俳句 楽園のリアリズム(パート3-その2)
ワードの原稿を本サイトに転送したら文字のルビが上ではなくて横についてしまったのですが、スマホなどで読むとき、どうなってしまうのか、さっぱりわかりません。
バシュラールの言葉に言語の「夢幻的感受性」というのがある。要するに詩となった言語からイマージュを受けとり、ポエジーを感じとる感受性ということだろう。原文ではたぶんイマージュといったような言葉だったのを、訳文にうまく織りこめなくて、夢幻という訳語を使ったものだと思われる。
「語の夢想家なら、ルイ・エミエのつぎ
の二行を読んで夢想をおさえることがで
きようか。
ひとつの語が影のなかを動きまわり
そしてカーテンをふくらます。
この二行をもちいて、わたしは言語の
感受性にかかわる夢幻的感受性のテスト
をしてみたい」
俳句の詩的情景以外の、意味作用が浮き彫りにする詩的イマージュといものがどのようなものか、いまだに、ぼくにはさっぱり分からない。とにかくこんなわけの分からない二行を読まされたって、夢幻的感受性のテストもあんたもんじゃないと思うけれど、つぎのように書き換えてみたらどうだろう。
「語の夢想家なら、つぎの俳句を読んで
夢想をおさえることができようか。
山鳩よみればまはりに雪がふる
この俳句一句をもちいて、わたしは言
語の感受性にかかわる夢幻的感受性のテ
ストをしてみたい」
だれもが本来その素質をもっているはずだし、この本のなかで俳句を読みはじめたばかりのいまの段階でも、ご自分の内部の「夢幻的感受性」の存在に、ビックリされた方もなかにはいるのではないだろうか。
俳句のイマージュとはまさに、失われたこの世の<楽園>をぼくたちに幻想させてくれる、夢幻だといっていい。そういえば、歌人の塚本邦雄に「短歌に幻を視る以外に何の使命があろう」という言葉がある。ぼくが短歌に求めるものはちょっと違うけれど、俳句ならこんなふうに言えそうだ。
「俳句に幻を視る以外に何の楽しみがあろう……
悴みし掌の鉛筆より蝶生る
「わたしはまさしく語の夢想家であり、
書かれた語の夢想家である」
ところで、俳句ほどイマージュのむきだしになっていないふつうの詩では、詩の言葉からイマージュを受けとる、こうした「夢幻的感受性」といったものがどうしても必要になってくる。
それが、俳句でもってポエジーとの出会いをくりかえしていけば、こうした感受性がゆたかになって、詩の言葉からイマージュを受けとりやすくなってくるにちがいない。そうなれば、詩の一行一行の言葉の意味をたどっていくだけのような単純な読書においてさえ、言葉の「夢幻的感受性」が一篇の詩のなかにいくつもの詩的なイマージュを勝手にみつけだしてしまって、ポエジーまでそれなりに味わえるようになるにちがいない。そのうち、ポエジー抜きで一篇の詩を読みとおすなんて、そんなこと、きっと、不可能なことになるにちがいないと思われるのだ。
まあ、ぼくたちには旅というものがほかにあるわけだし、この本のこの「俳句パート」だけでもくりかえし読んでいただくうちに、だれもが、それまでまるで縁のなかったふつうの詩の幸福な読者になっている自分を発見して、そのことに信じられないような思いをすることになるだろう。それは、ほんとうに、確実なことだと思えるのだ。詩を読んで詩的な喜びを味わう楽しみを自分のものにできたなら、それは、間違いなく、最高の人生を手に入れたのとおなじこと。
それだから、いまは、作者なんか無視して俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュでもってしぜんと夢想なんてことをさせてもらうといった、いわば俳句の邪道のような読み方をとおして言葉の「夢幻的感受性」を鍛えてもらって、ごくしぜんと詩の幸福な読者になることを、ぼく自身も、おおいに期待しているというわけなのだ。それというのも、前にも言ったことがあるように、バシュラールの本を読んだりしたせいで、かえって、詩の不感症みたいになってしまって、いまだに治癒していないような、ちょっと悲しい状況にもう長いことぼくはあるからなのだ。
