余命を肩代わりさせられた私による、『死ぬまでにやりたい事リスト』
母は昔、伯爵家の使用人だったらしい。
それを知ったのは母が病に倒れて少しした頃……クラヴェル伯爵が私の家である古ぼけた小屋を訪れた日だった。
その日、私は彼に腕を引かれて家を出る事になった。
後から聞いた話では、元々貧乏だった上に自分の病を治す為に金が必要だった母が、私を売ったのだとか。
何故、仮にも血が繋がっている娘が父の家へ訪れる事に対し『売られた』という表現をするのかといえば、彼が私を求めた理由が体のいい『身代わり』を求めていたというだけだから。
『病返しのまじない』というものがある。
これは遥か昔、我が国で尊き存在とされた王族や貴族が不治の病に罹った際、後継ぎや家の立場を守る為に用いられた救済措置で、『病人の病を別の者へ移すことが出来る』まじないだそう。
父、クラヴェル伯爵とその正妻――義母に当たる人――の間に生まれた愛娘ジャニーヌ。
私の義姉に当たる彼女は幼い頃、魔力を生み出す臓器の機能に支障を来たす難病に罹り、二十まで生きられないと医師に診断されたとか。
魔法を用いる為に必要とされる魔力――生命のエネルギーでもあるそれが生み出せなくなれば生き物は命を落としてしまう。
義姉ジャニーヌは、この器官の衰弱速度が非常に早い病に罹っていた。
ここまで言えばわかるだろう。
父は、そんなジャニーヌの病の症状を――短い寿命という運命を、私に押し付ける事にしたのだ。
父は私も母も愛していたわけではなかった。
母の体に命が宿ったのは事故のようなものだと引き取られてすぐの私に父は吐き捨てた。
若気の至り。
まあ、つまりは――ちょっと魔が差しただけの遊び。
そのくらいの軽い気持ちであったと。
そのせいで子を授かった母は、父にとって非常に都合の悪い存在として追い出された。
父にとっては過去の汚点。
愛娘を救うと同時に目障りな存在である私を都合よく消せる。
『病返しのまじない』は父にとって非常に都合がいい手段だったのだ。
たとえそれが、現在では禁忌とされた……使用者には終身刑や極刑が下されるような術であったとしても。
何も知らない私に不治の病を植え付けた後、父はこの呪いについて話した上で私に言った。
「お前が黙っている間は、あれに多額の治療費を送ってやる」
既に私の体には病が住まわっていた。
今更誰かに告げ口をしようと、私の運命は変わらない。
それに、私は幼いながらに、自分を育てる母が苦労していた事を理解していた。
売られても尚、母を愛する気持ちが残っていた。
だから私は、自分の運命を受け入れる事にしたのだ。
私が父と元使用人の間に生まれたという事実は父、義母、義姉の三人しか知らない。
私は『伯爵領の孤児院にいた、余命僅かな可哀想な娘』という過去を持ち、そんな娘を哀れに思った伯爵家の家族によって引き取られた――社交界ではそういう事になっている。
この話は新聞で取り上げられたりなんかもして、世間での伯爵家の評価はうなぎのぼりになったとか。
表向きは慈悲深い伯爵家に引き取られた哀れな娘。
けれど表舞台に立たない時の私は……使用人以下の、みすぼらしい娘だ。
真実を知っている義母は私の存在を許す訳もなかった。
ジャニーヌだってそうだ。
父の命で、使用人として日々働く私に、義母やジャニーヌは暴言や暴力を浴びせた。
食事は余った食材をぐちゃぐちゃに掻き混ぜただけの、冷え切ったもの。
社交界へ出る為にマナーは叩き込まれたし、暴力を振るわれるのもドレスを着ても傷が目立たないような場所ばかりだったから、周囲は私の事を病弱故にやせ細った可哀想な伯爵令嬢としか見ていなかっただろう。
……と、不幸話をすればキリがないのが私の人生。
母に売られ、命を搾り取られ、心臓近く(例の器官はその近くにあるらしい)に激痛が走る発作に苦しまされ……初めは鬱屈とした日々を送っていた私だった。
けれど、それに何年も耐え続けていると、そんな生活にも耐性がついて来た。
あと何年生きられるのか。
具体的な時間はわからないけれど、案外そんなのは皆同じだ。
私は上限が決まっているだけ。
上限が何十年先だとしても、私より若くして亡くなる人だっている。
ならば、いつまでも悲観しているのは勿体ないのではないか。
残された時間を少しでも充実させた方がずっと有意義な人生なのでは。
そんな事を思うようになったのが十四の頃……王立の魔法学園へ入学する手前だった。
ならば、まずは手始めに、生きている間にやりたい事でも並べてみよう。
そう考え、こっそり拝借した紙と筆を持ったものの……何と、一行も描けなかった。
思えば当然の事だった。
この考えに至るまで、奪われるばかりで与えられることが殆どなかった人生。
勿体ない、充実させたい、とは思っていても、具体的に何をすればいいのかが分からなかったのだ。
結局、真っ白な紙に一行目を掛けたのは十六の年だった。
