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俳句 楽園のリアリズム(パート3-その3)




 『夢想のメカニズム』というアイデアと「心の鏡」というイメージ、それに「幼少時代の核」「イマージュ」「夢想」という3つのキーワードさえあればまったく必要なかったので、「詩的想像力」という言葉をもうながいこと使わずに済ませられたことに、昨日の小さな旅のあと気がついたのだった。

 俳句の言葉が呼びさましてくれる幼少時代の記憶を逆に俳句の言葉に注入して、それを、幼少時代の世界とおなじ美的素材でできたイマージュに膨れあがらせ、そうして、そのイマージュを湖面のようなどこかで受けとめさせてポエジーを生じさせたのが、じつは、この、想像力と記憶が結合した詩的想像力というものの機能だったのかもしれない。

 つまり、俳句による言葉の夢想において『夢想のメカニズム』を始動させ完遂させる機能だ。


  「過去にさかのぼれば、さかのぼるほど、

  想像力―記憶という心理的混合体は分離

  しがたくみえる。もし詩的なるものの実

  存主義に参加したければ、想像力と記憶

  の結合を強化しなければならない。その

  ためには事実だけの記憶から解放されな

  ければならない。思い出の風景のなかに

  心ゆくまで滞在もせず、日付の階段を駆

  けている記憶は、生きている記憶とはい

  えない。想像力―記憶は、偶発的な事件

  とは無関係な詩的なるものの実存主義に

  より、非事件的状況をわたしたちに甦ら

  せる。思い出しながら想像する夢想のな

  かで、わたしたちの過去はふたたび実体

  を発見するのである。絵画的なものをこ

  え、人間のたましいと世界との結びつき

  が強固になる。そのときわたしたちのな

  かでは歴史の記憶ではなく宇宙の記憶が

  甦る。何ごとも起こらなかった時間がま

  い戻ってくる。夢想家の存在が倦怠を完

  全に支配していた昔の生活の偉大な美し

  い時間だ。(中略)何ごとも起こらなか

  ったあの時間には、世界はかくも美しか

  った。わたしたちは静謐な世界、夢想の

  世界のなかにいたのである」


 部分的には何度も引用させてもらっている箇所もふくまれているけれど、長いうえに実存主義だなんて言葉がでてきて、ちょっと読みにくい文章だったかもしれない。けれども、ぼくにとっては『夢想=幸福のメカニズム』を補足してくれる大切な言葉として「バシュラール・ノート」に長文のまま書き抜いた4つの文章のうちのひとつなのだ。

 実存主義だなんていうと、自分の意思にかかわりなく世界のなかに投げだされた孤児のように不幸な人間存在みたいな、なんだか暗いイメージがぼくにはあるけれど、もちろん、美しい世界の宇宙的幸福につつみこまれていた幼少時代を、人間存在の故郷と考えるバシュラールのことだから、生きているこのことに感謝をこめて、この美しい世界のなかに実際に存在すること、くらいの意味で実存主義という言葉をつかっているのだろう。なんといっても《甘美な存在論》こそ、バシュラールの本領なのだから。


  「わたしたちの幸福には全世界が貢献す

  るようになる。あらゆるものが夢想によ

  り、夢想のなかで美しくなるのである」


  

  「『世界』が人間にたいして提供するこ

  うしたあらゆる供物を前にして、人間が 

  『世界』から投げだされたとか、しかも

  まず最初は『世界』のなかに投げだされ

  ていたなどと、どうしていうことができ

  ようか」


 ぼくたちを幸福にするために「世界」が提供するあらゆる供物を受けとりながら《甘美な存在論》を生きることこそ、おそらく、バシュラールの究極の思想。つまり、詩的なるものの実存主義を生きることが。


