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なぜ婚約破棄してしまったのか、私はこの五年間、毎朝考えている  作者: 九葉(くずは)


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3/10

第三話 国境の宿、薬草園は枯れる

 あの一週間、王宮薬草園が静かに変わり始めていた。気づいていれば、すべては違ったのかもしれない。


 ヘンリーケが王宮を退いた、その翌週のことだ。庭師頭が私の執務室の前で、しばらく逡巡してから扉を叩いた。「土の調子が、少し」と前置いて、それ以上の言葉を続けるのを躊躇った顔をしていた。


 私は書類の途中だった。顔も上げず、「いつものように頼む」とだけ告げた。庭師頭は何か言いたそうに口を動かして、けれど、王太子の前で粘ることはしなかった。


 あの朝、彼が言いかけて呑み込んだ言葉を、私は何年も経ってから、何度も思い返すことになる。



 家を出てから何日目だったか、もう正確には数えていない。


 父が手配した馬車で、私は王都を離れた。表向きの口実は「療養」だった。療養の名目で、国境を越え、隣国シュタウフェンへ向かう──父は、そう決めていた。父の祖父の代からの友という宰相のもとへ、書状を添えて、私を送り出すことにしたのだ。


 国境の手前、街道の宿で、熱を出した。


 朝に発つ予定の日の明け方、額に手を当てた瞬間に、もう体が起き上がらないことが分かった。


 侍女のローゼマリーが宿の主人を呼びに走り、主人が困った顔で部屋を覗き込んだ。


「お嬢様、医者は半日離れた村にしかおりませんで」


「水だけで結構です」


 答える私の声が、自分でも妙に薄く聞こえた。


 ここで医者を待って騒ぎを起こせば、父が選んでくれた静かな道行きが、たちまち噂になる。動けないなら動けないなりに、目立たずに耐えるしかなかった。


 意識が、何度か霞んだ。


 ……薬草の匂いがした。


 乾いた根を砕いて、湯に落とした時の、少し甘くて鼻の奥に残る匂い。私が薬草園で、いやというほど嗅いだ匂い。


 目を開ける気力がないまま、その匂いだけを、しばらく追っていた。


「失礼を」


 低い声がした。男の声。聞き覚えはない。


「乾燥根を切らせていただきました。咳と熱には、こちらの煎じが効きます」


 額の上で、湿った布が、新しいものに替えられた。


 布を畳む指の動きが、慣れた人の動きだった。急いでもいないし、ぐずぐずもしていない。額の上に置く前に、わずかに止めて、布の重みを加減してから、ゆっくり下ろした。


 布の重さが、思っていたよりも軽かった。


「……薬師の方ですか」


 声を絞り出した。喉が痛い。


「いえ。留学生です。母方の家が、薬草を扱っておりましたので」


 それきり、男は黙った。


 しばらくして、また布が替わった。


 そうしていただいているうちに、熱の波が、ひと段だけ引いた。


 私は、薄く目を開けた。


 古い木の梁が見えた。視線を傾けると、寝台の脇に椅子を引いて座る輪郭が見える。黒い髪。眼鏡の縁が、窓の外の光を映している。年は、私とそう変わらない。


 ──見た覚えがある。


 頭の奥で、何かが小さく動いた。けれど、その「何か」を引き出す前に、男のほうが先に口を開いた。


「あなたを覚えています」


 落ち着いた声だった。責めているとも、慰めているとも取れない、静かすぎる声だった。


「先月、王宮の小ホールで」


 私は、目を閉じた。


 閉じてから、もう一度、ゆっくり開けた。


「忘れることに、しました」


 口から出た言葉は、自分が用意していたものより、少しだけ短くなった。


 男は、何も言わなかった。否定も、同情も、加えなかった。


 ただ、湿らせ直した布を、もう一度、額の上に置いた。


 その手の重さを、私はなぜか、ひとつ覚えてしまった。



 熱が引いて、日が傾いた頃、男は階下で何かを書いていた。


 ローゼマリーが二階に上がってきて、私の枕元で囁いた。