原文が難解なのかそれともぼくの頭が悪いのか、バシュラールを読んでも半分はなんのことか分らない。それでも、残りの半分には、ポエジーとか詩的イマージュとか夢想とかいったことをめぐる思わず傍線をひきたくなるような箇所が散りばめられていて、実際に線をひいたりしながらほんとうは本を読むことなんて大嫌いなのに、なんていうか気合を入れて、ポエジーを味わいたい一心でバシュラールの本を頑張って読んでいったものだ。
ところが、述べられた内容の証拠みたいにそこここに引用されている詩の一節が、さっきの二行がそうだったように、まったく詩として読めない。意味だけがあらわになった、味もそっけもないだだの散文としか読めなかった。おまけに、詩的イマージュとは何だとか想像力はそのときどのように働くのかだとか、やたらとむずかしいことを詩を読むとき意識するようになってしまって、詩を読んでもほとんどポエジーを感じられなくなってしまった。
「イマージュという語は、目にみえたり
デッサンされたり絵に描かれたイマージ
ュ(もちろん、言うまでもないけれど、
バシュラールはイメージとイマージュを
ぼくたちのように区別したりなんかして
いなくてフランス語だからすべてイマー
ジュだ)の意味にあまりにも深く根を降
ろしているので、イマージュという語が、
文学的という形容詞の付加によって受け
入れる新しい現実というものをわれわれ
が把握するには、辛抱強い努力が必要と
なることであろう」
ふつうの詩の言葉が浮き彫りにする文学的イマージュとか詩的イマージュといったものがどのようなものなのか、そのころのぼくには(いまでもそうだけれど)さっぱり分からなかったからだ。
「詩的イマージュを格別な心的昂揚とし
て、言葉の存在の一つの変身として受入
れるのでなければ、真に詩的イマージュ
の伝達を受け入れたことにはならない」
こんなふうに言われて詩集のページを開いてみたって、だれもが、ほんとうの意味で詩的イマージュの伝達を受け入れるにはどうしたらいいか、途方にくれるような思いをするだけではないだろうか。(もっとも、この「俳句パート」をくりかえし読んでいただくうちに、こんな文章も、実感をともなってよく理解できるようになるはずだけれど)
ただ、俳句にしても、一句のなかの数少ない言葉たちが協力しあってひとつの詩的情景を作りだすことになるわけだけれど、旅先の情景みたいに目に見えるように単純で、詩的イマージュとは何だ、だとか難しいことを意識させずに詩情だけを感じさせてくれるところが、ぼくたちにはありがたい……
乗りてすぐ市電灯ともす秋の暮
まあそんなこともあったから、シンプルな『夢想のメカニズム』というアイデアや「心の鏡」というメタファーの効果を、自画自賛したくもなってくる。このメカニズムは自分で操作できるようなものではない。「幼少時代の核」さえあらわになればいやでも勝手に機能してしまって、旅先や俳句を前にしたそこでは、ぼくたちはしぜんと夢想なんかさせられてしまうことになるはずなのだった。
もっとも、そんなふうに単純に考えるだけで実際に旅情やポエジーが味わえてしまったのも、旅に出たり俳句を前にしたりするだけで幼少時代が比較的簡単にめざめてしまうことにぼくたちだけが気がついたからだし、それと同時に出現する湖面のような「心の鏡」に映し出すのにうってつけの、旅先の風景や俳句の言葉の表す詩的情景を、ぼくたちだけがみつけることができたからだけれども。
いまの段階でふつうの詩を読んで、文学的な詩的イマージュを捉えるためには、俳句とちがって、どうしても辛抱強い努力が必要となってくるだろう。というか、ほんとうのところ、いくら辛抱強く努力してみたって、いつまでたってもポエジーなんかまともに味わえないのではないかと思う。
「イマージュという語が、文学的という
