第4話 誕生日、祖母の茶葉
朝、商会の事務室の窓際に、匂い蝋燭がひとつ、いつもより余計に灯っていた。
ラベンダーと柑橘の混じった香り。
——クローディアの趣味だった。
(ああ)
今日だったか、とようやく思い出す。
匂い蝋燭を余計にひとつ灯す、という彼女の控えめなやり方が、私は好きだった。
「おめでとうございます」は言わない。
そう言われないで済むように、香りだけが部屋に漂っている。
◇
今日は、私の誕生日だった。
忘れていたというよりは、覚えておくのをここ数年、やめていた。
二十歳までは、朝に使う瀬戸物を、母が春の花柄に変えてくれる日だった。
隣国に来てからの誕生日は、朝も午後も、自分で気づかないまま過ぎていった。
今日、二十三歳。
クローディアは、いつも通りの顔で、いつも通りの帳簿を私の机に置いた。
何も言わなかった。
——何も言われない優しさが、この人のいいところだと思う。
◇
午後の仕事の合間に、ジェラールが執務室に来た。
「商会用に、新しい茶葉の見本が入った」
落ち着いた、いつもの声。
机の上に小さな木の箱をひとつ置く。
私の手のひら二つぶんくらいの、飾り気のない素朴な箱だった。
「エスピエラの南の——どこだったか」
「南?」
「港町ではない、内陸のほうの小さな農園だそうだ」
そう言いながら、彼は私と目を合わせない。
「味を見てほしい」
「……仕事ね」
「仕事だ」
木蓋を開けた。
◇
指先に、乾いた茶葉が触れた。
摘まみ上げる。
葉の巻きが柔らかい。
鼻に近づけた瞬間——私の手の動きが止まった。
花と、青草と、その下に隠れた煙の匂い。
(……うそ)
湯を沸かしてもらう。
火にかけた鉄瓶の音を待っているあいだ、私は茶葉をもう一度、指で撫でた。
葉の裏の白い毛の並び方。色の濃さの移り変わり。
どれも覚えていた。
覚えていないつもりで、ずっと覚えていた。
湯を注ぐ。
立ちのぼる湯気のなかに、色がひろがる。
透きとおった、琥珀。
——その琥珀を初めて見たのは、祖母の東棟の居間だった。
◇
窓の外で、その年のやけにうるさい蝉が鳴いていた。
まだ、十一歳だった夏。
祖母の向かいに、低いスツールを置いて私は座っていた。
足が床に届かない高さの、東棟の居間。
レースのカーテンが、ほんの少しだけ膨らんでは戻っていた。
祖母は、カップを両手で私に差し出した。
「リディアは、この味がわかる子だからね」
祖母はそう言って笑った。
それから、空になった私のカップに、もう半分注ぎ足した。
「お母様には内緒ね」と、少しだけ悪戯っぽく付け加えて。
——あの日の祖母の笑い皺まで、覚えている。
白檀のにおいの扇子も、左手の薬指の少し曲がった関節も。
私は祖母の膝のかたちを、長いあいだ覚えていた。
いなくなってから、思い出すのがつらくなっていった。
◇
私はカップを両手で包んで、しばらく動けなかった。
動けないあいだ、ジェラールは何も言わなかった。
窓の外を見ていた。
私の顔は見ていなかった。
(……よかった)
見られていたら、たぶんもっとおかしくなっていた。
「ジェラール」
「……なに」
「これ」
「うん」
「もう、作られていないはず」
彼は肩のあたりを、ほんの少しだけ動かした。
「そう、らしいね」
短く返した。
「よく、入ったね」
「……偶然、だ」
偶然。
偶然、と彼は言った。
偶然、という言葉のいちばん短い発音のしかたで、彼はそれを言った。
(……偶然、ね)
胸の奥で何かが引き絞られた。
涙ではなくて、もっと深いところの筋肉がひとつだけ縮んだような感じだった。
「ありがとう」
声がかすれないように、一拍だけ気をつけて言った。
「仕事です」
と、彼は答えた。
そのまま執務室を出ていった。
◇
扉が閉まった。
足音が廊下を遠ざかる。
途中で消えた。
仮眠室の方でも、資料室の方でもなかった。
——西側のバルコニーに行ったのだろう。
この時間、誰もいない、眺めだけがいいバルコニー。
窓の向こう側に回って見てしまおうか、と一瞬、思った。
思ってから、やめた。
見たら、見たことが私のものになってしまう。
——見ないでおくことの優しさも、たぶんこの世にはある。
私はカップのなかの琥珀色を、もう一度のぞきこんだ。
湯気がゆらゆらと立っている。
小さく笑った。
笑った自分に、ほんの少し驚いた。
(祖母なら、なんて言うだろう)
——「その人、だいじになさい」。
たぶん、そう言われる気がした。
言われたら、たぶん答えに困る。
カップを両手で包みなおす。
手のひらがじんわりと温かくなっていった。
◇
夜が来た。
机の上を片付けていたら、いちばん奥に、深い赤の封筒がひとつあった。
侯爵夫人 エロイーズ・ヴァルデンからの手紙。
ずいぶんと封を切らないままにしていた。
中身の見当がつくうちは開ける意味がない、と自分に言って先延ばしにしてきた。
——今夜なら読める気がした。
祖母の味の茶葉を一杯、飲み終えたこの夜なら。
ペーパーナイフで封を切った。
中から出てきたのは、薄い便箋が一枚。
紙の目が細かい、社交界でよく使われる種類の上等な紙だった。
流れるような、細く上品な字。
——ぜひ、一度、お茶を。ご都合のよろしい日に、こちらからうかがいますれば。
それだけだった。
三年ぶんの沈黙と断絶のあとに——それだけ。
何も書かれていない。
息子の名も、三年前のことも、茶葉のことも。
何をどう話したいのかさえも、ない。
「書かないでいる」のが得意な人なのだ。
三年前、社交界で彼女の噂を聞かなかった人を、私は知らない。
肝心なことは紙に残さない。口にもしない。
それでも、ものごとは動いていく。
そういう人だった。
私は便箋を、机の上に伏せて置いた。
——この人、息子の件で、私に会いに来るんですね。
独り言だった。
誰に聞かせるつもりもなかった。
窓の外、商会の看板の下で、ランプがひとつ、夜風に揺れていた。
ランプの芯の油が切れかけているのか、光がときおりちらちらと歪んだ。