  「もし詩的なるものの実存主義に参加し

  たければ、想像力と記憶の結合を強化し

  なければならない」


 詩的なるものの実存主義に参加したければだなんてやけにむずかしそうな言い方をしているけれど、この文章は、まさにぼくたちの目的、つまり、詩的な喜びで満たされた甘美な人生を手に入れたければ想像力と記憶の結合を強化しなければならない、と言っているのとおなじことになるだろう。

 それだから、そのためには、想像力と記憶の結合を強化しなければならないというこのフレーズが、旅先でそのうちはじまる「世界の夢想」はちょっと違うところがあるけれど、旅先で「思い出の夢想」を、そうして俳句で「言葉の夢想」をくりかえすことによって(このことにいまはじめて気がついたのだけれど)想像力と記憶の結合を強化して最高の人生を手に入れるというぼくたちの<方法>を、正当化してくれるものとなってくる。


 ところで、先ほど読んだ長い文章のなかでぼくたちにとって特に重要なのは「非事件的状況」とか「何ごとも起こらなかったあの時間には、世界はかくも美しかった。わたしたちは静謐な世界、夢想の世界のなかにいたのである」と表現されている、宇宙的幸福で満たされていた「偉大な美しい時間」。そして、そうしたいわば楽園の時間を呼びもどすきっかけとなる、ぼくたちにとっていちばん重要かもしれない「宇宙の記憶が甦る」といった言葉だ。

 まさに、ほとんど非事件的な世界しか表現できない、沈黙に縁どられた、たった一行の俳句が、かえって、世界一理想的な詩であることに、心強い根拠をあたえてくれるような言葉。遠い日の宇宙の記憶をよみがえらせてくれる俳句は、その一句ごとに、なにごとも起こらなかつた、世界がかくも美しかった、あの、偉大な美しい時間、つまり〈楽園の時〉のひとつのタイプに対応しているはず、と。


  「想像力―記憶は、偶発的な事件とは無

  関係な詩的なるものの実存主義により、

  非事件的状況をわたしたちに甦らせる」


 想像力と記憶の結合を強化すれば、詩的想像力が俳句一句のなかにいつでもぼくたちの遠い過去の実体を発見して、遠い日の宇宙の記憶をよみがえらせてくれる……。


  「思い出しながら想像する夢想のなかで、

  わたしたちの過去はふたたび実体を発見す

  るのである」


 世界からの供物で満たされた小さなイマージュの宝石箱。遠い日の宇宙の記憶を呼びさましてくれる一行のイマージュの宝石箱。


  「俳句はわたしたちに幼少時代の宇宙性

  をめざめさせる……



  枯れ山の小径も月のさす夜かな



 俳句こそ、舞台装置が、つまり、遠い日の宇宙の記憶と切り離せない、世界のなかの事物たちが人間的なドラマに優先する(バシュラールなら絶対こう言うだろう)理想的な最高の詩と、やっぱりそう考えてよさそうだ。


  「この孤独の状態では、追憶そのものが

  絵画的にかたまってくる。舞台装置がド

  ラマに優先する」


 非事件的な、何ごとも起こらなかった、偉大な美しい時間が支配していたぼくたちの幼少時代の世界を、バシュラールは「幼少時代の色彩で彩られた第一回目の世界」とかいろいろに表現しているけれど、まさに、人生の黄金時代、この世の夢の楽園と呼ぶのがふさわしい。

 そのあとの不幸な事件や出来事が、子供を大人へと成長させ、精神や知性や個性などを形成させることになり、それにつれてぼくたちは幼少時代の楽園から永久に追放されることになったのだった。

 けれど、永遠に失われてしまったのではないかと思われていた、遠い日の、幼少時代という<イマージュの楽園>の事物(イマージュ)たちとおなじ色彩、つまり、一句一句の言葉の表わすあらゆる事物を幼少時代の色彩で塗りなおしてしまうのが、俳句における「楽園のリアリズム」。


