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俳句 楽園のリアリズム(パート2ーその4)

今回は「楽園のリアリズム(パート2ーその4)」をおとどけします。

 



 話がすっかり個人な横道にそれてしまったけれど、いよいよつぎに「楽園のリアリズム」という言葉を登場させられそうだ。

 いろいろなタイプの俳句があるわけだしいま名前をあげた俳人たちの作品は流派の枠を超えてたしかにすごいと思うけれど、それでも、この本のなかでとりあげさせてもらっているおもに写生を手法とする「伝統派」の俳句作品があまりにも完璧に詩の理想を実現してしまっているので、それ以外の、たとえば書きつつ見る行為をしながら書かれたような新しいタイプ(といっても、おそらくその全盛期からすでに半世紀はたつだろうし、天国の高柳重信はきっと嘆いていることだろうけど、いまではさらにまったくの少数派になってしまっているかもしれない)の俳句などは、高柳重信には悪いけれど、本人たちが得意がるほどのものでもないような気もしてくる。


  「詩人がわたしたちにそれを作ったのは

  ひとりの子供だといったイマージュは、

  わたしたちのために間断なく存続する幼

  少時代を表すものである。それこそ孤独

  のイマージュである。このイマージュは

  はるかな幼少時代の夢想と詩人の夢想が

  連綿と継続していることを示している」


 ふつうの詩を読んでみたって意味作用に邪魔されてしまって、それを作ったのはひとりの子供だといったようなイマージュにはなかなか出会えないような気がするけれど、この本のなかで読みはじめた700句は、たとえ文語で書かれていようと、すべて、はるかな幼少時代の夢想とぼくたち俳句の読者の夢想が連綿と継続していることを素晴らしく実感させてくれるような俳句作品ばかり。

 それに、新しいタイプの俳句を味わうためにはそれなりの詩的な想像力とか言語感覚みたいなものがどうしても必要になってくると思うけれど、セレクトされた700句の俳句は、すべて、旅先の風景を眺めるような気楽さで味わうことができるうえに、もしかしたら新しいタイプの俳句以上のポエジーをぼくたちにもたらしてくれることになるかもしれないのだ。


  「言葉(パロール)の世界では、詩人が詩的言語のた

  め有意的言語を放棄するとき、心的作用の美化作用

  が心理的に主要なしるしとなってくる。自己表現を

  のぞむ夢想が詩的夢想となるのである」


 この本のなかの俳句にピッタリのバシュラールのこの文章もまた、おもに写生を手法とする「伝統派」の俳句を決定的に擁護する言葉となってくるはず。もっとも、意味作用にたよらない新しいタイプの俳句にもこの文章はあてはまるのだけれど、なにもそんなややこしい俳句を読まなくたって、おなじような(あるいはそれ以上の)素晴らしい詩的夢想が、単純な700句の俳句でも可能なはずと、バシュラールはそう保障してくれていることになる。意味作用に対する隷属から解放された俳句の言葉が、一句を、心的作用の美化作用、つまり、ポエジーを生む詩的夢想の、まさに、発現の場としてしまっているから、だ。


 目の前の世界を5・7・5でただ「写生」しただけのような俳句にリアリズムという言葉を使っているのを読んだことがあるけれど、俳句にリアリズムなんて、まったく矛盾した考えというしかない。俳句だってまぎれもない詩なのだから、現実をいくらリアルに写生してみたって、本来、それが詩になるはずはないのだ。それなのにどうして、味もそっけもない世界をただ写生しただけのような俳句が、こんなにも素晴らしい詩として、ぼくたちの人生に贈物のようにしてとどけられることになるのだろう。

 これはちょっといいかもと自分でも感心するのだけれど、そんなふうに考えていて思いついた言葉に「楽園のリアリズム」というのがある。俳句形式が召喚した幼少時代というのとおなじように、このフレーズも使えそうだ。世界を写生しただけのような俳句が、結果として、幼少時代の楽園のような美しい世界をそれこそリアルに写生してしまっているのだから、俳句におけるリアリズムとは「楽園のリアリズム」と呼ぶのがふさわしい。

