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三年後、王室御用達になった私の商会に、元婚約者が面接に来ました  作者: 秋月 もみじ


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第5話 侯爵夫人の茶会から、茶葉が消えた日


エロイーズ・ヴァルデンからの手紙への返事を、私は結局、書かなかった。


書かないと決めたわけではなかった。

ペンを取ろうとするたびに、別の書類が机の上にやってきた。

関税局への確認書。新しい仕入れ先への照会状。クローディアがまとめてくれた月次の報告書。

どれも、あの赤い封蝋よりは急ぐ。——そういうふりをしていた。


ふりをしていたのだと、今ならわかる。


一週間後の朝。


商会の事務室に、ふたたび同じ家紋の封蝋が届いた。



今度はエロイーズからではなかった。


**ヴァルデン侯爵家 管財室**


差出人の欄には、そうあった。

——侯爵家が正式に商会へ宛てた発注書だった。


封を切ると、いつもの取引先が使う定型の注文書式。

ただ、依頼内容の欄が長かった。

特別ブレンドの複数銘柄。量も通常より多めに。

備考欄には、上品な筆跡で——


「本件、当家、春の主要茶会のため、最上の品をご用立て願う」


春の主要茶会。


エロイーズの、年に一度の、社交界での総決算の日。


三年前までの私は、その日のために半月前から侯爵家の茶葉蔵に通っていた。

知っている。よく知っている。


私は注文書を机の真ん中に、そっと伏せて置いた。


返事は急がない。

急がないほうが——たぶん、正しい。



ところが午後、クローディアが一枚の書類の控えを持ってきた。


「リディア様。昨日、ヴァルデン侯爵家の件について、ジェラール様の名前で商会から返信が出ております」


「……え」


控えを受け取る。

目で追う。


——「弊商会、主要取引先の見直しを経て、今期をもって、ヴァルデン侯爵家との茶葉取引は終了と致しました」


短い、一文。

商会名義。署名はジェラール。


私の名前はどこにもなかった。



ジェラールを探した。


商会の奥の、資料室の机で、彼はエスピエラ国の関税表を見ていた。


「ジェラール」

「うん」

「これ」

「見た? そう、出した」

「……一言、私になかった」

「急ぎだった。——と、言い訳してもいいか?」


振り向いた彼の目は、少しだけ疲れていた。

昨日こんな目をしていたかな、と私は思う。


「私の名前」


と、私は言った。

それだけ言って、止まった。


「——出さなかったの?」


彼は関税表のページの角を折り直した。


「君の名前を、敵の前で、出したくなかった」


短かった。

言い訳にも弁解にもなっていない——ただの事実を置いた。


「……」


何か言い返そうとして、言葉が喉の途中で止まった。

鎖骨のあたりの皮膚が熱くなっていくのがわかる。

それが顔にまで届いていないか、私は必死に祈った。


届いていた、たぶん。


下を向いた。


「……そう」

「ごめん。勝手に出した」

「……いいえ」

「いいえ?」

「いいえ」


彼は関税表に視線を戻した。

戻したように見せていた。


耳がほんの赤いのは——私の気のせいかもしれない。

たぶん気のせいだ。


そう思うことにした。


資料室を出る。

廊下を歩く。

自分の執務室に戻るまでに、何度か息を吐いた。

吐かないと、顔の熱が引かなかった。



春の主要茶会が週末に行われた。


私は当然、招待されていない。


それでも、業務のあいだに、噂のかけらが別の取引先の使者からぽろぽろとこぼれた。


「例年より少のうございましたな、招待客」

「目玉の茶葉が間に合わなかったらしく」

「代わりに出されたのが——ふつうの紅茶でして」


そう言いながら、使者は声を落とした。


「侯爵夫人様、終始、笑顔ではございましたが、——その笑顔の角度が、少々、変でございました」


商会から卸している上等な紅茶を勧めた。

使者は恭しく受け取って帰っていった。


その夜、窓の外に春の最初の強い風が吹いた。

商会の看板が、かたんと一度鳴った。


◇◇


客を見送る最後の会釈のあと、わたくしは応接間に戻った。


——客人のいなくなった応接間は、こんなに広かっただろうか。


今年の卓を飾った茶葉は、わたくしがふだん使う種類ではなかった。

それに気づいた客が何人いただろう。

——いや、何人、気づかないふりをしていてくれただろう、と数え直すのが正しい数え方だった。


今朝、商会から届いた短い返信。

読んだ瞬間、わたくしは手が震えた。

震えて、それから怒った。


主要取引先の見直し。


——当たり前のことを、当たり前のように書いてきたのだ。

ただそれだけの文面が、三年前のあの日から今日までのすべてをひとまとめにして、わたくしの顔に投げ返してきた。


なぜ。


なぜあの娘が、今さら、この家を拒めるのか。


拒まれるということが、わたくしの人生の中にない。

拒まれる側に立ったことがない。

——立たされないために、わたくしは長い年月、言葉を選んできた。


「お前が、原因だろう」


夫の声だった。

応接間の扉の向こう側から聞こえた。


返事をしなかった。


返事をする方法が、わからなかった。


◇◇


翌日以降、商会には、別の取引先からも似たような雑談が続いた。


「春の、次の茶会に至っては、——招待状が前年の半分にも届かない家が、多いようで」


私は事務室の窓際に立っていた。


春の風がまだ吹いている。

商会の看板の下で、ランプがひとつ揺れていた。


——三年前の、二十歳の私が、もしここに立っていたら、何を思うだろう。


たぶん、「やっと」と思う。


今日の私は少し違った。


やっと、ではなくて。

——「ここから」。


そう思った。



机の上には、まだ侯爵家の発注書が伏せて置いてある。


返事は書かない。

商会として、もう返した。

それで十分だった。


私が今、書くべきなのは——別の手紙のほうだ。


引き出しから、新しい便箋を取り出した。


インクを淹れ直す。

ペン先の、前の乾きをふき取る。

紙のわずかに粗い手触りを、指先で確かめる。


宛名を書く前に、手が止まった。


(エロイーズ・ヴァルデン様)


息子の件で、会いに来るのだろう。

——来るなら、来ればいい。


ただし。


日時は、わたくし——いいえ、私が決めます。

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