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なぜ婚約破棄してしまったのか、私はこの五年間、毎朝考えている  作者: 九葉(くずは)


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第六話 他国の晩餐会、王妃の失態

 あの晩餐会のことは、思い出すたび胃が痛む。私はそこにいたのに、何もできなかった。


 「できなかった」というのは、ずいぶん卑怯な言い方だと、今ならわかる。手を伸ばせば届く距離に卓があり、声を挙げれば届く範囲に耳があった。ただ、私は伸ばさなかったし、挙げなかった。


 黙っていた、というのが、もっと正直な言い方だ。


 黙っていた代償は、翌朝に抗議文という形で届き、それから少し間を置いて、王太子位という形で戻ってきた。失ったほうが、記憶の整理の仕方としては、ちょうどよかったかもしれない。


 残していたら、もっと見たくないものを、毎日見ていた気がする。



 王宮大食堂、歓迎晩餐会。


 長卓の中央より少し奥に、両陛下の席がある。その向かいの上席に、シュタウフェン王国宰相ヴィルブラント卿。宰相のお隣には副使が一人、あとは随行の書記官が数名、規定通りの席次に並んでいた。


 私は上座の端に、ロイゼは私の隣に座っていた。


 宰相ヴィルブラント卿は、白いものが混じり始めた髪を短く整え、眼鏡を鼻梁の低い位置にかけておられた。料理に手をつける前に、酒の盃を掲げて両国の友好を短くお祝いされた。口調は穏やかで、声は高くも低くもなかった。


 私は、頷いた。ロイゼも、隣で扇を畳んで、微笑みながら頷いた。


 問題が起きたのは、二の皿が下げられた頃だ。


 ヴィルブラント卿と、宰相府の副使との間で、母国語ではない言葉が短く交わされた。たぶん、料理についての些細な確認だったのだろう。宰相はすぐに我々の言葉に戻して、卓上の山菜について一言二言、感想を述べられた。


 ロイゼが、扇を閉じた。


 閉じて、膝の上に置いて、小さく微笑んだ。


「シュタウフェンの方々のお言葉は、少し訛っておいでなのね」


 穏やかな声だった。


 責めているのでも、揶揄しているのでもない、ただ率直に気づいたことを口にした、という調子の声。


「聞き取るのに、こう、耳を澄まさなくてはいけないでしょう? 疲れてしまいますわ」


 扇の端で、自分のこめかみを軽く叩く仕草をした。


 卓上の空気が、ひと呼吸ぶん、遅れた。


 私の隣で、母上が扇を持ち直す音がした。その音の小ささが、私の耳には、異常に大きく聞こえた。


 ヴィルブラント卿は、盃を卓に戻された。


 戻してから、口元を軽く緩めた。たぶん、あれが宰相なりの、笑顔だったのだろう。


「ご配慮、痛み入ります」


 宰相の声は、先刻と同じ、穏やかな調子のままだった。


「王太子妃殿下におかれては、お耳が弱いのは、さぞ大変でございましょう。薬草園に、耳によい煎じがございましたはずです。後ほど、書面にて調合の覚えを差し上げましょう」


 それだけ、仰った。


 それから、普通に料理に手をつけられた。


 ロイゼの扇が、膝の上で、半分開きかけて、止まった。開きかけて止まった扇を、彼女は、けっきょく最後まで開き直さなかった。


 私は、自分の手元の銀器を見ていた。


 銀器の縁が、燭台の光を反射して、妙に白く見えた。


 ここで、私は何か言うべきだった。「妻の非礼を詫びる」の一言でもよかった。代わりに、私は黙って魚の身をほぐした。ほぐした手が、動いていることに気づいていなかった。気づいた時には、皿の上で魚の身が、ずいぶん細かくなっていた。



 晩餐会の終わりの頃、毒見役の侍女が、卓の脇で、ひと声小さく咳をした。


 薬草の毒見は、規定の順序で行われる。料理の皿が運ばれる前、奥の控えの間で、毒見役が少量を口にし、異常がないことを確認してから、卓へ運ばれる。


 その夜の献立には、珍しい根茎が入った一皿があった。薬草園の古い帳簿によれば、微量であれば問題のない根で、調理法によっては舌にほんの少し痺れを残すことがある──と、以前、薬草園の庭師頭が私にそう説明してくれたことがある。記憶が確かなら、だ。


