俳句 楽園のリアリズム(パート3・完結-その4)
私たちを幸福にするために、俳句作品のなかで世界は、ほんとうの意味で美しいものに変容してくれるだろうか。
バシュラールの断片的ないくつかの言葉の手助けだけで、実際にこの世の至福ともいうべき旅情やポエジーを体験できてしまったのも(あるいは遅かれ早かれ、だれもがうれしくなるほど公平に体験できてしまうはずなのも)少なくともいまの段階では、旅と俳句だけがぼくたちの幼少時代をしぜんとめざめさせてしまうというすごい事実に、ぼくたちだけが気がついたからだった。
「ごく簡単に旅や俳句は、ある様態の思
い出の前にわたしたちをつれてゆく。わ
たしたちのなかで、今なおわたしたちの
内部で、つねにわたしたちの内面で、幼
少時代はひとつのたましいの状態であり
つづけている」
「旅や俳句は、わたしたちのなかにこの
生き生きした幼少時代、この恒久的、持
続的、不動の幼少時代を再発見すること
を助けるのである。幼少時代は生涯持続
する」
「わたしたちは、幼少時代に溯る愛や愛
着をそこにおかずには、水も火も樹も愛
することはできない。わたしたちは幼少
時代によってそれらを愛するのである。
世界のこういう美のすべてを、今わたし
が旅先の風景や俳句作品のなかで愛する
とすれば、甦った幼少時代、わたしたち
のだれもが潜在的にもつあの幼少時代か
ら発して復活された幼少時代のなかで、
愛しているのである」
「雄大な世界の根は幼少時代のなかに深
くおろされている。人間にとって世界は、
しばしば幼少時代にまで溯るようなたま
しいの活動とともに開始する」
「旅や俳句に手助けしてもらいつつ、幼
少時代への夢想を深めていくならば、わ
たしたちの運命の樹はより深く根を下ろ
すように思われる」
「幼少時代の植物のような力は、わたし
たちの内部に一生涯残っているのだ。わ
たしたちの内奥の植物的生命力の秘密が
そこにある」
「ひとりの人生のあらゆる年齢をこえて
続く、幼少時代の堅固な植物的生にはど
んなに深い意味があることだろう」
「幼少時代はその原型的価値が伝達可能
なのである。ひとのたましいは幼少時代
の価値に決して無関心ではない。そのと
き喚起された特徴がどんなに突飛であろ
うと、それが幼少時代の原初的なしるし
であるならば、それは幼少時代の原型を
わたしたちの内面によびさます」
「このようにして幼少時代を歌う詩人と
読者のあいだには、心のなかに生きてい
る幼少時代を媒介にコミュニケーション
が成立する」
「さまざまな〈幼少時代〉を読みながら
わたしたちの幼少時代も豊になる」
「これから、この章(『夢想の詩学』第
3章「幼少時代へ向う夢想」)で主張し
たい主題は、人間のたましいのなかにあ
る幼少時代の核の永遠性を認識する、と
いうことにつきるであろう」
ぼくたちの内部には『夢想のメカニズム』と呼ぶしかないような素晴らしいメカニズムがまぎれもなく存在することをしっかりと確信し、人類史上最高の幸福を実現してしまったバシュラールが人類の幸福のために書き残してくれたものすごい言葉に手助けしてもらいながら、散歩のようなほんの小さな旅でいいのだった。何度も旅に出て「旅の孤独」を遠い日の「宇宙的な孤独」へと移行させてしまって、旅先で、ぼくたちの幼少時代をいくどもめざめさせては何度でも本格的な旅情を満喫してしまうこと。そのことのくりかえしによって、俳句で出会うポエジーをどこまでもレベルアップさせていくこと。
部屋のなかで旅先の至福が味わえるなんて、そんな夢みたいなことがそう簡単に実現してしまっていいわけがない。
いまはそうご自分に言い聞かせるようにして、やっぱり、この本はあまり先を急がず、ことにもこの「俳句パート」は、なるべく時間をかけて先に進むのを惜しむようにして、できるだけゆっくり読んでいっていただけたならと思う。