用事で街へ出た時、住宅から漂う湯気や料理の香りを感じた私は思ったのだ。
「……温かいご飯、食べたいな」
私が食べた温かいご飯と言えば、本当に幼い頃、母が作ってくれていた具が殆どない薄味のスープくらいだが。
それが恋しいと思う程には伯爵家で出されていた食事は酷いものであったのだ。
私は早速『死ぬまでにやりたい事リスト』の一行目に『温かいご飯を食べる!』と書いた。
突然だが、魔法学園での私の評判は良い。
元々直感的に魔法が使えるタイプだった事や勉強以外にやる事がなかったこともあり、成績は常にトップクラスだったし、講師からも可愛がられていた。
なので私は思い切って講師に相談する。
家での私の立場については話せないが、私が不治の病を患っている事は知っている講師に、『生きている間に色んな体験をしたい。まず手始めに、調理器具と火が使える場所が欲しい』……そんな感じの話をした。
すると私に同情しつつも納得を示した講師は何と……研究員が使う事を許されている研究室を一室、私に貸してくれるよう手を打ってくれたのだ。
どうやら私の希望を聞いた講師は、私が『料理に関する研究に興味がある』と解釈したらしい。
ただ温かいご飯が食べたいという願いを抱く令嬢など想像が出来なくて当然ではあるので、なるほどそういう解釈になるのか、と私は勝手に納得した。
想定外のことではあったが、自分だけの空間が出来たのは非常に嬉しかった。
家では自室にいたところで、いつ嫌がらせを受けるか分かったものではないので心が休まらない。
私は積極的にこの研究室を使うようになった。
研究室をあてがわれてからというもの、講師のご厚意で頂いた料理のレシピを私は試し始めた。
非常に苦戦しつつ初めて作ったご飯……久しぶりの温かいご飯はとても体に染みて、思わず少しだけ涙が零れた。
この日、私はやりたい事リストの『温かいご飯を食べる!』を『温かくて美味しいご飯を食べる!』に書き換えた。
最初の一ヶ月は苦戦しまくりの怪我もしまくりといった始末だった。
なんせ、料理のノウハウなんて一切身に付いていないのだ。
レシピに掛かれていない『当然』の事を身に付けるところから始めなければならなかった。
それでも次第に慣れていき、やがてレシピ通りに料理が作れるようになった。
頂いたレシピの料理を網羅し、満足しきってしまったのは半年が経過した頃の事だった。
「……どうしよう」
私は未だに一行しか埋まっていない『やりたい事リスト』をぼんやりと眺めている。
今も研究室や自分で作る料理、温かな食事にはありがたみを感じているが、感動の大きさで言えば勿論、最初には劣ってしまう。
となれば新しい目的を見つけたいところではあった。
私は研究室のソファに仰向けになりながらリストを眺める。
「うーん。あと何があるかな……今死んでしまうとして、後悔しそうな事……」
ぶつぶつと呟いていたその時。
私の頭をふと幼少の記憶が過る。
貧乏だったけれど、愛と温もりに溢れていた懐かしい生活。
優しく笑いながら私の頭を撫でてくれた母。
そんなある日の日常を思い出した私は何となく自分の頭を撫でた。
慢性的な胸の痛みが少しだけ増したような気がして、深呼吸をする。
今、この瞬間に私が死んでしまうとしたら。
(きっと、寂しいと思ってしまう)
私は起き上がると、やりたい事リストに筆を走らせた。
『誰かと何かをする』
あまりにも具体性に乏しい、『やりたい事』。
けれどこの『何か』多分本当に何でもいいのだ。
ただ、この心を埋めてくれる、誰かとの思い出が欲しいと思った。
そんな時だった。
コンコン
研究室の窓がノックされる。
私はそちらへ視線を向けた。
換気の為に半開きにしていた窓。
私がそちらへ近づくと、窓の外からこちらを見上げる人物がいた。
「こんにちは」
私の研究室は研究棟の一階にあって、窓の外には学園生活の大半の時間を世話になる校舎まで続く通りがある。
通りの脇、私の研究室の窓から声を掛けたのは制服を着た男子生徒。
艶やかな黒髪にルビーのような鮮やかな赤い瞳。
鼻筋は通っていて肌はきめ細かい。
非常に端正な顔立ちをしている彼は長い睫毛や細めの眉等の印象も相まって、身長や声が異なっていれば性別の判別が出来なかった事だろう。
(綺麗な人……)
同学年には生まれが数か月早いジャニーヌがいたこともあって、私はなるべく彼女の目に留まらないよう過ごしている。
なので学生同士の接触は本当に最低限に留めているし、父や義母は私が病弱という理由を使って、夜会など社交界に姿を見せる機会も最低限に抑えていた。
そんな理由から、生徒の大半が貴族である学園でありつつも、誰の顔も名前も私は覚えていなかった。
「こ、こんにちは」
「急にごめんよ。たまたま通りかかったんだけど、いい匂いがして気になったんだ。まさか研究室を独り占めしている生徒がいるなんてね」