  「わたしたちの夢想のなかでわたしたち

  は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた

  たび見るのである……



  枯れつくしたる明るさに雑木山



 俳句こそ、失われた楽園を取り戻すために言葉でもって作られた、一種の人工楽園。

 そんな俳句作品を何句かまとめて読めば、だれだって、イマージュの咲き乱れた詩的庭園を散策したような幸せな気持になるだろう。


  「詩的庭園は地上のあらゆる庭園を圧している」 


 俳句という詩的庭園に花ひらいた、一句一句のイマージュで味わいなおす、楽園の幸福。すなわち、ポエジー。それは、想像力―記憶という心理的混合体、つまり、詩的想像力が、十二分に機能した結果としてもたらされたはずのもの。


  「夢想のなかでふたたび甦った幼少時代

  の思い出は、まちがいなくたましいの奥

  底での〈幻想の聖歌〉なのである」


 俳句から作者の思いや個性を読み取ろうとすることは、やっぱり、せっかくのイマージュの美しさをだいなしにすることでしかないだろう。作者の精神や知性や個性や言葉の意味性などに蝕まれていない、はるか時間の彼方、この世の夢の楽園そのままの世界。

 それこそが、まさに、個人の感性などを超えた、言葉たちによって作りだされた、俳句一句のあらわす詩の世界なのだから……



  鰯雲土に円描く子の遊び



  「詩的庭園は地上のあらゆる庭園を圧し

  ている」


 俳句の言葉たちが描きだす、イマージュの花々が咲き乱れた、この、素晴らしき詩的庭園……



  すみれたんぽぽ切株が金の椅子

 


  「俳句作品を読むことにより、夢想によ

  りイマージュの実在性が再現されてくる

  ため、わたしたちは読書のユートピアに

  遊ぶ気がするだろう。わたしたちは絶対

  的な価値として俳句を扱う……



  クリスマス・ツリーの星が雪の中



 詩的想像力(想像力―記憶という心理的混合体)がみつけたり作りだしたりしたイマージュたちがあたえてくれる、俳句を読むことの、この、極上の喜びの感情……



  父とわかりて子の呼べる秋の暮



 俳句一句のポエジーを味わうたびに、ぼくたちはきまって、偉大な美しい時間、あの、遠い日の〈楽園の時〉が、ありありとよみがえってくるのを素晴らしく実感することになる……



  父を踏台の遠花火も終る



 《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句形式が、だれもにひとしく、幼少時代という<イマージュの楽園>における宇宙的幸福をそっくり追体験させてくれる……



  風光りすなはちもののみな光る



 こんなふうに俳句作品のなかで、俳句形式が詩的想像力の代行をしてくれたものだから、俳句を読むとき、なにも、詩的想像力というものなんか意識するまでもなかったのだ。 

 そうなのだ。そんなものまだ持ちあわせていないはずのぼくたちだれもが、こんなにも簡単に俳句でポエジーに出会えたのも(あるいは、遅かれ早かれ出会えるはずなのも)一句一句の俳句作品のなかで、俳句形式が、詩的想像力の代行をしてくれたおかげだったのだ……



  鷗まじへて海よりの南風(はえ)の使者



 まあ実際には、旅先でみつけた詩的想像力やだれもが潜在的に所有する詩的想像力を、俳句作品がうまい具合にめざめさせてくれたからだと思うけれど、俳句形式が詩的想像力の代行をしてくれるというイメージは悪くないと思う。それは、俳句作品を前にしてしぜんとあらわになる「幼少時代の核」の存在とも関係してくるだろう。

 

  「過去にさかのぼれば、さかのぼるほど、

  想像力―記憶という心理的混合体は分離

  しがたくみえる」

 

  「そこでは想像力と記憶がもっとも密接

  に結合している」


 「幼少時代の核」があらわになれば、想像力―記憶という心理的混合体までがあらわになる。つまり、そう、詩的想像力と「幼少時代の核」はいつでもセットで機能すると、そんなふうにも言えそうだ。ぼくたちが抱く詩的なあらゆるバリエーションはとりもなおさず、詩的想像力がイマージュをみつけたり作りだしたりした結果としてもたらされたはずのものだからだ。


