第8話 披露パーティー前夜
指先が冷たくなっていた。
王都の定宿の、上階の一室。
暖炉にはついさっき、宿の主人が薪を組み直してくれたばかりだった。
新しい薪の、松脂の甘い匂いが、部屋の上の方にゆっくり広がっている。
窓の向こうに王宮の尖った塔の輪郭だけが、夕方の光のなかに灰色に浮かんでいた。
明日の朝、あの塔の下の大広間で、王室御用達の披露パーティーが行われる。
机の上には、献上茶葉の桐箱が五つ。
エスピエラ南部の内陸の農園から届いた新茶。
輸送中の湿気対策。葉の照りのぐあい。香木の紙の包みの、折り目の合わせ方。
——何度も点検した手順を、もう一度点検していた。
点検しないと落ち着かない、という種類の手の動きだった。
湯を沸かしてもらう。
試し淹れの温度は、少しだけ低めに。
国王陛下のお年のこと。明日の大広間の気温のこと。
全部、頭のなかで組み上げていた。
それでも。
持ち上げた茶匙の先が、ひとつ分かすかに震えた。
(……だめだ、これは)
茶匙を置く。
両手を膝の上で組み直す。
窓のほうを見る。王宮の塔はもう、夕方の色に沈んで、黒に近づいていた。
明日の挨拶で何を言えばいいのか。
商会の成り立ちを話してほしい、と進行役からあらかじめ依頼されていた。
商会の成り立ち。
——私の三年。
喉の奥が乾く気がした。
◇
扉を叩く音がした。
音、というほど強くなかった。
——こぶしで叩くのではなく、指の背で軽く触れる種類のノック。
ジェラールだ、と扉を開ける前にわかった。
「どうぞ」
扉が開いた。
「……疲れてない?」
「疲れてる。でも、大丈夫」
「入っていい?」
「うん」
彼は片手に、紙包みを持っていた。
いつもの商会の紙ではなかった。
——王都の古い菓子店のものだった。私が三年前に時々通った、あの店。
「覚えてたの」
「たまたま、通った」
「またそれ」
笑いたくて、笑えなかった。
彼は机の端に紙包みを置いた。
茶葉の桐箱の並びから、少し離れた場所に。
——桐箱の香りを邪魔しないように計算した場所だった。
この人の指は、いつも計算する。
◇
「ジェラール」
「うん」
「ひとつだけ、聞いてもいい?」
「なに」
「祖母の、ブレンド」
彼の視線が、一度、私から窓の外にそれた。
それてから、戻ってきた。
「——偶然、ね」
「偶然じゃ、なかった」
「知ってた」
肩を下げた。
彼は椅子の背もたれに軽く手を置いた。座らなかった。
「探していた期間だけ、言う」
「……」
「半年」
「半年」
「それだけ、今夜は、言う」
それだけ、今夜は、——と言った。
残りの話は、いつかする、という含みだった。
含みは拾わないことにした。
拾ったら、たぶん明日の朝、茶匙をまた震わせる。
「……ありがとう」
「君の祖母の茶葉を、君に返したかった」
それだけ彼は言って、話題を変えた。
「明日、進行役から挨拶を頼まれているんだろう」
「うん」
「何を話せばいい?」
「何も」
短く落ちた。
「——何も?」
「何も上乗せしない。君が書いた、三年前の計画書を、そのまま読めばいい」
「読むだけ」
「読むだけで、足りる」
「……」
「君は三年前から、王族に見せて恥じない仕事をしてきた」
その一言の温度が——私の指先の冷たさを押し返した。
(……ああ)
(私、この人に、知られてしまったな)
知られる、というのは、たぶんこういうことだ。
三年前の自分の下書きの、☆の筆圧まで、この人に触られた、ということだ。
私は両手をひざに乗せ直した。
「……うん」
「いい顔になった」
「そう?」
「うん。いい顔」
彼はそれ以上、言わなかった。
◇
扉のところまで見送りに立った。
「リディア」
「なに」
「明日、終わったら」
そこで、止まった。
扉の把手の真鍮の冷たさを、指で撫でた。
——撫でる必要のない撫で方だった。
「——話したいことがある」
私は彼を見ていた。
見ていて、答えを少しだけ溜めた。
溜めてから、頷いた。
「待ってる」
「うん」
扉が閉まった。
廊下の絨毯の上を、遠ざかる足音がしばらく続いた。
途中で、聞こえなくなった。
私は扉の把手のところに手を添えたまま、動けなくなった。
動かないまま、呼吸だけをしていた。
扉越しにジェラールの気配が、遠ざかる前に一度、止まった。
止まったのが、聞こえた気がした。
聞こえた、という確信はなかった。
——なくて、よかった。
あったら、たぶん、扉を開けてしまっていた。
◇
夜が更けた。
別の、控えめなノックが扉を叩いた。
セルジュだった。
腕に、大きめの紙筒をひとつ抱えていた。
「代表、夜分に失礼いたします」
「入って」
机の上に紙筒の中身を広げる。
——明日の、大広間の配置図だった。
セルジュはペン先で三箇所を順に指した。
「セオドア様の席は、壇上からちょうど視界に入ります」
「——見える位置ね」
「はい」
「エロイーズ様は、王族テーブルのすぐ近く」
「陛下から見えるところ」
「そうなります。それから、ミリア・ラトガー様は末席です」
セルジュのペン先が、末席の位置で止まった。
彼はペンを置いた。
「全員、——逃げ場のない位置です」
そう言いきるときのセルジュの肩のあたりに、
小さな満足げな気配が——あったように思えた。
セルジュは、ジェラールが孤児のころから引き上げた子だった、と一度だけ聞いたことがある。
この三年、セルジュが私に三年前の話を尋ねてきたことは、一度もなかった。
尋ねる必要が、彼のなかではもう、なかったのかもしれない。
私は配置図の紙の端を指でなぞった。
「……ありがとう」
「おやすみなさいませ、代表」
「おやすみ、セルジュ」
扉が閉まった。
机の上に、献上茶葉の桐箱が五つ。
王都の菓子店の紙包みがひとつ。
三年前の私の計画書が一冊。
そして——明日の配置図。
窓の向こうの王宮の塔は、もう完全に夜の色のなかに沈んでいた。
明日の朝、あの塔の下で、答え合わせをする。
怖くはなかった。
ただ——手の先がまだ冷たかった。
紙包みを開けた。
懐かしい、小麦と、バターと、少し焦げた糖の匂いがした。
——「半年」。
もう一度、頭の中でその言葉を噛み直した。