形容詞の付加によって受け入れる新しい
現実というものをわれわれが把握するに
は、辛抱強い努力が必要となるであろう」
旅と俳句抜きで、つまりこの本なしで、どんなに頑張ってバシュラールを読んでみたって、エンドレスの堂々めぐりをするばかりで(ごく一部のひとたちをのぞくと)いつまでたっても詩のポエジーにはなかなか出会えないのではないだろうか。
「構成のみごとな完全な詩をつくるには
精神があらかじめ草案をえがく必要があ
ろう。しかし単純な詩的イマージュには、
草案はない。必要なのはたましいの運動
だけ。一つの詩的イマージュによって、
たましいはその現存を告知する……
父とわかりて子の呼べる秋の暮
これも単純なひとつの詩的情景だけで成りたっている俳句がどれほど理想的な詩であるか、そのことに根拠をあたえてくれるような素晴らしく価値ある言葉。
俳句を読むときには精神なんて邪魔なだけ。感じやすくて夢想することが得意な魂でもって読んでいくのが、俳句を読むときの理想のすがた、なのだ。たった一行の俳句は、ふつうの詩とちがって、全体の構成を把握する必要なんて、まったくないのだし。
「断片だけがわれわれに見合っている」
それに、精神でイマージュとはどのようなもので想像力がどのように働くのかを理解したりすることと、旅先の風景や俳句のイマージュを湖面のようなどこかで受けとめて、魂でもって旅情やポエジーを味わうこととは、まったく別のこと。
メカニズムと言ってしまうと、その内部構造なんてどうだってよくなってしまう。重要なのは、それが<機能>して生じることになる、<現象>だけ。大切なのは、旅情やポエジーという幸福の<現象>だけ。精神があれこれ考えたりする必要がなくなるぶん、それだけ魂が活動しやすくなるという理屈だ。
つまり、俳句でレベルの高いポエジーに出会うためには、この「俳句パート」に登場する俳句にしても、ちょっとむずかしいことかもしれないけれど、これを読み進めている現在の精神を魂へと次第に移行させてしまって、真似をしてひらがな表記をしたくなるような、風のように軽やかで自由なたましいでもって読んでいただく。それが、理想だ。
青空や白い雲や雪をいただいた山々や湖畔の家々や木々を美しく映し出す湖面のようなどこかで、イマージュに変換された俳句の言葉をただ受けとめてあげるだけでいい。
そうすれば、まさに、ひとつの詩的情景によって(分かりにくい言い方だけれど)たましいはその現存を告知する……。
鷗まじへて海よりの南風の使者
「夢想の奥底にみずからのたましいを再
発見することは、いかにも簡単なことで
ある。夢想はわたしたちをたましいの発
生状態に導いていくではないか」
ぼくたちが真の意味でイマージュを受けとってポエジーを味わうことのできたそのとき、隠されていた「幼少時代の核」がいつの間にかあらわになって、そうして、同時に復活した幼少時代のたましいが、ふだんの心を支配している、ビクともしないと思われていたぼくたち大人の精神を征服してしまうことになるから、俳句のイマージュに触れるだけで、子供のときみたいに、ぼくたちだれもが、風のように自由なたましいの領域で思わず夢想なんかしてしまうことになるのだ、きっと。
「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ
らゆるバリエーションはとりもなおさず、
わたしたちのなかにある幼少時代の核が
休みなく活動している証拠なのである」
もちろん、並行して旅先で旅情を満喫していただくのが理想だけれど、それでも、この本のなかの俳句でそれなりのポエジーに出会えたとしたら、それは、隠されていた「幼少時代の核」がそれなりにあらわになってしまったことの証拠。言葉で夢想することに不慣れないまの段階で、旅情ほどのポエジーになかなか出会えないのも、仕方のないこと。
