたちの内面で、幼

  少時代はひとつのたましいの状態であ

  りつづけている……



  村役場までアカシアの花の道



 俳句はポエジーを味わうためには理想的な詩型なものだから、ぼくたち日本人にとっては、詩や詩人とあるところを俳句とか俳句形式とか俳句作品という言葉に変えてしまったほうがピッタリする箇所が、バシュラールの残してくれた文章にはじつに多い。これも、つぎのふたつも、そうだ。

   

  「幼少時代の世界を再びみいだすために

  は、俳句の言葉が、真実のイマージュが

  あればいい。幼少時代がなければ真実の

  宇宙性はない。宇宙的な歌がなければポ 

  エジーはない。俳句はわたしたちに幼少

  時代の宇宙性をめざめさせる……



  行く汽車のなき鉄橋の夕焼くる



  「わたしたちが選びあつめる俳句作品は、

  わたしたちの幼少時代の夢想と同一の夢 

  幻状態へと導いていく……



  パン買いに近道とれば秋の蝶



 こんなふうに幼少時代という<イマージュの楽園>そのままの世界をみごとに写生してしまっている一句一句の俳句作品が、いまさら旅になんか出なくたって、ぼくたちの幼少  時代をめざめさせないはずはないのだ……



  川に沿へば川のひびきの春ちかし



 俳句の音数律が浮き彫りにするこうした真実のイマージュと、一句の背後の宇宙的な沈黙が、ぼくたちの幼少時代をしぜんとめざめさせ、それこそごく簡単に(いまはまだ無理だとしてもそのうちすぐにでも)俳句は、いつでも、ある様態の思い出、つまり、はるか時間の彼方、遠い日に<イマージュの楽園>で夢想なんかしてしまって限りなく幸福だった(らしい)ときの、その、ある様態の思い出の前に、ぼくたち俳句の読者を、まさに例外なく、つれていってくれるはず……



  星を見に出て秋燈のおびただし



  「何ごとも起こらなかったあの時間には、

  世界はかくも美しかった。わたしたちは

  静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの

  である」



 前回のものとかすでにいくつか俳句作品を味わってきたけれど、きょうまずはじめて読むのは鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)がみつけた幼少時代の思い出。

 5・7・5と言葉をたどっただけで、沈黙に縁どられた、静謐で寡黙な、これら一句一句の詩的情景(イマージュ)は、ぼくたちを幼少時代の思い出の前につれていってくれるだろうか……



  クリスマス・ツリーの星が雪の中


  父を壁とし父に()る日向ぼこ


  少年に(すみれ)の咲ける秘密の場所


  

  「ごく簡単に俳句はある様態の思い出の

  前にわたしたちをつれてゆく。わたした

  ちのなかで、今なおわたしたちの内部で、

  つねにわたしたちの内面で、幼少時代は

  ひとつのたましいの状態でありつづけて

  いる……

   


  すみれたんぽぽ切株が(きん)の椅子


  鰯雲土に円描く子の遊び


  父を踏台の遠花火も終る



  「記憶のなかにくだってゆくように、沈

  黙へおもむく詩がある……



  父とわかりて子の呼べる秋の暮


  乗りてすぐ市電灯()ともす秋の暮



  「何ごとも起こらなかったあの時間には、

  世界はかくも美しかった。わたしたちは

  静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの

  である……



  風光りすなはちもののみな光る


   (かもめ)まじへて海よりの南風(はえ)の使者


 

  「わたしたちの夢想のなかでわたしたち

  は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた

  たび見るのである」


 ぼくたちの心のなかの湖面のようなどこかは、これら10句の詩的情景(イマージュ)をしっかりと受けとめてくれただろうか。まさに、楽園のリアリズム。


  「イマージュを賞讃する場合にしか、ひ 

  とは真の意味でイマージュを受けとって

  いない」


 約束どおりそれなりのポエジーに出会えて「心の鏡」なんていう比喩(メタファー)はもう要らなくなった方も少なくはないと思うけれど、それでも、多少デタラメでも、イマージュというものがぼくたちを夢想なんかさせてしまうメカニズムを視覚化し、そうしたメカニズムの存在を確信させてくれたことのメリットは、やっぱり、とても大きかったと思う。