いくら散歩のようなほんの小さな旅でいいといっても月に何度もそう旅に出られるものではないだろうし、旅先でめざめる幼少時代のレベルと歩調をあわせるように、この「俳句パート」は後もどりしてはおなじところをくりかえし読んでいただいたりして、小説とか普通の読み物みたいに一気に読んでもまったく意味ないし、進行状態をある程度調整する必要があると思われるからだった。
まあ、そうは言っても、バシュラールにしたって旅なんてぜんぜん必要としていなかったわけだし、幼少時代の色彩で彩られた俳句作品とバシュラールの言葉との相乗効果で、つまり、この「俳句パート」を読んでいただくだけでも、ぼくたちの幼少時代がめざめないはずはなく、うまくいけば、かなりレベルの高い幼少時代がいきなり目をさましてしまうことになるかもしれないけれど。
いずれにしても、わざわざ旅になんか出なくたって、この本のなかの俳句やさらにふつうの詩を読んで部屋のなかでいつでも旅情にも負けないポエジーを味わうことができるような、そんな夢みたいな日が、そのうち確実 にやってくることをいまは信じていただきたい。まさに、ぼくたちは「詩的なるものの実存主義に参加」しようとしているのだ。
人類史上最高の幸福を実現してしまったバシュラーが人類の幸福のために書き残してくれたいくつかの言葉と、旅と俳句のおかげで、あるいは、旅抜きの俳句だけでも、間違いなくぼくたちは最高の人生を手に入れようとしているのだ。
「私はプシシスムを真に汎美的
なものにしたいと思い、こうして詩人の
作品を読むことを通じて、自分が美しい
生に浴していると実感することができた
のである」
わたしはプシシスムを真に汎美的なものにしたいと思い、というのは、幼少時代にそうだったように、魂を広く《美》に対して開かれたものにしたいと思い、というような意味だろう。さきほどの、詩的なるものの実存主義に参加したいと思い、というのと同様この人生がすっかり変わってしまうほどの言葉。
そう、ぼくたちのこの試みの、そのゴールを指し示してくれているようなすごい言葉。
「詩的夢想のなかでは、あらゆる感覚が
覚醒し、調和する」
「ただ夢想だけがこういう感受性を覚醒
させることができる」
真似をしてひらがな表記をしたくなるような子供のたましいをめざめさせて、それと同時にあらわになってしまう湖面のようなどこかで、幼少時代という<イマージュの楽園>の事物たちとおなじ美的素材でできた俳句のイマージュを受けとめることをくりかえしていけば、詩的想像力だけではなくて、あらゆる感覚や感受性が覚醒させられて、そのうち、一篇の詩を読むだけで、いつでも、ぼくたちだれもが、美しい生に浴していると実感することができるようにだってなる、はず。
「人間と世界との詩的調和をあたえる原型」
バシュラールの教えに忠実に夢想することをくりかえしていけば、遅かれ早かれ最高の人生を手に入れることは約束されているようなものなのだから、あんまり先を急がず、とりあえず、いま、つぎの俳句を読むだけで、映画のなかで味わった旅情だってかまわない、旅先で感じたような旅情をもう一度味わうことができるか試してみよう。
旅抜きでこの本だけを利用していただいている方にとっては、いまさら旅になんか出なくたって、旅先で作られたと思われる俳句で旅情のようなポエジーを味わってしまうのが、いちばん手っ取り早い方法かもしれないのだった。
「旅の孤独」が幼少時代の「宇宙的な孤独」へと移行してしまう旅先で、面倒くさい詩なんか読まなくたってだれもが比較的簡単に味わえてしまう、詩よりも純度の高い詩情。それこそが、まさに、旅情というものにほかならないのだった。それを、言葉をとおして体験してしまうことの、意味とは?
