第八十七章『静かな再出発』
夜の名残がまだ森の端に残る、ほの暗い朝だった。
風は静かで、空気は冷たく澄んでいる。
森の端に建つ、郊外の古い一軒家。
元は誰かの持ち家だったらしいが、今は空き家となっていたその場所を、彼らはひそかに借り受け、潜伏の拠点としていた。
木の壁には小さなひび。天井にはしみ。
決して快適とはいえないが、それでも、あの王宮よりは何倍も呼吸がしやすかった。
ぽつりと置かれた四人掛けの小さなテーブル。
その上には、人数分の湯のみと、粗末ながら温かな朝食が並んでいた。
干し肉を刻んで焼いたものと、素朴な野菜スープだ。
どこにでもある朝の食卓を前に、ファナはようやく息をつけた気がした。
「……よく眠れましたか?」
眼鏡を外していた記録官文官一番が、まだ朝の気配を顔に残したまま、カップを差し出してきた。
「うん。ありがとう」
ファナは微笑んでそれを受け取り、そっと両手で包み込んだ。
ぬくもりが、指先から胸へとゆっくり伝わっていく。
向かいでは、補助侍女17番がカップを抱えていた。
淡金色の髪をゆるくまとめ、着慣れない市民服に身を包んだ姿は、王宮で見たときとはまるで違っていた。
「……私、王宮では“補助侍女17番”と呼ばれていました。
名前もなく、意思も問われず、ただ命令に従うだけの日々でした」
ファナが視線を上げると、補助侍女17番はまっすぐにこちらを見ていた。
「でも……私は、リュシア・ノエル。
今は、自分の名前で、生きていきたいんです。あなたと共に」
「……リュシア」
ファナはその名を確かめるように口に出し、そして小さく笑った。
「うん。ちゃんと、名前で呼ぶよ。リュシア」
そのやりとりに続くように、記録官文官一番も口を開いた。
「僕も同じです。“記録官文官一番”ではなく、ユリウス・ラインベルク。それが僕の名前です」
ユリウスは一度だけ目を伏せた。
「今はただの一市民として、あなたの傍にいたいと願っています」
ファナは驚いたように瞬きをした。
「……ユリウス、ラインベルク……。そうだったんだ」
「覚えにくければ、ユリウスだけで構いません」
「ううん。ちゃんと、覚える。だって──それは、あなただけの名前だから」
その言葉に、二人の顔がわずかにほどけた。
***
暖炉に薪をくべたあと、ユリウスが小声で現状を語った。
「追っ手の気配はありません。王は……おそらくもう、あなたの死を疑っていません」
「……そう。やっぱり、“もう一人の子”に関心が向いたのね」
ファナはわずかに目を伏せた。
ラルガス王。あの男が見ているのは、“神”としての価値だけだ。
「今後については、まずは身分を偽って、街に溶け込むところから。
物資の調達、住居の安定、そして……外との連絡」
「焦らず、ゆっくりで大丈夫です」
リュシアがそっと言葉を重ねた。
「今はまず……“暮らす”ことに慣れましょう」
ファナは、その言葉に頷く。
「うん。わたしも、そう思う。……急がなくていい。
でも、止まりたくもない。ちゃんと、“進みたい”って、今は思えるから」
***
そのとき──
「ん……ふぁ……」
部屋の隅に敷かれた毛布の塊がもぞもぞと動き出す。
セレーナが、寝ぼけまなこで上体を起こしていた。
その隣には、当然のように、黒い影。
ファニャンがちょこんと寄り添い、子猫のように丸くなっていた。
「ふぁにゃん……ふかふか……」
セレーナは半分夢の中のまま、ファニャンをむぎゅっと抱きしめる。
ファニャンはほんの少しだけしっぽを動かしながら、されるがままに抱かれていた。
ファナは笑いをこらえながら、そっと声をかける。
「……おはよう、セレーナ」
「……おかーしゃん」
まどろみのなか、セレーナは小さく微笑んだ。
その様子を見ていたユリウスとリュシアの顔にも、自然と笑みが広がる。
***
朝食が終わり、暖炉の火が静かに小さくなっていく。
ファナはマントを羽織り、小さな窓辺に腰を下ろした。
窓の外には、朝日を浴びた木々と、草の匂い。
セレーナの寝息と、ファニャンのかすかな喉鳴り。
その音を背に、ファナは窓の外を見つめた。
──まだ、何も終わっていない。
あの子を取り戻すことも、ラルガス王と向き合うことも、きっと避けられない。
でも、それでも。
「わたしは、ファナ・ラムゼリア。
わたしの名を……もう誰にも、奪わせたりしない」
その日、世界が大きく動くことはなかった。
けれど、それぞれの名を持つ四人と一匹の、小さな暮らしが始まった。