  「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ

  らゆるバリエーションはとりもなおさず、

  わたしたちのなかにある幼少時代の核が

  休みなく活動している証拠なのである」


 これってじつはものすごい発見だとぼくは思う。ぼくたちには旅と俳句が、あるいは、旅抜きにしても俳句があるわけだし、とりあえずはそれなりの詩的想像力を自分のものにすることができたなら、やっぱり、約束どおり「幼少時代の核」やどこにあるのか分から ない「心の鏡」を探したりする必要なんてまったくなくなりそう。

 いつでもセットになっているとするなら、詩的想像力がほんとうの意味でのイマージュをみつけたり作りだしたりするたびに、心のなかに残存しているはずの「幼少時代の核」もしっかりと活動して、ポエジーという詩的なバリエーションを、例外なく、ぼくたちに体験させてくれることになるだろう。

 旅に出て旅先に自分を置いてあげるだけで隠されていた「幼少時代の核」は比較的簡単にあらわになって、同時に出現した詩的想像力が旅情を生むことになるわけだけれど、ぼくたちのやり方が間違ってなければ、俳句を前にしただけでも次第に「幼少時代の核」があらわになりやすくなって旅先で旅情をもたらしたのとおなじ詩的想像力が、いつでも、俳句作品のなかにイマージュをみつけだしてポエジーを生むことになる、はず……



   乗りてすぐ市電灯ともす秋の暮



 その実感を言ってみるなら、そんなものまだ持ちあわせていなかったはずのぼくたちにまでポエジーを味わわせてくれたのだから、やっぱり、俳句形式が詩的想像力の代行をしてくれたというのがふさわしいと思うけれど、こうやって俳句でポエジーを味わうほどに、まだ借りものみたいなこの詩的想像力も、そのうち、まぎれもない自分自身のものとして、ぼくたちの内部にしっかりと定着してしまうことになるのではないかと期待されるのだ。

 まあ、旅抜きでこの本だけを利用していただいている方にとっても、このなかの俳句でポエジーという詩的なバリエーションをそれなりに味わうことができたとしたら、それは、とりもなおさず、隠されていた「幼少時代の核」と詩的想像力がセットでそれなりに活動したことの証拠。あとは、幼少時代の宇宙の記憶をいやでもよみがえらせてれる俳句作品をくりかえし味わっては、まだ自分のものとはいえない詩的想像力をくりかえし活性化していけば、約束どおりなんとかなるはず。

 いずれにしても、そんなふうにして詩的想像力を自分のものにすることができたなら、ふつうの詩を読んで詩的な喜びや感動を味わうことなんて、きっと、わけないこと。


 これで、ぼくたちの試みの、コースの先のほうがなんとなく見えてきたような気がする。


  「詩的なるものの実存主義に参加したけ

  れば、想像力と記憶の結合を強化しなけ

  ればならない」


 バシュラールはこんなふうに言っているけれど、旅と俳句があるおかげで、あるいは、旅抜きでも俳句があるおかげで、ぼくたちだけは想像力と記憶の結合を意識して強化する必要なんてまったくないのだ。


  「人間のプシケの中心にとどまっている

  幼少時代の核を見つけだせるのは、この

  宇宙的な孤独の思い出のなかである。そ

  こでは想像力と記憶がもっとも密接に結  

  合している」


  「純粋な思い出は夢想のなかでしかみつ

  けられない。思い出は実際の人生におい

  てわたしたちを助けるようにうまい具合

  には出現しない」


  「歴史の記憶ではなく宇宙の記憶が甦る。

  何ごとも起こらなかった時間がまい戻って

  くる」


 夢想の幸福とはなによりも記憶というものがもたらしてくれる至福の感情。旅先でそれを体験させてくれたのが想像力と記憶の結びついた詩的想像力だったのだということ。  

 そうして、この本のなかの700句の俳句作品が、そうした詩的想像力を、自分自身のものとしてぼくたちの内部にしっかりと定着させることに役立ってくれるはずということが、ここにきてハッキリしてきたようだ。


