エピローグ 極暑の街で、風を縫う
エピローグ 極暑の街で、風を縫う
東京の夏は、もう昔の夏じゃなかった。
朝の八時なのに、空気が熱い。
アスファルトは陽炎で揺れ、駅前の電子温度計には三十八度の数字が赤く浮かんでいる。
「やば……息できない……」
スタジオへ駆け込んできた新人スタッフの夏希が、首元をぱたぱた扇いだ。
熱気と一緒に、外の焼けたコンクリートの匂いが流れ込んでくる。
絃は裁断机の前で顔を上げた。
「水飲んだ?」
「飲みました……でも暑すぎます……」
夏希の額には汗が滲んでいる。
白いTシャツが背中に張り付き、見るからに苦しそうだった。
絃は小さく眉を寄せる。
「その服、熱こもるよ」
「え?」
「生地が厚い」
絃は立ち上がると、ハンガーラックから一枚のシャツを取り出した。
淡いライトグレー。
ゆったりしたシルエット。
風が抜けるよう、脇下には細かな通気構造が入っている。
「これ着てみて」
「ITOの新作ですか?」
「試作品」
夏希は半信半疑で受け取った。
更衣室から戻ってきた瞬間、顔が変わっていた。
「……え?」
腕を動かしながら目を丸くする。
「なにこれ、軽……!」
絃は少し笑った。
「接触冷感素材」
「すご……冷たい……!」
布が風を孕み、ふわりと揺れる。
肌へ張り付かない。
汗を吸っても重くならない。
今年のITO夏季ライン。
テーマは、
『極暑でも、人は美しく生きられる』
だった。
数年前まで、絃は“おしゃれ”を贅沢だと思っていた。
生きるだけで精一杯だったから。
でも違った。
服は見栄だけじゃない。
人を守るものだ。
暑さからも。
寒さからも。
痛みからも。
「社長ー!」
別のスタッフが駆け込んでくる。
「例の冷感シリーズ、追加発注来ました!」
「どこから?」
「地方の施設と、高齢者支援団体です!」
絃は少し驚く。
「施設?」
「“クーラー我慢してる子供たちに配りたい”って」
その言葉に、絃の手が止まった。
施設。
あの夏を思い出す。
古い扇風機。
熱のこもる部屋。
汗で眠れない夜。
窓を開けても熱風しか入らなかった。
小さな子供たちが、暑さでぐったりしていた。
あの頃の自分は知らなかった。
涼しい服を選べることが、どれだけ幸せなのか。
絃は静かに言う。
「……優先で回して」
「え?」
「施設の分」
スタッフが目を丸くする。
「でも利益が……」
「いいから」
絃は小さく笑った。
「暑さで苦しいの、わかるから」
その日の午後。
新作撮影が始まった。
スタジオには大型送風機が回り、白い布が風で揺れている。
モデルたちが着ているのは、
白。
ライトブルー。
淡いベージュ。
熱を吸わない色。
リネン混素材。
吸汗速乾生地。
空気を逃がすワイドシルエット。
極暑のための服だった。
「このパンツ、風通る……!」
「汗かいても張り付かない」
「肌触りすごい」
モデルたちが驚く。
絃はモニターを見ながら、小さく息を吐いた。
服は、人を苦しめるものじゃない。
無理をさせるものでもない。
生きやすくするものだ。
昔、母は言っていた。
『服ってね、その人の明日を守るものなの』
ようやく、その意味がわかった気がした。
撮影が終わる頃には、外は夕焼けに染まり始めていた。
それでも熱気は消えない。
深見が冷たいペットボトルを差し出してくる。
「倒れますよ」
絃は受け取る。
「ありがとうございます」
冷えた水が喉を通る。
生き返るみたいだった。
深見がふと笑う。
「昔のあなたなら、自分のこと後回しにしてましたね」
絃は少し考える。
「……そうかもしれません」
以前は、自分なんてどうでもよかった。
でも今は違う。
ちゃんと眠る。
ちゃんと食べる。
暑ければ涼しい服を着る。
苦しければ休む。
そういう当たり前を、自分へ許せるようになった。
窓の外では、入道雲が赤く染まっている。
蝉の声。
熱風。
夏の匂い。
街は相変わらず過酷だった。
それでも。
絃はもう、怯えていなかった。
「社長」
夏希が笑いながら近づいてくる。
「この服、絶対売れます」
「どうして?」
「だって」
彼女は風を孕んだシャツの裾を摘んだ。
「なんか、生きるの楽になるから」
その言葉に、絃は静かに目を細めた。
風が吹く。
白いカーテンが揺れる。
夏の熱気の中で、布だけが涼しそうに呼吸していた。
絃はその光景を見つめながら、小さく笑う。
人生はきっと、何度でも縫い直せる。
傷だらけでも。
汗まみれでも。
不格好でも。
ちゃんと風は通るのだと、今の絃は知っていた。