 そうなんだ。ほとんどの俳句を、天使の目に映った世界として読めてしまったのも「楽園のリアリズム」のおかげだったのだ。

 天使、または、永遠の子供が目にした、四季折々の楽園。それこそが、まさに「楽園のリアリズム」と呼ぶのがふさわしい、俳句独自のリアルな世界。

 どんなに現実をリアルに写生したつもりの俳句作品でも、ぼくたち俳句の読者は、その一句のなかに幼少時代の色彩で彩られた〈イマージュの楽園〉そのままの世界がリアルに写生されていることを知ることになるのだから、俳句におけるリアリズムとは、やっぱり「楽園のリアリズム」と呼ぶのがふさわしい。


  「わたしたちの夢想のなかでわたしたち

  は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた

  たび見るのである」


 つまり、ぼくたちが「読みつつ見る行為」をしながら一句ごとに目にするのは、人生の黄金時代、この世の夢の楽園。ふたたびみいだされた幼少時代という〈イマージュの楽園〉そのままの世界でなければならない……



  七夕の笹がささやくほどの風



  「幼少時代の世界を再びみいだすために

  は、俳句の言葉が、真実のイマージュが

  あればいい。幼少時代がなければ真実の

  宇宙性はない。宇宙的な歌がなければポ

  エジーはない。俳句はわたしたちに幼少

  時代の宇宙性をめざめさせる……



  コスモスの残りの花を雲が訪ふ



 「幼少時代の核」があらわになれば、それを中心にして、子供のころに夢想なんかしていた(らしい)ときの宇宙的な心の状態も復活し、それと同時に、遠い日の<イマージュの楽園>を受けとめていた湖面のようなどこかもしぜんと出現してしまうことになる。

 いまの段階では隠されていてもだれもの心のなかに確実に存在するはずの、そうした心のなかの特別などこかで俳句のイメージを受けとめれば、ただのイメージがイマージュにしぜんと変換されて(だってそこは、湖面のようにイマージュだけを受けとめてくれる特別なところなのだから)ぼくたちはいやでも一句のなかに<イマージュの楽園>がリアルに再現されてしまっているのを知ることになる……。まさに「楽園のリアリズム」。これもまた、まったく単純明快な理屈といえる。

 ぼくたちが、俳句作品のなかとかで、楽園のイマージュ、つまり、幼少時代の色彩で彩られたイマージュをみつけたと感じたとしたら、おなじことになるはずだけれどポエジーを受けとったとしたら、それはそのイマージュが湖面のようなどこかでしっかりと受けとめられたことの証拠であり結果なのだから、この本のなかの俳句でそれなりにポエジーを味わえるようになってきた方にとっては、約束どおり「心の鏡」なんて変なイメージは、すでにまったく不要になったといえるだろう。


  「幼少時代の世界を再びみいだすために

  は、俳句の言葉が、真実のイマージュが

  あればいい……



  秋風の白樺梢(うれ)をふれあへる



  「イマージュを賞讃する場合にしかひと

  は、真の意味でイマージュを受けとって

  いない」


 俳句が「第二芸術」だなんて冗談じゃないと思う。作者なんてだれだっていい俳句に作者の区別なんてどうだっていいし、幼少時代の<イマージュの楽園>の事物(イマージュ)たちそっくりのイマージュだけで作られたたった一行の俳句には、特に戦後の一時期現代詩とかで問題にされたりした批評精神や思想性なんて、まったく邪魔なだけ。

 むしろ話は逆であって「ポエジー、美的なあらゆる歓喜の絶頂」というバシュラールの言葉があるように、あらゆる芸術的な喜びの源泉である幼少時代の宇宙的幸福を追体験させてくれる俳句こそ、まさに「第一芸術」の名がふさわしい。幼少時代の絶対的な《美》で充たされた俳句こそ、もっとも純粋な「絶

対芸術」にほかならない。

 しかも、この本のなかの俳句が、どんな芸術にも負けない美的感情を味わわせてくれる(はず)なのに、芸術的素養も美意識も、俳句の素養も、教養も知識も、そんなもの、ぼくたちには、まったく必要ないのだった。世界に向かって開かれた子供のころの素朴な感受性を取り戻すことができれば、それで十分。というか、それこそが、必要なこと。

 批評精神にしたって、そんなものは日常の生活のなかとかでしっかりと養って実際の人生において判断を誤らないようにすればいいのであって、夢想のなかにまで持ちこむ必要なんかまったくない。(もっとも、そんなものを持ちこんだりしたら、夢想なんてことが体験できるわけもないけれど)

