第7話 「☆採点 2/10」の筆跡
応接室の扉を開けた瞬間——侯爵家の家紋の入ったハンカチが、机の縁にひとつ置かれていた。
「お久しぶりですわね、リディア」
エロイーズ・ヴァルデンは立ち上がらなかった。
侯爵家の人間が商人の応接室で立ち上がる必要はない、と、その座り方が言っていた。
私は旅装のまま応接室に入っていた。
手袋だけ外した。それ以外を整える時間はなかった。
「お待たせいたしました、侯爵夫人」
腰を折る角度を、商人が商人の応接室で客を迎えるときの角度に合わせる。
三年前まで母に教えられていた角度より、少し浅い角度だった。
「本日は先触れもなく、突然のご来訪、どういったご用件でしょうか」
「先触れ?」
「——お約束、のことでございます」
彼女はハンカチを指先で撫でた。
「春の茶会のこと、お耳に入って?」
「存じ上げております」
「当家の——銘柄の特別なブレンドを、今期も継続で」
そこで彼女はほんの少し言い淀んだ。
「継続」という言葉を言い切るのに、息をひとつ分、余計に使った。
「お取引をお願いできればと」
私は机を挟んで立ったまま答えた。
「その件につきましては、先日、商会からお送りした書面のとおりでございます」
「あの書面は——」
「主要取引先の見直しを経た、正式な決定でございます」
「……」
「お取引の再開は、お受けいたしかねます」
侯爵夫人の、ハンカチの上の指が止まった。
「リディア」
「侯爵夫人」
「……話し合いの余地は」
「ございません」
短い。
短いほど、商会の方針として筋が通る。
——余計なことは、書かない。言わない。
「本日は遠方よりお越しいただき、ありがとうございました」
そのまま私は、扉のほうに視線を向けた。
彼女は立ち上がった。
立ち上がるときの絹の裾の音だけが、応接室のいちばん大きな音だった。
扉が閉まる音を聞いてから、私はようやく息を吐いた。
◇
執務室にジェラールが来た。
来る前に、私は自分の靴の砂埃を払う余裕があったはずだった。
あったのだけれど、払わなかった。
——払う前に、彼が来た。
「……お帰りなさい」
「お帰りなさい」
「そっちも、お疲れさま」
「リディア」
彼は両手で、古い革の冊子を持っていた。
商会の金庫の鍵の音が、さっき廊下で聞こえていた気がした。
「馬車の中で、話したいと言った件」
「……うん」
「これを、見てもらいたかった」
机の上に冊子を置く。
——私の、三年前の計画書の下書き稿だった。
きれいに清書する前の紙。
訂正の線。余白の計算の走り書き。インクの染み。
私が半年書き続けた、その途中の姿。
「これ、なんで、あなたが」
彼は椅子に座らなかった。
立ったまま、机の、自分の手の甲を見ていた。
「三年前、君の家の元執事の女性から譲り受けた」
「……」
「婚約破棄の翌週、彼女が君の部屋の片付けを任されていた。君の家は下書き稿を捨てるつもりだった。——捨てるなら、と頼んで、出してもらった」
「なんで」
「この下書きを見た日から——君を探し始めた」
私は冊子を指でめくった。
余白に、細い、小さな、私自身の走り書き。
訂正線。インクの滴り。
そして——最後の頁の余白に、**☆**。
下書き稿の、☆。
これは——私の書いた、☆だ。
もう一冊の原本の☆は、セオドアが書き込んだ☆だ。
ふたつを並べた。
原本の☆の上の、線の角度。
筆圧の、はねの方向。
点数の、数字の丸みの癖。
——今日届いた履歴書の右上の☆と、ぴったり重なった。
(あった)
(——あった)
私の下書きの☆は、まだ誰にも見せていない星だった。
セオドアの☆は、嘲笑うための星だった。
同じ形をしていても——同じ星ではなかった。
「三年前、この書き込みを見た日」
ジェラールの声が、ふだんよりさらに低く落ちた。
「この『☆』を書いた男とは、生涯、仕事をしない、と決めた」
短かった。
短くて——それだけで三年ぶんの全部だった。
私は冊子の縁を指でなぞった。
なぞる指先が震えていた。
三年前の自分の走り書きを、三年後に、私以外の誰かが、こんなに大切に保管していたという事実を——どう受け止めればいいのか、わからなかった。
「リディア」
「……うん」
「君の答え合わせの、準備は、できている」
私は顔を上げた。
彼は私を見ていた。
見ていて——目をそらさなかった。
(ああ、この人は)
胸の奥のほうで、ずっと鈍く低く鳴っていたものが、
ここでようやく——高い音をひとつ鳴らした。
恩人。共同経営者。出資者。
私がこの人を呼ぶときに使ってきた、いちばん内側の呼び方が、
今夜、はじめてひとつ剥がれた。
◇◇
——地方の、親戚の家の、離れの客間。
ランプの油が少ない。明日、補充してもらわなくては。
そんなことを、僕は考えていた。
兄上からの手紙が、今日、届いた。
開けるのに、半日かかった。
「セオドア。
母上に、頭を下げられた。
お前の名も、披露パーティーの客に入れさせた。
ヴァルデン家の次男としての、最後の機会だ。
行け。
そして、お前の口で、話せ。」
——母上に、頭を下げ、られた。
「られた」、だ。
兄上が母上に頭を下げさせた、わけではない。
母上が自分から兄上に頭を下げた、ということだ。
そこまで読んだところで、僕は手紙を机に伏せた。
王室御用達の、披露パーティー。
商会の名前は——わかっている。
この三年間、僕の中で「☆」は、一度も思い出されたことがなかった。
思い出されたのは、彼女が商会を育てたという噂が聞こえてきた日からだった。
でも、具体的に何を書いたかは、もう覚えていない。
覚えていなかった。
覚えていない、ということが、いま——たぶん、僕のいちばんの問題だった。
◇◇
翌朝、商会の事務室。
王宮からの公式の封書が届いた。
王室御用達披露パーティーの、招待客名簿。
リストの中に——セオドア・ヴァルデン、エロイーズ・ヴァルデン、ミリア・ラトガーの名が揃っていた。
私は名簿を二度、読み返した。
偶然ではない。
誰かが意図して、この三人の名をこの名簿に並べた。
ペンを置く。
窓の外の春の光が、机の端の冊子の革の表紙を照らしていた。
——答え合わせの舞台は、もう整っていた。