  「そこでは(旅先では)想像力と記憶が

  もっとも密接に結合している」


 ぼくたちの試みの正当性と有効性にかかわることなのでもう一度強調しておきたい。散歩のようなほんの小さな旅でいいのだった。何度も旅に出ては、旅先で、想像力と記憶の結合度のよりレベルの高い詩的想像力を出現させることに成功するなら、俳句を読むときにも俳句形式がそれをそのまま上手に再利用してくれるだろうから、それだけレベルの高いポエジーをぼくたちはこの本のなかで味わうことにもなるだろうし、あとは、想像力と記憶の結合度の高いその詩的想像力をそっくりそのままぼくたちの内部に自分自身のものとしてしっかりと定着させてあげるだけでよくなってくる。なんという、気楽さ! 

 こんなことまで期待できるのだから、並行して、何度も、旅先で「幼少時代の核」と詩的想像力をセットであらわにしてしまって、たっぷりと旅情を満喫していただくのがあくまでも理想だけれど、それでも、いまさら旅になんか出なくたってこの本だけでも、多少ハンディはあっても、やっぱり、なんとかなりそうという気持にはどなたにもなっていただけたのではないかと思う。

 ぼくたちが俳句のポエジーを味わうことのできたそのとき、まぎれもなく、隠されていた「幼少時代の核」と詩的想像力がセットで活動してくれたはずだから、だった。


 それにしても、そのときわたしたちのなかでは歴史の記憶ではなく宇宙の記憶が甦る。

 何ごとも起こらなかった時間がまい戻ってくる、とバシュラールが言っているような、このうえなく甘美な「思い出の夢想」の至福を、散歩のようなほんの小さな旅の旅先で、ぼくは何度味わったことだろう。


  「幼少時代がなければ真実の宇宙性はな

  い。宇宙的な歌がなければポエジーはな

  い。俳句はわたしたちに幼少時代の宇宙

  性をめざめさせる」


 ぼくたちが俳句を読むとき、一句一句の言葉が呼びさましてくれる遠い日の宇宙的な記憶を、詩的想像力が、逆に、俳句の言葉に注入して、それを、幼少時代の世界とおなじ美的素材でできた宇宙的なイマージュに膨れあがらせることになる……



  枯山の小径も月のさす夜かな



 俳句を読むときの詩的想像力の機能については、ちょっとデタラメかもしれないけれど、こんな単純なイメージがあれば、それで十分。 

 旅と俳句が、あるいは、旅抜きの俳句だけでも、ぼくたちの詩的想像力をしっかりと育成してくれているはずなのだから、詩的想像力などというものは、それに反省的な意識をあまり向けたりしないで、それがいやでも勝手にはたらいてくれるがままにほうっておくのが、やっぱり、いちばん。

  

 《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句形式が、遠い日の〈イマージュの楽園〉における宇宙的な夢想をそっくりそのまま追体験させてくれる……



  枯れつくしたる明るさに雑木山



 まさに《俳句形式のおかげで、ぼくたちは夢想するという動詞の純粋で単純な主語となる》ことができるのだ。


 つぎの山口(やまぐち)誓子(せいし)の俳句作品では、作者の心のなかに復活した幼少時代がこれらのイマージュをみつけたのだろうか、それとも、ぼくたち読者の詩的想像力が、これらの俳句の言葉にぼくたちの幼少時代の記憶を注入してイマージュを作りあげることになるのだろうか。

 そんなことはどうだっていい。5・7・5と言葉をゆっくりたどるだけで、一句一句の俳句作品のなかで、俳句形式が詩的想像力の代行をしてくれて、ぼくたち俳句の読者に幼少時代の宇宙的幸福をそっくりそのまま追体験させてくれるはずだから……



