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「これに……アランデル侵攻の計画か、あるいは私を暗殺する手はずが書かれているのね……」
「お嬢様、開く前に毒針が仕掛けられていないか、私が確認いたします!」
マリーがペーパーナイフを使って慎重に手帳の留め金を開け、鍵を回した。
カチッ、という小さな音とともに、手帳が開く。
毒ガスも毒針も飛び出してはこなかった。
「……開いたわ。読むわよ、マリー」
「はい、お嬢様。何が書かれていても、私が全力でお守りいたします」
私たちは身を寄せ合い、緊張で震える手で、最初のページをめくった。
そこには、アレクシス様のあの流麗で力強い筆跡で、こう書かれていた。
『○月×日
ついにルチアが我が家にやってきた。
教会の祭壇で振り返った彼女の姿は、信じられないほど美しかった。まるで春の女神が舞い降りたかのようだった。
私は緊張のあまり、気の利いた言葉一つかけられなかった。「氷の死神」などという物騒な悪評のせいで、彼女はひどく怯えている。無理もない。
彼女が私のことを心から信頼し、夫として受け入れてくれる日まで、私は絶対に指一本触れないと誓う。ソファは少し腰が痛いが、彼女の安らかな寝顔を遠くから見られるだけで、私は幸せだ』
「……?」
私は、自分の目を疑った。
あまりの予想外の文章に、脳の処理が追いつかない。
「ま、マリー……これ、どういう意味かしら? 『春の女神』って、何かの軍事暗号? 『ソファは腰が痛い』というのは、拷問器具の隠語……?」
「お、お待ちください、お嬢様! 次のページも見てみましょう!」
私たちは慌てて次のページをめくった。
『○月△日
朝食に、アランデルの郷土料理を出してみた。料理長に頼み込んで、密かに仕入れておいた特産の木苺ジャムだ。
彼女は「愛情を感じて胸がいっぱい」と言ってくれた! あまりの嬉しさに顔が火照ってしまい、うまく返事ができなかった自分が情けない。
その後、彼女のために造った温室を案内した。喜んでくれるか不安だったが、彼女は涙ぐむほど感動してくれた。白薔薇の髪飾りが、信じられないほど似合っていた。ああ、私はいま、世界で一番幸せな男だ』
「…………」
私とマリーは、顔を見合わせたまま完全に沈黙した。
ページをめくる手が止まらない。
『○月□日
今日は街へ出かけた。彼女の瞳と同じ色のペンダントを見つけた時、運命を感じた。彼女も「旦那様の存在をいつも感じられる」と喜んでくれた。たまらなくなって、店にあるものをすべて買ってしまった。やりすぎただろうか。
街を歩いている時、彼女が転びそうになったので思わず抱き寄せてしまった。手が小さくて、信じられないほど柔らかかった。あーんをして焼き菓子を食べてもらった時の彼女の赤い顔が、可愛すぎて心臓が止まるかと思った』
「お、お嬢様……これって……」
「待って、まだよ! これは高度な叙述トリックかもしれないわ! 別のページも見るのよ!」
『○月◎日
アランデルのレシピで作った手作りクッキーを、彼女は美味しいと言ってくれた。焦がさずに焼けるまで徹夜した甲斐があった。
だが、そのせいで図書室で居眠りをしてしまった。夫として最悪の失態だ。しかし、目覚めた時、彼女は怒るどころか「寝顔を見られて幸せでした」と微笑んでくれた。彼女は天使だ。いや、天使を通り越して女神だ。私の命は彼女のものだ』
「手作り……クッキー……?」
私の声が、間抜けに裏返った。
あの、実家の味を完璧に再現した恐ろしい毒入り(疑惑)クッキーは……彼が徹夜で、粉まみれになって手作りしたものだったというの!?
