第八十八章『風が運ぶ、忘れもの』
風が、森の枝を軽く揺らしていた。
早朝の空はまだ眠っており、薄明の気配だけが静かに漂っている。
隠れ家の壁には霧の水滴が音もなく滲み、
まるでこの場所だけが、世界から取り残されたような静寂に包まれていた。
***
ファナは湯気の立つ湯のみを両手で包みながら、その底をじっと見つめていた。
焚き火の名残がある囲炉裏のそば、木の椅子に背を預けたまま、彼女はまだ言葉を発していない。
「……あれ? ファニャンがいない」
ふとした拍子に、口からこぼれたその言葉に、リュシアが振り返った。
「え……? 昨夜は、確かに一緒に……寝てましたよね?」
「うん。わたしの足元に、ちゃんといたの。……でも、今朝はどこにもいない」
ファナは立ち上がり、小屋の中を軽く見回す。
セレーナは毛布にくるまって、すやすやと眠っていた。彼女の隣も、今は空だった。
「……でもね。あの子、昔からそうなの」
ファナはふっと小さく笑う。
「気がつくといなくなって、気がつくとまた帰ってくる。
まるで“わたしが気づいた時だけ、そこにいる”みたいに」
ユリウスが、お茶の湯気越しに視線を上げる。
「まるで……風のようですね。気配だけを残して、ふっと」
「うん、ほんとに。……風みたい」
ファナの瞳が、どこか遠くを見つめるように細められた。
***
着替えのために鏡の前へ立ったとき、ふとした違和感が胸をよぎった。
髪をまとめようと指先を通した瞬間──耳に触れた感触が、片側だけ違う。
「……あれ?」
左の耳に、あの耳飾りがない。
鏡に映る自分を見つめながら、右の耳には確かにいつものそれが揺れているのに、左側は……空。
「……どうして……?」
金具はきちんと締めてあった。落とした記憶もない。
それなのに、なぜか片方だけが、忽然と姿を消していた。
その耳飾りは──
「……メルが、くれたもの……」
王宮に囚われていた頃も、ずっと外さなかった。
あの頃、何ひとつ自由にならなかった日々のなかで、唯一“わたし”を思い出させてくれるものだった。
気づけば、リュシアが背後に立っていた。
「王宮にいたときも、いつも着けていましたよね」
「うん。……だから、絶対に落とさないようにしてたんだけど」
ふと、ファナの胸の奥に、ある仮説が浮かぶ。
「……もしかして。……ファニャンが……?」
リュシアが驚いたように目を瞬く。
「えっ、ファニャンが……耳飾りを……?」
「ううん、わからない。ただ……なんとなく、そんな気がして」
彼女の目がふと揺れた。
──あの子は、どこかで“わたし”を見ている気がする。
誰にも気づかれず、どこにも属さず。けれど、そばにいてくれる。
いつからだろう。
あの猫が、ただの猫じゃないと感じ始めたのは。
***
扉の前で、わずかな音がした。
コトン、と小さなものが地に置かれる音。
そして、ふんわりとした気配。
ファナがそっと扉を開けると、そこには──
「……おかえり」
黒い猫が、きちんと前足を揃えて座っていた。
その口には、小さな金の光。
──なくなっていた耳飾り。
ファニャンは、それを静かに足元へ置くと、まるで「任務完了」と言わんばかりに、ひとつあくびをして座り直す。
そして、もうひとつの“贈り物”。
首に巻かれた小さな布。
それは、年季の入った小さなスカーフだった。
薄く香る、懐かしい香り。
ファナがその端に目をやると、そこには丁寧な刺繍があった。
──「M.E.」
目頭が熱くなった。
けれど、涙は流れず、胸の奥が震えて言葉が出なかった。
ファナは、そっと耳飾りを拾い上げ、懐かしむように指でなぞる。
「……ありがとう、ファニャン」
気づけば、セレーナが目を覚ましかけていた。
「ん……にゃー……おかーしゃん……おかえり……?」
ファナは微笑む。
「うん。ファニャンが帰ってきたよ、セレーナ」
リュシアも、戸口の様子を見て言葉を失っていた。
ユリウスが静かに布に目を留め、そっと言った。
「それ……もしかして、メルさんの……?」
ファナは頷き、小さく囁いた。
「きっと……どこかで、受け取ってくれたの。
わたしの気持ち……この耳飾りに込めた“祈り”を──」
***
ファナは戻ってきた耳飾りを、そっと左耳につけ直し、
そしてメルのスカーフを、小箱の中へ大切にしまった。
「……伝わったかどうかなんて、わからない。
でも、わたしは伝えたかった。
言葉にしなくても、願いはちゃんと、心にあるんだって──」
ファナはファニャンを撫でながら、ぽつりと呟く。
「ねえ、ファニャン。あなた、全部わかってたの?」
ファニャンは目を細め、なにも言わない。
「……ううん、どっちでもいいよ。
あなたが、わたしのそばにいてくれたこと。
それが、すべてだから──」
ファニャンは、セレーナの隣にすとんと丸くなり、静かに目を閉じた。
外の空が、淡く白んでいく。
ファナは窓の外を見つめ、ひとつ息を吐く。
「……行こう。ゆっくりでいい。──でも、動かなきゃ」
風がカーテンを揺らした。
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