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婚約は破棄、死刑は停止、監禁は終身。

作者: 柊ナツキ
掲載日:2026/08/24

「メルティア・ミカゲ。貴様との婚約を破棄する! 理由は、メルティア嬢の度重なる不貞、詐欺、身分詐称、公文書偽造、ならびに王族への不敬である」


 王太子の顔でそう宣言し、メルティア・ミカゲは満場の拍手を待った。


 誰も拍手しなかった。


 断罪されるはずのメルティア本人が、会場のどこにもいなかったからである。


「……殿下。メルティア様は?」


「国外追放を予期して、既に逃げたようだ」


「まだ国外追放を言い渡しておりませんが」


「先見の明まである。惜しい女だった」


 自画自賛しながら、王太子の姿をしたメルティアは宣言書を巻く。

 三度目の鐘が鳴り、遠い記録庫で王家の婚約証書が自爆した。これで婚約破棄は成立だ。


 王家との婚約は王族側からしか破棄できない。なら、自分が王太子になればいい。二年かけて辿り着いた答えとしてはかなり治安が悪かった。


 王家の伝統は、本人確認より勢いを重んじる。顔、声、印章を揃えて公に宣言し、三度目の鐘まで当事者から異議がなければ解消できる。真紋認証より古い欠陥条文を、王家だけが伝統と呼んでいた。


 本物の王太子エリオットは控室で、メルティアが葡萄酒へ混ぜた眠り薬により健やかな夢を見ている。起きれば軽い頭痛と婚約者のいない人生が待っているが、そこから先は知ったことではない。


(……まぁ、不貞だけは濡れ衣だけど。王族への不敬に関しては、王太子の顔で王家を騙してるから絶賛達成中。文句なしの有罪で草!)


 メルティアの悪役令嬢としての社会的地位は、無事に確立されつつあった。


 次は、自分へ国外追放を命じればいい。追放者には三日間の退去猶予があり、その間は王家も聖律院も身柄を拘束できない。


 婚約という檻兼盾を捨て、国外追放という逃走許可証へ持ち替える。その三日で国境を越える。

 正餐卓では、豚の丸焼きの皮が飴色に光っていた。退場前に、夕食として一切れ包ませる余裕もある。


 完璧だった。


「では改めて、罪人メルティア・ミカゲを──」


「その先は、せめて本人がいるところで言ってくれる?」


 背後から聞こえた声に、メルティアは固まった。


 振り返るまでもない。

 二年間で六度逃げたメルティアを、六度すべて見つけた男の声だった。


 聖律院(せいりついん)異端審問局(いたんしんもんきょく)の首席審問官、ジェニエル・ヴァイスレイン。

 顔と逮捕率だけは非の打ち所がない。


 黒銀の制服をまとった青年が立会席から進み出ると、誰に命じられたわけでもないのに、貴族たちが波のように左右へ退いた。


 今夜の招待者名簿に彼の名はなかった。招待状の要らない聖律院の緊急立会権を使ったらしい。そこまでして来ると知っていれば、王太子へ眠り薬を盛り損にしてでも逃げていた。


「……余は王太子であるぞ。不敬罪で捕まりたいのか」


「捕まるのは君だよ」


「根拠は?」


「殿下は、ご自分の婚約が破棄された瞬間に笑わない。それに、逃げ道を数えながら豚の丸焼きを四回も見ない」


「三回だ」


「やっぱり君だ。──見つけたよ、メル」


 その名が大広間へ落ちた瞬間、誰かの手から滑り落ちたクリスタルグラスが石床の上で砕けた。

 メルティアは思わず舌打ちする。国外追放は、宣告を最後まで言い切って初めて発効する。三日分の拘束免除まであと一文というところで、ジェニエルがそこだけを正確に切った。


