第5話 侯爵夫人の茶会から、茶葉が消えた日
エロイーズ・ヴァルデンからの手紙への返事を、私は結局、書かなかった。
書かないと決めたわけではなかった。
ペンを取ろうとするたびに、別の書類が机の上にやってきた。
関税局への確認書。新しい仕入れ先への照会状。クローディアがまとめてくれた月次の報告書。
どれも、あの赤い封蝋よりは急ぐ。——そういうふりをしていた。
ふりをしていたのだと、今ならわかる。
一週間後の朝。
商会の事務室に、ふたたび同じ家紋の封蝋が届いた。
◇
今度はエロイーズからではなかった。
**ヴァルデン侯爵家 管財室**
差出人の欄には、そうあった。
——侯爵家が正式に商会へ宛てた発注書だった。
封を切ると、いつもの取引先が使う定型の注文書式。
ただ、依頼内容の欄が長かった。
特別ブレンドの複数銘柄。量も通常より多めに。
備考欄には、上品な筆跡で——
「本件、当家、春の主要茶会のため、最上の品をご用立て願う」
春の主要茶会。
エロイーズの、年に一度の、社交界での総決算の日。
三年前までの私は、その日のために半月前から侯爵家の茶葉蔵に通っていた。
知っている。よく知っている。
私は注文書を机の真ん中に、そっと伏せて置いた。
返事は急がない。
急がないほうが——たぶん、正しい。
◇
ところが午後、クローディアが一枚の書類の控えを持ってきた。
「リディア様。昨日、ヴァルデン侯爵家の件について、ジェラール様の名前で商会から返信が出ております」
「……え」
控えを受け取る。
目で追う。
——「弊商会、主要取引先の見直しを経て、今期をもって、ヴァルデン侯爵家との茶葉取引は終了と致しました」
短い、一文。
商会名義。署名はジェラール。
私の名前はどこにもなかった。
◇
ジェラールを探した。
商会の奥の、資料室の机で、彼はエスピエラ国の関税表を見ていた。
「ジェラール」
「うん」
「これ」
「見た? そう、出した」
「……一言、私になかった」
「急ぎだった。——と、言い訳してもいいか?」
振り向いた彼の目は、少しだけ疲れていた。
昨日こんな目をしていたかな、と私は思う。
「私の名前」
と、私は言った。
それだけ言って、止まった。
「——出さなかったの?」
彼は関税表のページの角を折り直した。
「君の名前を、敵の前で、出したくなかった」
短かった。
言い訳にも弁解にもなっていない——ただの事実を置いた。
「……」
何か言い返そうとして、言葉が喉の途中で止まった。
鎖骨のあたりの皮膚が熱くなっていくのがわかる。
それが顔にまで届いていないか、私は必死に祈った。
届いていた、たぶん。
下を向いた。
「……そう」
「ごめん。勝手に出した」
「……いいえ」
「いいえ?」
「いいえ」
彼は関税表に視線を戻した。
戻したように見せていた。
耳がほんの赤いのは——私の気のせいかもしれない。
たぶん気のせいだ。
そう思うことにした。
資料室を出る。
廊下を歩く。
自分の執務室に戻るまでに、何度か息を吐いた。
吐かないと、顔の熱が引かなかった。
◇
春の主要茶会が週末に行われた。
私は当然、招待されていない。
それでも、業務のあいだに、噂のかけらが別の取引先の使者からぽろぽろとこぼれた。
「例年より少のうございましたな、招待客」
「目玉の茶葉が間に合わなかったらしく」
「代わりに出されたのが——ふつうの紅茶でして」
そう言いながら、使者は声を落とした。
「侯爵夫人様、終始、笑顔ではございましたが、——その笑顔の角度が、少々、変でございました」
商会から卸している上等な紅茶を勧めた。
使者は恭しく受け取って帰っていった。
その夜、窓の外に春の最初の強い風が吹いた。
商会の看板が、かたんと一度鳴った。
◇◇
客を見送る最後の会釈のあと、わたくしは応接間に戻った。
——客人のいなくなった応接間は、こんなに広かっただろうか。
今年の卓を飾った茶葉は、わたくしがふだん使う種類ではなかった。
それに気づいた客が何人いただろう。
——いや、何人、気づかないふりをしていてくれただろう、と数え直すのが正しい数え方だった。
今朝、商会から届いた短い返信。
読んだ瞬間、わたくしは手が震えた。
震えて、それから怒った。
主要取引先の見直し。
——当たり前のことを、当たり前のように書いてきたのだ。
ただそれだけの文面が、三年前のあの日から今日までのすべてをひとまとめにして、わたくしの顔に投げ返してきた。
なぜ。
なぜあの娘が、今さら、この家を拒めるのか。
拒まれるということが、わたくしの人生の中にない。
拒まれる側に立ったことがない。
——立たされないために、わたくしは長い年月、言葉を選んできた。
「お前が、原因だろう」
夫の声だった。
応接間の扉の向こう側から聞こえた。
返事をしなかった。
返事をする方法が、わからなかった。
◇◇
翌日以降、商会には、別の取引先からも似たような雑談が続いた。
「春の、次の茶会に至っては、——招待状が前年の半分にも届かない家が、多いようで」
私は事務室の窓際に立っていた。
春の風がまだ吹いている。
商会の看板の下で、ランプがひとつ揺れていた。
——三年前の、二十歳の私が、もしここに立っていたら、何を思うだろう。
たぶん、「やっと」と思う。
今日の私は少し違った。
やっと、ではなくて。
——「ここから」。
そう思った。
◇
机の上には、まだ侯爵家の発注書が伏せて置いてある。
返事は書かない。
商会として、もう返した。
それで十分だった。
私が今、書くべきなのは——別の手紙のほうだ。
引き出しから、新しい便箋を取り出した。
インクを淹れ直す。
ペン先の、前の乾きをふき取る。
紙のわずかに粗い手触りを、指先で確かめる。
宛名を書く前に、手が止まった。
(エロイーズ・ヴァルデン様)
息子の件で、会いに来るのだろう。
——来るなら、来ればいい。
ただし。
日時は、わたくし——いいえ、私が決めます。




