第八話 契約結婚、震える手
使節団に彼女が含まれていると知ったのは、出発の二週ほど前だった。書類を見た瞬間、私は執務机の縁を握りしめて立てなかった。
立てなかった、と書くと大仰に聞こえるが、実際にはそうだった。膝が抜けたわけではない。足の裏の感覚が、あの瞬間だけ、床から遠くなった。紙の上の一行──「薬学起草代表として同行」と続く文字の、その続く文字の、一文字ごとに、私の視界は、少しずつ遅れて追いついていった。
遅れて追いつく視界というのを、私は人生で二度、経験している。一度目は、五年前の卒業パーティの夜だった。二度目が、この紙を見た朝だった。
二度目は、たぶん、初回よりも始末が悪い。
初回は、私の知らないうちに事態が進んだ。二度目は、私の知っているうちに、事態が私の手の届くところに戻ってきた。戻ってきたはずなのに、私は、手を伸ばしていいかどうかを、決めかねていた。
◇
シュタウフェン王国、宰相府書記官室の一室。
卓の上に、二通の書類が並べられていた。
一通は、使節団の一員として母国アルダーラントへ渡るための、正式な任命書。もう一通は、任命書の脇に添えられた、予備の書式だった。
「この様式は」
私は、書式の表題を指で追った。
「婚姻届の、宰相府用の控え書式です」
エードムント様は、私の正面に座っておられた。机を挟んで、かなり距離を取って。
「ご存じの通り、他国の宮廷に外交使節として入る際、独身の女性研究員は、身分の保証が弱い立場に置かれることがあります」
淡々とした口調だった。
「特に、今回のアルダーラント訪問においては、あなたの立場の扱われ方が、過去の経緯から複雑になる可能性を、叔父が危惧しております」
過去の経緯、と、エードムント様は仰った。
その語の選び方が、どこか気を遣いすぎているように、私には聞こえた。気を遣っていただいていることが、有難くもあり、少しばかり、息苦しくもあった。
「従いまして、外交特権を完全に機能させるため、正式な配偶者の身分を──」
「はい」
私は、遮るつもりではなかった。ただ、続きを聞いていると、どちらかの頬が、妙な方向に歪んでしまいそうな気配がした。それは、エードムント様にとっても、私にとっても、避けたい景色だった。
「分かっております」
私は、書式を手前に引き寄せた。
引き寄せた指先が、紙の縁を擦った。
紙は、宰相府の上等な紙だった。縁が固く、擦ると、かすかに指に引っかかる。
引っかかる感触だけを、私は、しばらく追っていた。
◇
契約、という形式だ、と私は自分に言い聞かせた。
契約ならば、署名をするだけだ。署名には、私は、慣れている。共同研究の契約、薬草院との雇用契約、宰相府との協力契約。契約書に署名を済ませるのは、もう、片手で数え切れない回数を重ねてきた。
契約に、心を乗せる必要はない。
乗せなくて済む書類だから、契約書は便利なのだ。
……便利なのだ、と言い聞かせた私の指が、筆を握ってから、少しばかり、止まった。
筆先の墨が、紙の表面に、近づいた。
近づいた距離で、一度、止まった。
止まったのは、迷ったからではなかった。迷ったのなら、もっと前で止まっていた。これはもっと、手前の、違う種類の動きだった。
筆先が、迷うより手前で、自分の重さを確かめているような、そういう止まり方。
私は、息を浅く吸って、署名を済ませた。
済ませてから、筆を置いた。
筆を置いた瞬間、卓の向こうで、エードムント様が、ご自分の筆を、取られた。
取られた手が、わずかに、震えた。
本当に、わずかだった。私の目が、もしも卓の上を向いていなかったら、見えなかったくらいの震え。
私は、顔を上げなかった。
顔を上げなかったのは、礼儀ではなかった。上げれば、目が合う。目が合えば、たぶん、この震えについて、どちらかが何か言わねばならなくなる。言われて困るのは、エードムント様のほうだった。ご自分の震えに、ご自分で、まだ説明をつけておられない時間であることが、卓越しに、伝わっていた。
説明のつかない震えを、誰かに説明させるのは、不作法だ。
私は、筆の置かれた音だけを、ひとつ、耳に残した。
◇
式は、宰相府の奥の、礼拝所で執り行われた。
