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なぜ婚約破棄してしまったのか、私はこの五年間、毎朝考えている  作者: 九葉(くずは)


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第九話 答礼晩餐会、王太后の地名

 あの晩餐会で、母上が崩れた。私はそれを止められなかったし、止めるべきでもなかった。


 止められなかった、というのは、手を伸ばす距離に座っていなかった、という物理的な話が半分。残りの半分は、手を伸ばしたところで、あの瞬間の母上の口から出てしまった言葉を、もう一度、喉の奥に押し戻す方法を、私が持っていなかった、という話だ。


 押し戻せないものは、押し戻せない。


 たぶん、あの夜、押し戻せないものを押し戻せない形で外に出してしまわれたのが、母上の長い政治家の人生で、初めてのことだった。


 母上の人生で初めてのことが、私の目の前で起きた。私はそれを、ただ見ていた。



 アルダーラント王宮、答礼の宴の前に置かれた、薬学講演の場。


 王宮内の中広間。普段は評議会の控えに使われる部屋で、細長い卓が中央に据えられ、壁際には本棚が並んでいる。今夜に限って、上座には玉座の代わりに、両陛下と王太后陛下のための椅子が三脚、少し高い台の上に据えられていた。


 私は、来賓の末席から、銀の髪の人を見ていた。


 ヘンリーケ・フォン・アーレンスベルク──今は、結合姓のほうで記録される人。彼女は、卓の短辺の側に立っていた。脇の書見台の上に、分厚い薬学書が開かれ、横に、処方の見本として色とりどりの乾燥根が並べられている。


 講演は、淡々としたものだった。


 両国の薬草交流の、過去の歴史から始まり、最近の協定修正までを、時系列で辿っていく構成。政治的な色はまるで出さない、学会の報告にでも近い話し方だった。


 聴衆の中には、薬学に関心のある貴族が何人か、それから宰相府の使節団、そして王太后陛下。


 王太后陛下は、講演の間中、膝の上で扇を閉じたまま、身動きをなさらなかった。


 講演の最後に、ヘンリーケは、書見台の上の薬学書を閉じた。


「ご静聴、誠にありがとうございました」


 頭を、浅く下げた。


 拍手が、まばらに起こって、やがて、穏やかにまとまった。



 講演後、中広間は、非公式な歓談の時間に移った。


 卓は片付けられ、給仕が軽食と飲み物の盆を運び始めた。人々は三々五々、卓を囲んで話を始める。私は壁際で盃を持ったまま、銀の髪のほうに、目が行かないように、足元の絨毯の模様を数えようとしていた。


 数えきれなかった。


 視界の端で、一人の御方が、卓をひとつ、横切られたのが見えたからだ。


 王太后陛下だった。


 母上は、両陛下の椅子から下りて、講演の書見台の傍らに立つヘンリーケのほうへ、まっすぐに進まれた。


 歩みは、速くも遅くもなかった。ただ、いつもの母上の歩幅よりは、ほんの少しだけ、歩幅が狭かった。


 扇は、閉じたままだった。


 近寄る母上に気づいて、ヘンリーケが、こちらに向き直った。薬学書の置かれた書見台を背に、姿勢を整えて、王太后に対する礼の形を作った。


「グリューネヴァルト夫人」


 母上の声が、静かに、広間に渡った。


 歓談のざわめきが、ひと段、低くなった。


「貴女は、本当に」


 母上の言葉は、そこで、ひと呼吸、切れた。


 切れた理由を、私は後に、いくつも考えた。考えて、どれも確信は持てなかった。ただ、その切れ目が、五年前から母上の中で積まれてきた、何か小さな問いの山の、いちばん上の一つがこぼれた瞬間だったのだろう、とは思う。


