第七話 薬草交易危機、二人でしか解けない問題
私が王太子位を失ったのは、この時期だった。協定書に書かれた起草者の名前を見た日のことだった。
正式には、評議会の決議がまとまる前に、私のほうから辞退を申し出た形になっている。母上は止められなかった。止めようとはなさったが、止めることを途中でやめられた。母上が途中で何かをやめられるのは、珍しいことだった。
辞退の申し出をまとめた書類に自分で署名した日、私は少しの間、ペン先を紙の上に置いたまま動かせずにいた。動かせなかったのは迷いではなかった。単に、手の力の入れ方を忘れていた、というのが近い。
署名を済ませて、席を立ったとき、机の隅に置かれた協定の草案が目に入った。
冬の初めに、隣国経由で届いた両国薬草交易の取り決め。その表紙に、起草者の頭文字が、短い形で刻印されていた。
あの朝、私は、その頭文字を、少しのあいだ、ただ眺めていた。
◇
シュタウフェン王国宰相府、奥の間。
宰相ヴィルブラント卿が、卓の上に広げた地図を、杖の先で軽く指した。
「国境の東岸沿い。アルダーラント側、シュタウフェン側の両方で、春先の熱が出始めている」
卓を囲んでいたのは、叔父と、私と、薬学院の代表として呼ばれたヘンリーケ嬢、それから宰相府の書記官が一人だった。燭台はまだ灯していない。窓の外の空は、曇っていて、明るくはないが、昼の明るさがかろうじて部屋の中まで届いていた。
「両国の交易は、昨年来、事実上、機能していない」
叔父は、それ以上の説明を加えなかった。
加えなくても、卓の上の四人には、十分に通じていた。
「協定の修正条項を、三日で仕上げてもらう」
書記官が、手元の筆記板に目を落とした。三日、と口の中で繰り返す声が、かすかに聞こえた。
「通常、宰相府の事務官数名でひと月の仕事だ。だから、無理は承知で頼む」
叔父は、杖を卓の縁に立てかけ、私とヘンリーケ嬢のほうへ、視線を半分ずつ渡された。
「薬学の優先順位は、院の代表に。法の枠組みは、宰相補佐に。書記は、ここで待機する」
ヘンリーケ嬢は、小さく、頷かれた。
頷き方に、躊躇はなかった。
◇
卓上の白紙は、最初、ひとまとまりの束だった。
ヘンリーケ嬢が「はじめに、薬草の性質別に仕分けをさせてください」と言われて、束を四つに分けられた。熱に効くもの。咳に効くもの。止血に効くもの。共有を見合わせるべきもの。
四つに分けてから、それぞれの束の先頭に、太い筆で見出しをつけていかれた。筆を持つ角度が、私が書くときの角度と少し違った。たぶん、薬学院の処方箋の書き方の癖なのだと思う。
最初の半日で、薬草の性質別の優先順位の原案ができあがった。
その夜、私は自分の頁に、法の枠組みを起草し始めた。薬草の分類に合わせた取り決め条項。緊急時の融通規定。課税の例外。違約の処理。普段なら、条項の骨子が見えるまでに、ひと晩はかかる。
その夜、私の手は、いつもより早く動いた。
早く動いた理由を、私は自分の手柄にはしなかった。卓の向こうで、ヘンリーケ嬢の筆が迷いなく動き続けていたからだ。
迷わない筆に向き合って、こちらだけが迷っているというのは、格好のつかない話だ。
◇
窓の外の空が、藍色から白んでいく頃、私は手を止めた。
条項の並びに、どうしても噛み合わない箇所があった。
薬草の性質別の優先順位と、国境の通関処理の順番が、ひとつの箇所で逆順になる。性質別で言えば「熱に効く乾燥根」が最優先で通されねばならない。けれど、通関処理の既存の書式では、その根は輸出制限品目に分類され、追加の書類を求められる。書類が揃うのを待っていては、春先の熱の流行には間に合わない。
書類の制約を外すには、法的根拠が要る。
法的根拠を作るには、薬学の側からの理由付けが要る。
両方を同時に満たす文面が、書きたくても、書けなかった。
私は、手元の草稿をしばらく睨んで、それから顔を上げた。