いつものように5・7・5の音数律が、くっきりと詩的情景を浮き彫りにしてくれるはず。ひんやりと白い雪の舞う旅先で、どこかなつかしい感じのする小さな食堂をみつけたときみたいに、ぼくたちの心は、しっかりと素晴らしい旅情を感じとってくれるだろうか……
雪が降る旅の小さき食堂に
食堂のすべての窓に雪降れり
大井雅人。ノスタルジックでしっとりとした、この旅情のようなポエジーはいい。まさに、旅先の至福をこの部屋のなかでとうとう味わってしまったと感じている方もなかにはいるかもしれない。
面倒くさい言葉なんかをとさないで、だれもが旅先で体験してしまう詩よりも純度の高い詩情。それこそが、旅情というものにほかならないのだった。それを、言葉をとおして味わってしてしまうことの意味とは……
雪上につながれし馬も車窓過ぐ
雪国や停車して煙直上す
雪ふりをり薄暮うどんの香が満ちて
旅先で作られたと思われる俳句をとおして旅情を味わってしまうこのことが、旅先の風 景に触れて旅情を生んだのとおなじ詩的想像力がすべての俳句の言葉から遠い日の記憶を呼びさまして、ぼくたちをバシュラール的な書かれた言葉の夢想へと導てくれる、そのきっかけになってくれるかもしれない……
木々の芽に雨ふりその他うちけぶる
「想像的な記憶のなかではすべてが途方
もなく新鮮によみがえる……
花杏旅の時間は先へひらけ
梅干してきらきらと千曲川
俳句の言葉をとおして味わうことのできた旅情。遠い旅の日の記憶がよみがえってくるような、そんな気がするなんともなつかしい詩情……
汗ふくや飛騨も晩夏の白木槿
早稲は黄に晩稲は青し能登に入る
まだうまい具合にポエジーに出会えなかったからって、べつに気にすることはない。
ぼくたちの内部で、幼少時代はそうとうに深く眠りこんでいて、そう簡単に目をさましてくれるものではないからだ。
けれど、出会いなんて思いがけないときにだしぬけにやってくるもの。俳句を前にしただけで、いつぼくたちの幼少時代がふいに目をさますことになるか、予想もつかないことなのだから。
「幼少時代がなければ真実の宇宙性はな
い。宇宙的な歌がなければポエジーはな
い。俳句はわたしたちに幼少時代の宇宙
性をめざめさせる」
いまさら旅になんか出なくたって、旅先で作られたと思われる俳句で旅情のようなポエジーを味わったりとか、この本のなかの俳句を読んでいただくだけでも、こうしたバシュラールの言葉が、絶対、なんとかしてくれるはずだけれど、それでも、やっぱり、できるだけうんと旅に出ては「旅の孤独」を遠い日の「宇宙的な孤独」へと移行させてしまうのが、俳句で極上のポエジーを味わうための、いちばんの近道であることに変わりはない。
「人間のプシケの中心にとどまっている
幼少時代の核を見つけだせるのは、この
宇宙的な孤独の思い出のなかである」
考えてもみれば、旅先でめざめた幼少時代が、俳句を前にして、いつまでも知らんぷりしてそっぽを向いていられるはずもない。
だって、俳句の言葉が浮き彫りにする世界は、目をさました幼少時代のたましいにとってはこのうえなくなつかしい、かつて自分が住んでいた<イマージュの楽園>そのままの世界なのだから。
「幼少時代の世界を再びみいだすために
は、俳句の言葉が、真実のイマージュが
あればいい」
「ひとのたましいは幼少時代の価値に決
して無関心ではない」
時おり旅に出ては幼少時代をさらにめざめやすくするにしろ、多少ハンディはあるけれど、バシュラールの残してくれた言葉の助力を頼りにこの本だけを利用していただくにしろ、ポエジーとの出会いなんてもう時間の問題だといっていいのだから、出会いの機会だけはどんどん増やしていきたいなと思っている。
いまの段階で、もしも運よくポエジーに出会えたとしたら、それは何%分くらいの<楽園の幸福>だったろうか。
世界がイマージュの表情を見せていた、あの、まぶしいほどの楽園を失ってから、言葉でもってイマージュを浮き彫りにして、ひとは楽園を再発見する方法を発見した。それがたぶん詩というものなのだ、とぼくは思う。
「詩作品を読むことにより、夢想により
イマージュの実在性が再現されてくるた