まあ、それでも、そのうち俳句で本格的なポエジーを味わえるようになるのは確実なこととして約束されているわけだし、この本さえあれば、いまさら旅になんか出なくたって、そうして、ほかにバシュラールなんか読まなくたって、絶対、なんとかなるだろうとは自信をもって断言できる。
それにしても、人間の幸福についてものすごいことを言っているのにそれをほとんど自分のものにできない、『夢想=幸福のメカニズム』を発見する前の、あのもどかしさといったら! それが、いまでは、ほかにバシュラールなんか読まなくたって、この本の読者の方ならどなたもが、旅先や俳句でとびきりの喜びを体験することが可能になり、そのうち、この本のなかで受けたバシュラールの教えに感謝しつつ、最高と思えるような人生を手に入れることが可能になったのだ。
「詩人たちは(まだ詩の読者とはいえな
いぼくたちにとっては、いまの段階では
旅や俳句だけが)わたしたちのなかにこ
の生き生きした幼少時代、この恒久的、
持続的、不動の幼少時代を再発見するこ
とを助けるのである。幼少時代は生涯持
続する……
梅干してきらきらきらと千曲川
いまはまだうまくいかなくたって、旅や俳句がぼくたちの幼少時代をしぜんと復活させてくれるということに気がついたぼくたちは、とりあえず、いやでもぼくたちを夢想なんかさせてしまうメカニズムに信頼をよせるだけでよくなってくる。条件さえ満たせば、きまって機能するのが、メカニズムといもの。そうして、そのただひとつの条件とは、幼少時代の復活。つまり、幼少時代のたましいの、ある状態の復活。
「夢想は精神の欠如ではない。むしろそ
れはたましいの充実を知った一刻からあ
たえられる恩恵なのである」
旅と俳句のおかげで、あるいは、旅抜きの俳句だけでも、ぼくたちの幼少時代のたましいはほとんど必然的にめざめさせられることになるのだから、俳句を読むときにも、夢想とか想像力とかいったことに反省的な意識をあまり向けたりしないで、夢想などということが勝手に再開されるように上手にもっていくこと。つまり、精神を後退させてぼくたちの心をたましいだけでいっぱいにしてしまうこと。
「わたしたちの夢想のなかでわたしたち
は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた
たび見るのである」
「幼少時代の核」さえあらわになれば、それを中心にして、幼少時代に夢想なんかしていた(らしい)ときのたましいのある状態が復活して、それと同時に、楽園のような世界を映し出していた湖面のようなどこかも当然あらわになってしまうから、そこでもって受けとめられるあらゆる対象はすべて幼少時代の色彩で彩られたイマージュに変換されることになるはずと、単純にそう確信しつつ、時おり旅に出たり、あるいは、いまさら旅になんか出なくたってかまわない、気が向いたときにこの「俳句パート」を何度でもくりかえし読んでいただくだけでいい。
「ごく簡単に俳句作品はある様態の思い
出の前にわたしたちをつれてゆく。わた
したちのなかで、今なおわたしたちの内
部で、つねにわたしたちの内面で、幼少
時代はひとつのたましいの状態でありつ
づけている……
すみれたんぽぽ切り株が金の椅子
たんなる視覚的なイメージとちがって湖面のようなどこかで受けとめられた俳句のイマージュには、幼少時代の宇宙的な夢想を再開させる美的機能がそなわっている、はず。
なぜといって、俳句のイマージュは、並みはずれた宇宙的幸福をもたらしていた、幼少時代という<イマージュの楽園>の事物たちとまったくおなじ美的素材で作られているから、だった。
なにもわざわざイマージュとは何だ? なんて考えてみるまでもない。というか、そんなことを考えて構えてしまったら、そんなしゃちこばった心に「幼少時代の核」も湖面のようなどこかも出現してくれるわけがなかったのだ。そんなことばかりしていたら、肝心なたましいではなくて精神ばかりがいつまでもとり残されてしまって、ぼくたちの幼少時代の出現を妨害することになるに決まっているからだ。
「ひとが気力充実しているかぎり、わた