卓の向こうで、ヘンリーケ嬢は、別の紙に目を落としていた。乾燥根の処方箋の原本と、シュタウフェンの税制台帳を並べて、その間を行き来する眼差しだった。
「ヘンリーケ嬢」
声をかけると、彼女は顔を上げた。
「通関の書式の、ここの一項が外れる理由付けを、薬学の側から貸していただきたい」
私は、指で草稿の一行を示した。
ヘンリーケ嬢は、卓の向こうから半歩、椅子を動かして、覗き込まれた。指先で草稿の縁を一度撫でてから、自分の処方箋の束を繰られた。繰って、一枚を抜き出して、卓の上にそっと置かれた。
「この乾燥根は、加熱加工の工程で、効能の半分を失います」
処方箋の右下の欄に、加熱後の残存効能の目安が、手書きで記されていた。
「加熱加工済みの根であれば、輸出制限品目の定義から、性質上、外れます。国境で追加書類を求めずとも、現行法の解釈の範囲で通過させられます」
「……現行法の解釈」
「加熱後の根は、薬効のある薬草ではなく、薬効の乏しい乾物として扱われる。その区分が、税制台帳の別欄に残っています」
ヘンリーケ嬢の指が、台帳の一頁を示した。古い年代の、めったに参照されない区分欄だった。
私は、しばらく、その欄を見ていた。
見てから、草稿のほうに視線を戻した。視線を戻す間に、条項の並びが、頭の中で組み直された。
組み直された並びは、さっきまで書けなかった文面に、すっと、収まるかたちをしていた。
「……これで、書けます」
声が、思ったより低く出た。
ヘンリーケ嬢は、椅子をもとの位置に戻しながら、小さく頷かれた。
「よかった」
それだけ仰って、ご自分の処方箋の束に、視線を戻された。
私は、ペンを握り直した。
握り直した手の、指の付け根の辺りが、奇妙に熱かった。たぶん、三日の疲れの所為だ。そういうことにしておいた。
◇
三日目の朝、協定の修正条項は、完成した。
書記官が清書のために書類をまとめ、私とヘンリーケ嬢の署名欄に朱の枠線を引いた。薬学の起草代表、法の起草代表、それぞれの欄。
ヘンリーケ嬢は、筆を取った。
署名の直前に、彼女の筆先が、ほんのわずか、止まった。
止まった理由を、私は、すぐには理解できなかった。理解できなかったまま、彼女は筆を動かし、署名を済ませた。姓は、婚家のものではなく、結合姓で記された。
「H. von Aalensberg-Grünewald」
──婚家の、とは書いたが、この時点で、私たちは婚姻の儀を済ませてはいない。結合姓が先に文書に現れるのは、シュタウフェン宰相府の慣例によるもので、共同研究や共同起草の場で女性研究者が旧姓を併記する様式だった。叔父が何年か前に、薬学院の女性研究員の功績を旧姓で残せるよう、様式を整えさせていた。
筆先の、あの、ほんのわずかな止まり。
あれが何だったのか、私にはわからなかった。私にはわからなかったが、署名の欄を見つめる彼女の横顔は、そのあと、しばらくの間、普段よりも、やわらかかった。
清書済みの書類を、叔父が手に取った。叔父は表紙に目を落として、ひとつ頷かれた。
「よく、収まった」
それだけだった。
それだけで、叔父は、十分だったらしい。
◇
同じ書類の写しが、アルダーラントの王宮に届いたのは、それから数日後のことだ。
私は、外務補佐官が机の上に置いた表紙を、しばらく見つめていた。表紙の右下に、起草者の頭文字が短い形で刻印されていた。頭文字は二つ並んでいた。グリューネヴァルトの頭文字と、その手前に、アーレンスベルクの頭文字が。
アーレンスベルクの頭文字を見たのは、久しぶりだった。
見た瞬間、なぜか、喉の奥が詰まった。
詰まった喉のまま、私は、表紙をめくらなかった。めくらなかった理由を、私はその日、自分にうまく説明できなかった。
ただ、机の上で、冷めていく朝の茶をしばらく眺めた。
眺めながら、あの夜から毎朝考え続けてきた問いが、またひとつ、形を変えた気がした。
なぜ、私は、彼女の書く字の頭文字を、五年ぶりに見て、こんな顔で、ここに座っているのか。