 この本のなかで、俳句の絶対的な《美》に何度も触れることになるのだ。それと、並行して何度も旅に出て旅先で世界の《美》に何度も直接触れるのが理想だけれど、旅抜きでも、そのうちふつうの詩とかで夢想することを一生くりかえしていけば、子供のころのような、あらゆるものに対して開かれたほんとうの意味での美意識が、しぜんとぼくたちの内部に形成されないはずはない。

 そんな夢みたいなことまでもが、夢想することの必然的な結果として期待されるのだ。まあ、そんなことが実現してしまったら、この人生、とんでもないことになってしまうだろうし、そんな大それたことまで望まなくたってぜんぜんかまわないとも思うけれど。つまり、そう、バシュラールの教えによると。


  「夢想の詩的相は、意識を覚醒の状態の

  ままに保つ金色のプシシスムにわれわれ

  を近づける」


 そんな意識でもってバッハやモーツァルト、コローやユトリロの「芸術」に触れたら、どのようなことになってしまうだろう。


  「ただ夢想だけがこういう感受性を覚  

  醒させることができる」


 旅と俳句とそのうち読んでいくことになる詩が覚醒させてくれることになるあらゆる《美》に対する感受性が、べつに解説なんかしてもらわなくたって、そのうち、あらゆる芸術作品のなかにほんとうの《美》をみつけだしてしまうことになるに決まっている。そう、それが、ほんとうの《美》で充たされた芸術作品でさえあるなら。つまり、カラー写真の絵葉書の美しい風景に魅せられてしまうのとおなじように。

 それにひきかえ、幼少時代を復活させることもできず人工的に創りあげた美意識によってしか《美》を味わえないとしたら、その愛好者たちが賞讃する(まあ心からそう感じてのことだとは思うけれど)たとえば、わけの分からない一部の芸術映画や抽象絵画や前衛芸術などこそ、普通の人間には縁のない「第二芸術」と呼ぶべきではないだろうか。そういった芸術を愛するひとたちのなかに、もしかして、世界そのものを愛せないでいるひとがいるとしたら、これは、ちょっと、というかそうとう、なんていうか、美的に不健全だと思う。


  「わたしたちは、自分たちの幼少時代に

  溯る愛や愛着をそこにおかずには、水も

  火も樹も愛することはできない。わたし

  たちは幼少時代によってそれらを愛する

  のである。世界のこういう美のすべてを、

  今わたしたちが詩人の歌のなかで愛する

  とすれば、甦った幼少時代、わたしたち

  のだれもが潜在的にもつあの幼少時代か

  ら発して復活された幼少時代のなかで、

  愛しているのである」


 もっともぼくにしたって、そうした芸術の愛好者の美意識にかなった芸術作品が、旅情や俳句のポエジーとおなじくらいの美的感情を彼らにもたらしただろうことを否定するつもりはないけれど。嫌味ついでに、こんなふうにも言えるかもしれない。幼少時代を取り戻せないひとたちの苦肉の策、それが、ちょっと気取ったニュアンスをこめて言われるところの、芸術というものなのではないだろうか、と。

気むずかしい美意識にかなったものだけにしか《美》を感じられないとしたら、いくら洗練された美意識を彼らがもっているとしても、子供という原初の美的存在と比較して、それほど幸福とはいえないというか、やっぱり、ちょっと、どこかしら美的に不健全なところがあるような気がする。


  「わたしたちの幸福には全世界が貢献す

  るようになる。あらゆるものが夢想によ

  り、夢想のなかで美しくなるのである」


 ある対象だけが特別に美しいというものではなくて、《美》とは本来、無差別なものなのではないだろうか。幼少時代の〈イマージュの楽園〉では、世界のすべての事物が、最初のイマージュの美しさで輝いていたように。

 俳句の言葉を、幼少時代の楽園の事物たちとまったくおなじ美的素材で充たし、それを、幼少時代の夢想を再現させる美的機能をもったイマージュとして心のなかの湖面のようなどこかで受けとめ、ぼくたちの心を快いポエジーで満たす……