「い、一応許可は頂いています」
「ああ、疑っているとかではなくてね……」
そう言いながら、彼は何故か不思議そうな顔で私を見る。
「あの、何か?」
「ああ、大したことではないのだけれど……君、俺の事は知ってる?」
「……いいえ。あの、もしかして高貴な立場のお方でしょうか」
初め、質問の意図があまりよくわからなかったけれど、もしやという予感が後から訪れる。
不安に駆られながら私が問い掛ければ、彼は笑って首を振った。
「ああ、いや。大した者じゃないよ。……そんな事より、何をしていたんだい? 研究?」
「あ、いえ、料理を」
「……料理?」
男子生徒が目をぱちくりと瞬かせる。
「君、貴族だよね? 俺の記憶が正しければクラヴェル伯爵のところの」
どうやら彼は私の事を知っているようだ。
恐らくは両親かジャニーヌが自分達の美談の為に言いふらしている噂のいずれかを聞いた事があるのだろう。
面識はないはずなのに顔が割れているというこの状況は非常に気まずかった。
男子生徒はちらりと自分の後ろに視線を投げる。
そこには静かに控える剣士が立っている。
護衛の方なのだろう。
この学園では護衛や侍女を連れ歩く生徒は珍しくない。
彼が言わんとしている事を察したらしいその人物は、困ったように息を吐きながら小さく頷く。
それを確認してから男子生徒は笑顔で私に向き直った。
「良かったら、そちらにお邪魔してもいいかい?」
「え?」
「ご令嬢が作る料理というものが気になってね」
初対面の相手に私は緊張してしまう。
けれどその時、『やりたい事リスト』に直前に書いていた文章が過った。
――『誰かと何かをする』。
これを叶えるには当然ながら私ではない『誰か』が必要なわけで。
何だったら、彼を研究室に招き、おしゃべりをするだけでも『何かをする』には該当する訳で。
本当に叶えるつもりならば、ここで頷かない選択肢はないと、私は思い直したのだった。
作ってからまだ少ししか経っていない料理は、充分に余っていた。
一人分を作るというのはなかなか難しいもので、よく余らせてしまうので……無駄にならないという意味ではこの来客はありがたかったかもしれない。
護衛を連れているこの生徒が貴族である事は間違いないので、安全なものであるという証拠の為に器を二つ用意し、同じ鍋からそれをよそうところを見せる。
それから生徒だけではなく護衛の方にもその器をお渡しした。
すると案の定、護衛の方は先にそれを食し、その後生徒の方も料理を食べ始めた。
「本当に、大したことのないものですが」
そう話している私の正面で、男子生徒が呟く。
「あ、ちゃんと美味しい」
「ちゃんとって……」
令嬢が作る料理が意外なのはわかるが、あまりにも素直な感想が聞こえてきて私は苦笑してしまう。
「これ、君が作ったという事だよね?」
「はい」
「すごいな。器用なんだ」
「慣れただけです。初めはよく失敗しました」
「へぇ」
生徒はあっという間に料理を食べ終える。
「ごちそうさまでした」
「いいえ」
「急にお邪魔して、ご飯まで頂いてしまったからね。何かお礼をすべきかな。何か欲しいものとかある?」
「そんな。元々余らせていたものですから……」
「いやいや、そうは言ってもね。欲しいものが思いつかないなら、して欲しいことでもいいよ」
一度は断ろうとした私だったけれど、その言葉を聞いて思わず顔を上げる。
私の頭を過ったのは、つい先程やりたい事リストに書いたあの文章だった。
思い当たるものがある者の反応をしてしまった。
それに気付いた相手は美しい顔に柔らかな笑みを湛えた。
「言ってみて。勿論、俺が出来る事の範囲にはなってしまうけれど」
「えっと、その」
私は手を組んでは解き、また組み直すと言った作業を繰り返してから相手を見た。
「また、会ってくれませんか」
赤い瞳が瞬きを繰り返す。
迷惑だっただろうかという不安の元、私は慌てて言葉をつけ足した。
「あ、あの、勿論……空いている時間があれば、で」
こう言っておけば、相手が乗り気でない時の逃げ道になるし、私は拒絶される恐怖を避けられる。
そう思っての言葉に次いで、相手は首を傾げながら口を開いた。
「それは、また君のご飯を食べに来てもいいという事?」
「勿論」
「なるほど」
彼はそう呟いた後、顎を撫でながら考えを巡らせ、それから笑みを深めた。
「いいよ。喜んで」
「……っ! あ、ありがとうございます」
「いいえ」
「……お邪魔する度にお料理をいただいていてはお礼にならないのでは」
「あ、確かにそうか」
「いや、それは本当に気にしないでください」
こっそりと呟かれた護衛の方に納得を示す生徒。
私は慌てて首を横に振った。
それが少し必死に見えたのかもしれない。
相手は目を丸くするとプッと吹き出し、手を差し出した。
