第四話 ある共同作業、ある茶
外交便が止まり始めた。私はそれを気にもしていなかった。母上の差配だと思っていた。
外務補佐官が「シュタウフェンよりの返書が、このところ滞っております」と告げてきたのは、秋の終わりだった。書類は私の手元に積まれた。私はそれを、別の書類の下に押しやった。
母上は宮廷の細部に目を配られる方で、何かに不都合があれば自ら使者を差し向ける癖がおありだった。今回も、そういう手はずを進めておられるのだろう──そう思った。思いたかった、というのが、たぶん、正確な言い方になる。
あの秋、私は思いたいことを、思っていた。
◇
シュタウフェン宮廷宰相府、起草室。
窓の外はもう墨色だ。卓上の燭台の蝋が、皿の縁に細く垂れて固まっている。私は、机の向こうに座る人の手の動きを、書類越しに追っていた。
ヘンリーケ嬢の指は、薬草の名を書き連ねるあいだ、一度も止まらない。咳止めの根、解熱の葉、止血の樹脂──どれを優先順位の上に置き、どれを共有禁制の枠に残すか、判断の速さが普通ではない。両国の薬草交易の枠組みは、本来、宰相府の事務官が数名がかりでひと月ほどかける作業だ。それを、彼女と私の二人で組み上げている。
組み上げられているのは、彼女の知見の側面が大きい。私は法の枠組みを編むだけで、中身を吹き込んでいるのは彼女のほうだった。
ペン先の音が、止まった。
ヘンリーケ嬢が、左手で軽く目尻を押さえた。一瞬の動作。すぐに離して、また書き始めた。
私は、机の引き出しを引いた。
奥に、古い手帳がある。革の表紙の角が擦り切れている。留学生だった頃から持っているもので、宮廷に戻ってからも捨てられずに、書斎ではなく、執務机の引き出しに移し変えて使ってきた。
あるべき頁を、目を伏せたまま開く。
書き写したのは、初冬の薬草園だった。私はまだ十九で、留学先の大学の規定で「他国の薬草栽培の見学」を課されていた。アーレンスベルク侯爵令嬢が外交官に説明をされている、その場の末席に立たせてもらった。説明の声は穏やかで、けれど聞き逃せない種類の穏やかさだった。手帳を閉じてから書くのは無作法だと感じて、聞きながら膝の上で記した。それで、字が少し歪んでいる。
頁の右下に、温かい飲み物に向く処方の覚えがある。
乾燥根の比率、少量の蜂蜜、湯の温度の目安。
私は手帳を伏せたまま、椅子から立った。
「夜も遅いです、これを」
給仕の係はもう退がらせている。茶器は、宰相府の小卓に常備のものを使った。
湯を注ぐとき、手元を見ないようにした。見れば、たぶん、迷ってしまうだろうと思った。
◇
差し出された茶碗を、両手で受け取った。
白い陶器。縁が薄い。普段の宰相府の茶器より、ひと回り小さい。
「ありがとうございます」
声が出た。続きの言葉は、いつものように、出なかった。
茶碗の表面から、湯気がまっすぐに上がっている。
ひと口、含んだ。
……。
舌の上に乗った瞬間、頭の奥で、ぱちんと小さな音がした気がした。
乾いた根の、少しだけ甘い匂い。蜂蜜の量はごく控えめで、湯はぬるくはなく熱すぎない。咳が出始めた頃のための、就寝前向けの調合。
……これは、私の処方だ。
正確には、私が考えて、母国の王宮の薬草園で、隣国の使節に話したことのある処方。冬の入りに、年配の方の咳に向いていますと、口頭で説明したものだ。書面に残した覚えはない。書面に残せるほどの、大層な発明ではなかったから。
茶碗の縁を握る指に、知らぬ間に、わずかに力が入った。
顔を上げると、机の向こうでエードムント様が、ご自分の書類に視線を戻されていた。横顔の輪郭が、燭台の光を半分だけ映している。眼鏡の縁の細い金属に、光がひと筋走っている。
「……これは」
言いかけて、それ以上、続ける言葉を選び損ねた。
エードムント様は、書類から目を上げずに、あるいは上げるかどうか少し迷ってから、ようやく顔を上げられた。
「昔、書き留めていたものです」
淡々とした口調だった。
それ以上は、何も語らなかった。
私は、茶碗の縁を、見つめた。
いつ書き留められたのか、と聞くべきか。どうして覚えていらしたのか、と聞くべきか。──いいえ、聞いて何になるだろう。あの薬草園に立ち入った人は数えきれない。書き留めた人がいても、不思議ではない。
……不思議ではない、はずだ。
胸の奥が、奇妙に静かだった。静かなまま、けれど、片隅で、何か小さなものが、座り直す音がした気がした。
もう一度、茶を含んだ。
今度は、ひとくちが、長くなった。
「……美味しいです」
言葉は出た。出たけれど、それは私の言葉のようでいて、誰か別の人の声のようにも聞こえた。
エードムント様は、頷きもせず、否定もされず、また書類に目を落とされた。
ペン先の音が、再び動き出した。
窓の外で、夜風が一度だけ強く吹いた。
◇
その秋、母国の宮廷では、隣国宛の書状が宛先不明で戻り始めていた──とは、これも後に父からの便りで知ったことだ。
シュタウフェン側の薬学交渉窓口は、宛先名簿の上で「グリューネヴァルト夫人」と記されている。母国の外務官たちは、誰一人、その人がアーレンスベルク家の娘であるとは結びつけていなかった。私が国を出てから、私の名前を口にする人が、宮廷から少しずつ減っていたから。
夫人。
私はその時はまだ、結婚もしていなかった。けれど、シュタウフェン宰相府の事務官たちは、薬学院の女性研究員に対しては、ある程度の年齢を超えると「夫人」の敬称をつけて文書を起草する習慣があった。それが、母国の外交官たちの混乱の一因になった。
外交が、止まる。
止まる、というのは、断絶ではなく、行き先を見失った書状が宙に浮いたまま積まれていく、そういう静かな止まり方だった。
◇
茶を、いつ最後に彼女と飲んだのか、思い出せない。
報告書を脇に押しやった手の隣に、私の執務机のカップが置かれている。中身は、もう冷めている。今朝、給仕が淹れて持ってきた、宮廷御用達のいつもの茶。
いつもの茶のはずなのに、今日は、口をつける気にならなかった。
冷めたまま、しばらく、眺めていた。
◇
その夜、私はなかなか眠れなかった。
寝台の天井を見つめながら、茶の匂いを、何度か思い出していた。乾いた根の甘さと、蜂蜜の控えめな後味。あの処方を口にしたのは、もう、いつのことになるか。日付までは、覚えていない。
覚えていないのに、舌の方が、覚えていた。
舌が覚えていたのは、私の手柄ではない。舌は勝手に覚えるものだ。
……それでも、なぜだろう。
寝返りを打って、もう一度天井を見た。
明日も、同じ机で、同じ作業を続けるだけだ。今夜、考えてしまったことは、明日には引き出しの奥に仕舞っておけばいい。
仕舞っておけばいいのに、仕舞う前に、なぜ取り出してしまったのか。
……我ながら、面倒な性分だ。
寝具を引き上げて、目を閉じた。
目を閉じてからも、茶碗の縁の薄さの感触が、指の腹にしばらく残っていた。




