第十話 五年前の証拠、本当の夫婦
五年前のあの夜、私は、彼女を救えなかった。
救える立場ではなかった、と自分に言い聞かせてきたけれど、その言い聞かせは、たぶん半分は本当で、半分は嘘だった。留学生の私の声が届く距離ではなかったのは確かだ。けれど、距離が届いたとしても、私は、あのとき、十分に声を出せたかどうか、自信がない。
出せなかった声を、書くことには、替えられる。
書いて、保管することなら、できる。
あの夜の帰り道から、私は、それだけは、続けてきた。
◇
シュタウフェン王国、宰相府奥の図書室。
私が日頃から鍵を預かっている書棚の前に、ヘンリーケは立っていた。燭台の明かりが、彼女の銀の髪の輪郭を、やわらかく縁取っている。
書棚の下段、いちばん奥に、木箱があった。
表面に少し埃の積もった、古い箱。私は、両手でそれを抱え上げ、傍らの卓へ運んだ。
「開けても、よろしいですか」
ヘンリーケは、首を、わずかに傾げた。傾げただけで、頷きとも、拒みともつかない角度。
私は、留め具を外した。
蓋を、ゆっくり、開けた。
中には、書類の束が、年代順に帯を掛けられた状態で並んでいた。
いちばん上は、五年前の、卒業パーティで読み上げられた書簡の写し。
その下に、あなたが薬草園で外交官に宛てて書かれた、本物の書簡の控え。
その下に、当時留学生だった私が、宮廷の書記局に提出した異議申立の書付。受理の印は、押されていなかった。受理されなかった理由は、欄外に小さく、宮廷の古参事務官の筆で「外国人留学生からの申立ては、形式上受領できず」と記されていた。
それから下は、五年分の、薬草園の土壌記録、隣国宛の外交便の追跡表、シュタウフェン宰相府に残る書信の控え。叔父の名のもとで、少しずつ、少しずつ集めさせていただいた、ものの束。
ヘンリーケは、書類の一枚一枚に、指を触れなかった。
触れずに、順番に、目だけで、上から下まで、辿った。
辿り終わって、顔を上げた。
「……五年、ですか」
「はい」
「なぜ」
短い問いだった。
短い問いに、私は、息を一度、吸った。
「あの夜、止められなかった。止められなかった代わりに、できることを、続けたいと思っていました」
言葉は、用意していた通りに出た。
用意していた通りに出たことが、我ながら、少し、情けなかった。
「……ただ、それは、罪悪感の話でした」
卓の上の書類の束を、私は、軽く指で整えた。
「罪悪感の範囲では、あなたに、直接、お渡しすることはできなかった。お渡しする口実を、私は、五年、見つけられずにおりました」
ヘンリーケの視線が、書類から、私のほうへ、ゆっくりと移った。
移ってきた視線は、責める色ではなかった。
責める色ではなかったから、私はかえって、声を出しにくくなった。
◇
木箱の脇に、もうひとつ、新しい書状の束が積まれていた。
それは、今月に入ってから、シュタウフェン宰相府の外交便で届き始めた、母国アルダーラントの動向報告だった。
王太后陛下は、王宮南の離宮に、お移りになられた。表向きの理由は、長年の激務による、療養のため。供はごく少数に限られ、離宮の門の出入りは、しばらくの間、制限されるとのことだった。
ロイゼ妃は、北の修道院に入られた。入院の形は、ご本人の希望とされていた。修道院長の短い書状の写しには、「当院では、祈りに向かぬ気質の者には、別の務めを用意することがございます」と、慎重な言い回しで添えられていた。別の務めとは、たぶん、厨房の、あるいは洗濯場の、日の目を見ない労働を指している。
ライムント殿下は、辺境守備隊の隊長職に、ご自身の希望で赴任なさった──とだけ、記されていた。
それ以上の詳細は、書かれていなかった。
書かれていないことが、たぶん、書かれていることよりも、雄弁だった。
ヘンリーケは、その束にも、指を触れなかった。
触れずに、束の表題の、いちばん上の一枚だけを、しばらく見ていた。
見終わってから、息を、ひとつ、吐かれた。
吐いた息の長さに、五年分の、何かが、含まれているような気がした。私の気のせいだったかもしれない。
◇
私は、木箱の蓋を、閉じた。
