表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/11

第9話 灰かぶりの処刑台

第9話 灰かぶりの処刑台


 雨だった。


 まるで最初の日みたいな、冷たい雨だった。


 ホテルの正面玄関では、赤色灯が濡れた地面を照らしている。


 フラッシュ。


 怒号。


 報道陣の叫び声。


「香苗さん! 一連の疑惑は事実ですか!?」


「寄付金横領について説明を!」


「ルナさん! 盗作は認めるんですか!?」


 会場から溢れ出した人々で、入口は騒然としていた。


 警察官たちに囲まれながら、香苗は顔を歪めている。


 あれほど完璧だった化粧は涙で崩れ、マスカラが黒く頬を汚していた。


「違うのよ……!」


 掠れた声。


「私は悪くないの!!」


 誰も信じない。


 数時間前まで、誰もが彼女を称賛していたのに。


 たった一晩で世界は変わる。


 ルナは床に座り込んだまま泣き叫んでいた。


「なんでぇ……!」


 白いドレスの裾が泥水を吸って黒く染まっている。


「なんで私がこんな目に遭うのよぉ!!」


 その声を聞きながら、絃はホテルの階段上に立っていた。


 真紅のドレスが雨風に揺れる。


 寒いはずなのに、不思議と震えなかった。


 昔の自分なら。


 あの泣き声を聞いたら怯えていた。


 怒鳴られる前に謝っていた。


 でも今は違う。


 香苗が絃を見つけた瞬間、顔色を変えた。


「絃……!」


 その目に浮かんでいたのは憎しみじゃなかった。


 恐怖だった。


 香苗は警察の腕を振り払い、よろめきながら絃へ近づいてくる。


「お願い……!」


 ヒールが滑る。


 泥水が跳ねる。


 そして。


 香苗はその場へ膝をついた。


 ざわめきが広がる。


 報道陣が一斉にカメラを向ける。


「助けて……!」


 香苗は泣きながら絃を見上げた。


「お願いよ、絃……!」


 絃は黙って見下ろす。


 かつて、自分を屋根裏へ追いやった女。


 冷たい食事を投げた女。


 母のミシンを捨てた女。


 その人間が今、泥水の中で土下座している。


「私が悪かったから……!」


 香苗の声が震える。


「だから許して……!」


 絃は静かに瞬きをした。


 許す。


 その言葉を聞いた瞬間、昔の記憶が蘇る。


 屋根裏の寒さ。


 腹の鳴る音。


 頬の痛み。


『食べる価値もない』


『役立たず』


『死ねばよかったのに』


 あの日々。


 胸の奥が軋む。


 ルナも泣きながら這い寄ってきた。


「絃ぉ……!」


 ぐしゃぐしゃの顔。


 鼻水まで垂れていた。


「お願い……っ、助けてよぉ……!」


 絃はその姿を見つめる。


 哀れだった。


 昔、ルナは完璧だった。


 眩しくて。


 綺麗で。


 世界の中心にいるみたいだった。


 でも今は。


 全部剥がれている。


 残ったのは、中身の空っぽな人間だけだった。


「絃ぉ……!」


 ルナがドレスの裾を掴もうとする。


 だが絃は一歩下がった。


 真紅の裾が雨の中で揺れる。


 香苗が泣き叫ぶ。


「お願いだから……!」


「私たち家族でしょう!?」


 その言葉に、絃は小さく笑った。


 家族。


 その言葉を、この人たちは今さら使うのか。


 絃は静かに口を開く。


「……家族?」


 雨音が響く。


 香苗が顔を上げる。


「私が熱を出した時、あなたは水もくれなかった」


 低い声だった。


「学校を辞めさせた」


「ご、ごめんなさい……!」


「母のミシンを捨てた」


 香苗の顔が歪む。


「お父さんが死んだ次の日、私を施設へ捨てた」


 絃の声は静かだった。


 怒鳴らない。


 泣かない。


 それが逆に残酷だった。


「……あの日」


 絃は空を見上げる。


 冷たい雨が頬へ落ちる。


「私は、死んだ方がいいのかなって思ってた」


 香苗が息を呑む。


 ルナも泣き止んだ。


「でも」


 絃は再び二人を見る。


「私は、生きてた」


 真紅の口紅が雨に濡れて艶を帯びる。


「苦しくても」


「寒くても」


「誰にも愛されなくても」


「私は、生きてた」


 その声に、報道陣さえ黙った。


 絃は静かに言う。


「私は、あなたたちみたいにはならない」


 香苗の瞳が揺れる。


「……え」


「誰かを踏みつけて笑ったりしない」


 絃はゆっくり息を吐く。


「だから」


 警察官たちへ視線を向けた。


「連れて行ってください」


 その瞬間、香苗が絶叫した。


「いやぁぁぁぁ!!」


 警察官が腕を掴む。


「おとなしくしてください!」


「離して!!」


 高級ドレスが泥へ落ちる。


 宝石が濡れる。


 完璧だった女は、もうどこにもいなかった。


 ルナも泣き叫ぶ。


「やだ!! やだぁぁ!!」


 足を滑らせ、泥水へ倒れ込む。


 白いドレスが一気に汚れた。


 ぐしゃり、と水音が鳴る。


 その姿を見て、周囲から小さなどよめきが漏れる。


 絃は静かに二人へ近づいた。


 香苗もルナも、泥だらけで震えている。


 絃はしばらく見下ろしていた。


 そして、小さく呟く。


「その服」


 ルナが涙目で顔を上げる。


「偽物のまま終わったわね」


 ルナの顔が崩れる。


 泣き声が雨へ溶ける。


 警察車両のドアが閉まった。


 サイレンが鳴る。


 赤色灯が遠ざかっていく。


 絃はその光を見送った。


 胸の奥が不思議なくらい静かだった。


 勝った。


 復讐は終わった。


 なのに。


 空っぽではなかった。


 雨の匂いの中で、絃はゆっくり目を閉じる。


 すると微かに、母の声を思い出した。


『服はね、人生を変えるのよ』


 絃は目を開ける。


 真紅のドレスの裾をそっと撫でた。


 これはもう、復讐の服じゃない。


 生き抜いた証だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