第2話 不合格通知と、三年前のこと
不合格通知にひと手間かけるのも、悪くない。
面接を終えたその夜、私は商会の執務室で、机の上に便箋を一枚広げた。
商会の角印はすでに押してある。あとは署名の前に本文を書けばいい。
——ご期待に沿えず、申し訳ございません。
それだけ。
もっと短く書くこともできたけれど、商会の正式な通知書の体裁には、体裁のぶんの紙の余白がある。余白を埋めるのは美辞麗句ではなく、署名と封蝋でいい。
三年前の茶会の席に比べれば——ずいぶん穏当な文面だと思う。
◇
三年前。
彼の誕生日の、午前中の応接室。
半年かけて書いた交易計画書を、革のリボンで結んで贈った。
結び目のところに、祖母から教わった蝋封の花をひとつ。
祖母はその蝋封の花を「ひとにあげるものに、ひと手間を残しなさい」と言って、私に教えた。
理由は聞かなかった。祖母がそう言うときは、たいてい理由が先にあったからだ。
朝の光が窓から差していて、私は少し緊張していた。
セオドアは受け取って、表紙をめくって——わずかに止まった。
「……僕に、手紙より計画書を贈るのが、君らしいね」
それで笑った。
一緒にいた彼の友人たちも笑った。
紅茶のカップが誰かのソーサーに戻る音だけが、笑い声のあいだにひとつ響いた。
私の手のなかには革のリボンの切れ端だけが残っていて、気がつけば私も一緒に笑っていた。
笑っていた、はずだ。
——あの日、私はどんな顔をしていたんだろう。
◇
ペン先からインクが落ちそうになっていた。
慌ててペンを傾ける。
便箋は無事だった。
それでもインク壺の縁に、黒いしずくがひとつ残った。
拭き取る。書き終える。封をする。封蝋は商会の紋。
面接の結果は文書で伝えるだけ。
採否の理由は書かない。それが商会の方針だ。
不採用の理由を詳しく伝えることが、ときに候補者にとっても酷になることを——私は知っている。
封を終えて、机の端に置いた。
朝いちばんの郵便に出せば、それで三年前にひとつ区切りがつく。
——はずだった。
つかなかったのだ。
机の奥の鍵付き引き出しから、もうひとつの鍵を取り出す。
普段は開けない。
書庫のいちばん奥の棚の、鍵。
ひとりで夜に開けるような棚ではないのだけれど。
今夜は頭の片隅に、小さな影が引っかかっていた。
履歴書の、右上の「☆」のマーク。
◇
書庫の奥の棚の、下の段。木箱のなかに、革表紙の冊子が一冊。
私が三年前に書いた、交易計画書だ。
ランプを机に置いて、埃を指先で払う。
書庫は紙の匂いと、乾いた木箱の匂いと、そのずっと下のほうに、去年のあいだに焚いた香木の残り香がかすかに残っていた。
——ひとりで夜に来る部屋の匂いだ、と思う。
昼にはなぜか気づかない匂い。
表紙を開く。紙の匂いが立つ。
指先に、三年ぶんの冷たさが吸いついた。
半分ほどめくる。
(あった)
右上の余白に、細い線で引かれた星。
その隣に、小さく。
**☆採点 2/10**
見覚えがあった。
あったのだ、ずっと。
彼からこれを返された日に、一度目にしている。
ただ、そのときは数字しか見なかった。
点数が十点満点の二点であることの意味だけで、あの日の私にはもう十分すぎた。
筆跡までは覚えていなかった。
覚える必要もなかった。
今日の履歴書を、頭のなかでもう一度めくる。
名前の字。経歴の字。余白の詰め方。——右上の、癖のある「☆」。
同じだった。
当たり前だ。
同じ人間の字なのだから。
当たり前のことが、今夜、私の中で引っかかっていた。
——三年前に自分の書いたものを笑った人間が、三年後、私の商会の面接に、同じ「☆」を履歴書に書いて現れた。
(覚えていないんだろうな)
自分の書いた字がどこに残っているかを、考える種類の人ではなかった。
三年前の茶会で友人の前で朗読したとき——リディアが一緒に笑っていたかどうかさえ、たぶん見ていなかった人だ。
私は冊子をそっと閉じた。
もう一度、革の紐で結ぶ。
——これは、今夜は棚に戻さない。
◇
どれほど机に向かっていたのか。
窓の外はいつの間にか、夜と朝の境目の色だった。
暖炉の火はとうに燃え尽きていて、部屋が冷えはじめていた。
足音がした。扉が開いた。
——そのあとが、静かだった。
肩に布の重みがかかった。
羊毛のブランケット。
あたたかい、というよりは、「冷えていたことを思い出させる」重みだった。
「……」
顔を上げないままでわかった。
「もう少し、仮眠室を使ってもいい」
低い声。
こちらを見ていない気配だった。
机の上の冊子には視線を落とさないようにしている——そういう気配だった。
(見ても、いいのに)
(……いや、見ないでくれて、いい)
どちらが先に来たのか、自分でもわからなかった。
足音が扉のほうへ戻っていく。
私はその背中に、
「ありがとう」
と、小さく言った。
聞こえていたかは、わからない。
扉が閉まった。
机の端に置いたランプの、油の減り具合を、なんとなく目で追う。
替えの油はたしか、書庫の隣の物置の——いや、今日の午後にクローディアが補充していた。
覚えている。覚えているのに、なぜこんなことを今、考えているんだろう。
(……仮眠室の毛布、新しいのを入れてくれたのは、誰だっけ)
冊子の上に手を置いたまま、しばらく動かなかった。
◇
朝が来た。
窓の外の空の色が、いつのまにか乳白色に変わっている。
ランプを消すと、部屋の隅にまだ残っていた暗がりが、朝の薄明かりに溶けた。
商会の事務室に、朝いちばんの郵便が積まれていた。
いつも通りの束だ。取引先からの見積もり、王都の商業ギルドからの通達、エスピエラ王国の関税局からの確認書——。
その一通だけ、封蝋の色がほかと違っていた。
深い、赤。
中央に、羽根を広げた鷹の紋。
——ヴァルデン侯爵家の家紋。
差出人の名を見る。
**侯爵夫人 エロイーズ・ヴァルデン**
セオドアの、母だった。
手のなかで、その封筒はやけに軽かった。
紙一枚ほどの重さ。
けれど、この家の名で書かれた紙がこの商会に届くことの重さは、それとは別の話だった。
軽さの正体は、まだわからない。




