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銀髪の猫はなにを願う  作者: 熊猫
第三部

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第八十八章『風が運ぶ、忘れもの』

挿絵(By みてみん)

風が、森の枝を軽く揺らしていた。

早朝の空はまだ眠っており、薄明の気配だけが静かに漂っている。

 

隠れ家の壁には霧の水滴が音もなく滲み、

まるでこの場所だけが、世界から取り残されたような静寂に包まれていた。

 

***

 

ファナは湯気の立つ湯のみを両手で包みながら、その底をじっと見つめていた。

焚き火の名残がある囲炉裏のそば、木の椅子に背を預けたまま、彼女はまだ言葉を発していない。

 

「……あれ? ファニャンがいない」

ふとした拍子に、口からこぼれたその言葉に、リュシアが振り返った。

「え……? 昨夜は、確かに一緒に……寝てましたよね?」

「うん。わたしの足元に、ちゃんといたの。……でも、今朝はどこにもいない」

 

ファナは立ち上がり、小屋の中を軽く見回す。

セレーナは毛布にくるまって、すやすやと眠っていた。彼女の隣も、今は空だった。

「……でもね。あの子、昔からそうなの」

ファナはふっと小さく笑う。

「気がつくといなくなって、気がつくとまた帰ってくる。

まるで“わたしが気づいた時だけ、そこにいる”みたいに」

 

ユリウスが、お茶の湯気越しに視線を上げる。

「まるで……風のようですね。気配だけを残して、ふっと」

「うん、ほんとに。……風みたい」

ファナの瞳が、どこか遠くを見つめるように細められた。

 

***

 

着替えのために鏡の前へ立ったとき、ふとした違和感が胸をよぎった。

髪をまとめようと指先を通した瞬間──耳に触れた感触が、片側だけ違う。

 

「……あれ?」

左の耳に、あの耳飾りがない。

鏡に映る自分を見つめながら、右の耳には確かにいつものそれが揺れているのに、左側は……空。

「……どうして……?」

金具はきちんと締めてあった。落とした記憶もない。

それなのに、なぜか片方だけが、忽然と姿を消していた。

 

その耳飾りは──

「……メルが、くれたもの……」

王宮に囚われていた頃も、ずっと外さなかった。

あの頃、何ひとつ自由にならなかった日々のなかで、唯一“わたし”を思い出させてくれるものだった。

 

気づけば、リュシアが背後に立っていた。

「王宮にいたときも、いつも着けていましたよね」

「うん。……だから、絶対に落とさないようにしてたんだけど」

 

ふと、ファナの胸の奥に、ある仮説が浮かぶ。

「……もしかして。……ファニャンが……?」

リュシアが驚いたように目を瞬く。

「えっ、ファニャンが……耳飾りを……?」

「ううん、わからない。ただ……なんとなく、そんな気がして」

彼女の目がふと揺れた。

 

──あの子は、どこかで“わたし”を見ている気がする。

誰にも気づかれず、どこにも属さず。けれど、そばにいてくれる。

いつからだろう。

あの猫が、ただの猫じゃないと感じ始めたのは。

 

***

 

扉の前で、わずかな音がした。

コトン、と小さなものが地に置かれる音。

そして、ふんわりとした気配。

ファナがそっと扉を開けると、そこには──

 

「……おかえり」

黒い猫が、きちんと前足を揃えて座っていた。

その口には、小さな金の光。

 

──なくなっていた耳飾り。

ファニャンは、それを静かに足元へ置くと、まるで「任務完了」と言わんばかりに、ひとつあくびをして座り直す。

 

そして、もうひとつの“贈り物”。

首に巻かれた小さな布。

それは、年季の入った小さなスカーフだった。

薄く香る、懐かしい香り。

ファナがその端に目をやると、そこには丁寧な刺繍があった。

 

──「M.E.」

 

目頭が熱くなった。

けれど、涙は流れず、胸の奥が震えて言葉が出なかった。

ファナは、そっと耳飾りを拾い上げ、懐かしむように指でなぞる。

「……ありがとう、ファニャン」

気づけば、セレーナが目を覚ましかけていた。

「ん……にゃー……おかーしゃん……おかえり……?」

 

ファナは微笑む。

「うん。ファニャンが帰ってきたよ、セレーナ」

 

リュシアも、戸口の様子を見て言葉を失っていた。

ユリウスが静かに布に目を留め、そっと言った。

「それ……もしかして、メルさんの……?」

ファナは頷き、小さく囁いた。

「きっと……どこかで、受け取ってくれたの。

わたしの気持ち……この耳飾りに込めた“祈り”を──」

 

***

 

ファナは戻ってきた耳飾りを、そっと左耳につけ直し、

そしてメルのスカーフを、小箱の中へ大切にしまった。

「……伝わったかどうかなんて、わからない。

でも、わたしは伝えたかった。

言葉にしなくても、願いはちゃんと、心にあるんだって──」

 

ファナはファニャンを撫でながら、ぽつりと呟く。

「ねえ、ファニャン。あなた、全部わかってたの?」

 

ファニャンは目を細め、なにも言わない。

「……ううん、どっちでもいいよ。

あなたが、わたしのそばにいてくれたこと。

それが、すべてだから──」

ファニャンは、セレーナの隣にすとんと丸くなり、静かに目を閉じた。

外の空が、淡く白んでいく。

ファナは窓の外を見つめ、ひとつ息を吐く。

「……行こう。ゆっくりでいい。──でも、動かなきゃ」

 

風がカーテンを揺らした。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


少しでも楽しんでいただけましたら、感想や評価などで応援していただけると、とても励みになります。

これからもファナたちを見守っていただけたら嬉しいです。

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