そして、極め付けは昨日のページだった。
『○月☆日
私は愚かだ。取り返しのつかないことをするところだった。
彼女を喜ばせたくて、お気に入りの絶景の丘に連れて行った。だが、私の不注意で彼女が崖から落ちそうになった。
彼女の手を掴んで引き上げた瞬間、生きた心地がしなかった。もし彼女を失っていたら、私はこの命を絶っていただろう。
彼女は自分が死ぬかもしれなかったのに、私の擦りむいた手を心配して涙を浮かべていた。なんて優しく、慈愛に満ちた女性なのだろう。
私は誓う。この命に代えても、一生彼女を愛し、守り抜くと』
「…………」
パタン、と。
私は手帳を静かに閉じた。
部屋の中には、時計の秒針の音だけが響いていた。
「……マリー」
「は、はい、お嬢様……」
「私……とんでもない勘違いをしていたかもしれない……」
「はい……私も、そう思います……」
私は両手で顔を覆い、ベッドの上にごろんと転がった。
「うわああああああああっ!! 恥ずかしいっ!! 恥ずかしいわーーーっ!!」
私は毛布を頭から被り、ベッドの上をジタバタとのたうち回った。
「罠じゃなかった!! 『心理戦』でも『踏み絵』でも『高度な暗殺計画』でもなかった! ただ……ただ、彼が私のことを……!!」
「べ、ベタ惚れだっただけでございますね……っ! 恐ろしい『氷の死神』はどこにもおらず、いたのは『不器用すぎる大型犬のような愛妻家』でございました……!」
マリーも、壮大な計画が全てただの「新婚夫婦の惚気観察」だったことに気づき、顔を真っ赤にしてうずくまった。
すべてが繋がった。
初夜に手を出さなかったのは、私を気遣ってのこと。
故郷の料理を出したのは、ホームシックを心配してのこと。
温室を作ったのも、全部買ってくれたのも、手作りのクッキーも、昨日の崖で命がけで助けてくれたのも……。
裏の目的など一切ない、純度百パーセントの「私への愛情」だったのだ。
「私ってば……『これは罠よ!』『心理戦よ!』って、一人で勝手に疑心暗鬼になって、被害妄想をこじらせて、居もしない敵と戦っていたのね……! あんなに優しくしてくれてたのに、私、心の中で彼のこと『狡猾な男』とか『死神』とか呼んでた……! ごめんなさい、アレクシス様ぁぁぁっ!」
「お、お嬢様! 泣かないでくださいませ! 私も『お嬢様、さすがです!』と持ち上げてしまって……ああ、穴があったら入りたいですわ!」
主従揃って、ベッドの上でもだえ苦しむこと十数分。
「……ハァ、ハァ。でも、よかった……」
私は乱れた髪を整え、ベッドに座り直した。
まだ顔は林檎のように赤いけれど、胸の奥にあった冷たくて重い氷の塊は、跡形もなく溶け去っていた。
「アレクシス様は、本当に私を大切に思ってくれている。政略結婚の道具としてではなく、一人の人間として……妻として」
彼の不器用だけど真っ直ぐな優しさを思い出すと、今度は別の意味で胸がドキドキと高鳴り始めた。
彼のあの美しいエメラルドの瞳。
私を抱きしめてくれた時の、強く温かい腕。
「天使だ」と書き綴られた、私への惜しみない賛辞。
「……どうしよう、マリー。私……彼のこと、好きになっちゃうかもしれない」
「『かもしれない』ではありませんわ、お嬢様。もう完全に顔が恋する乙女になっておりますよ」
マリーがふふっと笑う。
「さあ、お嬢様。急いでこの『愛妻日記』を元の場所に戻してこなければ。公務からお戻りになった旦那様が、極秘文書が盗まれたと知ったら、それこそショックで倒れてしまいますわ」
「そ、そうね! 急がないと!」
私たちは再び気合を入れ直し、今度は「勘違いのスパイ」としてではなく、「夫の秘密を守る可愛い妻」として、急いで手帳をアレクシス様の部屋へと戻しに行った。
◈
その日の夕方。
公務を早々に切り上げて、文字通り飛ぶようにして屋敷に帰ってきたアレクシス様は、私の部屋に飛び込んでくるなり、ものすごい勢いで私を優しく抱きしめた。
「ルチア! 腕の具合はどうだ!? 熱はないか!? 痛むなら私が朝まで摩っていよう!」
相変わらずの過保護ぶり。
でも、今までの私なら「看病を口実に私を監視する気ね!」と警戒していたところだが、今の私にはわかる。
彼は本気で、心底私のことを心配してくれているのだ。
「……ふふっ」
私は思わず、小さく笑い声を漏らした。
「どうかしたかい、ルチア?」
「いいえ。……旦那様が、あまりにも優しすぎるから」
私は、彼の広い胸にそっと顔を埋めた。
彼の体温が心地よく、ウッディの香りが酷く安心する。
「ル、ルチア……?」
「旦那様、私、もうどこも痛くありませんわ。旦那様が帰ってきてくださったから、すっかり治ってしまいました」
私がそう言って、今までのような「完璧な作り笑い」ではなく、心からの自然な笑顔を向けると、アレクシス様は雷に打たれたように固まり、やがて顔を真っ赤にして口元を覆った。
「……っ!! そ、そうか……君が元気になったなら、本当によかった……」
彼が必死に照れを隠そうとしているのが、今ならよくわかる。
ああ、なんて可愛らしい旦那様なのだろう。天下の氷の死神が、私の笑顔一つでこんなに動揺しているなんて。
これからは、見えない罠に怯える必要はない。
私から彼に、本当の私を見せていこう。
そして、彼が注いでくれるこの甘すぎるほどの愛情に、少しずつ、私なりの愛で応えていこう。
「旦那様。明日は、私と一緒に温室でお茶をしませんか? アランデルのハーブティーを、私が淹れますわ」
「……! あ、ああ! 喜んでお供しよう!」
私の勘違いと空回りから始まった政略結婚は、こうして終わりを告げた。
ここから始まるのは、ただただ甘く、二人の本当の新婚生活だけだったのだ。