 毒見役の侍女は、卓の脇の壁際に下がって、胸元を軽く押さえていた。


 顔色が、悪かった。


 ロイゼが、それに気づいた。


 気づいて、小さく首を傾げた。


「あら。あなた、どうなさったの?」


 穏やかな声。


「せっかくの献立が、口に合わなかったのかしら」


 侍女は、頭を下げようとして、胸の押さえを強めた。


「も、申し訳……ございません……」


「演技でしょう?」


 ロイゼの扇が、軽く開いた。


「毒見は、毒見であって、見世物ではないわ。微かな痺れ程度で、そう大仰に騒がなくてもよいでしょう」


 ……微かな痺れ程度、と、ロイゼは言った。


 あの根茎の性質を、ロイゼが把握しているはずはなかった。把握していたなら、献立から外す指示を出すはずだ。出さなかったのだから、知らないはずだ。


 知らない、はずなのに、「微かな痺れ程度」と、口にした。


 断言の仕方が、耳に刺さった。


 ヴィルブラント卿が、盃を置く手を、ほんのわずか遅らせた。


 副使の書記官が、手元の帳簿のようなものを開いて、さらさらと何かを記した。


 あの帳簿が翌朝の抗議文の下書きだった、と知ったのは、だいぶ後のことだ。



 翌朝、私は自室の机の上に、封蝋のされた書状を見つけた。


 封蝋は朱色だった。シュタウフェン宰相府の印。


 開封する前から、中身はわかっていた。


 抗議文は、短かった。前夜のもてなしへの礼を最初に述べ、王妃陛下の体調を気遣う一行を挟み、最後に、薬学の知見に基づく献立の再考を静かに要望する、という、形式を守った文面だった。


 攻めていない。


 攻めていないのに、読み終わった時には、膝の力が抜けていた。


 攻めない文章というのは、攻める文章よりも時に重い。攻めれば反論できるが、礼儀で書かれたものには、こちらも礼儀で応じるしかなく、応じたが最後、向こうの言い分が「正当な苦言」として記録に残ってしまう。


 ヴィルブラント卿は、筆が立たれるお方なのだ。


 その日の午後、母上の居間に呼ばれた。


 母上は、いつもより低い椅子にお座りになっていた。私の顔を見ずに、窓のほうを向かれて、長く黙られた。


「ライムント」


「……はい」


「王太子位について、評議会で話が出る」


 私は、返事をしなかった。


 返事をしないことが、返事だった。


 母上は、顔をこちらに向けられずに、もうひと言、付け加えられた。


「止める気は、ありません」


 母上がそう仰った瞬間、私の中で、何かひとつの椅子が、静かに引き下げられた気がした。私は妻を選んだのではない、母上の差配を、そのまま受け入れただけだった──その気づきは、その日の午後、居間を退がる私の胸の中で、既に、終わっていた。



 シュタウフェン宰相府、起草室の扉。


 外から叩くと、中から「どうぞ」と、穏やかな声がした。


 扉を開けて、私は、机の向こうに立つ人の姿を見た。ヘンリーケ嬢は、書類の束を揃え直しているところだった。私の顔を見て、手の動きを止めて、書類を卓に置かれた。


「エードムント様」


「夜分に失礼を」


 いつもの挨拶を交わして、向かいの椅子に腰を下ろした。


 下ろしてから、いちど、袖の端を指で摘んだ。


 指の動きが落ち着くまで、私は待った。


「叔父が、アルダーラントへの答礼の使節を出す方針を決めました」


 ヘンリーケ嬢の手が、書類の角で、ひとつ止まった。


「起草代表として、あなたをお連れしたい、と叔父は申しております」


 顔を上げると、ヘンリーケ嬢の目が、燭台のほうを向いていた。燭台そのものを見ているのではなかった。そのさらに奥の、何か別の場所を見ている眼差しだった。


「ただ、これは叔父の意向であって、私の意向ではありません」


 言葉が、思っていたより早く、口から出た。


「あなたが望まれないのであれば、私が止めます」


 ヘンリーケ嬢の指が、書類の角から離れた。


 離れた指で、彼女は、卓の縁を一度だけ、軽く撫でた。撫でてから、手を膝の上に戻した。


「……エードムント様」


「はい」


「止めないでください」


 声は、低く、落ち着いていた。


 私は、息を、浅く吸った。


「行きましょう。一度きり、決着を」


 ヘンリーケ嬢は、それだけ仰って、微笑まれた。


 微笑みの端に、ほんのわずか、疲れの色が見えた気がした。見えた気がしただけで、その夜の私には、確信はなかった。


 確信がないまま、私は、頷いた。


 扉の外で、宰相府の廊下を、夜番の巡回の足音が、遠く近くを、行き過ぎていった。

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