め、わたしたちは読書のユートピアに遊
ぶ気がするだろう」
「孤独な子供がイマージュのなかに住む
ように、わたしたちが世界に住めば、そ
れだけ楽しく世界に住むことになる。子
供の夢想のなかではイマージュはすべて
にまさっている」
それにしても、意味を伝えるだけとしか思えなかったなんでもない言葉にも詩的なイマージュを出現させる魔法のような能力があることを、この本のなかではじめて知った方も少なくはないのではないだろうか。詩、そのなかでも特に俳句だと、意味を伝えるだけだった言葉が、どうして、遠い日の〈イマージュの楽園〉の事物たちとまったくおなじ美的素材でできたまぶしいほどのイマージュを、あんなにもくっきりと浮き彫りにしてしまうのだろう。
「いったい人工楽園といえどもそれが書
きとめられなかったら、楽園でありうる
だろうか。読者たるわたしたちにとって
こういう人工楽園は読書の楽園なのであ
る。読まれるために人工楽園は、詩的価
値が作者から読者への伝達手段となるよ
うな確実さをこめて書かれていたのである」
詩のなかでも、むきだしになった詩的価値がもっとも純粋なかたちで伝達手段となっている、考えうるもっとも理想的な、言葉で作られた人工楽園。それこそが、まさに、俳句という一行詩なのだ。
いまの段階で本格的なポエジーを実際に味わえているかどうかはともかくとして、このことは、いまやどなたにも納得していただけるようにはなったのではないだろうか。つまり、俳句における「楽園のリアリズム」ということを。
そんな俳句作品をこの本のなかでどっさり読んでいくことになるぼくたちが、ふつうの詩のなかの詩的価値に対して敏感にならないはずはないと思われるのだ。
「読者たるわたしたちにとってこういう
人工楽園は読書の楽園なのである」
俳句を読むことをとおして、そうして、そのうちふつうの詩を読むことをとおして、ぼくたちだれもが、そのときだけは、読書のユートピア、読書の楽園にひととき滞在することになるのだ。つまり、そう、なんて素敵な人生が始まろうとしているのだろう!
「私はプシシスムを真に汎美的なものに
したいと思いこうして詩人の作品を読む
ことを通じて、自分が美しい生に浴して
いると実感することができたのである。
美しい生に浴するということは、こころ
よい読書にひたり、言葉の流れの中にゆ
くりなく立ち現われる詩的な浮き彫りを
のがさぬように、いつも注意するような
読書に没頭することである」
セレクトされた700句の俳句をくりかえし読んでいただくうちに、詩人たちの作品を読むことを通じて美しい生に浴していると実感することができるような、まさに、夢のような人生をだれもが確実に手に入れることになるはずなのも、幼少時代という〈イマージュの楽園〉の事物たちとまったくおなじ美的素材で作られている一句一句の俳句のイマージュには、もっとも純粋なかたちで詩的価値が充満しているはずだからだったのだ。それが、あらゆる詩的価値に対する感受性(つまり、言葉の「夢幻的感受性」だ)をだれもの内部に育成してくれないはずはないから。
「俳句のひとつの詩的情景
ごとに幸福のひとつのタイプが対応する」
「俳句はある幸福の誕生にわたしたちを
立ちあわせる」
「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュア
ンスをもたらす」
そうだった。俳句作品は、その一句ごとに、幼少時代の、宇宙的な、<楽園の幸福>のひとつのタイプに、対応しているはず。俳句700句で、700通りの<楽園の幸福>が味わえるなんて、なんて素晴らしいことだろう。
「わたしはプシシスムを真に汎美的なも
のにしたいと思いこうして俳句作品を読
むことを通じて、自分が美しい生に浴し
ていると実感することができたのである」
さてつぎの俳句には、どのようなタイプの〈楽園の幸福〉が対応しているだろうか。
俳句作品とは、そのなかに詩的価値があふれるほどに充満した、まさに、一行のイマージュの宝石箱と呼ぶのがふさわしい……
街路樹の葉枯れの音にバスを待つ
街路樹の枯枝の中に灯がともる
