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銀髪の猫はなにを願う  作者: 熊猫
第三部

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222/225

第八十七章『静かな再出発』

挿絵(By みてみん)

夜の名残がまだ森の端に残る、ほの暗い朝だった。

風は静かで、空気は冷たく澄んでいる。

 

森の端に建つ、郊外の古い一軒家。

元は誰かの持ち家だったらしいが、今は空き家となっていたその場所を、彼らはひそかに借り受け、潜伏の拠点としていた。

 

木の壁には小さなひび。天井にはしみ。

決して快適とはいえないが、それでも、あの王宮よりは何倍も呼吸がしやすかった。

 

ぽつりと置かれた四人掛けの小さなテーブル。

その上には、人数分の湯のみと、粗末ながら温かな朝食が並んでいた。

干し肉を刻んで焼いたものと、素朴な野菜スープだ。

 

どこにでもある朝の食卓を前に、ファナはようやく息をつけた気がした。

「……よく眠れましたか?」

眼鏡を外していた記録官文官一番が、まだ朝の気配を顔に残したまま、カップを差し出してきた。

「うん。ありがとう」

ファナは微笑んでそれを受け取り、そっと両手で包み込んだ。

 

ぬくもりが、指先から胸へとゆっくり伝わっていく。

向かいでは、補助侍女17番がカップを抱えていた。

淡金色の髪をゆるくまとめ、着慣れない市民服に身を包んだ姿は、王宮で見たときとはまるで違っていた。

「……私、王宮では“補助侍女17番”と呼ばれていました。

名前もなく、意思も問われず、ただ命令に従うだけの日々でした」

 

ファナが視線を上げると、補助侍女17番はまっすぐにこちらを見ていた。

「でも……私は、リュシア・ノエル。

今は、自分の名前で、生きていきたいんです。あなたと共に」

 

「……リュシア」

 

ファナはその名を確かめるように口に出し、そして小さく笑った。

「うん。ちゃんと、名前で呼ぶよ。リュシア」

 

そのやりとりに続くように、記録官文官一番も口を開いた。

「僕も同じです。“記録官文官一番”ではなく、ユリウス・ラインベルク。それが僕の名前です」

ユリウスは一度だけ目を伏せた。

「今はただの一市民として、あなたの傍にいたいと願っています」

 

ファナは驚いたように瞬きをした。

「……ユリウス、ラインベルク……。そうだったんだ」

「覚えにくければ、ユリウスだけで構いません」

 

「ううん。ちゃんと、覚える。だって──それは、あなただけの名前だから」

その言葉に、二人の顔がわずかにほどけた。

 

***

 

暖炉に薪をくべたあと、ユリウスが小声で現状を語った。

「追っ手の気配はありません。王は……おそらくもう、あなたの死を疑っていません」

「……そう。やっぱり、“もう一人の子”に関心が向いたのね」

 

ファナはわずかに目を伏せた。

ラルガス王。あの男が見ているのは、“神”としての価値だけだ。

「今後については、まずは身分を偽って、街に溶け込むところから。

物資の調達、住居の安定、そして……外との連絡」

「焦らず、ゆっくりで大丈夫です」

 

リュシアがそっと言葉を重ねた。

「今はまず……“暮らす”ことに慣れましょう」

ファナは、その言葉に頷く。

「うん。わたしも、そう思う。……急がなくていい。

でも、止まりたくもない。ちゃんと、“進みたい”って、今は思えるから」

 

***

 

そのとき──

「ん……ふぁ……」

部屋の隅に敷かれた毛布の塊がもぞもぞと動き出す。

セレーナが、寝ぼけまなこで上体を起こしていた。

その隣には、当然のように、黒い影。

ファニャンがちょこんと寄り添い、子猫のように丸くなっていた。

「ふぁにゃん……ふかふか……」

セレーナは半分夢の中のまま、ファニャンをむぎゅっと抱きしめる。

ファニャンはほんの少しだけしっぽを動かしながら、されるがままに抱かれていた。

 

ファナは笑いをこらえながら、そっと声をかける。

「……おはよう、セレーナ」

「……おかーしゃん」

まどろみのなか、セレーナは小さく微笑んだ。

その様子を見ていたユリウスとリュシアの顔にも、自然と笑みが広がる。

 

***

 

朝食が終わり、暖炉の火が静かに小さくなっていく。

ファナはマントを羽織り、小さな窓辺に腰を下ろした。

窓の外には、朝日を浴びた木々と、草の匂い。

セレーナの寝息と、ファニャンのかすかな喉鳴り。

その音を背に、ファナは窓の外を見つめた。

 

──まだ、何も終わっていない。

あの子を取り戻すことも、ラルガス王と向き合うことも、きっと避けられない。

でも、それでも。

 

「わたしは、ファナ・ラムゼリア。

わたしの名を……もう誰にも、奪わせたりしない」

 

その日、世界が大きく動くことはなかった。

けれど、それぞれの名を持つ四人と一匹の、小さな暮らしが始まった。

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