第9話 王室御用達披露パーティー
大広間の高い天井に、シャンデリアの細かな結晶の音が降りていた。
——正確には聞こえていない。
聞こえていない音を聞いている気がするほど、広間の空気が、静かにはりつめていた。
王族テーブルの中央に、国王レオポルド三世陛下。
右手奥に外務卿。左手奥に王室商務官、ド・ラ・フォンテーヌ卿。
貴族テーブルの窓際に、ヴァルデン侯爵家の一同。
末席のほうに、子爵家の薄緑色のドレスの少女——ミリア・ラトガー。
みな、席に揃っていた。
壇の脇で、私は息を整えた。
手のひらの冷たさは——もう気にしないことにした。
ジェラールが壇の反対側の袖に立っていた。
目が合った。彼はほんの少し顎を引いた。
それで十分だった。
◇
「——リディア・カスティヨン商会、代表、リディア様」
進行役の声。
私は壇上に上がった。
足元の絨毯の毛足が柔らかかった。
絨毯の柔らかさをこんな時に意識する自分が、少しだけ可笑しかった。
壇上の小さな演台の上に、三年前の革表紙の冊子をそっと置く。
「本日はお招きを賜り、ありがたく存じます」
広間のいちばん奥の壁まで声が届くように、息をひとつ取った。
「——当商会の成り立ちにつき、お話をと賜りました。お時間を頂戴いたします」
冊子を開いた。
三年前の、私の字。
訂正の線のない、清書された交易計画書。
そのいちばん最初の頁に、私の目が触れた。
——「隣国エスピエラ、南部内陸の茶葉産地を起点とする、両王国間の長期にわたる交易の、構想」。
声にした。
自分の三年前の文字を声に出すのは——初めてだった。
書いた時は、まだ二十歳だった。
読み上げている今は、二十三歳。
そのあいだの三年間のことを——文字は知らない。
知らないのに、そこにちゃんといた。
◇
頁を進める。
広間が静かだった。
「——長期にわたる取引を、一年ごとの発注に分断せず、十年単位の契約として、両国の信用の基盤に据えること」
そこまで読んだとき、
国王陛下の低い、穏やかな声が、私の朗読にひとつ応えた。
「——素晴らしい構想だ」
広間の空気が一段、明るくなった。
拍手の直前の、ほんの一瞬の、あの明るさだった。
褒められた。
——それに気づいた瞬間、私の喉の奥が止まった。
(え)
(あ、だめ、これ)
(——声が、出ない)
頁の上の次の一文が、見えているのに読めなかった。
紙の白さだけが目の前に広がっていく。
(出ない)
胸のあたりで何かがぎゅっと縮んだ。
——そこに、壇上の私の左の肘のあたりに、
軽い手の温度が触れた。
ジェラールだった。
「——ありがとうございます、陛下」
彼の落ち着いた声が、私の喉の代わりに広間に流れた。
「当商会の長年の構想をお認めいただき、光栄に存じます」
彼の肘の、私の肘に添えられた指が——離れなかった。
離れないまま、私に小さく頷いてみせた。
(……ああ)
喉の奥が解けた。
私は頁の次の一文に、目を戻した。
◇
「——では、本日、この場にて」
王室立会人の声が、広間の中央に流れた。
「エスピエラ王国カスティヨン本家、ならびに当王国リディア商会との、
十年にわたる茶葉交易契約を、王室の立会いのもと、ここに正式に締結する」
契約書が運ばれた。
私の署名。ジェラールの署名。
王室立会人の封印。
紙の上の乾いたインクが——十年分の未来に輪郭を持った。
広間の、貴族テーブルの窓際の方向から、
かしゃん、と乾いた音がひとつ聞こえた。
ワインのグラスがソーサーに落ちた音だった。
◇
音のした方を、私は見ていない。
見なくても、誰の席から聞こえたか、広間の人は全員わかっていた。
視線だけが、そちらに流れた。
視線の流れる音が——聞こえる気がした。
セオドア・ヴァルデン。
彼の胸元の白い布に、赤が広がっていた。
手が震えていた。
口元が動いた。
何か小さな音節を繰り返していた。
——たぶん、「☆」の数字を。
思い出したのだ、と壇上の私はようやく理解した。
三年前、自分が何を書き込んだかを、
三年前、自分が何を朗読して笑ったかを、
彼は忘れていた。
忘れていたものが、今日、この広間で——ぜんぶ一度に戻ってきた。
私は冊子を閉じた。
そのあと国王陛下が、王室立会人を呼び、低く穏やかに言った。
「ヴァルデン侯爵家の茶葉供給の件は——当該商会に一任する」
広間が、再び静まった。
今度の静けさは、息を呑む種類のものだった。
◇◇
馬車の車輪の音が、乾いた石畳を叩いていた。
わたくしは夫のすぐ横に座っていた。
座っていた、はずだった。
馬車の揺れのどの瞬間も、わたくしには届いていなかった。
陛下のお声が耳の奥に残っていた。
「当該商会に、一任する」。
公式のお言葉だった。
侯爵家の今後の茶葉供給は、わたくしたちの手の中からはもう出ていった。
三年前、わたくしはひとりの娘を、この家から出した。
三年前に出したものが、三年後に——家全体を外側から縛ることになった。
夫は何も言わなかった。
夫が何も言わないときの方が、夫が言葉を発するときよりも——わたくしには重い。
「——私たちは、自分の家の未来を、自分で潰したのね」
言ってしまってから、わたくしは唇を噛んだ。
言葉にしてはならない種類の事実だった。
言葉にしてしまった事実は——もう取り消せない。
侯爵家の深い赤の家紋が、馬車の扉の内側で、
淡い灯りに揺れていた。
◇◇
王宮の西翼のテラス。
披露パーティーの余韻が、大広間の方から遠く漏れていた。
笑い声と、硝子のぶつかる音と、楽団の終盤の旋律。
春の夜の風が、テラスの石の手摺を冷たくしていた。
ジェラールと私は、肩が触れない距離で並んで立っていた。
「……お疲れさま」
「お疲れさま」
「ジェラール」
「うん」
「肘」
「うん」
「……ありがとう」
「仕事だ」
「またそれ」
彼は笑った。
ひと呼吸分だけ、短く。
そのあとで、テラスの手摺の向こうに視線を戻した。
「リディア」
「なに」
「明日の朝、商会で会いましょう」
その言い方が——いつものビジネスの約束の言い方とは、
違う層にある気がした。
気がしただけ、かもしれない。
でも今夜は、気がしただけでも十分だった。
「うん」
と、私は答えた。
春の夜空に、星がひとつ、やけにはっきりとあった。
——なんの星なのかは知らない。
知らなくても、そこにある星だった。




