第五話 ロイゼ妃、化けの皮
ロイゼが私の前で見せていた顔と、執務官たちに見せていた顔は違った。気づくのが遅すぎた。
気づいた、と言っても、それは一枚の目撃で告げられたわけではない。小さな報告書の行間から、使用人の控えめな咳払いから、晩餐の席で一瞬だけ凍る誰かの表情から、少しずつ、輪郭が浮かび上がってきた類のものだ。
こういう気づき方をした者は、たぶん、いちばん逃げ場がない。一瞬で覆されたなら怒り方もある。けれど、じわりと形を取ってくるものに対しては、怒るための矛先すら自分のほうに向き直る。
あの冬から春にかけて、私は毎日、矛先を自分の胸の中に立てたまま過ごしていた。
◇
王宮、南棟の小広間。
午後の光が窓枠に斜めに入って、床の絨毯に細い線を引いている。
私の妃ロイゼは、椅子の背に体を預けて扇を開いていた。隣には貴族令嬢が二人、向かいに侍女頭と、若い見習いの侍女が一人立っている。侍女は盆の上に茶器を揃え、手順通りに茶を注ごうとしていた。
茶碗の底で、湯気の立ち方が少し乱れた。
見習いの侍女の手が、わずかに震えたのだ。
カチリ、と、茶碗が受け皿に触れる音がして、受け皿の縁に茶がひと筋、伝った。
「あら」
ロイゼの声が、穏やかに響いた。
穏やかな声だった。それは本当に穏やかで、怒気も、苛立ちも、表面には乗っていなかった。
「このお仕事、貴女には早かったようね」
扇の縁が、小さく揺れる。
「ここは王妃の間よ。お給仕が震える手で茶をこぼすような場所ではないわ。分かっていて来ているのよね? それとも、分からなかったのかしら」
侍女の顔が、見る見るうちに、色をなくした。
向かいの令嬢の一人が、扇の陰で小さく笑った。もう一人は、笑わずに、視線をそっと窓の外へ逃した。
侍女頭は、口を開きかけて、開かずに閉じた。
私は、広間の扉の手前で、足を止めていた。
扉は開け放たれていた。私が入ってこようとしたのは偶然で、ロイゼは気づいていない。私は扉の脇の柱の陰に半歩引いて、室内の様子が見える位置に立った。
立ったまま、動けなかった。
見習いの侍女が、震える指で受け皿を拭こうとした。ロイゼは扇を閉じて、膝の上で指を組んだ。
「いいのよ、拭かなくて。それは、貴女が拭くものではないもの」
口調は、本当に、穏やかなままだった。
「下がりなさい。今夜からは、厨房の下働きに戻してあげるわ。そちらのほうが、貴女には向いているでしょう」
侍女はもう、謝罪の言葉を口にする余力も残っていない様子で、床に近い場所まで頭を下げた。下げて、顔を上げられないまま、後ろ向きに広間を出ていった。
広間の扉が、静かに閉まる。
閉まる音の直前、私は柱の陰から一歩、退いた。
ロイゼは、私が見ていたことを、最後まで知らなかった。
◇
夜、私は母上のもとを訪ねた。
母上は、私の顔を見た瞬間、何の用件で来たのかを察した顔をされた。長年、宮廷を取り仕切ってこられた方の、そういう察しの速さだ。
「今日、南棟で」
私が切り出すと、母上は片手を軽く挙げて私の言葉を止めた。
「聞いております」
「……母上」
「ライムント。あの子は若いの」
母上は、卓の上の書状を片付けながら、視線を私に合わされなかった。
「若くて、位に馴染んでいないだけ。宮廷の作法は、これから教えていきます」
これから、と母上はおっしゃった。
その「これから」が、どれほどの月日を意味しているのか、私には見当がつかなかった。見当がつかない、ということに、私はその夜、初めて気づいた。
母上は、ひと呼吸置いて、付け加えられた。
「もう少し、ヘンリーケのように振る舞えれば、あの子も楽でしょうに」
指が、卓の縁をひとつ叩いた。
叩いた音は、乾いていて、短かった。
母上ご自身が、その名を口にされたことに、私は一瞬、息を止めた。
