第1話 3年後、元婚約者が私の商会に面接に来たのですが
「——志望動機をお聞かせ願えますか?」
机を挟んで座った男は、私の顔を見た瞬間から目を合わせていない。
「当商会は、経験よりも志望動機を重視しています」
低く、穏やかに繰り返した。
革張りの椅子が軋む音だけが返事をした。
◇
三年前のことを、今ごろ思い出す。
父は実家の応接室で、私の顔を見ないまま言い放った。
「商人に嫁ぐなら絶縁だ」
母は窓の外を見ていた。兄はいなかった。
家名を汚した娘の顔を見るのは、一家のうちで父一人で十分だ——そういう家だった。
あれから隣国へ渡った。
祖母が遺した種銭と、祖父の形見の鑑定用具を、鞄ひとつに詰めて。
茶葉を売った。商会を立ち上げた。王室御用達の札を掲げるところまでたどり着いた。
今日は新人採用の面接日。
三人目の候補者の履歴書は、応接室に入る直前に私のもとへ届いた。
名前を見た瞬間、手のひらが冷たくなる。
**セオドア・ヴァルデン。**
侯爵家次男、齢二十五。
職歴——貴族家の紹介で入った王都の小さな商会、勤続一年半。
見間違いであってほしいと数拍ほど願って、諦めた。
字が三年前のままだった。余白の詰め方にまで気を使う、綺麗に整った筆跡。
その右上に、小さく書かれた「☆」のマーク。
——どこかで見たことがある。
思い出しかけて、何かが指のあいだをすり抜けていった。
横に座る副代表のクローディアが、履歴書の角を指先でなぞった。
「……リディア様、この方」
「ええ。たぶん、同じ方です」
「代わります。私が面接しますから」
彼女の声は低かった。机の下で拳を握っているのが、袖口の動きでわかる。
私は首を振った。
「大丈夫」
「……」
「きちんと面接しましょう。商会の方針は、家柄で候補者を落とさないことです」
クローディアが小さく息を吐いた。私も同じだけ吐いた。
◇
「どうぞ、お入りください」
扉が開いた。
入ってきた彼は、三年前と同じ仕立ての上着を着ていた。
仕立ては同じなのに、肩のあたりが微妙に余っている。
「お久しぶりです、リディア」
空気の温度が下がった。
気のせいではない。クローディアのペンの持ち方が変わった。
「……お久しぶりですね」
頷きもせず、微笑みだけを返す。
「お久しぶりですね。当商会は、経験より志望動機を重視しています」
そこで一拍、置いた。
「——で、なぜ当商会で働きたいと思われたのですか?」
(「経験を語らせる」と、この人の得意な話術に引きずり込まれる)
(志望動機なら、思想を問うことになる)
(——思想を持たない人間には、最も答えにくい質問だ)
「貴社のビジョンに共感したからです」
三年前もこういう言い方をした人だった。
舞踏会で。仕立屋で。茶会で。
誰かに感想を求められるたびに——「素晴らしい」「共感した」「いいと思う」。
中身のない社交の定型文。それが、社交界では彼の武器だった。
(ここでは、武器になりません)
私は穏やかに尋ねた。
「では、当商会のビジョンを三つほど挙げていただけますか」
空気が止まった。
彼が机の上の履歴書を見下ろす。
自分で書いた履歴書に、答えは書かれていない。
「えっと、その……海外との交易を拡大する——」
「それは事業内容です」
「……貴族階級への——」
「それも事業内容です」
「……」
彼の手が机の上の水差しに伸びて、途中で止まった。
グラスに自分で注ぐという作法が、侯爵家の応接室にはなかったらしい。
手のひらを膝の上に戻す。指先がわずかに震えていた。
私は何も言わなかった。
急かしもしなかった。
私の仕事は、候補者の中身を引き出すことであって、追い詰めることではない。
——追い詰めていたのは、彼自身だった。
クローディアが横でペンを一度だけ動かし、書類に何かを書き足した。
一分。
二分。
三分。
その三分のあいだに、私は彼の三年ぶんを、ほとんど見終えていた。
肩の余り方。爪の長さ。靴の汚れ方。
「侯爵家次男」の看板だけで三年生きてきた人の姿だった。
「ありがとうございました」
私が立ち上がる。彼もつられて立ち上がった。
「結果は追ってご連絡いたします」
面接室を出ていく背中が扉で半分消えたとき、私はようやく肩の力を抜いた。
◇
応接室の扉を閉めると、廊下の壁際に一人立っていた。
ジェラール・カスティヨン。
共同経営者。出資者。私が三年、仕事の片腕として信頼しきっている人。
「お疲れさま」
低く落ち着いた声。その手に、湯気の立つカップがふたつ。
「どうぞ」
「……ありがとう」
片方のカップが私の手に渡された。
渡す瞬間、彼の指先が私の指先に触れた。
一瞬だった。
たぶん偶然だった。
それなのに——
触れた場所だけが、長く熱を持っていた。
(……なんで今、こんなこと考えているんだろう)
一口、含む。
祖母がよく淹れていたブレンドに、少し似た香りがした。
花の匂いと、青草の匂いと、その下に隠れた、煙っぽい後口。
子どものころ祖母の膝の上で一口だけ飲ませてもらった、あの味に近い。
温度がぬるめに整えてある。
飲みやすい温度。——私が今、熱いものを飲めないと知っている人の温度。
「……あの人」
「知ってる」
「え」
「履歴書を、先に見た」
「そう、だったの」
ジェラールはカップを持ったまま、廊下の窓の外を見ていた。
夕方の光が、彼の横顔の輪郭だけを淡く金色に染めている。
「採否は、君が決める」
そう言って、一度だけ私を見た。
「俺は、結果を尊重する」
「……ありがとう」
「お疲れさま」
もう一度そう言って、彼は先に歩き出した。
足音が廊下の石畳に吸い込まれていく。
私は廊下に残って、カップを見つめた。
机の上に置いてきた履歴書を、頭の中でもう一度めくる。
右上の小さな「☆」のマーク。
——どこかで見たことがある。
見たことがあるのだ。確かに。
遠い記憶の箱を引っくり返しても、鍵の位置がわからない。
指先が何かを思い出しかけて、またすぐに逃げていった。
温かいカップを握り直す。
手のひらに、さっき触れた熱がまだ残っている気がした。
——答えは、まだ出ない。