「あの方が、宿の主に紙と封蝋を所望しておられます」


「……そう」


「宛先は、シュタウフェン王国宰相府だそうです」


 私は、天井を見たまま、息をひとつ吐いた。


 階下から、ペン先が紙を擦る音が、かすかに聞こえてきた。


 書く速さは、迷いがなかった。


 しばらくして、男が二階に戻ってきた。封の済んだ書状を、寝台の傍らの卓に置く。


「叔父に宛てたものです」


「……叔父様、と仰いますと」


「シュタウフェン王国宰相、ヴィルブラントです」


 寝具の縁を握っていた指に、知らぬ間に力が入った。


 父が祖父の代からの友、と言っていた、その人だ。


「アーレンスベルク侯爵家のご令嬢を、シュタウフェンが丁重にお迎えするべきだと、書きました」


 口調は、相変わらず淡々としていた。


「あなたが望まれるなら、お使いください」


 私は、しばらく、その封蝋の色を見ていた。


 朱色だった。乾いてまだ艶のある、新しい朱。


「……ありがとうございます」


 声は、出た。


 出たけれど、それきり、続きが出てこなかった。


 胸の奥でいくつもの言葉が動いて、けれど、口の手前で詰まった。「ありがとうございます」の次に何を言えばよいのか、私は、知らなかった。


 ローゼマリーが横で、わずかに眉を寄せたのが視界の端に映った。「お嬢様、もう少し何か」と顔に書いてある。書いてあるけれど、私には、無理だった。


 男は、私が黙ったことを気にしていない様子だった。窓辺に歩いていって、外の暮れ方の空をしばらく眺めてから、振り返らずに、もうひと言、告げた。


「お名前を、いただかなくとも構いません。書状は、そのまま宰相に届きます」


 扉が、静かに閉まった。


 ……名前を口にしなくて済むように、外を見ていたのだ。


 そう気づいたのは、その夜、ようやく深く眠れる前の、寝入りばなのことだった。



 シュタウフェンの王都に入って、季節がひと巡りした頃。


 私は薬学院の地下の研究室にいた。


 夜遅くまで燭台を灯しているのは、研究員にとって珍しいことではない。机の上には乾燥根がいくつも並び、すり鉢の縁に、細かい粉が薄く残っている。指先からは、もう石鹸で洗っても、なかなか落ちない、薬草の渋い匂いがした。


 手を動かしている時間は、有難かった。


 手が動いている間は、考えなくていい。考えても仕方のないことを、考えなくていい。


 ヴィルブラント宰相は、私を直接お迎えくださった。


 書状の差出人については、何もお尋ねにならなかった。「我が甥が、また勝手をしましたか」と、ただ一度だけ、口の端で笑われた。それが、唯一の言及だった。


 甥御の名は、宰相のお屋敷でも、薬学院でも、私の前では誰も口にしなかった。


 ──同じ頃、母国の王宮では。


 これは、後に父からの手紙でまとめて知ったことだ。


 王宮の薬草園では、咳止めの根が育たなくなっていた。庭師たちは土を入れ替え、種を取り直し、新しい苗を取り寄せた。けれど、根は途中で黒く変色し、葉は丸まったまま伸びなかった。


 この国の古い薬草園には、ひとつの伝えがある。


 園の土には、長く世話をした者の祈りが残る。新しい者が引き継ぐ際、土を全て入れ替えない限り、前の世話人の手の癖に合う薬草しか育たない──薬学院の老講師は、私にそう教えてくれた。教えてくれてから、少しだけ、間を置いた。


 王宮の薬草園は、祖母の代から、アーレンスベルクの娘たちが世話をしてきた園だった。


 私が抜けた土は、今、誰の手にも応えないでいる。


 望んだことではない。


 ただ、私が望むかどうかとは関係なく、もう、起きてしまったことだ。


 すり鉢を握る手に、少しだけ力を込めた。



 庭師たちは原因が分からず、私もまた、原因を考えなかった。


 咳止めの根の値が市場で上がり始めた、という報告書を、私はその秋、他の書類の下に積んだ。


 積んだ手は、自分の手だった。


 積んだ理由を、私は今でも、自分にうまく説明できないでいる。

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