「俺はルシアン。こんな一室で身分なんていうお堅いものも不要だろう、ルシアンでいいよ。君は……知ってはいるけれど、君の口から聞かせて欲しいな」
彼の言葉に促され、私は頭を下げる。
「エミリー・クラヴェルです」
「うん。よろしくね、エミリー」
「よろしく、ルシアン」
不幸な道を歩んできた私にとって、この出会いは間違いなく――人生で一番の幸運だった。
それから、ルシアンは数日おきに研究室を訪れるようになった。
私はその度に彼に食事を振舞った。
料理の感想を聞いたり、他愛もない話をして過ごすひと時。
そんな関係が三ヶ月ほど続いた時から、彼の護衛は進んで毒見をする事がなくなった。
ルシアンも彼が料理を食べるのを待たずに食事をとるようになる。
そして、レシピを何周分かの料理を振る舞い続けていたある日の事。
「エミリー、別の料理は覚えないの?」
「別の料理……」
「ああ、味に飽きたとかではないよ。ふと疑問に思っただけで」
「私は少し飽きて来てるけど」
「あ、そうなんだ」
いくら何種類かのレシピがあるとはいえ、半年以上繰り返しているメニューに飽きが来るのは当然の話だった。
ただ、問題なのは……
「レシピを買う機会がなくて」
「そうなの? お父上にでも頼めば?」
「ああ」
当然の返しだった。
けれど私としては返事に困ってしまう提案だ。
少し言葉を濁し、苦く笑いながら私は返事を考える。
そして
「内緒にしているの。一応これでも病人だから、怪我の可能性がある事なんてしてたら心配を掛けちゃうし」
私が不治の病のせいで余命あと数年であるという話は私の口からもしている話だった。
我ながら、それらしい言い訳を言えたと思う。
それを聞いたルシアンが首を傾げて数秒黙った時は、何か悟られたのではと焦ったけれど、結局彼は
「確かに、一理あるね」
と答えるだけだった。
「そういう事なら俺が用意しようか? いつもおすそ分けしてもらってるし」
「いや、私が誘ってるんだし……」
「いいのいいの。俺も色んなの作ってくれるのは楽しみだし。何作りたいとかある?」
「何……」
またもや難しい質問だ。
ろくな食事をとって来ていないので、パッと思い浮かぶ料理名もそんなにない。
「思いつかないや」
「まあ、そっか。俺もどれなら簡単そうかとかよくわからないや。適当に探しておくね」
「ありがとう」
「とりあえず今日は、レシピ以外の味付けを試してみるとかはどう?」
「レシピ以外の?」
これまでにはない発想だった。
料理の知識が皆無な状態から始めたのだから、レシピに従わない選択を取るなどという冒険をした事がないのも当然の事だ。
けれど、経験を積んだ今ならば、多少は『この調味料を足してもおいしそう』という感覚が養われてきていた。
「じゃあ、ハーブを足してみる?」
「お、いいね。因みにあのスパイスを入れたらどうなるのかなってのも気になったな」
「確かに」
その後、私達は余った料理を少しずつ使って、調味料との組み合わせを試しては想定外の味の変化を感じる度にはしゃいでしまうのだった。
***
「何、これ?」
ある日。
ルシアンは机に置きっぱなしだった紙を手に取ってそう言った。
……『やりたい事リスト』だ。
「わ、わぁ~~~~っ!!」
鍋の前にいた私は慌ててそれを取り返そうとするけれど、ルシアンはそれを避けるように、紙を頭上に掲げる。
彼は背が高いので、そうされてしまえば私は紙に触れる好機を簡単に奪われしまう。
「『死ぬまでにやりたいリスト』……」
未だ二行しか書かれていないリストをまじまじと見つめるルシアン。
「なにこれ?」
「いや、だから、私が死ぬまでにやりたい事を……」
「タイトルが仰々しい癖に内容無さすぎない?」
「うっ」
「『誰かと何かする』って何???? これ書く意味あった??」
「う、うるさーい!!」
ずけずけと突っ込んでくる声のせいで羞恥心が掻き立てられる。
不貞腐れ、頬を膨らませる私だったけれど、当のルシアンは意地悪を言うつもりなどさらさらなく、ただ純粋に困惑しているようだった。
彼はリストの紙と、それを取り返そうと跳ねている私を交互に見たり、少し呆けたりしてから……プッと吹き出した。
「難しく考え過ぎなんじゃない?」
そう言うと彼は紙をリストに戻し、代わりに筆を持った。
そして私に許可を得るでもなく、勝手に筆を走らせ始める。
「ああっ!」
「いいでしょ、どうせ空白なんて有り余ってるんだし」
そう言いながら彼は一行、文章を書き足す。
『次の休校日にルシアンと遊びに行く!』
育ちの良さが滲むような達筆さでそう書かれた。
筆を奪おうとしていた私はその文字に目を奪われる。
遅れて、彼の方へ視線を移すと……してやったりと得意げに笑う顔があった。
「はい、決定~」
目頭が熱くなる。
どうしてか分からないけれど、その一文が酷く大きく、私の心を揺さぶったのだ。
「……え」
ルシアンが私の顔を見て驚く。
それから彼は、珍しく慌ててみせた。