中島斌雄。遠い日にいつか心から深く味わったことがあるような、そんな気のするどこかなつかしい、なんとも甘美な詩情。
なんでもない情景なはずなのに、隠されていた「幼少時代の核」とセットであらわになった詩的想像力が、このように、俳句作品の言葉に触れて過去の記憶を呼びさましてしまうことになるから、それだから、すべての俳句作品は、遠い日の……と言いたくなるようなノスタルジーをぼくたちだれもに感じさせることにもなるのだろう。俳句とは思えない、というより、俳句ならではの、詩よりも純粋なポエジー。
まさに〈幻想の聖歌〉を耳にしたような、そんな気のするなんとも甘美な喜びの感情。
「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代
の思い出は、まちがいなくたましいの奥
底での〈幻想の聖歌〉なのである」
「記憶のなかにくだってゆくように、沈
黙へおもむく詩がある」
詩人だった平井照敏が俳句に魅せられて俳人に転向したころの、詩人の、俳句に対する初々しい期待にみちた俳論集のタイトルは「沈黙の塔」だったけれど、背後の沈黙から塔のようにすっくとイマージュだけが立ちあがっているのが、俳句のたまらない魅力だ。
沈 黙
↓
沈 沈
→ 街路樹の葉枯れの音にバスを待つ ←
黙 黙
↑
沈 黙
沈黙に縁どられたたった一行の寡黙な俳句作品が、沈黙が支配していたぼくたちの幼
少時代を思い出させてしまうのは、やっぱり、ごく自然なこと……
街路樹の葉枯れの音にバスを待つ
「何ごとも起こらなかったあの時間には、
世界はかくも美しかった。わたしたちは
静謐な世界、夢想の世界のなかにいたの
である……
街路樹の枯枝の中に灯がともる
「イマージュは、現前したし、わたした
ちのなかにありありと出現した。それは、
詩人のたましいのなかでそれを生み出す
ことを可能にした一切の過去から切り離
されて現前したのである」
この素晴らしい作品を作ったのが作者、中島斌雄であることは間違いないことだけれど、一句のうしろにいるのが中島斌雄でなければならない必然性って、やっぱり、まったくないと思う。
「わたしたちは、自分たちの幼少時代に
溯る愛や愛着をそこにおかずには、水も
火も樹も愛することはできない。わたし
たちは幼少時代によってそれらを愛する
のである。世界のこういう美のすべてを、
今わたしたちが俳句作品のなかで愛する
とすれば、甦った幼少時代、わたしたち
のだれもが潜在的にもつあの幼少時代か
ら発して復活された幼少時代のなかで、
愛しているのである……
すみれたんぽぽ切株が金の椅子
このことが実感をともなって理解できるようになったとしたら、ぼくたちのこの試みも半分は成功したことになるだろう。
「わたしたちの夢想のなかでわたしたち
は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた
たび見るのである」
5・7・5と言葉をたどっただけで、俳句作品がくっきりと浮き彫りにしてくれる、四季折々の楽園。わけても、幼少時代の色彩で彩られた、秋の楽園とは……
秋晴の遠き梢のさやぎをり
沖はるか動くともなき秋の雲
「俳句作品はわたしたちのなかにこの生
き生きした幼少時代、この恒久的、持続
的、不動の幼少時代を再発見することを
助けるのである。幼少時代は生涯持続す
る……
突堤の先に燈台秋日和
外燈の灯りしよりの秋の暮
「世界のこういう美のすべてを、今わた
したちが俳句作品のなかで愛するとすれ
ば、甦った幼少時代、わたしたちだれも
が潜在的にもつあの幼少時代から発して
復活された幼少時代のなかで、愛してい
るのである……
きらきらと雨過ぎてゆく鳳仙花
秋雨のはれしばかりの人通り
ぼくの大好きな俳人のひとりでもある清崎敏郎も、きっと、復活された幼少時代のなかで世界を写生することができたから、いさぎよく自分は作品から身をひいてこんなにも素晴らしい俳句作品をぼくたちのために残すことができたのだろう。(と、そう思いたい)
