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三年後、王室御用達になった私の商会に、元婚約者が面接に来ました  作者: 秋月 もみじ


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第4話 誕生日、祖母の茶葉


朝、商会の事務室の窓際に、匂い蝋燭がひとつ、いつもより余計に灯っていた。


ラベンダーと柑橘の混じった香り。

——クローディアの趣味だった。


(ああ)


今日だったか、とようやく思い出す。


匂い蝋燭を余計にひとつ灯す、という彼女の控えめなやり方が、私は好きだった。

「おめでとうございます」は言わない。

そう言われないで済むように、香りだけが部屋に漂っている。



今日は、私の誕生日だった。


忘れていたというよりは、覚えておくのをここ数年、やめていた。

二十歳までは、朝に使う瀬戸物を、母が春の花柄に変えてくれる日だった。

隣国に来てからの誕生日は、朝も午後も、自分で気づかないまま過ぎていった。


今日、二十三歳。


クローディアは、いつも通りの顔で、いつも通りの帳簿を私の机に置いた。

何も言わなかった。

——何も言われない優しさが、この人のいいところだと思う。



午後の仕事の合間に、ジェラールが執務室に来た。


「商会用に、新しい茶葉の見本が入った」


落ち着いた、いつもの声。

机の上に小さな木の箱をひとつ置く。

私の手のひら二つぶんくらいの、飾り気のない素朴な箱だった。


「エスピエラの南の——どこだったか」

「南?」

「港町ではない、内陸のほうの小さな農園だそうだ」


そう言いながら、彼は私と目を合わせない。


「味を見てほしい」

「……仕事ね」

「仕事だ」


木蓋を開けた。



指先に、乾いた茶葉が触れた。

摘まみ上げる。

葉の巻きが柔らかい。


鼻に近づけた瞬間——私の手の動きが止まった。


花と、青草と、その下に隠れた煙の匂い。


(……うそ)


湯を沸かしてもらう。

火にかけた鉄瓶の音を待っているあいだ、私は茶葉をもう一度、指で撫でた。

葉の裏の白い毛の並び方。色の濃さの移り変わり。

どれも覚えていた。


覚えていないつもりで、ずっと覚えていた。


湯を注ぐ。

立ちのぼる湯気のなかに、色がひろがる。

透きとおった、琥珀。


——その琥珀を初めて見たのは、祖母の東棟の居間だった。



窓の外で、その年のやけにうるさい蝉が鳴いていた。

まだ、十一歳だった夏。


祖母の向かいに、低いスツールを置いて私は座っていた。

足が床に届かない高さの、東棟の居間。

レースのカーテンが、ほんの少しだけ膨らんでは戻っていた。


祖母は、カップを両手で私に差し出した。


「リディアは、この味がわかる子だからね」


祖母はそう言って笑った。

それから、空になった私のカップに、もう半分注ぎ足した。

「お母様には内緒ね」と、少しだけ悪戯っぽく付け加えて。


——あの日の祖母の笑い皺まで、覚えている。


白檀のにおいの扇子も、左手の薬指の少し曲がった関節も。

私は祖母の膝のかたちを、長いあいだ覚えていた。

いなくなってから、思い出すのがつらくなっていった。



私はカップを両手で包んで、しばらく動けなかった。


動けないあいだ、ジェラールは何も言わなかった。

窓の外を見ていた。

私の顔は見ていなかった。


(……よかった)


見られていたら、たぶんもっとおかしくなっていた。


「ジェラール」

「……なに」

「これ」

「うん」

「もう、作られていないはず」


彼は肩のあたりを、ほんの少しだけ動かした。


「そう、らしいね」


短く返した。


「よく、入ったね」

「……偶然、だ」


偶然。


偶然、と彼は言った。

偶然、という言葉のいちばん短い発音のしかたで、彼はそれを言った。


(……偶然、ね)


胸の奥で何かが引き絞られた。

涙ではなくて、もっと深いところの筋肉がひとつだけ縮んだような感じだった。


「ありがとう」


声がかすれないように、一拍だけ気をつけて言った。


「仕事です」


と、彼は答えた。

そのまま執務室を出ていった。



扉が閉まった。


足音が廊下を遠ざかる。

途中で消えた。

仮眠室の方でも、資料室の方でもなかった。


——西側のバルコニーに行ったのだろう。

この時間、誰もいない、眺めだけがいいバルコニー。


窓の向こう側に回って見てしまおうか、と一瞬、思った。

思ってから、やめた。

見たら、見たことが私のものになってしまう。

——見ないでおくことの優しさも、たぶんこの世にはある。


私はカップのなかの琥珀色を、もう一度のぞきこんだ。

湯気がゆらゆらと立っている。


小さく笑った。

笑った自分に、ほんの少し驚いた。


(祖母なら、なんて言うだろう)


——「その人、だいじになさい」。


たぶん、そう言われる気がした。

言われたら、たぶん答えに困る。


カップを両手で包みなおす。

手のひらがじんわりと温かくなっていった。



夜が来た。


机の上を片付けていたら、いちばん奥に、深い赤の封筒がひとつあった。


侯爵夫人 エロイーズ・ヴァルデンからの手紙。


ずいぶんと封を切らないままにしていた。

中身の見当がつくうちは開ける意味がない、と自分に言って先延ばしにしてきた。


——今夜なら読める気がした。

祖母の味の茶葉を一杯、飲み終えたこの夜なら。


ペーパーナイフで封を切った。


中から出てきたのは、薄い便箋が一枚。

紙の目が細かい、社交界でよく使われる種類の上等な紙だった。


流れるような、細く上品な字。


——ぜひ、一度、お茶を。ご都合のよろしい日に、こちらからうかがいますれば。


それだけだった。


三年ぶんの沈黙と断絶のあとに——それだけ。


何も書かれていない。

息子の名も、三年前のことも、茶葉のことも。

何をどう話したいのかさえも、ない。


「書かないでいる」のが得意な人なのだ。

三年前、社交界で彼女の噂を聞かなかった人を、私は知らない。

肝心なことは紙に残さない。口にもしない。

それでも、ものごとは動いていく。

そういう人だった。


私は便箋を、机の上に伏せて置いた。


——この人、息子の件で、私に会いに来るんですね。


独り言だった。

誰に聞かせるつもりもなかった。


窓の外、商会の看板の下で、ランプがひとつ、夜風に揺れていた。

ランプの芯の油が切れかけているのか、光がときおりちらちらと歪んだ。

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