「え、そんなに嫌だった……!? ご、ごめん!」
そう言いながら彼はポケットからハンカチを取り出して私に差し出す。
そこで漸く、私は自分の頬を伝う涙に気付いた。
「確かに、人の物に勝手に落書きするのは良くなかった、俺が悪かったよ。……だから泣かないでくれ」
「ち、ちがう」
ルシアンは困ったように私の頬にハンカチを押し当てた。
私も私で手で涙を拭いながら首を横に振る。
「……じゃあ、俺と出掛けるのが嫌だった?」
「ちがうぅ……っ」
どんどん真実から遠ざかっていく答えに私は先程よりも強い否定をした。
首をぶんぶんと横に振って、それから、自分の感情を口にしようとして、また涙が溢れた。
「う、うれしくて……」
心臓がバクバクとなっている。おまけに締め付けられていたかった。
でも、いつも感じている痛みとは違って、その動悸は不快じゃない。
私はしゃくりあげながら想いを伝えると。
ルシアンは何故か何かに耐えるように顔を歪めてから、私を強く抱きしめた。
「大袈裟だねぇ、君は」
「だ、だってぇ……っ」
「出掛けるのくらい、いくらでも付き合うよ。それ以外にも、君がしたい事なら何だって付き合ってあげる」
ただでさえ胸がいっぱいで感情が制御できないのに、彼はこれ以上ないくらいに嬉しい言葉を私にくれる。
私は彼の胸の中で子供のようにたくさん泣いてしまうのだった。
――ねぇ、ルシアン。
人って、感極まってしまった時に素直な言葉を口にしようとすると涙が止まらなくなるみたい。
それにきっと、誰かがいて初めて本当にやりたい事を見つけるんだって気付いたよ。
だって、貴方がその一行を書いてくれたその瞬間から……
――貴方とやりたい事が、無限に湧いてきたんだもの。
***
それから、ルシアンは毎日研究室に足を運ぶようになった。
それだけじゃない。
放課後に過ごす場所が研究室以外にも増えた。
休校日にもよく一緒に出掛けるようになった。
街の中を当てもなく歩いたり、カフェでお茶をしたり、観劇をしたり。
彼と共に過ごす時間は、いつだって心が躍った。
初めは、ぽつぽつと。
けれど次第にその頻度は増して……
『ルシアンと買い物をする』
『ルシアンとピクニックをする』
『ルシアンとお祭りに行く』
『ルシアンの誕生日を祝う』
気が付けば『やりたい事リスト』は、沢山の文字で埋め尽くされていた。
***
「俺、留学生なんだよね」
今日は研究室でゆっくり過ごそうと決めていたある日の放課後。
食後のティータイムを楽しんでいる中で彼はそう言った。
「え?」
「本当に俺のこと知らないんだもんなぁ、君」
わざわざ国の外の学校へ通う物の目的は、より良質な教育かもしくは――友好を示す為。
確かにこの学園は自国で見ればトップクラスのレベルの教育機関だ。
けれど、大陸単位で見るのならば……わざわざ他国から留学してまで得られる質が担保されているとは言い難い。
他国にはこの学園と同等か、それを上回る学力を誇る、有名な学校がいくつもあった。
そんな事情もある中で彼がこの学園に留学して来たとするならば、それはきっと……国同士の友好的な関係を主張する等といった政治的な理由が絡んでいる可能性が高い。
そしてその場合にやって来る留学生というのは――
「……出来れば、これまで通り接してくれると嬉しいんだけど」
私の考えている事を悟ったのだろう。
ルシアンは苦笑した。
「俺、ここで君と過ごす時間をすごく気に入っているからさ」
「ルシアン……」
「俺の事を知らない人間なんて、この学園に殆どいなくて、常に注目を集めるし、大勢に取り囲まれるしで少し辟易としていたんだよね。だから息抜きに、生徒がいない場所を探して散歩したりするようになっていて。……そういう時に出会ったのが君だった」
初めてであった日、もしかしたら彼は『人目を気にせず休める場所』を求めていたのかもしれない。
そして、まさかの自分の正体を知らず、しかも学園内で個室を持っている私に出会った。
それを好機と捉えたからこそ、彼は私の研究室に上がってもいいかと聞いたのだろう。
「よかったよ。あの時、多少強引でも君と関わりを持てて」
ルシアンはそう言って笑うけれど、その顔にはわずかな憂いが見え隠れしている。
「俺、学年が代わる時期に帰国しないといけなくてさ。だから、流石にそろそろ話さなきゃなと思って」
「……そう」
彼の言う期日まで残り一ヶ月だった。
もっと早く行ってくれても良かったのにと思う反面、彼はそれだけ今の関係を壊したくないと悩んでいたのだろうという事にも気付いていた。
「エミリー」
突然告げられた別れの日に動揺と悲しみを抱えていると、名前を呼ばれる。
泣いてしまうのを堪えながら顔を上げると、赤い瞳が私を真っ直ぐと見つめていた。
「一緒に来ない?」
想定外の誘いだった。
驚きのあまり言葉を失っていると、ルシアンは真剣な面持ちのまま続ける。