(幸福感の度合いが数値で測定できるわけもなく、これも前に言ったみたいに、根拠のない気分だけの数字だけれど)1%分の<楽園の幸福>のような、そんなほのかなポエジーにでもいままでに読んできた俳句で出会えたとしたら、それは1%だけ「幼少時代の 核」が復活した証拠。『夢想のメカニズム』はしっかりと機能してくれたことになる。ただ残念なのは、ぼんやりとした1%分のイマージュの《美》しか、「心の鏡」はまだ映し出してはくれなかったということだ。
けれども、これは、とてつもない幸福を手に入れるための第一歩を大きく踏み出したことにならないだろうか。
いっぽうでなるべくうんと旅に出て旅先で体験する旅情をどこまでもレベルアップさせていくのが理想だけれど、バシュラールにしたって旅なんてぜんぜん必要としていなかったわけだし、あとは、この本のなかでポエジーとの出会いをくりかえしては、1%よみがえった幼少時代(つまり、1%分の楽園の幸福だ)を、2%、5%、10%、20%……というふうにレベルアップさせていけばいいだけ。これは、そうとうに、楽しみなことになってくるのではないだろうか。
すでに1%以上の〈楽園の幸福〉を味わうことのできた幸運な方は、俳句にふさわしそうなバシュラールの言葉を(はじめて引用させてもらうものもあるけれど)もう一度思い出しておくといいだろう。世界に類をみない、この、俳句という完璧な一行詩に、ますます大きな信頼と期待をよせるために。
きょう読んだ俳句を一句ずつ添えて読んでみたら、バシュラールの言葉が俳句のイマージュに輝きをあたえ、俳句のポエジーが逆にバシュラールの言葉に生命を吹きこむなんてことも起こってしまうかもしれない。
まあ、俳句の特性とその魅力を言いあてた文章が多くて良質な夢想そのものへと導いてくれるバシュラールのほかの言葉とはちょっとちがうかもしれないけれど、それでも、そんなことが実際に起こってしまったら、べつに旅になんか出なくたって、これから読む12句のポエジーが1%分の〈楽園の幸福〉程度の、そんな低いレベルにとどまっているわけもないのだけれども。
「イマージュは孤立のなかにあってはじ
めてその一切の力を発揮できる……
雪が降る旅の小さき食堂に
「ときにはイマージュが単純であればあ
るほど夢想はますます大きくなる……
食堂のすべての窓に雪降れり
「ひとは雑多なものの前では、恵み多い
夢想によくふけることはできない……
風光りすなはちもののみな光る
「教育された観念によって夢想するもの
はいない……
街燈のともりしよりの秋の暮
「この孤独の状態では、追憶そのものが
絵画的にかたまってくる。舞台装置がド
ラマに優先する……
沖はるか動くともなき秋の雲
「ドラマのない、事件のない、歴史のな
い夢想は、真の休息を、女性的な休息を
あたえるのである。それによってわたし
たちは生きるたのしみをうるのだ……
突堤の先に燈台秋日和
「ものの時間が読者のなかに降りていくで
あろう。わたしたちの夢想の対象は時間を
忘れさせ、自己自身と和解するのを助けて
くれる……
秋晴れの遠き梢のさやぎをり
「感性の諸領域は相互に対応する。この
領域は相互に補足しあう。単純な対象を
夢想する夢想のなかで、わたしたちは夢
想する存在の多面的価値を認識するので
ある……
乗りてすぐ市電灯ともす秋の暮
「いつさいの意味への気遣いに煩わされ
ることなく、わたしはイマージュを生き
る……
朝焼けや聖マリアの鐘かすか
「わたしの夢想をみている幸せな人間、
それはわたしである。また思考するとい
う義務などもはやなく閑暇を楽しんでい
るのはわたしだ……
きらきらと雨過ぎてゆく鳳仙花
「視覚的イマージュはきわめて鮮明であ
り、人生を要約した画面をごく自然に形
成するので、容易に幼少時代の思い出を
うかびださせる特権があたえられている……
夏ゆふべ父の片手にぶらさがる
「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代
の思い出は、まちがいなくたましいの奥
底での〈幻想の聖歌〉なのである……
父とわかりて子の呼べる秋の暮
こんな言葉に触れると、やっぱり、俳句はポエジーを味わうためには最高に理想的な詩なのだ、と、ますますそう思わないではいられなくなってくるのではないだろうか。