息を止めた私に気づかれたのか、母上は、すぐに視線を書状のほうへ戻された。
「昔の話です。もう、宮廷の話題にのぼらせる名ではありません」
……のぼらせる名ではない、と。
その言葉の選び方が、ずいぶん不自然だと、私は感じた。感じたけれど、その感じを、その場で言葉にするだけの度胸は、私にはなかった。
下がって、自室に戻る途中の回廊で、私は一度、柱に手を突いた。
手のひらの下で、冷たい石の表面が、ざらりとしていた。
──母上が、彼女の名を口にされた。
あの断罪の夜以来、王宮で、あの名を声に出す人は、いなくなっていた。いなくなっていたのではない、正確には、口にしないことが暗黙の規則だった。
その規則を破ったのは、規則を作った側のご本人だった。
私は、柱から手を離した。
離した手が、少しだけ、震えていた。
◇
シュタウフェン王国、宰相ヴィルブラントの執務室。
私は卓の向こうで、宰相のお手元に広げられた書類をお見せしていた。薬草交易の新たな取り決めの草案。ヘンリーケ嬢の監修が入った薬学条項。あと二稿を経れば、両国間で正式な締結に漕ぎ着けられる段階にある。
ヴィルブラント叔父は、書類の上を指先で追われてから、眼鏡を外された。
「エードムント」
「はい」
「近々、アルダーラントより、使節団派遣の打診が来るだろう」
私は、顎を引いた。
外交便が滞っていた件について、母国──叔父にとっての隣国、私にとっての留学先の国──が、ここに来て動き出したという情報は、昨夜の報告で聞いている。
「我が国からも、答礼の使節を出すことになる」
叔父は、眼鏡を卓に置かれた。
「そこで、ひとつ確認を取らせてくれ」
「はい」
「ヘンリーケ嬢を、母国にお戻しする話は、我が国からは一切、出さない」
私は、頷いた。
頷いてから、念を押すように、もう一度頷いた。
叔父は、眼鏡のない眼で、初めて私の顔を見られた。
「あの方が、我が国の薬学と外交の両方に、どれほど深く根を下ろされたか。表に出ている功績の、裏側の三倍は、私は把握している」
叔父の指が、卓の上の書類の角を、軽く整えた。
「あの方を惜しむのは、隣国の事情ではない。我が国の事情だ。アルダーラントの使節団が何を言い出そうと、返す言葉はひとつだ。『グリューネヴァルト夫人は、シュタウフェンの人材である』──以上だ」
……グリューネヴァルト夫人、という語。
叔父がそう仰ったのは、初めてだった。薬学院と宰相府の文書上では、そう記されている。けれど、この執務室で、叔父がそう呼ばれたのは、これが最初だった。
私は、書類の端に置いていた手を、そっと引いた。
引いた手の指先が、知らぬ間に、わずかに冷たかった。
「叔父上」
「何だ」
「……いえ」
「言いかけたことは、言え」
叔父は、眼鏡をもう一度かけ直しながら、視線を私から外された。
外してくださった、という方が正しい。
私は、息を小さく吸って、吐いた。
「使節団の受け入れに、彼女を、起草代表として出すかどうか。ご判断は、いつ頃」
「お前が決めろ」
即答だった。
顔を上げた私に、叔父はもう目を合わせなかった。卓の上の次の書類に指を移しながら、付け加えられた。
「ただし、あの方の意志を、先に聞いてからだ」
◇
その夜、私は宰相府の廊下を、いつもより遅い時刻に歩いた。
起草室の扉の下から、まだ細い光が漏れている。
扉を叩く前に、私は、胸の奥で、ひとつの問いを整えた。
──あなたは、あの国へ、戻るおつもりがありますか。
整えたつもりだったけれど、扉を叩く直前に、その問いは、口の中で形を失った。
私が訊きたかったのは、それではなかった。
訊きたかったのは、もっと手前の、もっと不格好な、別の言葉だった。
扉を叩く手が、ひと呼吸、迷った。