「俺の国は周辺国に比べても医学が発展している。最先端の知識や技術が備わっていて……最近だって新たに難病の治療法だって見つかった。君が患っているという病についても教えてくれれば、もしかしたら俺の国では治せるものかもしれない」
「な、おせる……?」
「断言はできない。でも可能性はあるよ。他国では治せない病も自国なら治せる。そういうケースはいくつも耳にした事がある」
不治の病が治るかもしれない。
あと少しで尽きると思っていた命が、続くかもしれない。
まだ不確かな話だとしても、抗う事すら出来ないと思っていたこれまでとは大きく異なる。
希望が、生まれたのだ。
「――行」
行きたい。
そう言いたかった。
けれど言葉が詰まる。
父の顔が、過った。
普通の貴族の家ならば、彼の提案の話をすれば喜んで送り出してくれただろう。
しかし父は、私が消える事を望んでいる。
私の体を蝕む病が治るかもしれないという話を聞いて、それを許してくれるとは思えなかった。
私は膝の上で両手を強く握りしめる。
それを、ルシアンの手が優しく包み込んだ。
それから、爪が食い込んでいた手を優しく開かせ、握りしめる。
「……君が頷けないのは、君の家族のせい?」
「――っ」
いつの間にか俯いてしまっていた顔を思わず上げる。
怒りや悲しみ、そしてそれを何とか押し留めようとするような微笑み――それを浮かべながら、ルシアンは私を見つめ続けていた。
「放課後、研究をするでもないのに帰ろうとしない。自分の食事を自分で作る。家で食事をとる選択をしない。食欲がない訳ではないのにやせ細った体。中々埋められない『やる事リスト』……ねぇ、エミリー」
ルシアンは私の手を優しく撫でる。
「日頃、温かくて美味しいご飯が食べられる人はね、『温かくて美味しいご飯を食べる』なんて願い事にすらしないんだよ」
眉を寄せ、震えた声で彼はそう言った。
……彼が、心の底から悲しんでくれている事が伝わってくる。
「我儘が言える環境で育った人は、いくつも願い事が言えるんだよ」
彼の悲しみに呼応するように、胸が締め付けられていく。
そして、はらりと涙が溢れだした。
「エミリー」
これまでの人生で抱え込んで来た苦しみが一度に溢れ出してしまったかのようだった。
今まで私の苦しみに気付いてくれる人も、寄り添ってくれる人もいなかった。
だからこそ、感情の捌け口もずっとないままで、そうして私の心はきっと麻痺していったのだ。
そうして気付けなかった傷の痛みが、ルシアンの優しさに触れたことで引き出されてしまった。
私は涙を止められず、嗚咽を絞り出す。
「君の話を利かせてくれないか。病も、家の事も……俺が何とかしてみせるから」
私の正面に、向き合うように座っていたルシアンは席を立つ。
そして私を優しく抱き寄せた。
「だからさ、これからは……あの願い事が願い事じゃなくなって、数え切れないくらい沢山の願い事が思い浮かぶような時間を過ごそうよ」
私を抱く腕に力が籠められる。
「……生きてくれ」
力強い言葉が、耳元から聞こえた。
「生きてくれ、エミリー」
その言葉に応えるように、私も彼を強く抱きしめるのだった。
***
エミリーが倒れたのはそれから一週間が経った頃だった。
丁度、ルシアンと研究室で過ごしている時の事。
彼女は突然血を吐いて、そのまま崩れ落ちた。
学園に常駐している医師によれば非常に危うい状態であるとの事だった。
ルシアンは気を失ったエミリーを家へ送り届ける役を買って出、早急にクラヴェル伯爵夫妻へ治療の提案とエミリーを隣国へ送る許可を求めた。
エミリーからの申し出であれば間違いなく突っぱねられていた事だろう。
それをルシアン自身が悟る程、クラヴェル伯爵夫妻は彼の提案を渋ったのだ。
しかし今回申し出たのはルシアンだ。
一週間前、エミリーが抱えているであろう問題を言い当てた彼は、その後、彼女から病の詳細や今彼女が置かれている環境などを聞かされた。
だからこそルシアンはエミリーの病を治すあてがある事を明確な根拠と共に並べられたし、掛かる費用も全てこちらで負担すると交渉した。
それでも「病人に長距離移動させるなど」や「これ以上体に負担を掛けるような事は」など適当な言い訳を並べたが為に、ルシアンは怒りを懸命に堪えながらこう返した。
「慈悲から引き取った娘の余命に胸を痛める両親が選ぶのが何十年分もの娘の命ではなく一時の娘の苦しみを避ける事とは。聞いて呆れますね。是が非でも今すぐに記者を呼びつけ、明日の新聞の一面を飾っていただきたいくらいだ」
これは世間が知ったら不審がる事間違いなしの発言であるという忠告だった。
それに加え――クラヴェル伯爵とルシアンの間にある立場の差はあまりにも大きい。
故に、クラヴェル伯爵夫妻は最終的には頷く事しか出来なかったのだ。
「ど、どうしてあんな奴があのお方と……ッ! 嘘よ! 私の方がずっとずっと相応しいはずなのに!」