 つまり、そう、「幼少時代の核」があらわになった状態で俳句の言葉の表す「イマージュ」を湖面のようなどこかで受けとめて、そのことのもたらす幸福にうっとりすることが俳句における「言葉の夢想」。それを実現させるのが、夢想のメカニズム。と、たったこれだけで用が足りてしまったのだから。


  「ごく簡単に俳句はある様態の思い出の

  前にわたしたちをつれてゆく。わたした

  ちのなかで、今なおわたしたちの内部で、

  つねにわたしたちの内面で、幼少時代は

  ひとつのたましいの状態でありつづけて

  いる」


  「最初の幸福にたいし感謝をささげなが

  ら、わたしはそれをふたたびくりかえし

  てみたいのである」

   

 一句一句の俳句作品の詩的情景(イマージュ)がどこか幼少時代の色彩で彩られているみたいだと感じることができたとしたら、おなじことになるはずだけれど、それなりのポエジーを感じることができたとしたら、それは、ぼくたちの心のなかで、いつのまにか「幼少時代の核」があらわになってしまって、そうして、それと同時に出現した湖面のようなどこかでもって、まがりなりにも、そのイマージュがそれなりに受けとめられたことの証拠。


  「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ

  らゆるバリエーションはとりもなおさず、

  わたしたちのなかにある幼少時代の核が

  休みなく活動している証拠なのである」

  

 旅と俳句が、あるいは、旅抜きの俳句だけでも、目には見えないこの世の至宝ともいうべきそうした「幼少時代の核」をしぜんとあらわにしてしまって、ポエジー(旅先で味わうポエジーが旅情だった)という詩的なバリエーションを、だれもに体験させてしまうというすごい事実に、ぼくたちだけが気がついたのだった。あとは、復活する幼少時代をレベルアップさせながら夢想することに習熟すればいいだけなのだ、ということにも。


  「おそらく、イマージュの幸福な継起に

  したがって流れるか、あるいはイマージ

  ュの中心にあってイマージュが光るのを

  感じるか、二通りの夢想が可能ではある

  まいか」


 二通りの夢想。<イマージュの幸福な継起にしたがって流れる>ような夢想を楽しませてくれるのは詩や短歌だろうし<イマージュの中心にあってイマージュが光るのを感じる>ような本格的な夢想を体験させてくれるのが俳句、ということになるだろう。イマージュの中心にあって俳句で本格的な夢想をくりかえすことなしに、詩や短歌でイマージュの幸福な継起を体験できるはずもない。 

 けれども、この本のなかの俳句でポエジーに出会って、俳句のイマージュで本格的なポエジーを味わえるようになってきたら、なにか一冊、詩集のページを開いてみるといい。

 「立原道造詩集」「三好達治詩集」「リルケ詩集」「ヘッセ詩集」「ジャム詩集」……まああまりむずかしくないものがいいけれど、あんなにみつけにくかったイマージュが今度はしぜんと心に触れてきて、こうした素晴らしい詩集の幸福な読者になっている自分を発見して、そのことにきっと、信じられないような驚きと喜びを感じることになるだろう。

 むずかしいことなんか抜きにして、ただゆっくりと、一行一行、詩の言葉の意味をたどるだけで、いやでも<イマージュの幸福な継起>を体験して、だれもがきっと、この本を読む前には考えもしなかったような、素晴らしい詩的な喜びや感動を味わうことになるだろう。


  「ゆっくりと読書をすると、なんと多く

  の夢想が湧き上がってくることだろう」


  

 

できるだけ多くの方の目に触れるように、気恥ずかしいものもふくめて15ものキーワードを使いきりましたので、気軽に読めるような長さにひとつのパートを小分けにしていますし、たくさんの方にここまでたどりついていただくことを期待しておりますが、少しでも興味をもたれたようでしたら同時掲載の(パート3-その2~4)や「ヒサカズ ヤマザキ」の名前で検索していままでに投稿した(パート1~2)の10作品を読んでいただければ、残り少ない時間をもったいないほど使っているこの頑張りもむくわれると、心からそう思っております。

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