第二葉『アヤメのいないカヲルの成人式』
『白い百合』の登場人物たちをもっと身近に感じていただくためのイメージアイデアブックです。
本編には収録しなかった小さなエピソードを通して、登場人物たちの素顔や、その関係性をご紹介します。
これを読んで、『白い百合』の登場人物たちのイメージを少しでも膨らませていただけたら嬉しいです。
今回は、ユーサク、アヤメ、カヲル。
アヤメが亡くなって、今年の四月で九年になる。
あのとき、11歳だったカヲルは二十歳になった。
随分辛かっただろうに、道に背くこともせず、今のところ何とか順調に育っている。
ありがたいことである。
そして今日、無事に成人式を迎えることができた。
本当なら、この日をいちばん楽しみにしていたのは、アヤメだったはずだ。
カヲルがまだ小さかった頃、アヤメはよく言っていた。
「カヲルの成人式のスーツは、ゆうちゃんがいつも行ってるお店がいいよね」
こういう話をするときのアヤメは、すこぶる機嫌がいい。
僕が背広を新調しようとする時とは大違いだ。
「そうね。でもアヤメさあ」
「何?」
アヤメが僅かに嫌な顔になる。
「僕がスーツ買うとき、絶対、『買い過ぎ。もったいない、まだ着れるでしょ』とか言うよね」
「当たり前でしょ。ゆうちゃん、塾の先生だけど、いつもセーターとジーンズで教えてるよね。そのくせ、『古くなったら、かっこ悪い』とか言って、三年ごとに買い替えるよね。二、三回しか着てないくせに」
アヤメが、今だと思わんばかりに僕に抗議してくる。
ずるい。
でも、間違ってはいない。
「だって、しょうがないやん、洋服買うことが唯一の楽しみなのに」
僕は、気まずい顔になる。
「えっ?もう一回言ってごらん」
「だから……、洋服買うのが唯一の趣味」
「嘘つき。ソアラは?」
「あれは……、うーん……。……ほら、そう、車は必要やん」
僕は痛いとこを突かれて、身体が熱くなる。汗ばむ。
「ふーん」
アヤメは見透かしたような、上手い言い訳考えたよね、みたいな顔をする。
「あたしって、優しいよね」
「何が?」
「なんだかんだ、文句は言うけど、ちゃんとソアラ買うことも、スーツ買うことも許してあげてるよね」
「もう、ごめんって」
アヤメは勝ち誇ったような顔をして嬉しそうだ。
「アヤメだって、インゲボルグのワンピ、しょっちゅう買ってるやん……」
僕は、弱々しく言い返してみる。
「あっそ。じゃあ、ゆうちゃんが大好きな日航ホテルのフレンチに行くとき、スーパーで買ったワンピで行ってあげようか。あたしは平気よ。だって恥をかくのはゆうちゃんだもん」
うーん。くやしい……。そうだ。
「でも、ジャガー買うの我慢したやん」
僕はそう言った瞬間、しまったと思った。
「当たり前でしょ。調子に乗らないでよ。カヲルもまだ小さいんだし。ちょっとは、先のことも考えてるの? あたしが貯金しなきゃ、ゆうちゃんできないでしょ。もー、本当だらしないよね。……だったら、今の二倍稼げるようになったら、許してあげてもいいわよ」
思えば、アヤメにはいつも怒られていた気がする。
でも、不思議と腹は立たなかった。
嫌ではなかった。
むしろ、わざと怒らせることを言っていたのかもしれない……。
楽しかった。
嬉しかった。
幸せだった。
アヤメと話すといつも心の中が暖かくなった。
遠い、遠い、遠い、もう、靄がかかってしまった昔の記憶だ。
ただ、まさかカヲルの成人式にアヤメがいないとは思ってもみなかった。
だから僕にとってもカヲルの成人式は一大イベントで、一年くらい前からかなり盛り上がっていた。長いことあれこれコーディネート考えたり、スーツ注文したり、ネクタイや靴など小物買ったり、前撮りしたり、当日美容院に連れて行ったり、おもいっきり堪能した。
でも……、どれもこれも、本当はアヤメとやるはずだった……。
息子の隣に立ちながら、心のどこかで思っていた。
……アヤメ。……見てる?
写真の中のカヲルは、もう子どもではなかった。肩幅も広くなり、僕よりかなり背が高くなっていた。
アヤメが知っているのは、まだ小学生の頃の姿だけだ。
これほど成長した姿を、アヤメは知らない。
それが悔しかった……。
成人式の案内状には書いてあった。
「会場内、保護者立ち入り禁止」
七五三も入学式も卒業式も、僕はいつも隣にいた。
だが、成人式だけは違った。
会場の中には入れない。
朝、息子と友達を白いメルセデスEクラスクーペで送った。
会場に着いてカヲルと友達がメルセデスから降りるとき、僕が、帰りも迎えに来るねと言おうとした瞬間、
「帰りは、一人で帰るから。……迎えに来んでいいよ」
カヲルはそう言って、友達と成人式の雑踏の中に消えていった。
僕には見せない、嬉しそうな顔をして。
会場前の広場には、何人かの保護者がいて、我が子の写真を撮っていた。
アヤメがいたら……、そばに行けたのに……。
でも、僕は車を降りなかった。
カヲルのいる広場へ行けば、アヤメのいないことを余計に思い知らされるから……。
僕は、たくさんの友達と楽しそうに写真を撮っているカヲルを尻目に、白いメルセデスを出した……。
夕方、カヲルは何事もなかったかのように帰ってきた。
「どうだった?」
僕は、カヲルが言うことを知っていたのに、聞いてしまった。
「普通」
ただ、それだけ……。
いつも通り、そっけない。
「友達と撮った写真、見せて」
僕がそう言うと、カヲルはスマホの画面をちらりと見せて、すぐに戻した。
カヲルも、友達も、いや、それどころかその会場にいる誰もが楽しそうに笑っていた。
きらきらと輝いていた。
たぶん、僕はカヲルがスマホの画面をじっくり見せてくれたとしても、すぐに目を背けてしまっていただろう。
今の僕には、あまりにも眩しすぎた。
カヲルの成長は喜ばしいことである。
でも……、
僕の手から巣立っていき、寂しくもある。
アヤメがいなくても、カヲルは立派に育った。
それだけは、胸を張ってアヤメに報告できる。
だけど……。
その役目を終えた僕の隣には、もう誰もいなかった。
アヤメ……。
返事は……ない。
僕は孤独だ……。
僕はスマホを開き、アヤメとカヲルと三人で撮った最後の写真を見た。