  村役場までアカシアの花の道



 こうした、単純な一連の「言葉の夢想」の流れのなかには、気むずかしい、いわば、選別的な美意識などの入りこむ余地はまったくない。


  「この美はわたしたちの内部、記憶の底

  にとどまっている」


 芸術的素養だの美意識だの、そんなもの関係ないと言い切れる気楽さは、やっぱり、最高だ。それでいて、美しいイマージュがむきだしになった俳句でなら、むずかしいこと抜きにして「美的なあらゆる歓喜の絶頂」といわれるほどのポエジーを(そのうち、絶対)味わえるようになるはずなのだ。 

 逆説でもなんでもなく、俳句こそ数ある芸術のなかでも第一級の「第一芸術」。世界の絶対的な《美》で充たされた最高級の「絶対芸術」の名がふさわしい。

 幼少時代の根源的な《美》に根ざした俳句のイマージュがもたらすポエジーこそ、幼少時代の宇宙的幸福の数限りないバリエーション。いまはまだ無理だとしても、俳句をくりかえし読んでは夢想することにもっと習熟してくれば、俳句は、この人生で味わうことのできる最高の喜びを、確実に、ぼくたちにもたらしてくれることになるはずなのだ。


  「俳句は宇宙的幸福のさまざまなニュアンスをもたらす」


 これからいやでも出会うことになる本格的なポエジーの、大きさ、深さ、ゆたかさ、根源的な多彩さを、これからぼくたちだれもが、この本のなかで実際に体験していくことになるだろう。これは、ちょっと、そうとうに楽しみなことといえるのではないだろうか。


  「些細な批評的反省ですらもこの飛躍を

  とめ、精神を二次的な位置におき、想像

  力の原初性を破壊する」


  「比較の水準に平板化してはならない」


  「いかなる比較も、比較された事項の表

  現的価値を減少させる」


 作品を比較の水準に平板化して想像力の原初性を破壊してはならないとか、バシュラールの言葉は、この世の至福ともいうべき最高のポエジーを確実に味わうために有効な、最高の生きたヒントをあたえてくれる。イマージュとポエジーの本質、つまり夢想することの本質をだれよりも深く理解していたからこそ言えることだと思うけれど、それにしても、バシュラールの夢想することの楽天主(オプティミ)(ズム)ときたら、ちょっと真似のできないすごさ。そんな彼が人類史上最高の幸福を実現してしまったのも、あたりまえといえるだろう。


  「わたしにはありあまるほどの過去があ

  る。詩人のぱっとしない過去を知りたい

  とは思わない」


  「きみはよく見た。だから夢想する権利

  がある」


  「自我が自信をもってあるがままの自己

  を認めるような内在的な調和」


 この本のなかでとりあげさせてもらう700句の俳句は、どれも遠い日の記憶がしぜんとよみがえってくるような、ぼくたちのありあまるほどの過去に対応したものばかり。あるがままのぼくたちを自信をもって認めることができるような、そんなうれしい心の調和のなかで読んでいけるようなものばかり。700句の俳句でポエジーを味わうためには、ぼくたちの「幼少時代」と「世界」の記憶があれば、それだけで十分。たったそれだけで、そのうち、多少時間はかかっても例外なく、だれもがうれしくなるほど公平に、素晴らしいポエジーに出会えてしまうはずなのだ。


 俳句こそ、まさに、イマージュとポエジーの本質、夢想することの本質が、いやでも、しぜんとあらわになってしまう詩だからだ。


  「俳句形式にひとたび対象がとり込まれ

  るや、対象そのものが存在を変化する。

  対象は詩的なものに昇格するのである」


 詩人となっていたところを俳句形式に変えて全文を読んでみると、この文章も、俳句における「楽園のリアリズム」の素晴らしい説明となってくるだろう。なんでもない対象を写生しただけのような俳句でも、そのイメージが詩的イマージュに昇格してぼくたちにとどけられ以上、どんなに下手くそな俳句だろうと、本来、ポエジー・ゼロの作品なんてあるわけもない。

 

  「いかなる比較も、比較された事項の表

  現的価値を減少させる」


 作句の世界では俳人はだいたい俳句の選者もかねているわけであって、こんなにも完璧な詩を選別したり評価したりするのってちょっと大変なことだろうなと、余計なお世話で失礼なことだとは思うけれど、ぼくなんかついそんなふうに考えてしまう。

 それにつけても、作品を比較して評価したりする必要のない、たんなる読者であることの、ぼくたちの特権的な幸福を思わないではいられなくなってくるのだ。評価の定まった有名俳人の作品だけを安心して、ぼくたちの人生への素晴らしい贈物として、感謝をこめて受けとっていくだけでいいのだから。


