第10話 私の名前で生きていく
第10話 私の名前で生きていく
春の匂いがしていた。
冷たかった風は柔らかく変わり、街路樹には淡い緑が芽吹き始めている。
東京ファッションウィーク最終日。
巨大ホールの backstage は慌ただしかった。
「裾あと三センチ上げます!」
「照明、次ラスト演出入ります!」
「モデルさんスタンバイお願いしまーす!」
アイロンの蒸気。
布の擦れる音。
化粧品の甘い匂い。
たくさんの人間が走り回る熱気の中で、絃は静かにミシンへ触れていた。
カタタ、と小さく針が鳴る。
最後の糸処理。
白い布へ指先を滑らせる。
柔らかい。
軽い。
まるで呼吸しているみたいな生地だった。
「社長、五分後です」
スタッフが声を掛ける。
絃は頷いた。
「ありがとう」
数ヶ月前まで、想像もできなかった光景だった。
ブランド「ITO」。
白鷺の名ではなく、自分の名前で立ち上げたブランド。
テーマは、
『傷を縫い直す』
発表直後、業界では賛否が分かれた。
「綺麗事すぎる」
「復讐炎上で有名になっただけ」
「所詮話題性」
好き勝手言われた。
でも、それでもよかった。
誰かに認められるためじゃない。
自分が、自分を捨てないために作ったブランドだから。
「絃さん」
振り返ると、若い女性スタッフが緊張した顔で立っていた。
「……私、このブランドで働けて本当に嬉しいです」
絃は少し驚く。
「どうして?」
「私、昔いじめられてて」
彼女は笑った。
「でも“ITO”の服見た時、なんか、生きてていいんだって思えたんです」
絃は言葉を失った。
胸の奥がじんわり熱くなる。
昔。
施設で古着を縫っていた時。
誰かが笑ってくれるだけで嬉しかった。
あの気持ちは、今も変わっていない。
「……ありがとう」
絃が微笑むと、女性は泣きそうな顔で頭を下げた。
ショー開始のアナウンスが流れる。
会場の照明が落ちる。
ざわめき。
観客席には業界関係者、メディア、バイヤーたちが並んでいる。
その最前列に、深見の姿もあった。
黒いスーツ姿の彼は、静かにステージを見つめている。
昔みたいに何かを言うわけじゃない。
助けもしない。
ただ見守っていた。
それが今の絃には心地よかった。
音楽が始まる。
静かなピアノ。
最初のモデルがランウェイへ出る。
拍手。
ざわめき。
今回のコレクションは、派手ではなかった。
裂け目を刺繍で繋いだジャケット。
古布を再構築したコート。
傷跡を隠すのではなく、美しく残したドレス。
モデルたちが歩くたび、布が光を柔らかく反射する。
観客の空気が少しずつ変わっていく。
「……綺麗」
「なんだろう、これ」
「泣きそう」
絃は袖裏から、その声を聞いていた。
胸が静かに震える。
これは復讐じゃない。
誰かを叩き潰すための服じゃない。
生き残った人間の服だ。
傷ついても。
捨てられても。
それでも歩くための服。
最後の曲が流れる。
スタッフが小声で言った。
「絃さん、ラストお願いします」
深呼吸。
白い布へ手を添える。
純白のパンツドレス。
無駄な装飾はない。
けれど、ラインだけで美しかった。
まるで鎧みたいだった。
昔の絃なら、白は着られなかった。
汚れるのが怖かった。
自分には似合わないと思っていた。
でも今は違う。
白は弱さじゃない。
何度汚れても、また立ち上がれる色だ。
絃はゆっくり歩き出す。
照明の中へ。
歓声が遠く聞こえる。
ランウェイへ出た瞬間、会場が静まった。
白いドレスが光を受ける。
布が揺れる。
ヒールの音だけが響く。
カツ、カツ、と真っ直ぐ前へ進む。
フラッシュが瞬く。
でももう怖くなかった。
絃は客席を見る。
たくさんの人がいる。
その中で、深見と目が合った。
彼は何も言わない。
ただ静かに頷いた。
それだけだった。
でも十分だった。
絃は少しだけ微笑む。
あの日。
雨の中、施設へ捨てられた少女はもういない。
屋根裏で泣いていた子供も。
盗まれたデザインに震えていた少女も。
全部、自分の中にいる。
でも。
もう過去に縛られない。
ランウェイの先端へ立つ。
強いライトが降り注ぐ。
観客席が見えないくらい眩しい。
それでも絃は顔を上げた。
拍手が起こる。
最初は小さく。
やがて大きく。
波みたいに広がっていく。
絃はその音を聞きながら、静かに息を吐いた。
復讐は終わった。
でも人生は終わらない。
ここからまた、自分で縫っていく。
傷も。
孤独も。
未来も。
全部。
自分の手で。
純白のドレスが光の中で揺れる。
それはもう、誰かに奪われる服ではなかった。
絃自身の人生だった。




