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三年後、王室御用達になった私の商会に、元婚約者が面接に来ました  作者: 秋月 もみじ


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8/10

第8話 披露パーティー前夜


指先が冷たくなっていた。


王都の定宿の、上階の一室。

暖炉にはついさっき、宿の主人が薪を組み直してくれたばかりだった。

新しい薪の、松脂の甘い匂いが、部屋の上の方にゆっくり広がっている。

窓の向こうに王宮の尖った塔の輪郭だけが、夕方の光のなかに灰色に浮かんでいた。


明日の朝、あの塔の下の大広間で、王室御用達の披露パーティーが行われる。


机の上には、献上茶葉の桐箱が五つ。

エスピエラ南部の内陸の農園から届いた新茶。

輸送中の湿気対策。葉の照りのぐあい。香木の紙の包みの、折り目の合わせ方。

——何度も点検した手順を、もう一度点検していた。


点検しないと落ち着かない、という種類の手の動きだった。


湯を沸かしてもらう。

試し淹れの温度は、少しだけ低めに。

国王陛下のお年のこと。明日の大広間の気温のこと。

全部、頭のなかで組み上げていた。


それでも。


持ち上げた茶匙の先が、ひとつ分かすかに震えた。


(……だめだ、これは)


茶匙を置く。

両手を膝の上で組み直す。

窓のほうを見る。王宮の塔はもう、夕方の色に沈んで、黒に近づいていた。


明日の挨拶で何を言えばいいのか。

商会の成り立ちを話してほしい、と進行役からあらかじめ依頼されていた。


商会の成り立ち。


——私の三年。


喉の奥が乾く気がした。



扉を叩く音がした。


音、というほど強くなかった。

——こぶしで叩くのではなく、指の背で軽く触れる種類のノック。

ジェラールだ、と扉を開ける前にわかった。


「どうぞ」


扉が開いた。


「……疲れてない?」

「疲れてる。でも、大丈夫」

「入っていい?」

「うん」


彼は片手に、紙包みを持っていた。

いつもの商会の紙ではなかった。

——王都の古い菓子店のものだった。私が三年前に時々通った、あの店。


「覚えてたの」

「たまたま、通った」

「またそれ」


笑いたくて、笑えなかった。


彼は机の端に紙包みを置いた。

茶葉の桐箱の並びから、少し離れた場所に。

——桐箱の香りを邪魔しないように計算した場所だった。


この人の指は、いつも計算する。



「ジェラール」

「うん」

「ひとつだけ、聞いてもいい?」

「なに」

「祖母の、ブレンド」


彼の視線が、一度、私から窓の外にそれた。

それてから、戻ってきた。


「——偶然、ね」

「偶然じゃ、なかった」

「知ってた」


肩を下げた。

彼は椅子の背もたれに軽く手を置いた。座らなかった。


「探していた期間だけ、言う」

「……」

「半年」

「半年」

「それだけ、今夜は、言う」


それだけ、今夜は、——と言った。


残りの話は、いつかする、という含みだった。

含みは拾わないことにした。

拾ったら、たぶん明日の朝、茶匙をまた震わせる。


「……ありがとう」

「君の祖母の茶葉を、君に返したかった」


それだけ彼は言って、話題を変えた。


「明日、進行役から挨拶を頼まれているんだろう」

「うん」

「何を話せばいい?」

「何も」


短く落ちた。


「——何も?」

「何も上乗せしない。君が書いた、三年前の計画書を、そのまま読めばいい」

「読むだけ」

「読むだけで、足りる」

「……」

「君は三年前から、王族に見せて恥じない仕事をしてきた」


その一言の温度が——私の指先の冷たさを押し返した。


(……ああ)

(私、この人に、知られてしまったな)


知られる、というのは、たぶんこういうことだ。

三年前の自分の下書きの、☆の筆圧まで、この人に触られた、ということだ。


私は両手をひざに乗せ直した。


「……うん」

「いい顔になった」

「そう?」

「うん。いい顔」


彼はそれ以上、言わなかった。



扉のところまで見送りに立った。


「リディア」

「なに」

「明日、終わったら」


そこで、止まった。


扉の把手の真鍮の冷たさを、指で撫でた。

——撫でる必要のない撫で方だった。


「——話したいことがある」


私は彼を見ていた。

見ていて、答えを少しだけ溜めた。

溜めてから、頷いた。


「待ってる」

「うん」


扉が閉まった。


廊下の絨毯の上を、遠ざかる足音がしばらく続いた。

途中で、聞こえなくなった。


私は扉の把手のところに手を添えたまま、動けなくなった。

動かないまま、呼吸だけをしていた。


扉越しにジェラールの気配が、遠ざかる前に一度、止まった。

止まったのが、聞こえた気がした。

聞こえた、という確信はなかった。

——なくて、よかった。

あったら、たぶん、扉を開けてしまっていた。



夜が更けた。


別の、控えめなノックが扉を叩いた。


セルジュだった。

腕に、大きめの紙筒をひとつ抱えていた。


「代表、夜分に失礼いたします」

「入って」


机の上に紙筒の中身を広げる。

——明日の、大広間の配置図だった。


セルジュはペン先で三箇所を順に指した。


「セオドア様の席は、壇上からちょうど視界に入ります」

「——見える位置ね」

「はい」

「エロイーズ様は、王族テーブルのすぐ近く」

「陛下から見えるところ」

「そうなります。それから、ミリア・ラトガー様は末席です」


セルジュのペン先が、末席の位置で止まった。

彼はペンを置いた。


「全員、——逃げ場のない位置です」


そう言いきるときのセルジュの肩のあたりに、

小さな満足げな気配が——あったように思えた。


セルジュは、ジェラールが孤児のころから引き上げた子だった、と一度だけ聞いたことがある。

この三年、セルジュが私に三年前の話を尋ねてきたことは、一度もなかった。

尋ねる必要が、彼のなかではもう、なかったのかもしれない。


私は配置図の紙の端を指でなぞった。


「……ありがとう」

「おやすみなさいませ、代表」

「おやすみ、セルジュ」


扉が閉まった。


机の上に、献上茶葉の桐箱が五つ。

王都の菓子店の紙包みがひとつ。

三年前の私の計画書が一冊。

そして——明日の配置図。


窓の向こうの王宮の塔は、もう完全に夜の色のなかに沈んでいた。


明日の朝、あの塔の下で、答え合わせをする。


怖くはなかった。

ただ——手の先がまだ冷たかった。


紙包みを開けた。

懐かしい、小麦と、バターと、少し焦げた糖の匂いがした。


——「半年」。


もう一度、頭の中でその言葉を噛み直した。

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