 母上は、扇を、わずかに開かれた。


「本当に、ノルトハイム村の風土に、よくお詳しくいらっしゃる」


 ……ノルトハイム村。


 その地名が、母上の口から出た瞬間、私の指先から、盃が、落ちなかったのが、自分でも不思議だった。


 落ちなかった代わりに、盃の中の酒の表面が、小さく揺れた。


 揺れに気づかれた人は、たぶん、広間の中には、いなかった。


 ……いや、一人だけ、いた。


 上座の側、客人席の端で、盃を卓に置く音が、低くひとつ、響いた。



 シュタウフェン王国宰相、ヴィルブラント卿が、穏やかに、歩み出てこられた。


「太后陛下」


 宰相の声は、相変わらず、高くも低くもなかった。


「ノルトハイム、と仰いましたか」


 杖はお持ちでなかった。片手で、後ろ手に、もう片方の手を軽く添えておられる、いつもの立ち姿。


「恐れながら」


 宰相は、広間の中央の、誰にでも見える位置で、言葉を継がれた。


「ノルトハイム村は、我が国シュタウフェンが、二度の国境画定を経た末に、新たに設置が認められた村にございます」


 ひと呼吸、置かれた。


「設置の布告が出たのは、ごく最近のことでして、地図に名が載り始めたのも、ここ数年のうちの話でございます」


 広間の空気が、ひと呼吸、止まった。


 止まった空気の中で、ヴィルブラント卿は、王太后陛下に、静かに視線を向けられた。


「太后陛下におかれましては、新設の村の風土まで、どのような経緯で、お知り及びでしたか」


 問い方は、穏やかだった。


 穏やかだったから、かえって、逃げ場がなかった。


 母上は、扇を開きかけた手を、半分開いたところで、止められた。


 扇が、中途半端な位置で、止まっていた。


 止まった扇の向こうで、母上の視線が、わずかに、泳がれた。


 視線が泳いだことに、母上ご自身が、泳いでから気づかれたようだった。


 その、気づかれた瞬間の、母上のお顔を、私は、たぶん、一生、忘れない。


 忘れないだろうが、その顔を、母上が私に見せてくださったのは、その瞬間が最後だった。



 ヘンリーケは、動かなかった。


 書見台のそば、同じ場所に、同じ姿勢で、立っていた。


 動かなかったのに、広間の視線の向きが、ゆっくりと、そちらへ、集まっていった。


 視線を集めているのは、彼女の姿そのものではなかった。彼女の姿の横に、さきほどまで王太后陛下が投げかけた「ノルトハイム村」の一語が、誰の目にも見えない形で、浮かんでいた。


 浮かんだその語を、見ている人がいた。


 一人は、シュタウフェンの書記官。手元の帳に、なにかを書きつけている。


 一人は、客人席の貴族。壁際で、隣の同僚に、耳打ちの形で何かを伝えている。


 もう一人は、客人席のさらに端、母国の外務補佐官。卓の上で手を組んで、目を伏せている。目を伏せたまま、指の関節が、白くなるほどに、組まれていた。


 母上は、扇を閉じられた。


 閉じてから、そっと、広間の中央から、退かれた。


 退かれた道を、誰も塞がなかった。


 塞がなかったのではない。塞ぐための理由を、誰も、急には、取り出せなかったのだ。


 母上は、玉座の左手の出入り口から、広間を出ていかれた。


 出ていかれる背中は、私の記憶の中の母上よりも、少し、小さく見えた。



 ヘンリーケは、上座のほうへ、あらためて、深く一礼した。


 礼のかたちは、講演を終えたときのものと、ほぼ同じだった。ほぼ同じで、けれど、腰の折り方が、ほんのわずか、深かった。


 退出の意思を示す角度の、礼。


 隣国の宰相が、静かに歩み寄って、彼女の隣に並ばれた。


 エードムント・フォン・グリューネヴァルト卿が、卓の反対側から、まっすぐに、彼女の横へ歩いてこられた。歩みの最後の一歩で、エードムント卿の手が、彼女の背のすぐ後ろ──触れるか触れないかの位置に、添えられた。


 三人は、そのまま、広間の外へと、退出した。


 退出していく三人の背中を、私は、壁際から、見ていた。


 見ている途中で、足が、勝手に動き出した。


 動き出した足を、私は、止めなかった。


 広間を出て、回廊へ。


 回廊の奥で、銀の髪の後ろ姿が、柱の向こうに差しかかるところだった。


「ヘンリーケ!」


 叫んだ。


 叫んでから、自分の声の、妙な高さに、自分で驚いた。五年前にも、たぶん、こんな声は出したことがなかった。


 銀の髪が、止まった。


 止まってから、ゆっくり、こちらに振り向いた。


 振り向いた顔は、朝焼けでも、夕焼けでもない、ただの燭台の灯りに照らされた、一人の女性の顔だった。


「……ライムント殿下」


 声は、低かった。


 けれど、名を呼ばれた。


 五年ぶりに、彼女の声で、私の名を呼ばれた。


 呼ばれたことに、私の足が、半歩、前に出かけて、止まった。


 止めたのは、彼女のほうの表情だった。


 ヘンリーケは、私の名を呼んだ後、ほんの少しだけ、頭を下げた。下げた角度は、王族への礼としては浅く、旧知への挨拶としては丁寧な、ちょうど中間の角度だった。


「お元気で」


 それだけ、告げた。


 それだけで、背を、返した。


 返した背に、エードムント卿の手が、また、触れるか触れないかの位置に、添えられた。


 添えられた手は、さきほど広間で見たときとは、少し、位置が下がっていた。肩ではなく、背の中ほど。支えるというよりは、歩調を合わせる位置。


 三人の足音が、回廊の奥へ、遠ざかっていった。


 私は、そこに、立っていた。


 立っていることだけで、精一杯だった。



 手のひらに、爪が食い込んでいた。


 いつから握っていたのか、覚えていない。


 あれが、私が彼女の声で名前を呼ばれた、最後だった。


 たぶん、これからも、最後で、あり続ける。


 明日も、私は、朝に同じことを、考えるのだろう。


 考える問いは、もう、ひとつだけ、形を変えていた。


 ──なぜ、私は、あの名を、自分の口で呼ぶ資格を、五年かけて、失い切ってしまったのか。

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