第10話 王室御用達の朝
朝陽が、商会の石造りの入口を斜めに照らしていた。
石工が脚立の上で、最後の金槌をひとつ軽く叩いた。
鉄の芯の鈍い音が、朝の空気に短く残った。
「——これで収まりました、代表」
「ありがとうございます」
脚立が下ろされる。石工が帽子を軽く持ち上げて挨拶した。
入口の上、私の背丈よりも少し高いところに、
磨き上げられた真鍮の、王家の紋が入った札が掲げられていた。
**リディア・カスティヨン商会 王室御用達**
朝の光が、真鍮の鷹の羽のところに当たって、金色に滲んでいた。
私は札の下に立っていた。
立っていた——というより、
動けなかった、と言ったほうが近かった。
見上げると、陽がまぶしくて、目の奥が熱くなった。
熱いのはたぶん陽のせいだ、と自分に言った。
◇
商会の扉のところから、クローディアが一度、顔を出した。
何も言わずに、顔を引っ込めた。
それで十分だった。
——「おめでとうございます」を、この人は三年、言わずにいてくれた。
言わない代わりに、匂い蝋燭をひとつ増やしてくれていた。
今朝もきっとどこかに、余計な蝋燭がひとつ灯っているはずだった。
石畳の朝露が、もう乾きはじめていた。
季節外れに早い、春の朝だった。
石畳の向こうから、ひとつの馬車の車輪の音が近づいてきた。
音だけで、誰の馬車かわかった。
——あの人は、車輪の音も落ち着いている。
◇
ジェラールが馬車を降りた。
「おはよう」
「おはよう」
「……札、綺麗に収まったね」
「ええ」
「——いい朝だ」
彼は札を見上げた。
私は彼の横顔を見ていた。
見ていたことに気づかれても、今朝はもう恥ずかしくなかった。
彼が札から視線を下ろした。
「リディア」
「うん」
「昨夜、言った件」
「……うん」
「話しても、いい?」
私は頷いた。
彼は懐から、小さな木の箱を取り出した。
掌の半分くらいの、古い木の箱。
蓋に細かい葉の彫刻が入っていた。
「——祖母上のお名前を、先に言わせてほしい」
私は息を止めた。
「メイベル・エヴァーハート様」
「……うん」
「君の、祖母上」
「うん」
「祖母上は若いころ、エスピエラの南部に、何度か茶葉の仕入れで足を運ばれていた」
「……」
「そのとき案内役をしていたのが、うちのカスティヨン商会の、前の代の番頭だった」
朝の風が、札の下の石畳を撫でていった。
「三年前。君の婚約破棄の噂を、エスピエラで聞いた」
「うん」
「その少し前に、当家のその番頭が亡くなっていた。——遺品の中に、メイベル様の古い手紙が、束で残っていた」
「……」
「読んだ。——君の名前が、何度も出てきた」
「……嘘」
「嘘じゃない」
私は札の下の、入口の石の段に手をついた。
つかないと——膝が笑いそうだった。
「『うちのリディアが、いつか大きな仕事をします。そのときは、ぜひお願いしますね』」
「……」
「そう書いてあった。——君が、十二歳のときの手紙だった」
ジェラールの声が少し低くなった。
「だから俺は、下書き稿の☆を見た日に——ああ、いま、そのときが来たのだ、と思った」
「……」
「茶葉は、祖母上の生前のひいきの銘柄を、半年かけて取り寄せた」
「……」
「君を探すきっかけが、メイベル様の手紙で。——」
そこで彼は止まった。
止まってから——息を吐いた。
「——君を、引き止めるきっかけが、欲しかった」
◇
木の箱が開いた。
中に、小さな金属の輪がひとつあった。
朝の光のなかで、金は金の色をしていなかった。
少し曇っていた。
——彼の手のひらの温度を、長い時間吸い込んでいた証拠だった。
「共同経営者として、ではなく」
彼はそこで、また止まった。
「——一人の、男として」
低い声だった。
低くて——震えていた。
「リディア・エヴァーハート」
「はい」
「私と、結婚してください」
その「はい」が私の返事ではなく、彼の問いかけに私が姿勢を正した音だったことを、
——彼は、たぶん分かっていた。
私は指輪を受け取る前に、
ジェラールの手のひらに、自分の手のひらを重ねた。
重ねてから、頷いた。
「——はい」
ひと言だった。
そのひと言のあいだに、私の三年間がぜんぶ入っていた。
◇
数日のあいだに、幾つかの知らせが商会に届いた。
ベルナルド伯爵からの改まった書状には、
「当家、今後、貴商会と十年の茶葉供給契約を結びたく」とあった。
エスピエラ南部の農園の使者は、
「王都の末席のお嬢様は、社交の場からしばらくお姿が見えないそうで」と、茶葉の報告のついでに口にした。
ヴァルデン侯爵家長男、ライナルト様からの、
封蝋の色をきっちり守った正式な書状も届いた。
——弟の件、母の件、三年前の件について、家として詫びる、という内容だった。
詫びは受けた。
返事は短く書いた。
「過ぎた時間を返していただく必要はございません。どうか侯爵家が、これからの時間を誠実に過ごされますように」と。
セオドア・ヴァルデン様のお名前は、その書状にはなかった。
地方のどの町の、どの親戚の家の、どの部屋に——それは知らないことにした。
エロイーズ・ヴァルデン様は、ご自身では便箋を取らなかった。
取らなかった、ということを、取らなかったという形で——私は受け取った。
◇
朝がまた来た。
商会の入口の、王家の紋の真鍮の札の下で、
ジェラールが私を待っていた。
「おはよう」
「おはよう」
「——入ろうか」
「うん」
私は札をもう一度、見上げた。
朝の光が鷹の羽を、やはり金色に滲ませていた。
三年前、私を捨てた家の深い赤の家紋を、
私はもう見上げていなかった。
今の私が見上げているのは、別の紋だった。
自分で選んで、自分で積み上げて、自分の名を刻んだ札だった。
扉が開いた。
入るときに、ジェラールの手がほんの少し、私の背に触れた。
重さのない、案内の手だった。
——三年前に捨てられた、私は。
今朝、ようやく選ばれた。
自分の手で築いた場所で、自分の選んだ人に。
扉が閉まる音が、朝の光のなかにひとつ、落ちた。




