第二話 あの夜、断罪の口上
あの夜、なぜ私はあれほど自信に満ちていたのか。
書類の上に置いた手が、今朝は妙に重い。昨夜の祝賀会から離宮に戻って、寝室の天井を見つめたまま朝を迎えた。眠った気がしない。眠れたとも思えない。
机の引き出しの奥に、一通の書簡の控えがある。母上が「これが証拠です」と差し出してきた、あの紙の写しだ。当時、私は震える指でその文面を読み、怒りに任せて卒業パーティに駆け込んだ。今、もう一度それを取り出す気には、どうしてもなれない。
あの紙に書かれていた文字は、今でも目を閉じれば浮かぶ。
ただ──昨夜、回廊の奥に消えた銀の髪を見たあとで、初めて、ひとつの問いが胸を掻いた。
あの文字は、本当に、彼女のものだったのか。
◇
壇上の燭台が、いつもより低く感じた。
学園の卒業を祝う夜会だった。年に一度、王家が学び舎の最終学年を招き、王宮の小ホールで宴を催す習わし。私は薄い緑のドレスを選んでいた。母上が「派手すぎるのは品がない」とおっしゃるので、刺繍も控えめなものにした。
いつもの通りの夜になるはずだった。
乾杯の杯がまだ手の中で温いうちに、壇上から名を呼ばれた。
「ヘンリーケ・フォン・アーレンスベルク侯爵令嬢」
ライムント殿下のお声だった。
ホールの私語が、波が引くように消えた。私は杯を侍従に渡し、裾を整えて壇の前まで歩いた。途中で何人かと目が合った。誰の顔も、よく覚えている。覚えていたくはなかったのに、はっきりと残っている。
「貴様の罪を、ここで断じる」
貴様、という言葉が、まず耳に引っ掛かった。
婚約者にこの語を使う人ではなかった。少なくとも、これまでは。
壇上で、殿下の隣に侍従が立ち、巻物を広げた。墨の濃い、形式に則った書付。私の名と、罪状と、それから──「証拠」として、私が書いたとされる書簡の写しが、声に出して読み上げられた。
最初の一行で、息が止まった。
いえ、止まりかけて、無理に押し戻した。
……これは、私が書いたものではない。
文面の運びは、たしかに私の手によく似せてある。署名の癖も、文末の結びの言葉も、私が薬草園で外交官に手渡した書簡を真似て作られている。けれど、内容が違う。私が書いたのは、隣国シュタウフェンとの薬草交易の打診──春先の流行病に備え、咳止めの調合に使う乾燥根を融通しあえないか、という事務的な相談だった。
今、読み上げられているのは、別の話だった。国境の守備配置に触れ、王宮内部の人事に踏み込み、「然るべき方面へ伝達されたし」という結びになっている。
書き換えられている。
誰かが、私の手蹟を真似て、別の文を仕立てた。
頭の中で、すぐに考えが走った。違う、と声を上げるべきか。本物の控えは父の手元にある。隣国の宛先に問い合わせれば、私が送った原本も出てくる。証明できる。証明できるはず──。
そこで、視線を上げた。
壇の奥、上座のさらに上。垂れ幕の影に、王太后陛下がお座りになっていた。
お顔は微動だにしない。私を見ている。ただ、見ている。叱責の色も、驚きの色もない。あらかじめここに座ると決めていた人の、沈黙だった。
息が、もう一度、浅くなった。
……これは、殿下お一人の御判断ではない。
王太后陛下が同席して見守るということは、王家として既に決められた裁定なのだ。私がここで「これは捏造です」と声を上げれば、それは王家の判断そのものに弓を引くことになる。
弓を引けば、的はひとつではない。
私の隣には、父がいる。アーレンスベルク侯爵家がある。叔父の家がある。父の代から仕えている家令、領地の小作たち、薬草園で働く者たち。私が一言、この場で言葉を発せば、それらのすべてが連座する。
父の顔を、視界の端で探した。
すぐに見つかった。
