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三年後、王室御用達になった私の商会に、元婚約者が面接に来ました  作者: 秋月 もみじ


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3/10

第3話 ミリア・ラトガーの名前を、忘れていました


「——当方、この草稿を基に事業の準備を進めて参りましたが、先般、貴商会の交易指針に酷似する点を見出し、当惑いたしております」


ベルナルド伯爵からの手紙の三行目だった。


面接から、一週間が経っていた。


机の端には、封の切られていない深い赤の封筒がずっと置いてあった。

侯爵夫人エロイーズ・ヴァルデンからの手紙。

開けていない。開けなくても中身の見当はついている。

中身の見当がついているうちは、開ける意味があまりない、と思っていた。


今朝、事務室に届いた別の封書が、先に私の手を止めた。


**ベルナルド・デ・ラ・クロワ 伯爵**


王国内の主要な取引先のひとつ。

彼の名で来る手紙は、季節のお礼状か仕入れの調整か——いつもはそのどちらかだった。


今日の封筒は、少し分厚かった。



三年前。

別の茶会の、夕方の話だ。


セオドアが、私の贈った計画書を手に持って立っていた。

彼の友人たちと、友人のまた友人。私が知らない顔が、半分くらい混じっていた。


「これ、聞いてよ。婚約者が書いた、“交易計画書”」


最初の一行が読み上げられると、ひとりが噴き出した。

それから、ゆっくりと笑いがひろがる。

誰かが「ねえ、もう一段落、読んでよ」とねだった。読まれた。また笑いが起きた。


そのなかに、薄い緑色のドレスを着た、私より少し若い令嬢がひとりいた。

彼女は笑いながら、白い手袋の指先を口元に添えて言った。


「まあ、素敵ね。わたくしも、いつか書いてみたいわ」


——ミリア・ラトガー、とそのとき名乗られた。


それ以来、私はその名をほとんど考えずに生きてきた。

というより、考える余裕がなかったと言ったほうが正しい。

婚約破棄。勘当。隣国。商会。新しい仕入れ先。関税のこと。雇った人の給金のこと。

忘れていたというよりは、押しやっていた。机の奥の、鍵付きの引き出しのずっと奥のほうに。


(書いたんですね、本当に)


茶器のソーサーに置かれる乾いた音が、どこか遠くで、よみがえった。



返信の文面は短かった。


——当方、三年前、ヴァルデン家における婚約期間中に、先方に贈呈いたしました交易計画書が手元に残っております。同書の写しを添えてお送り申し上げます。草稿の出自につきましては貴殿のご判断に委ねるところと致しますが、参考のため原本の余白書き込みまで忠実に写し取りました。


ラトガーの名は一度も書かなかった。

書かなくてよかった。

書いてあるのは事実の流れだけ。

事実を並べるときに余計な名前を挿入するのは、商会の方針ではない。


写しは自分の手で作った。


——☆採点 2/10。


余白の書き込みは、一字一字、線の角度までそのまま写し取った。

筆圧の強い線も、弱くかすれた線も。


三年前に自分で書き込んだ字を、自分の目でもう一度見たくなる日が——来るかもしれない。

来なくてもかまわない。

ただ、そのときのために嘘はつかない。


封蝋を落として、商会の紋を押した。

朝いちばんの便に出すように事務の者へ渡した。



昼過ぎだった。


執務室の扉が、ノックなしで開いた。


その開け方が、もう普段のジェラールではなかった。

私は顔を上げる前に手元の書類を伏せようとして——間に合わなかった。


「リディア」


低い声。

昨夜のブランケットをかけてくれたあの声とは、少し別の層にあった。


「机の上の、返信の控え、読んだ」

「……ええ」

「出した?」

「朝、出した」


ジェラールは執務室の扉を閉めた。

閉めてから、しばらくそこに立っていた。

立っているあいだの彼の肩のあたりを、私はつい見ていた。

ふだんは、もう少しリラックスしている肩だ。


「——三年前、あの計画書を盗んだ女の名前を」


彼は窓の外を見ていた。

午後の日差しが、窓枠のいちばん細い桟に直角に当たっていた。


「ずっと、忘れていなかった」


ぽつり、と落とすような呟きだった。

私に向けた言葉でもなく、独り言でもなく、その中間のような——宛先のないひと言だった。


(……)

(この人、私のこと、怒ってくれてるんだ)


わかった瞬間、胸の奥がほんの少し温かくなった。

そのことに、私自身がいちばん驚いていた。


「ジェラール」

「……なに」

「ありがとう」


彼は何も言わずに、扉のほうへ歩いていった。


途中で一度、振り返りかけて——振り返らなかった。


扉が閉まった。


私は伏せていた書類を、もとの場所に戻した。

戻してから、しばらく手が動かなかった。

机の上のインク壺の縁に、今朝の黒いしずくの跡がまだ残っている。

それに気づいて、ようやく布で拭いた。


——おかしいな、と思う。

三年前のあの茶会の笑い声を思い出すよりも、ジェラールのひと言の呟きのほうが、胸のどこかをずっと長く震わせている。


自分の感情の順番が、自分でうまく説明できなかった。



数日が経った。


ベルナルド伯爵から、二通目の封書が届いた。


封蝋の色は同じ。

封筒の厚みは、初回よりも薄かった。


短い追伸状だった。


——ラトガー家のご令嬢につきましては、当地の社交の場において相応の距離が置かれることと相成り候。当方ならびに周辺諸家におかれましても、今後、公的な場に名を列ねる機会は当分ないものと存じ候。


そこで、一度、行が変わっていた。


——なお、蛇足ながら。ヴァルデン侯爵家より、貴商会との茶葉取引の継続につき、当家を介しての仲介を再三にわたり懇願されております。本件につき、貴商会のご方針をお聞かせ願えますれば幸甚にて候。


机の上に、手紙を横にして置いた。


私の机には、いま三通の手紙が並んでいた。


封の切られていない深い赤の封筒——エロイーズ・ヴァルデンからの懇願。

ベルナルド伯爵からの一通目。

そして、二通目。


三本の糸が、同じ一点で結ばれようとしている。


結び目を作るのは、まだ先でいい。

今は糸の長さを測っている段階だ。


窓の外の風が、手紙の端をほんの少し持ち上げて、すぐに手放した。


ペンを取って、追伸への返事を書きはじめる。


方針はひとつ。


——余計なことは、書かない。

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