閉じてから、蓋の上に、手を置いたまま、しばらく、動かなかった。
「ヘンリーケ」
呼んだ声が、自分の耳に、少し、掠れて聞こえた。
「もうひとつ、お伝えしなければ、ならないことが、あります」
「はい」
「罪悪感の話では、ないことを」
ヘンリーケの指が、卓の縁を、軽く撫でた。
私の癖が、いつのまにか、移ったらしい。移ったことに、彼女自身は、まだ気づいておられないようだった。
「五年前、国境の宿で、あなたを看病した夜に──」
言いかけて、先が、うまく続かなかった。
続かない口を、私は、無理に動かさなかった。
動かさないまま、顎を引いて、頭を下げた。
下げた角度が、普段の私の会釈より、深かった。
「以来、ずっと。それだけです」
言えたことは、それだけだった。
それ以上の言葉は、五年のあいだ、手元の手帳に、何度も書いては消し、消しては書いてきた。その手帳の最新の頁にも、最後に消した跡が、薄く残っている。
卓の向こうで、ヘンリーケが、わずかに、息を止めた。
止めた息を、吐く前に、彼女の手が、動いた。
卓の上、私の手が置かれている蓋の、その上に、彼女の手が、重ねられた。
重ねる力は、強くなかった。
強くないけれど、離さない角度で、置かれていた。
私は、顔を上げた。
顔を上げた先で、ヘンリーケは、燭台の明かりのほうに、半分、視線を逃していた。
「エードムント様」
声は、低かった。
「気づいて、おりました。ずっと」
……ずっと、と、彼女は言った。
その「ずっと」が、いつからの「ずっと」を指しているのか、私は、聞き返す勇気が、なかった。
聞き返さなくても、それは、たぶん、あの、薬草茶の夜あたりからの、ずっと、なのだろうと思った。
「お礼を、申し上げるのが、いつも、遅れます」
ヘンリーケは、燭台のほうを向いたまま、小さく、付け足された。
「今夜は、遅れません」
顔を、こちらに戻された。
戻された顔の、頬の線が、わずかに、赤かった。ご本人が、いちばん、赤いことにお気づきでないように、見えた。
「ありがとうございます」
言ってから、唇を、軽く結ばれた。
結んでから、もう一度、開かれた。
「──契約の名目を、外しましょうか」
声の最後のほうが、少しだけ、小さくなった。
小さくなった声の、その末尾を、私は、ひとつ、大きく、息を吸って、受け取った。
◇
口づけは、短かった。
短かったが、その短さに、五年ぶんの時間が、押し込められていた気がした。
ヘンリーケの手は、蓋の上から動かなかった。動かないまま、私の手の甲に、指の背を、軽く触れさせておられた。
離れたあと、私たちは、しばらく、卓の木箱を挟んだまま、それぞれの息の落ち着くのを待った。
窓の外で、夜風が、一度、強く吹いた。
図書室の燭台の炎が、一瞬、傾いで、すぐに、元に戻った。
元に戻った炎の、その光の下で、ヘンリーケが、初めて、照れくさそうに、目を伏せられた。
目を伏せた横顔を、私は、見た。
見ても、礼儀を失うことには、もう、ならなかった。
◇
それから先のことは、遠い、別の国の、朝の話だ。
アルダーラント王国、辺境、北の守備隊の兵舎。
ライムントは、まだ、夜が明けきらない時刻に、馬房の前に立っていた。
自分の隊で預かっている馬の、鼻先を、手の甲で軽く撫でる。馬は、寝ぼけた目で、低く、息を吐いた。
厩舎の屋根の端で、鳥が、短く啼いた。
ライムントは、空を、見上げた。
空は、藍色から、ゆっくりと、灰に変わりつつあった。
なぜ婚約破棄してしまったのか、私は、この五年間、毎朝考えている。
今日も、考えるだろう。明日も、考えるだろう。それが、私が選んだ道の代償なのだ、と、ずいぶん近頃、やっと、諦めに近い形で、自分に告げられるようになった。
諦めではない、と思いたい日もある。
思いたいけれど、たぶん、諦めだ。
馬が、もう一度、低く息を吐いた。
ライムントは、馬の鼻先から手を離し、馬房の柵を、軽く、手の甲で叩いた。叩いた手を、そのまま、ひと呼吸、柵の上に置いた。
置いた手の甲に、空の光が、ほんのわずかに、届き始めた。
鳥が、また、啼いた。
今度は、少し、長く、啼いた。