父は、私の方を見ていなかった。視線は壇上の床に落とされ、唇は固く結ばれている。それでも、横顔の頬の線が、ほんのわずか震えていた。
その震えが、何より雄弁だった。
──引け。
言葉ではなく、父の頬の線が、そう告げていた。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
閉じてから開くまでの間に、決めた。
◇
「承りました」
短い、短すぎる返事だった。
壇上のどこかから、息を呑む音が聞こえた。誰のものかは分からない。たぶん、私が長々と弁明を始めるか、あるいは泣き崩れるか、そのどちらかを予想していた人の喉が鳴ったのだろう。
私は裾を持ち上げ、礼の形を作った。床に膝はつかなかった。罪人としてではなく、退出する一人の客として。
顔を上げ、もう一度、殿下を見た。
ライムント殿下は、口の端を何かの形に動かしかけて、止めた。あの夜、私が最後に見た彼の表情は、勝者の顔ではなかった。何かを言いかけて呑み込んだ、行き場のない顔だった。
なぜそんな顔をなさるのだろう、と一瞬思って──思ったことを、すぐに胸の奥に押し込めた。
考えても、もう、意味のないことだ。
◇
退出のために、私は人波の脇を歩いた。
誰もが目を逸らした。少し前まで挨拶を交わしていた令嬢たちが、扇で顔を半分隠した。私はそれを責める気にはならなかった。私が逆の立場でも、同じことをしただろう。王家に断じられた者と目を合わせるのは、危険なのだ。
ホールの出入り口に近づいたとき、人垣の端で、ひとり若い男が動いた。
外国の正装を身につけていた。学園の留学生らしかった。年は私と、そう変わらないように見えた。黒い髪。眼鏡の縁が灯りを映した。彼は何か叫ぼうとして、口を半分開けた。
その肩を、隣に立っていた年配の男──あれは隣国の大使だったか──が、強く押さえた。
大使が低く何かを耳元で告げ、若い男の唇は、ゆっくりと閉じられた。閉じられた唇が、わずかに震えていた。
私は歩みを止めなかった。止めれば、彼にも累が及ぶことが、その時の私にも分かった。
ただ、扉をくぐる直前に、もう一度だけ、その方向を見た。
若い男は、まだ私を見ていた。眼鏡の奥の眼が、灯りを反射して、奇妙に潤んでいた。
あれは誰だったのだろうと、その夜は考えなかった。考える余裕がなかった。
◇
馬車の扉が閉まり、車体が走り出してから、父はようやく口を開いた。
「ヘンリーケ」
「はい、お父様」
父は、私の方を見なかった。窓の外を流れていく王宮の灯りに目をやったまま、低い声で言った。
「すべての写しは、取ってある」
その一言で、十分だった。
父が何を意味して言っているか、私には分かった。私が薬草園で書いた書簡の控え。父の許に届いた事務報告。これまで──いえ、もっと前から、父が侯爵家の文書を几帳面に二重に保管してきたこと。あの几帳面さが、今夜のためにあったわけではない。けれど、結果として、それが今夜のためにあったのだ。
「いつか、必ず」
父の声は、それ以上、何も付け加えなかった。
付け加えなくてよかった。私には、十分すぎた。
馬車が大通りに出て、車輪の音が石畳に変わったとき──私は、ようやく、頬の上に何かが落ちるのを感じた。
拭いはしなかった。
拭いてしまったら、きっと、もっと出てくる。
窓の外で、街の灯りが流れていく。父は、最後まで窓の外を見ていた。私の頬を見ない優しさが、その夜、いちばん有り難かった。
馬車の隅で、父が独り言のように、もうひと言だけ呟いた。
「シュタウフェンの宰相に、書状を出そう。お前の祖父の代からの友だ」
その時の私は、その名前が、後の人生のどこに繋がるか、何も知らなかった。
ただ、馬車の揺れと、父の横顔と、頬を伝うものの温度だけが、その夜の記憶の全部だった。