俳句こそ、幼少時代の楽園から永久に追放されたはずのぼくたち大人が、この人生で、楽園の幸福をもう一度手軽に味わうことのできる、ふつうの詩よりも完璧な人工楽園。そう、一句一句の俳句作品が垣間見せてくれる世界こそ、花のように美しいイマージュたちの、まさに、百花繚乱の詩的庭園というのがふさわしい。
「詩的庭園は地上のあらゆる庭園を圧し
ている……
すみれたんぽぽ切株が金の椅子
「感性の諸領域は相互に対応する。この
領域は相互に補足しあう。単純な対象を
夢想する夢想のなかで、わたしたちは夢
想する存在の多面的価値を認識するので
ある」
分かりにくい言い方だけれど、感性の変革という面でも、ぼくたちのこの試みの正当性と有効性を素晴らしく保証してくれているような文章。
「詩的夢想のなかでは、あらゆる感覚が
覚醒し、調和する」
「ただ夢想だけがこういう感受性を覚醒
させることができる」
このようにぼくたちの感性を変革してくれたり、ぼくたちの詩的想像力を育成してくれることになるのだもの、俳句による単純で奥深い「言葉の夢想」が、それをこの本のなかの700句で何度もくりかえすことが、最高の幸福が約束されたバシュラール的な書かれた言葉の夢想家になるための最高に理想的なプロローグとなってくれるのは、やっぱり、絶対、間違いないこと。
「孤立した詩的イマージュの水位におい
ても、一行の詩句となってあらわれる表
現の生成のなかにさえ現象学的反響(つ
まり、ポエジーの反響)があらわれる。
そしてそれは極端に単純なかたちで、わ
れわれに言語を支配する力をあたえる」
もしも、ポエジーに出会うことなくこの本を読み終えてしまったとしても、べつに気にすることはない。2周目にチャレンジすればいいだけのはなし。要は、ぼくたちの幼少時代がどれほどぐっすり眠りこんでしまっているか、つまり、幼少時代の熟睡度の個人差の問題でしかないからだった。
「幼少時代はその原型的価値が伝達可能
なのである。ひとのたましいは幼少時代
の価値に決して無関心ではない。そのと
き喚起された特徴がどんなに突飛であろ
うと、それが幼少時代の原初的なしるし
であるならば、それは幼少時代の原型を
わたしたちの内面によびさます」
「人間と世界との詩的調和をあたえる原型」
1%の楽園が、ふいに5%にならないともかぎらない。最後にもう少し俳句を読んでみよう。
及川貞が中身をこさえてくれた、一行の小さなイマージュの宝石箱。
5・7・5と言葉をたどっただけでくっきりと浮き彫りにされて見えてくる、幼少時代という<イマージュの楽園>そのままの世界とは……
梅雨ふかし蔓まきそめし朝顔に
麦の穂に立つ風ありて暮れそめぬ
「俳句作品を読むことにより、夢想によ
りイマージュの実在性が再現されてくる
ため、わたしたちは読書のユートピアに
遊ぶ気がするだろう。わたしたちは絶対
的な価値として俳句を扱う……
籐椅子に暮れゆく高嶺見てゐたり
秋雨のバス待てば疾く暮れにけり
「俳句がわれわれに差し出す新しいイマ
ージュを前にしたときの、この歓び……
月光の野のどこまでも水の音
温泉けむりにまぎれて霧の降りそむる
「俳句のひとつの詩的情景ごとに幸福の
ひとつのタイプが対応する……
すすきとる子の背かくれて風吹けり
雪解けの音になじみて菜を洗ふ
風の音杜にあれども丘うらゝ
まさに、楽園のリアリズム!
「世界のこういう美のすべてを、今わた
したちが俳句作品のなかで愛するとすれ
ば、甦った幼少時代、わたしたちだれも
が潜在的にもつあの幼少時代から発して
復活された幼少時代のなかで、愛してい
るのである」
「わたしはプシシスムを真に汎美的なも
のにしたいと思い、こうして俳句作品を
読むことを通じて、自分が美しい生に浴
していると実感することができたのであ
る」
今回もあらすじの部分は投稿当時のまま残しておきました。
今回の(パート3-その4)を読み終えてどうだったろう。私たちを幸福にするために、俳句作品のなかで世界は、ほんとうの意味で美しいものに変容してくれただろうか。