  新緑の雨やいそげる川の波


  行きつきし樹に沿ひのぼる揚羽蝶


  夏草に汽罐車(きかんしゃ)の車輪来て止る


  朝焼や(サンタ)マリヤの鐘かすか



 《俳句作品が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句形式が詩的想像力の代行をして、ぼくたちに遠い日の宇宙的幸福をそっくりそのまま追体験させてくれる……


 

  風鈴を吊る海よりの広き風


  来し方を見ればむらがる桐の花

 


  「幼少時代の世界を再びみいだすために

  は、俳句の言葉が、真実のイマージュが

  あればいい。幼少時代がなければ真実の

  宇宙性はない。宇宙的な歌がなければポ

  エジーはない。俳句はわたしたちに幼少

  時代の宇宙性をめざめさせる……



  向日葵(ひまわり)のやや俯向きに海荒(あら)


  夏ゆふべ父の片手にぶらさがる



 そのひとの幼少時代の熟睡度とも関係してくることなのでいまの段階ではまだ個人差があるのは仕方ないことだけれど、やっぱり、俳句形式が詩的想像力の代行をしてくれたということなのだろうか、いまはまだほのかなものだろうとだれもが味わうことのできた、どこかなつかしくて宇宙的な感じのする、この、新鮮なポエジー……


 

  新緑の雨やいそげる川の波



  「わたしたちの幼少時代の宇宙的な広大

  さはわたしたちの内面に残されている。

  それは孤独な夢想のなかにまた出現する……



  風鈴を吊る海よりの広き風



 こうした非事件的な俳句の一句一句が、なにごとも起こらなかった、あの、偉大な美しい時間を呼び戻してくれることが(いまはまだかすかにといった程度でも)よく分かる。

 幼少時代を過ぎてから覚えたと思われる俳句の言葉のイメージもふくめて、なにもかもを、幼少時代という<イマージュの楽園>の事物たちそっくりの黄金の宇宙的なイマージュに変えてしまう、俳句形式と詩的想像力による、不思議な錬金術。大人になってから知ることのできたイメージにまで、どうして幼少時代の宇宙性の記憶を注入できるのだろう。考えてみれば、やっぱり不思議だ。


 《俳句作品が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句形式が詩的想像力の代行をして、はるか時間の彼方、幼少時代という<イマージュの楽園>における宇宙的幸福をそっくり追体験させてくれる……



  来し方を見ればむらがる桐の花



 なにはともあれ、この本のなかの俳句でポエジーに出会い、俳句でポエジーを味わいながらぼくたちの詩的想像力を養っていけば、ぼくたちの言葉の「夢幻的感受性」もゆたかなものになっていくだろう。


  「俳句一句をもちいて、わたしは言語の

  感受性にかかわる夢幻的感受性のテスト 

  をしてみたい……



  行きつきし樹に沿ひのぼる揚羽蝶



  「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ

  らゆるバリエーションはとりもなおさず、

  わたしたちのなかにある幼少時代の核が

  休みなく活動している証拠なのである……



  夏ゆふべ父の片手にぶらさがる



 詩的想像力といっしょに、言葉の夢幻的感受性もまた「幼少時代の核」とセットになって機能する、と、そう考えてよさそうだ。


  「もし詩的なるものの実存主義に参加し

  たければ、想像力と記憶の結合を強化し

  なければならない」


 そうして、この本のなかの俳句でポエジーとの出会いをくりかえしてゆたかな詩的想像力や夢幻的感受性を自分のものにすることができたなら、この人生で、詩を読むことがなによりの楽しみともなってくるだろう。


  「詩的言語を詩的に体験し、また根本的

  確信としてそれをすでに語ることができ

  ているならば、人の生は倍加することに

  なるだろう」

  

 だから、やっぱり、幼少時代の復活!


 ぼくたちの試みが成功するかどうかは、ただこの一点にかかっているのだ。


 

 

  


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