  「わたしはまさしく語の夢想家であり、

  書かれた語の夢想家である」


 実際に俳句を作っているほとんどの人たちよりもぼくたちのほうが、俳句で、至純にして至福、本格的な極上のポエジーが体験可能だと思われるのも、俳句の実作者でバシュラールの著作を読みこんだ人がそうたくさんいるとも思えないし、たった2、3の世界の断片しか利用できない俳句形式にしてみても、この本のなかでバシュラールの残してくれたいろいろな言葉と出会って、それまでなんとなくうすうす気づいていた自分のものすごい可能性をはっきり自覚するようになり、その可能性をはじめてぼくたちに対してだけ試してくれているから、と、そんなふうに言うこともできるのではないだろうか。


 世界一の幸福を実現してしまったバシュラールと世界一理想的な詩型である俳句形式とのコラボレーション。つまり……。


  「このようにして子供は孤独な状態で夢

  想に意のままにふけるようになるや、夢

  想の幸福を知るのであり、のちにその幸

  福は俳句の読者の幸福となるであろう」


  「俳句のこのイマージュは、はるかな幼

  少時代の夢想とぼくたち俳句の読者の夢

  想が連綿と継続していることを示してい

  る」


 《俳句形式が浮き彫りにしてくれるイマージュは、幼少時代の宇宙的な夢想を再現させる、幼少時代の「世界」とまったくおなじ美的素材で作られているので、5・7・5と言葉をたどるだけで、俳句形式が、はるかな幼少時代の夢想をそっくりそのまま追体験させてくれる》


 つぎの岡本差(おかもとさ)知子(ちこ)の俳句作品でも、幼少時代の色彩で彩られた詩的情景(イマージュ)を、俳句形式がくっきりと浮き彫りにしてくれているはず。

 これらの俳句作品は、はるかな幼少時代の夢想とぼくたち俳句の読者の夢想が連綿と継続していることを、素晴らしく実感させてくれるだろうか。

 5・7・5とゆっくり言葉をたどってみよう。俳句形式がくっきりと浮き彫りにしてく

れる、幼少時代という<イマージュの楽園>そのままの世界とは……



  パン買いに近道とれば秋の蝶


  星を見に出て(しゅう)(とう)のおびただし


  川に沿へば川のひびきの春近し

 


  「幼少時代の世界を再びみいだすために

  は、俳句の言葉が、真実のイマージュが

  あればいい」

  

 ここまできてはじめて、これらの3句のうちのどれかに、いままでに味わったことのないような、とびきりの快さの気配のようなものを感じた方もいるだろう。いまはまだほんのかすかなものだろうと、それが、これからいやでも体験することになるポエジーという最高の幸福=快楽の、味わいの質といったも

のなのだ。

 まあ、いまの段階でなにも感じなかったからって、べつに気にすることはない。要は、それは、ぼくたちの幼少時代の熟睡度の個人差の問題でしかないのだから。


  「俳句はわたしたちに幼少時代の宇宙性

  をめざめさせる」


 おなじ句を何度も利用させてもらっているのでもっとたくさん読んできたような気がするかもしれないけれど、まだたったの50句くらいしか読んでいないのだ。時間さえかければ、そのうち、700句のうちの何句目かで、だれもが、突然、旅先の旅情にも負けない素晴らしいポエジーに出会うことになるのは、絶対、間違いない、はず。それは、やっぱり、確実なこととして約束されていることになるだろう。


   「あたかも俳句は、充分その役目を果た

   していない幼少時代、しかもわたした

   ち自身の幼少時代であって、おそらく

   何度もくりかえしてわたしたちが夢想

   した幼少時代をひきつづき持続させ、

   完成させるかのように思われる」


 旅抜きでこの本だけを利用していただいている場合は特に、はじめのうちは、この2回目やつぎの3回目、4回目など、おなじところの俳句作品を何度もくりかえし味わったりとか、ほかの本みたいに一気に読みあげてしまってもまったく意味がないし、先に進むのを惜しむようにしてなるべく時間をかけてゆっくり読んでいっていただきたい。薄目を開けた程度ですぐまた眠りに落ちてしまう幼少時代が次第にめざめやすくなってくるそのテンポに歩調をあわせるようにして。復活する幼少時代のレベルに応じた夢想の幸福以上のポエジーを味わうことは、ちょっとむずかしいことではないかと思われるから。