したちの内に存続している青春期が、復
活を期待する幼少時代の出現を妨害する
らしい」
ぼくたちがついているのは、ポエジーに出会うのにうってつけの、たぶん世界に類をみない俳句というすぐれた一行詩をもっていることだ。意味作用ばかりがめだつ詩の一行一行の言葉の流れのなかから、詩的な浮き彫り、つまり、文学的な<詩的イマージュ>をみつけださなければならない「夢幻的感受性」も、俳句を前にしてさぞビックリしていることだろう。
わざわざイマージュをみつけだす手間なんかいらない。いっさいの意味への気遣いに煩わされることなくわたしはイマージュを生きる、というバシュラールの理想をほぼ完璧に体験させてくれる、言葉の意味がすっかりそのなかに融けこんでしまったイマージュとしてのひとつの詩的情景を、一行の俳句作品のなかに、たやすく、ぼくたち俳句の読者はみいだしてしまうことになるのだから……
乗りてすぐ市電灯ともす秋の暮
「イマージュの美しさはイマージュの効
果を増強する。詩人はイマージュの有効
性に全身全霊をあたえることをいとわない」
「想像する意識はその対象を絶対的な直
接性において捉える」
「読者は想像力をその本質で知る。とい
うのはかれは想像力を、その過度な状態
で、ということは途方もなく異常な存在
のしるしである信じがたいイマージュの
絶対的状態で、知るからである」
これもまた、詩的なイマージュや想像力についてものすごいことを言っていると思うけれど、俳句のイマージュでなら、そのうち、こんなことまで素晴らしく実感できてしまうようになるかもしれない。
一行のなかの2、3の事物が全力で協力しあって作りあげる俳句のひとつの詩的情景こそ、文学的な重苦しさから完全に解放された、考えうるもっとも純粋な詩的イマージュと言えるのではないだろうか……
鰯雲土に円描く子の遊び
「俳句はある幸福の誕生にわたしたちを
立ちあわせる」
「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュア
ンスをもたらす」
いつものことながら詩や詩人とあるところを俳句や俳句形式という言葉に置き換えてしまうと、俄然、バシュラールの文章に生命が吹きこまれることになるようだ。日本人しか俳句を味わえないのがとても残念だけれど、一句一句の俳句作品こそ、まさに、バシュラールが詩に求めた理想の多くをほぼ完璧に実現してしまっているような詩だからだった。
「俳句形式はイマージュの有効性に全身
全霊をあたえることをいとわない」
「プルーストは思い出すためにマドレー
ヌの菓子を必要とした。しかしすでに思
いがけない俳句の言葉だけでも同じ力が
発揮される」
つぎの青柳志解樹の俳句作品のなかでも、俳句形式はイマージュの有効性に全身全霊をあたえてくれているはず。5・7・5と言葉をゆっくりたどるだけで、はるか時間の彼方、幼少時代という<イマージュの楽園>を、ふたたびみいだすことができるだろうか……
倒したる樹の年輪に雪が降る
冬深し昼を過ぎたる山のいろ
海見んと来し丘温し枯れ尽す
「幼少時代の世界を再びみいだすために
は、俳句の言葉が、真実のイマージュが
あればいい。幼少時代がなければ真実の
宇宙性はない。宇宙的な歌がなければポ
エジーはない。俳句はわたしたちに幼少
時代の宇宙性をめざめさせる……
枯れつくしたる明るさに雑木山
枯れ山にわが一本の道ありぬ
「イマージュの美しさはイマージュの効果
を増強する。俳句作品のなかで、俳句形式
は、イマージュの有効性に全身全霊をあた
えることをいとわない……
枯山の小径も月のさす夜かな
日曜の役場学校凍つるなり
水の音ひびく山家の白障子
(パート1)ではワードから転送したときの行の乱れを直せることを知らずそのままにしたり「ヒサカズ ヤマザキ」の名前の検索で自分の作品をすべて目にすることができることを知らなかったり、孫に教えてもらった初歩的なことを現在、暗中模索しております。