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なぜ婚約破棄してしまったのか、私はこの五年間、毎朝考えている  作者: 九葉(くずは)


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第五話 ロイゼ妃、化けの皮

 ロイゼが私の前で見せていた顔と、執務官たちに見せていた顔は違った。気づくのが遅すぎた。


 気づいた、と言っても、それは一枚の目撃で告げられたわけではない。小さな報告書の行間から、使用人の控えめな咳払いから、晩餐の席で一瞬だけ凍る誰かの表情から、少しずつ、輪郭が浮かび上がってきた類のものだ。


 こういう気づき方をした者は、たぶん、いちばん逃げ場がない。一瞬で覆されたなら怒り方もある。けれど、じわりと形を取ってくるものに対しては、怒るための矛先すら自分のほうに向き直る。


 あの冬から春にかけて、私は毎日、矛先を自分の胸の中に立てたまま過ごしていた。



 王宮、南棟の小広間。


 午後の光が窓枠に斜めに入って、床の絨毯に細い線を引いている。


 私の妃ロイゼは、椅子の背に体を預けて扇を開いていた。隣には貴族令嬢が二人、向かいに侍女頭と、若い見習いの侍女が一人立っている。侍女は盆の上に茶器を揃え、手順通りに茶を注ごうとしていた。


 茶碗の底で、湯気の立ち方が少し乱れた。


 見習いの侍女の手が、わずかに震えたのだ。


 カチリ、と、茶碗が受け皿に触れる音がして、受け皿の縁に茶がひと筋、伝った。


「あら」


 ロイゼの声が、穏やかに響いた。


 穏やかな声だった。それは本当に穏やかで、怒気も、苛立ちも、表面には乗っていなかった。


「このお仕事、貴女には早かったようね」


 扇の縁が、小さく揺れる。


「ここは王妃の間よ。お給仕が震える手で茶をこぼすような場所ではないわ。分かっていて来ているのよね? それとも、分からなかったのかしら」


 侍女の顔が、見る見るうちに、色をなくした。


 向かいの令嬢の一人が、扇の陰で小さく笑った。もう一人は、笑わずに、視線をそっと窓の外へ逃した。


 侍女頭は、口を開きかけて、開かずに閉じた。


 私は、広間の扉の手前で、足を止めていた。


 扉は開け放たれていた。私が入ってこようとしたのは偶然で、ロイゼは気づいていない。私は扉の脇の柱の陰に半歩引いて、室内の様子が見える位置に立った。


 立ったまま、動けなかった。


 見習いの侍女が、震える指で受け皿を拭こうとした。ロイゼは扇を閉じて、膝の上で指を組んだ。


「いいのよ、拭かなくて。それは、貴女が拭くものではないもの」


 口調は、本当に、穏やかなままだった。


「下がりなさい。今夜からは、厨房の下働きに戻してあげるわ。そちらのほうが、貴女には向いているでしょう」


 侍女はもう、謝罪の言葉を口にする余力も残っていない様子で、床に近い場所まで頭を下げた。下げて、顔を上げられないまま、後ろ向きに広間を出ていった。


 広間の扉が、静かに閉まる。


 閉まる音の直前、私は柱の陰から一歩、退いた。


 ロイゼは、私が見ていたことを、最後まで知らなかった。



 夜、私は母上のもとを訪ねた。


 母上は、私の顔を見た瞬間、何の用件で来たのかを察した顔をされた。長年、宮廷を取り仕切ってこられた方の、そういう察しの速さだ。


「今日、南棟で」


 私が切り出すと、母上は片手を軽く挙げて私の言葉を止めた。


「聞いております」


「……母上」


「ライムント。あの子は若いの」


 母上は、卓の上の書状を片付けながら、視線を私に合わされなかった。


「若くて、位に馴染んでいないだけ。宮廷の作法は、これから教えていきます」


 これから、と母上はおっしゃった。


 その「これから」が、どれほどの月日を意味しているのか、私には見当がつかなかった。見当がつかない、ということに、私はその夜、初めて気づいた。


 母上は、ひと呼吸置いて、付け加えられた。


「もう少し、ヘンリーケのように振る舞えれば、あの子も楽でしょうに」


 指が、卓の縁をひとつ叩いた。


