第6話 王都で、三年ぶりに
王都に、三年ぶりに入った。
国境の検問を越えてから、街道の景色がだんだんと馴染みのある色に変わっていった。
乾いた、白っぽい石の壁。道沿いに並ぶ、濃い緑の糸杉。
二十歳までの私が、何度も馬車の窓から眺めた、あの色。
変わっていないものを見るたびに——変わったのは自分の方だったと思い知る。
「リディア」
「はい」
「少し寝たほうがいい。着いたら、会合まで時間がない」
「……ジェラールは?」
「俺は、着いてから寝る」
「いつもそう言う」
馬車の向かい側で、彼は窓枠に軽く頭を預けた。
目を閉じるのが早い人だ、と私は思う。
——たぶん、閉じているだけで眠ってはいない。
そういう人の眠り方を、商会の三年でだいぶ覚えてしまった。
◇
王都の、商業ギルド会館。
三年前まで、父と馬車で通り過ぎるだけだった、あの石造りの建物。
正面の石段は、二十歳までの私の記憶より少しすり減っていた。
たくさんの人がこの三年で、ここを上り下りしたのだ。
石段の手前で、息を整えた。
ジェラールが先に上って、扉を開けた。
押さえて、私が通るのを待っている。
——そういう扉の開け方をする人だ。
ときどき、このひとの育ちがわからなくなる。
王室御用達認定の最終審査に先立って、関係する商会の代表を集める、公式の顔合わせの場。
議長役は、王室商務官のド・ラ・フォンテーヌ卿。
——中立で手順に厳しく、有能。三年前の私が、噂だけで知っていた名前。
前室の広い絨毯の上で、私とジェラールは挨拶をいくつか交わした。
「カスティヨン商会の代表ですわね」
「王室御用達の認定が近いとか」
「エスピエラの茶葉、うちでも扱えないかしら」
そう言う声の半分は好意だった。
もう半分は、好意の顔をしていた。
前室の奥の壁際に、見覚えのある薄緑色のドレスがいた。
——アンジェラ・メリヴェール令嬢。
三年前、私の婚約破棄の噂が社交界に流れた週のお茶会で、
私の噂を誰よりも熱心に広めていた人だった。
目が合った。
一拍の間のあとで、彼女はとなりの令嬢に顔を寄せた。
声は小さかった。
小さかったのに、私のところまで届いた。
「——ほら、あの、商人になった元令嬢」
となりの人が、ちいさく笑った。
「商人の真似事をしていたら本物になったのね」
「真似事が板についてしまう、という例かしら」
「嫌だわ」
私は何か言い返そうと——息を吸いかけた。
◇
その瞬間に。
「失礼」
低い声が横から入った。
ジェラールだった。
彼の手が、——私の手を取った。
握るのではなく、取る、という動きだった。
「ここにはもういない」と形で示すための、手の取り方。
「代表が体調を崩されたようです。早めに退出いたします」
「ジェラール様」
「議長閣下には、私から別室でお詫びいたします」
彼はそう言い切って、そのまま私を連れて前室の外へ歩いた。
議長のド・ラ・フォンテーヌ卿が、前室の別の入り口のところに立っていた。
彼は、私たちが歩いていく方向を見ていた。
見ていて——手元の紙に、一度だけペン先を走らせた。
何を書いたのかはわからなかった。
ただ、書いたという動作だけが視界の隅に残った。
◇
会館の裏通りに出た。
春の午後。風が少しだけ埃っぽかった。
糸杉の並木の途切れたところに、小さな花屋の看板が斜めに立っていた。
店先に、白と淡い黄色の、名前を知らない花が束で並んでいる。
店主らしい老婦人が、バケツの水を柄杓でゆっくり替えていた。
——商業ギルド会館の裏の世界には、ちゃんと生活が続いているのだった。
当たり前のことに、私は少し救われた気がした。
ジェラールは、そこでようやく私の手を離した。
離してから、一瞬、自分の指を見た。
「……ごめん」
「え?」
「途中で、連れ出した」
「——いいえ」
「君が、言い返そうとしていた」
「……していた」
「あの場所で、君が言葉を使う価値がない」
そう言って、彼は私を見た。
見て——それから動けなくなっていた。
私のことを見たまま、目だけが私の顔のあちこちを探していた。
髪の生え際か、目のあたりか、口元か。
探してから、自分で探したことに気づいて、視線を逸らした。
(……なに、今の)
胸の奥のほうで、小さな音がひとつだけ鳴った。
「あんな場所に、長くいさせたくなかった」
独り言のように、彼は落とした。
私は何も言わなかった。
何か言ったら——顔の熱が声に出る気がした。
◇
帰路の馬車の中。
王都の城門をくぐって、王国の街道に出た。
街道の並木が、だいぶ薄暗くなってきている。
車輪が石畳から固めた土の道に変わる、あの音。
気づくと、私はその音ばかり聞いていた。
考えることが他にもたくさんあったはずだった。
王室御用達の最終審査の進み方。ド・ラ・フォンテーヌ卿の、あのペン先。
エスピエラの農園からの今月の出荷量。
なのに頭の中で鳴っているのは、車輪の音と、さっきのジェラールの手の重さだけだった。
我ながら、と思う。
会合の結果の方が、商会の代表としては大事なはずなのに。
「リディア」
ジェラールの声が、馬車の揺れのあいだに混じった。
「なに」
「……近いうちに、話したいことがある」
「仕事?」
「いや」
そこで一度、止まった。
「仕事ではない、話」
窓の外を見ていた横顔が、少しだけ歪んだ。
歪んだのはたぶん、馬車の揺れのせいだったと思いたかった。
「——わかった」
短く答えた。
それ以上、聞かなかった。
聞いたら、たぶん彼は、今、ここで話してしまう。
——こういう話は、商会の机の前で、昼の光の中でするべきだと思った。
思ったことが正しかったかは、わからない。
彼はもう一度、窓の外に視線を戻した。
◇
エスピエラの、商会の正面玄関。
馬車を降りた瞬間だった。
商会の重い木の扉が、中から勢いよく開いた。
「代表!」
番頭のセルジュだった。
ふだんはどんな急ぎのときでも、一度呼吸を整えてから声をかける男が、
玄関先の石畳まで小走りで降りてきた。
「代表、ご帰還のところ申し訳ございません」
「セルジュ、どうした」
「——ヴァルデン侯爵夫人、エロイーズ様が、応接室にいらっしゃっています」
私の旅装の手袋の中で、指先がきゅっと閉じた。
「いつから?」
「昼の少し前からです。お通しいたしました」
「お通ししたのね」
「——代表のお帰りをお待ちになる、と」
ジェラールの顔を見た。
彼も同じ表情だった、と思う。
私は手袋を外した。
まだ、春の昼の余熱のある手袋だった。