エミリーを一時的に引き取る話をつけたルシアンが馬車まで戻る際。
離れた場所で喚く甲高い声が聞こえたが、ルシアンはそちらの方向を鋭く睨みつけるだけ。
彼は何も言わずに足早に離れるのだった。
クラヴェル家の使用人によれば、自室に置かれたエミリーの私物は殆どないのだという。
荷物を纏めさせたが、本当に少なく不安に思ったルシアンは留学中の住まいにエミリーを休ませてから学園へ戻り、研究室を訪れた。
持ち出すべき私物があれば纏めようと思ったのだ。
研究室にはいつの間にか、二人で出かけた時にルシアンが贈ったプレゼントなどが飾られるようになっていて、下手をすればクラヴェル伯爵邸よりも彼女の私物がありそうだった。
それらを纏める中。
ルシアンの視線はふと、机に置かれた紙へ向けられる。
『死ぬまでにやりたい事リスト』。
一度盗み見てしまった後は、勝手に見ることを禁じられていた為にそれに目を通すのはこれで二度目だった。
やりたい事リストは、以前とは比べ物にならないくらいびっしりと埋まっていた。
一番最初に書かれていた『温かくて美味しいご飯を食べる!』は吹き出しがつけ足されていて、『温かくて美味しいご飯をルシアンと食べる!』になっていた。
他は、一つひとつを確認していくのも大変なほど、あまりにも沢山の事が書いてあった。
『ルシアンと買い物をする』
『ルシアンとピクニックをする』
『ルシアンとお祭りに行く』
『ルシアンの誕生日を祝う』
『ルシアンに誕生日を祝ってもらう』
『ルシアンと旅行に行く』
『ルシアンに、好きっていう』
『ルシアンとデートをする』
『ルシアンと手を繋ぐ』
『ルシアンとキスをする』
「……あー」
びっしり書き記されたやりたい事。
その下部には誰がどう見たって、エミリーがルシアンに寄せている想いが分かってしまうような内容が記されていた。
「これは……怒られるかもなぁ」
恥ずかしがっていた理由を理解したルシアンは、それらを指でなぞりながらくすりと笑う。
(……怒って欲しい。もう一度元気になって、沢山言葉を交わしたい。君の色んな顔を見たい)
『やりたい事リスト』も持っていこうと決めたルシアン。
彼がそれから目を離そうとした時だった。
別の一文が目に留まる。
『誰かと何かをする』。
一度目に見た、エミリーの二つ目の願い。
その『誰か』と『何かをする』に斜線が引かれていた。
『ルシアンと生きる』
『やりたい事リスト』にいくつかの雫が落ちる。
ルシアンは深く息を吸ってから目元を擦り、筆を取った。
『死ぬまでにやりたい事リスト』に斜線を引く。
『二人で生きてやる事リスト』
***
エミリーが治療で隣国に向かい、ルシアンの留学期間が終わってから半年が経った。
年に一度、王宮で開かれる大規模な夜会。
男好きで、未だ婚約者を決めずに複数の下級貴族の男性を従えるジャニーヌはこの日も数名の男性に囲まれて気をよくしていた。
クラヴェル伯爵夫妻も、他の貴族達との会話を楽しんでいる。
「皆の者、よくぞ参加してくれた」
そんな中、大広間の中央まで躍り出た国王が声高らかに挨拶をする。
客人の視線を一つに集めた中。
国王は長い挨拶を終えると、徐に客人の輪一点を示す。
「さて、非常にめでたい場ではあるが、この場で改めて紹介させて欲しい人物がいる」
彼が指示した方角から、堂々とした足取りで姿を現す男女。
「ご紹介に預かり光栄でございます。サナトリス王国第二王子、ルシアン・アルテュール・サナトリスと申します」
黒髪の美青年ルシアンはそう言って頭を下げる。
それから更に隣の女性を示して
「彼女はクラヴェル伯爵家のご息女、エミリー・クラヴェル嬢です。彼女は私の学友であり、難病に犯されておりましたが、我が国の医学であれば治療可能であるという判断の元、療養に当たっておりました」
と、エミリーを紹介する。
「な……っ!」
瞬間、ジャニーヌやクラヴェル伯爵夫妻の顔色が変わる。
「本来であればまずは完治と共に彼女を送り届けるべきでありましたが、国王陛下には事前にご相談させていただいた通り、それが出来ない事情がございました」
「この場で改めて申してみよ」
「はい」
国王の声や視線はどこか冷たい。
それはこれから起こる事を予測しているかのようであった。
「彼女の家族――クラヴェル伯爵夫妻並びにジャニーヌ嬢には禁忌である『病返しのまじない』を使った疑いがあります」
その場の貴族達が一斉に騒めき出す。
当然だ。それ程までにこの罪は重かった。
「私は父であるクラヴェル伯爵と、かつてそこで従事していた使用人の間に生まれた子供です」
エミリーが前に出る。
「父は醜聞を避けるべく、私をお腹に宿した母を屋敷から追い出し……私と母は平民として生活してきました。しかしそこへ、父がやって来たのです。――義姉ジャニーヌの不治の病を移す依り代として」