 叩いた音は、乾いていて、短かった。


 母上ご自身が、その名を口にされたことに、私は一瞬、息を止めた。


 息を止めた私に気づかれたのか、母上は、すぐに視線を書状のほうへ戻された。


「昔の話です。もう、宮廷の話題にのぼらせる名ではありません」


 ……のぼらせる名ではない、と。


 その言葉の選び方が、ずいぶん不自然だと、私は感じた。感じたけれど、その感じを、その場で言葉にするだけの度胸は、私にはなかった。


 下がって、自室に戻る途中の回廊で、私は一度、柱に手を突いた。


 手のひらの下で、冷たい石の表面が、ざらりとしていた。


 ──母上が、彼女の名を口にされた。


 あの断罪の夜以来、王宮で、あの名を声に出す人は、いなくなっていた。いなくなっていたのではない、正確には、口にしないことが暗黙の規則だった。


 その規則を破ったのは、規則を作った側のご本人だった。


 私は、柱から手を離した。


 離した手が、少しだけ、震えていた。



 シュタウフェン王国、宰相ヴィルブラントの執務室。


 私は卓の向こうで、宰相のお手元に広げられた書類をお見せしていた。薬草交易の新たな取り決めの草案。ヘンリーケ嬢の監修が入った薬学条項。あと二稿を経れば、両国間で正式な締結に漕ぎ着けられる段階にある。


 ヴィルブラント叔父は、書類の上を指先で追われてから、眼鏡を外された。


「エードムント」


「はい」


「近々、アルダーラントより、使節団派遣の打診が来るだろう」


 私は、顎を引いた。


 外交便が滞っていた件について、母国──叔父にとっての隣国、私にとっての留学先の国──が、ここに来て動き出したという情報は、昨夜の報告で聞いている。


「我が国からも、答礼の使節を出すことになる」


 叔父は、眼鏡を卓に置かれた。


「そこで、ひとつ確認を取らせてくれ」


「はい」


「ヘンリーケ嬢を、母国にお戻しする話は、我が国からは一切、出さない」


 私は、頷いた。


 頷いてから、念を押すように、もう一度頷いた。


 叔父は、眼鏡のない眼で、初めて私の顔を見られた。


「あの方が、我が国の薬学と外交の両方に、どれほど深く根を下ろされたか。表に出ている功績の、裏側の三倍は、私は把握している」


 叔父の指が、卓の上の書類の角を、軽く整えた。


「あの方を惜しむのは、隣国の事情ではない。我が国の事情だ。アルダーラントの使節団が何を言い出そうと、返す言葉はひとつだ。『グリューネヴァルト夫人は、シュタウフェンの人材である』──以上だ」


 ……グリューネヴァルト夫人、という語。


 叔父がそう仰ったのは、初めてだった。薬学院と宰相府の文書上では、そう記されている。けれど、この執務室で、叔父がそう呼ばれたのは、これが最初だった。


 私は、書類の端に置いていた手を、そっと引いた。


 引いた手の指先が、知らぬ間に、わずかに冷たかった。


「叔父上」


「何だ」


「……いえ」


「言いかけたことは、言え」


 叔父は、眼鏡をもう一度かけ直しながら、視線を私から外された。


 外してくださった、という方が正しい。


 私は、息を小さく吸って、吐いた。


「使節団の受け入れに、彼女を、起草代表として出すかどうか。ご判断は、いつ頃」


「お前が決めろ」


 即答だった。


 顔を上げた私に、叔父はもう目を合わせなかった。卓の上の次の書類に指を移しながら、付け加えられた。


「ただし、あの方の意志を、先に聞いてからだ」



 その夜、私は宰相府の廊下を、いつもより遅い時刻に歩いた。


 起草室の扉の下から、まだ細い光が漏れている。


 扉を叩く前に、私は、胸の奥で、ひとつの問いを整えた。


 ──あなたは、あの国へ、戻るおつもりがありますか。


 整えたつもりだったけれど、扉を叩く直前に、その問いは、口の中で形を失った。


 私が訊きたかったのは、それではなかった。


 訊きたかったのは、もっと手前の、もっと不格好な、別の言葉だった。


 扉を叩く手が、ひと呼吸、迷った。

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