第八十九章『神の家にて』
朝の光が、緩やかに石造りの宿舎に差し込んでいた。
ここは教団の敷地内にある神殿の附属施設──巡礼者や客人のための、簡素な宿舎だった。
鳥のさえずりが聞こえる庭先で、セレーナはファニャンを追いかけて遊んでいた。
ころころと笑い声が転がるたび、黒猫はしなやかに逃げ回り、ときに振り返っては誘うように尻尾を揺らす。
その様子を、洗濯物を干しながら眺めていたファナとリュシアの口元にも、自然と笑みが浮かんだ。
「……ずっとこんな日が続けばいいのにね」
ファナがぽつりとこぼすと、リュシアはやわらかくうなずいた。
「きっと、そう遠くない未来に……そんな日々が来ますよ」
***
昼前になって、庭から帰ってきたセレーナが、両手で何かを大事そうに抱えていた。
それは一枚の布──端の少しほつれた、教団の掲示板から剥がれたらしいポスターだった。
「おかーしゃん!」
元気な声とともに、セレーナがその布を掲げる。
「この“はだかのえ”、おかーしゃんなの? なんで裸なの? 寒くないのー?」
布に描かれていたのは、銀髪の獣人の少女だった。
白と薄青の衣装をまとったその姿には、見覚えがある。
「……へっ?」
ファナは固まった。顔が、みるみる赤くなる。
「えっ……あ、え、えっと……ち、ちがっ……いや、ちがうっていうか……そ、そういうわけじゃなくて……!」
耳まで真っ赤に染まり、両手をばたばたと振るファナの横で、リュシアがやわらかく笑った。
「セレーナちゃん、ちょっとこっちにおいで」
しゃがんで、セレーナの目線に合わせる。
「これはね、昔の人たちが“大事な人”を忘れないように描いた絵なのよ。だから、大丈夫。寒くないのよ」
「ふーん……じゃあ、だいじなひとだったんだ」
「うん、そう。とっても、ね」
「でも……おかーしゃんのほうが、かわいいもん!」
ファナは肩を落とし、それから小さく笑った。
「……ありがと。うん、ありがと、セレーナ」
***
午後、ユリウスが宿舎に戻ってきた。
外套には砂埃がつき、少し疲れた顔だったが、表情は落ち着いていた。
「教団との話がまとまりました。少なくとも、当面はここに滞在できます」
「本当……?」
ファナが少し驚いたように問い返す。
「はい。少なくとも、王宮のようにファナさんを“信仰の象徴”として扱うつもりはないそうです。ただ……この状態が長く続くとは限りませんが」
「……そっか。でも、少しだけでも、安心して眠れる場所があるのは、ありがたいね」
ファナの声は静かだった。
「……これからは、どうしますか?」
ユリウスの問いに、ファナは一度だけ目を伏せ、それから顔を上げる。
「教団の名前を借りて、身分を偽りながら、少しずつ動く。次の移動先……別の国も視野に入れなきゃね」
「了解です。私も調査と準備を始めます」
「私も、必要な荷造りを進めますね」
リュシアが穏やかに応じた。
***
夜。
小さな灯火のそばで、セレーナが膝にファニャンを乗せながら、昼間の布をまたじっと見つめていた。
「……おかーしゃん、たくさんの人に見られてたんだね」
「……そうだね」
ファナは少し驚いたように返し、けれどすぐに微笑んだ。
その横で、リュシアがそっと膝掛けをセレーナの肩にかけた。
小さな灯のゆらめきが、壁に揺れていた。
外では風がそっと吹き抜け、神の家の一夜が、静かに更けていった。




