第一話 五年後、銀髪の貴婦人
なぜ婚約破棄してしまったのか、私はこの五年間、毎朝考えている。
考えても答えは出ない。出るはずがない。あの夜、断罪の口上を読み上げていた自分の声と、それを微笑みで受け止めた彼女の表情の間に、ひとつの橋を架ける言葉が、私には未だに見つからないのだから。
窓の鎧戸から薄い光が差している。寝具を畳んで顔を洗い、髪を結う。これが私の朝だ。当主のいない離宮で、従僕も置かず、自分の身仕度を自分でする。母上は不憫がるが、こうしていないと頭がおかしくなる気がする。
手鏡の中の顔は、五年でずいぶん老けた。
今夜は祝賀会だ。建国二百年の式典。隣国シュタウフェンから使節団が来る。出席者の一覧を昨日配下から受け取った。宰相補佐の名が一行あり、その下に「並びにご夫人」と書かれていた。
夫人。
たぶん、何でもない一行だ。隣国の若い宰相補佐が結婚したというだけの。けれど私は、その文字を見てから、もう半日、書類が一行も進んでいない。
◇
馬車が宮城門をくぐったとき、外の灯りが車内に流れ込んだ。
窓の縁を指でなぞっていた手が、ふと止まる。冷たい。鉄の感触の上に、夜気が薄く張りついている。
「寒くないですか」
隣からの声に、私は顔を上げた。
「ええ。馬車が暖かいので」
エードムント様は私の顔を一度だけ見て、それから視線を窓の外に戻した。何か確かめるように眺めて、肩から外套の裾を一度引き直す。
この人の所作には、いつもほんの少しだけ間がある。たぶん、頭の中で先に動きを試してから、実際の手を動かしているのだと思う。最初の頃は不器用なのかと思っていた。今はそうではないと知っている。
馬車が車寄せに止まる。先に降りた従者が扉を開け、エードムント様が手を差し出した。
「足元に気をつけて」
手を取った瞬間、白手袋越しに、彼の指の力が伝わってくる。落ち着いている。震えていない。
私の手のほうが、わずかに冷たい。
それを気取られないように、私は微笑んで馬車を降りた。
大広間までの回廊は、五年前と何も変わっていなかった。柱の角の擦り傷も、絵画の並びも、絨毯の縁の擦り切れた箇所も、全部覚えている。あの夜、断罪を言い渡されて退出するときに数えながら歩いたから。覚えているつもりはなかったのに、足が、勝手に角を曲がる。
「ヘンリーケ」
名を呼ばれて、足を止める。
エードムント様が、半歩遅れて私の隣に並んだ。
「無理はなさらず」
「ええ」
無理はしていない、と私は思う。していないはずだ。
ただ少しだけ、靴の中で爪先が縮こまっているのは、自分でも理由が分からなかった。
◇
大広間は、人と灯りで満ちていた。
天井の燭台が幾段にも垂れ、ガラスを通した光が壁に滲んでいる。楽の音と、貴族たちの談笑と、給仕の靴音が、布張りの床に吸われてくぐもった調子で混ざり合う。匂いは、香水と蜜蝋と、それから少しだけ汗の気配。
そう、こういう場所だった。
使節団は最後に呼ばれる。私たちは扉の手前で待った。前の使節──東方の小国の代表が紹介を終えて場内に進み、それから司会の侍従が短く息を継ぐ。
「シュタウフェン王国宰相府より、宰相補佐エードムント・フォン・グリューネヴァルト卿、ならびにご夫人」
扉が開く。
大広間の音が、ふっと薄くなった気がした。
気のせいかもしれない。けれど、進み出る一歩目で、視線が集まるのが分かった。隣国の宰相補佐は若い。それは聞いている。その妻が、銀の髪に夜空の色のドレスをまとっているのも、たぶん、彼らには物珍しい。
ただ、それだけのこと。
歩く。エードムント様の歩幅に、私の歩幅が合うように歩く。
奥の段の上、両陛下の隣に、彼が立っていた。
ライムント・ヴァルター殿下。
五年前より、痩せていた。
頬の線が削げて、目の下に深い影がある。胸元の勲章の数は記憶よりも少ない。それでも、私のほうへ向けたその顔は、五年前と同じ表情で固まっていた。
あの夜、私の前で「貴様の罪を断ずる」と告げたあとの、ほんの一瞬の沈黙。あのとき殿下が見せた、何かを言いかけて呑み込んだ顔。
あれと、同じ顔だった。
私は段の手前で立ち止まり、礼装の裾を片手で軽く持ち上げて、片膝をわずかに沈める礼をした。それから、顔を上げて、微笑んだ。
「初めまして、ライムント殿下。お噂は、隣国にも届いておりますわ」
声が、思っていたより落ち着いていた。
殿下の唇が、何かの形を作りかけて、止まる。
手が、私のほうへ伸びかけて、途中で空を掻いた。
空気が、半拍、止まる。
私の隣でエードムント様が静かに前に進み、深く一礼した。
「お初にお目にかかります、殿下。隣国宰相府より、エードムント・フォン・グリューネヴァルトと申します」
淀みのない声だった。
殿下が、ようやく頷いた。「……よく、来てくれた」と、それだけ。
私はもう一度礼をして、半歩下がる。
退いた瞬間、エードムント様の手が、私の肩のあたりに、触れるか触れないかの距離で添えられた。重さはない。ただ、そこにある、というだけの位置。
不思議と、息が楽になった。
◇
退出の挨拶を済ませて回廊に出るまで、私はずっと、靴音だけを聴いていた。
背後で誰かが囁き合っている。「初対面の挨拶にしては、殿下のご様子が」「いえ、お疲れなのでしょう」「それにしても銀の髪というのは──」
声は、すぐに遠くなった。
車寄せの石段で、エードムント様が立ち止まる。私を振り返ろうとして、振り返らずに、夜空のほうへ視線を上げた。
「お疲れになりましたか」
「いいえ」
「そうですか」
それきり、何も言わずに、馬車の扉を開けてくださる。
私は乗り込みながら、少しだけ、唇の端に力を入れた。微笑みのまま固まらないように。
窓の外を、王宮の灯りが流れていく。
……覚えているか、覚えていないかと問われたら、覚えている。覚えているけれど、それは、今日のためにわざわざ取り出した記憶ではない。引き出しの奥に仕舞ったまま、もう触らないと決めたものだ。
だから「初めまして」は、嘘ではない。
今日の私は、本当に、あの方とは初めて会ったのだ。
◇
ライムントは、回廊の柱の陰でひとり立っていた。
退出していく使節団の後ろ姿が、回廊の角を曲がって消える。銀の髪が灯りの下で一瞬光って、それきり見えなくなった。
手のひらに、爪が食い込んでいる。
いつから握っていたのか、覚えていない。
覚えていない、と──彼女は言ったわけではない。「初めまして」と言っただけだ。それは、覚えていないことと同じではない。同じではない、はずだ。
背後で侍従が控えめに咳払いをした。次の予定がある。分かっている。
歩き出す前に、ライムントはもう一度、彼女が消えた回廊の奥を見た。
明日も、私は朝に同じことを考えるのだろう。なぜ婚約破棄してしまったのか、と。
ただ、今夜からは、もうひとつ問いが増える。
──彼女は、本当に、覚えていないのか。