その後、エミリーは堂々たる佇まいで全てを赤裸々に話した。
市井で生きて来た時の細かな過去、そして自分が屋敷でどのような扱いを受けてきたのか。
そして最も重要だったのが――『病返しのまじない』を使われた際の手順や状況の詳細な説明だった。
「陛下や王宮直属の宮廷魔術師方にご確認いただいた通り、彼女の証言は間違いなく『病返しのまじない』を成立させるための手順です」
「ああ。本来ならば王族や限られた研究者、そして違法なルートから情報を得た極僅かな大罪人しか知り得ない話だ」
ルシアンの言葉に、陛下は頷く。
「『病返しのまじない』には強力な魔法を扱った影響として、まじないを行使した者と本来の病の持ち主には特殊な形の痣が残ると言われています。この疑いとエミリー嬢の証言が事実か否かは――調べれば自ずとわかる事でしょう」
続いたルシアンの言葉を合図に、国王が手を持ち上げる。
瞬間、控えていた騎士たちが姿を現し、あっという間にクラヴェル伯爵夫妻とジャニーヌを取り押さえた。
「な、何するのよ!」
「くそ、離せッ!!」
「貴様らには調べを受けてもらう。また、屋敷の調査も強行し――『病返しのまじない』使用の痕跡が確認された場合には、極刑という判決が下されるだろう」
騎士を相手に噛みつかんばかりの抵抗をしていた三人。
それに対し、汚らわしいものを見る様な視線を向けていた国王が冷たく言い放つ。
その瞬間、直前まで強気だった三人の顔が瞬く間に青白くなっていく。
死の恐怖――エミリーが抱え続けてきたそれを初めて間近に感じた三人は震え上がり、ジャニーヌはみっともなく泣き出す。
しかし今更許しを与える者も、三人を庇おうとする者もおらず。
三人は騎士たちによってパーティー会場から引きずり出されるのだった。
***
それから一ヶ月が経った。
クラヴェル伯爵夫妻とジャニーヌからは『病返しのまじない』の使用者である特徴の痣が見つかった挙句、クラヴェル伯爵邸からは隠されていた『病返しのまじない』の書物が見つかった。
これにより三人には極刑が下され、社交界で彼らは――稀代の大罪人であると囁かれるようになった。
また、エミリーの抱えていた病は直近でサナトリス王国で治療法が見つかった病であり、治療に多額の費用を要した代わりに、完治へと至った。
その後、ルシアンの計らいでエミリーは自身の母の居場所を知り再会し……エミリーが伯爵家へ連れていかれたのは彼女が望むところではなかったという事を知った。
エミリーを売る事を拒絶した母の言葉に耳を貸さず、彼女がエミリーから離れている時を狙ってクラヴェル伯爵はエミリーを攫ったのだとか。
また母の病は親切なご近所との繋がりのお陰で完治に至っており、今はいたって健康だそう。
さて、病が完治し、母との再会を果たしたエミリーはというと。
元クラヴェル伯爵の弟で、伯爵家を継いだ叔父の養子として籍を入れた上で、ルシアンと婚約を交わす事になった。
実質、隣国の王族との婚約を成立させるための建前的な扱いでの養子入りだった為、叔父の養子となった一週間後には妃教育を理由にルシアンと共にサナトリス王国へ出立する事となる。
こうして現在のエミリーはサナトリス王宮で暮らしている。
再会した母も王宮の使用人として雇われている為、定期的に顔を合わせることが出来るようになっていた。
一変した日常。
妃教育や王子としての執務に追われ、婚約直後は忙しない日々を過ごす二人だったけれど、その中でもエミリーとルシアンは月に数回は互いの為に時間を空けていた。
そんなある日の事。
人里を離れ、森林浴に出ていた二人は丁度よい芝生を見つけて腰を下ろす。
優しく、心地よい風が二人の間を通り抜けていく。
「もう全部埋まったね。『やる事リスト』」
「そうだね。やり尽くしちゃった」
エミリーは笑って同意しながら、ルシアンの肩に寄り掛かる。
ルシアンはそんな彼女に甘えるように顔をすり寄らせた。
「でも」
エミリーはパッとルシアンの顔を覗き込む。
そして満面の笑みを見せた。
「まだまだやりたい事があるの――紙切れに収まり切らないくらい」
そう言って心を躍らせるエミリーの眩い笑顔にルシアンは目を細める。
「温かいご飯はもういいの?」
「もう! すぐ揶揄う!」
「ふはっ、ごめんごめん」
それから、ルシアンはエミリーの唇をそっと奪う。
優しくて甘い口づけを落としてから、彼は囁いた。
「全部やり尽くそうね。……どんなことでも、絶対楽しいだろうから」
「うん」
口づけにはまだ慣れないのか、少しだけ気恥ずかしそうに頬を赤らめたエミリー。
彼女は小さくはにかんで頷いた。
「――いつまでも、二人で」
さわさわと木々が揺れる中で、二人は穏やかで幸せな時を刻む。
『二人で生きてやる事リスト』はまだまだ更新中のようだ。
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