立会人は、ヴィルブラント叔父様と、宰相府の筆頭書記官。私の側の立会人は、薬学院の老講師がひとり引き受けてくださった。
式文は短かった。宰相府用の契約婚の式文は、通常の婚姻の式文とは別に定められており、「契約に基づく婚姻関係を、記録に留める」ための最低限の文言で構成されていた。神への誓いは一行、両家への言及は記されていない。
指輪は、ごく細い、金の輪だった。
エードムント様のお手が、私の左手を取られた。
取る前に、一度、指先が、卓の縁を軽く擦った。卓の縁を擦る癖は、迷いよりも、集中しようとなさる時のご様子だと、隣で仕事をするうちに気づいていた。
指輪が、薬指に通された。
通し方は、とても丁寧だった。急いでもいないし、不必要に長くもかけなかった。骨の角に触れないよう、ほんのひと呼吸、位置を探られて、それから、すっと、通された。
ヴィルブラント叔父様が、短く頷かれた。
「これをもって、契約上の夫婦とする」
それだけで、式は、終わった。
終わりの言葉が、想像よりも、あっさりしていた。
私は、自分が何を想像していたのかを、その時になって、初めて気づいた。何か、もっと、言葉が足される予定だったのだ、と、私の体のどこかが、勝手に構えていたのだ。
◇
馬車は、朝霧の薄く残る時刻に、シュタウフェンの王都を発った。
車窓の外を、街道の並木が流れていく。秋の終わりで、葉の色はもう落ち着いた茶色に変わっている。車輪が石畳を踏む音が、一定の間隔で続いた。
隣に、エードムント様がお座りになっていた。
座席の間には、ちょうど一人分くらいの距離が取られていた。馬車の座席は二人がけで、寄れば肩が触れるが、少し離れれば触れない。その「少し離れた」位置に、エードムント様は、きちんとお座りになっていた。
国境に近づいた頃、沿道の風景が変わった。
森が切れ、平野が広がった。私は、窓の外の低い丘陵のほうを、しばらく眺めた。眺めていたのは、景色ではなかった。景色の向こうに、五年前の、あの国境の宿の辺りを、探していた。
探して、見つからなかった。
たぶん、街道の位置が違っていた。あの時は、もう少し北寄りの道だった。
見つからなかったことに、私は、かすかに安堵した。見つかってしまったら、たぶん、あの時の熱の感触を、指先が思い出してしまう。
「ヘンリーケ嬢」
声をかけられて、私は、顔を正面に戻した。
「はい」
「……」
エードムント様は、言葉を探しておられた。探して、見つからなかった顔で、視線を、ご自分の膝の上に落とされた。
私は、待たなかった。
待つほうが、たぶん、このお方には、かえって負担になる。
「ありがとうございます。すべてのことに」
私が先に、そう告げた。
告げてから、続きを付け足そうとした。「契約」という言葉の範囲を超えるような、何かを。けれど、喉の手前で、その何かは、形を取らなかった。
エードムント様が、少しだけ、顎を引かれた。
「いえ。それは、私の──」
言いかけて、止められた。
止めた口のまま、窓の外の風景のほうを、向かれた。
向かれた横顔を、私は見なかった。見なかったのは、私の礼儀だった。
車輪の音が、一定の間隔で、石畳を刻み続けた。
◇
国境を越えた翌日の夕刻、馬車はアルダーラント王都の南門に到着した。
南門の検問は、形式的なものだった。外交使節団の徽章を確認して、書類の束に印が押された。
南門を抜けて、王都の大通りに入った瞬間、左手の指輪の位置が、ほんのわずかだけ、重くなった気がした。
気がしただけで、重さそのものは変わらない。
変わらないはずだった。
けれど、その感覚を、私は、馬車の座席の上で、膝の上に置いた右手の親指で、左手の薬指の付け根を、いちど、そっと撫でることで確かめた。
確かめたあと、右手を膝の上に戻した。
五年ぶりの、王都の通りだった。
通りの匂いは、少しだけ、記憶と違っていた。違っていて、そのことが、少しだけ、ほっとした。
◇
王宮の外郭門が見えた。
その門の窓辺から、ひとりの男が、通りを見下ろしていることに、私は、気づかなかった。
気づかないままで、よかった。
気づいてしまったら、五年間引き出しに仕舞った何かを、まだ早すぎる時刻に、開けてしまうところだった。
馬車は、大通りを、宰相府の迎賓館のほうへ、進んでいった。