 バシュラールにしたって旅なんてぜんぜん必要としていなかったわけだし、そうしていただければ本格的なポエジーに出会わずにこの本を最後まで読み通すなんて、そんなこと、絶対、不可能なことだとは、自信をもって断言できる。そうして、ポエジーとの出会いさえ果たせれば、ぼくたちのこの人生が確実に変わってしまうだろう、というそのことも。


  「世界のこういう美のすべてを、いまわ

  たしたちが俳句作品のなかで愛するとす

  れば、甦った幼少時代、わたしたちのだ

  れもが潜在的にもつあの幼少時代から発

  して復活された幼少時代のなかで、愛し

  ているのである」

  

 ポエジーとの出会いが確実なこととして約束されていて、だれもがそのうちたやすく味わえるようになるはずなのも、セレクトされた700句は、すべて、幼少時代の色彩で彩られたような俳句作品ばかりだから……



  パン買いに近道とれば秋の蝶



 まさに「楽園のリアリズム」!


 だれもがたやすく味わえるとはいっても、一句一句の俳句作品を確実に味わうためには、5音・7音・5音と音数律にあわせてゆっくり読んで、俳句形式の恩恵をしっかりと受けとることが、やっぱり、大切になってくる。


 パン買いに(5音)/近道とれば(7音)/秋の蝶(5音)


 一行の俳句を5/7/5と区切るようにしてゆっくりと読んでいくと「/」の部分で作品も区切られて、イマージュだけがくっきりと浮き彫りされて見えてくることにもなる。


  パン買いに/近道とれば/秋の蝶


 俳句を読むためのトレーニング抜きでだれでもすぐに味わうことができるとはいっても、5音・7音・5音の俳句の音数律を意識することだけは絶対に必要だ。そうすれば一句を5・7・5とたどるとき、5音・7音・5音という音数を予測して、しかもそれらを等しい時間で読むことになるから、5音句はゆっくりと、7音句は力をこめていくらか速く読むことになる。そこに、緩/急/緩、弱/強/弱、といった俳句形式の基本的な韻律が生まれる。歌人の小池光の短歌の韻律論の真似をすると、俳句もそういうことになるだろう。

 なんとなくよく考えもしないで小池光の文章を読むまでは、5音の句と7音の句は5対

7の時間比で読んでいるような気がしていたけれど、言われてみればたしかに5音句も7音句もおなじ時間を使って読んでいるようだ。したがって、5音句を読むのとおなじ時間で読むことになるから、7音句は速く読まねばならず、その分しぜんと力もはいってしまうということらしい。

 つぎの句は、はじめが6音になっているので(字余りだ)5音を読むのとおなじ時間で6音をちょっとテンポを速めて、ほんの少し力をこめて読むことになり、韻律に微妙な変化がおこる。


 川に沿へば(6音)/川のひびきの(7音)/春近し(5音)


 こうした5・7・5の基本的な音数律のリズムやその変奏のなかで、さらにひとつひとつの言葉がひびきあって、一句は、微妙な言葉の音楽を奏でることになる。


  川に沿へば/川のひびきの/春近し

  

 そうして、ぼくなんかの説明できることではないけれど、こういった言葉の音楽が、5・7・5とたどるだけで俳句形式がこんなにも美しく詩的情景(イマージュ)を浮き彫りにしてくれることに、一役買っているらしいのだ。


  「詩篇、それはおのれ自身の韻律を創り

  だす美しき時間のオブジェである」


 俳句作品とは、その一句全体が、まさに、おのれ自身の韻律を創りだす、あの、まぶしいほどに幸福だった<楽園の時間>の美しきオブジェである、と、そんなふうにも言えるだろう……



  星を見に出て秋燈のおびただし



 言葉の音楽をめぐるバシュラールの素晴らしい文章もたくさん読んだような気がするけれど、ぼくの「バシュラール・ノート」には前のもの以外には、つぎの短い文章しか書き抜かれてなかった。


  「読書の喜びと耳のしあわせ……



  川に沿へば川のひびきの春近し

  

  

  パン買いに近道とれば秋の蝶


 


 


次回の5回目で(パート2)はおしまいになります。

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