「……婚約の次は、あんたを破棄したい」


 秋季大夜会の大広間には、王侯貴族が二百人、扉が六つ、窓が十二枚。

 正面扉はジェニエル。左右の回廊には聖堂騎士。背後の大窓は庭園へ通じるが、割れば借り物の王太子の顔に傷がつく。


 なら、残る出口は一つ。


「偽物だ!」


 メルティアはジェニエルを指し、王太子の声で叫んだ。


「その男こそ《七貌》である! 首席審問官の顔を騙る不届き者を捕らえよ!」


 王太子と首席審問官が、互いを偽物だと告発している。

 衛兵からすれば、どちらが本物かなど分からない。ただし片方は確実に重犯罪者で、間違えた方を捕らえれば自分も社会的に死ぬ。


 全員が法より職歴を守り、積極的に置物になった。

 よし、使えねぇ。


「全員、その場で職歴を守れ!」


 王太子の命令に、衛兵たちは今夜初めて完璧に従った。


 メルティアは給仕の盆から葡萄酒を奪い、ジェニエルの顔へ浴びせた。

 彼が目を閉じた一瞬で、王太子の肉体が縮む。豪奢な礼装だけがその場へ崩れ落ち、中から小柄な給仕少年姿が飛び出した。


 《写身》が変えるのは肉体だけ。衣服は形を変える灰布《写衣》で偽装し、印章は本物を盗んで補う。

 魔法にも限界がある。公文書犯罪は自力で頑張るしかない。


 メルティアは卓上へ飛び乗り、銀皿を蹴り、天井飾りの垂れ幕を掴んだ。振り子のように大広間を横断する。


 悲鳴と拍手が半々で上がった。


「拍手したの誰!? 観客かよ!」


「曲芸への賛美だね。婚約破棄には一人も賛成していないよ。僕を除いては」


「祝うなら追うな! 破棄は成立したんだから、私がどこへ行こうが自由でしょ!」


「婚約からはね。国外追放は未成立だから、君の拘束に問題はない」


 召使い通路へ滑り込み、角を二つ曲がる。少年の身体が伸び、今度は大柄な衛兵へ変わった。


「賊は東棟だ! 全員追え!」


 追手へ堂々と逆方向を指示し、西の搬入口へ走る。追ってきた騎士の肩が、壁際の配膳棚へ激突した。木材が大きく軋んだが、メルティアは振り返らずに走った。

 警鐘が鳴り、廊下を区切る防炎扉が落ち始めた。


 あと三歩。

 メルティアは床を蹴り、閉じかけた扉の下を滑り抜ける。


 自由は、すぐ目の前だった。

 しかし、背後で小さな悲鳴がした。


「……最悪」


 聞かなかったことにすれば逃げられる。

 悲鳴がもう一度聞こえた。


「こういう時だけ耳が良いんだよな。いい加減、学習しろよ私!」


 メルティアは来た道へ戻った。

 防炎扉の向こうで、厨房の下働きらしい少女が、先ほど騎士のぶつかった配膳棚に脚を挟まれていた。


「泣くな。今から助けるから」


「だ、誰……?」


「今は衛兵。五分前は王太子。明日はたぶん死刑囚」


「えっ」


「説明すると長い! 今は急ぎ!」


 衛兵の太い腕で防炎扉を押し上げ、棚を退かす。少女を自由の側へ押し出した瞬間、重い扉が落ちた。そこで逃げ道が一つ死んだ。


 中庭へ戻ると、月明かりの中央にジェニエルが立っていた。


 追ってきたのではない。

 メルティアが人助けをすると読んだうえでの、ハメ技の出待ちだった。


「何で先回りしてるんだよ。今の私は衛兵なんだけど!」


「知っているよ」


 ジェニエルは借り物の顔ではなく、扉の向こうで保護される少女を見た。


「あのまま走れば逃げられた。でも、あの子の声が聞こえたら君は戻る」


「戻らなかったかもしれないだろ」


「過去六回、君は全員助けて、全部捕まった。薬師の顔で疫病区へ潜った時も、検問官の顔で避難民を通した時も、修道女の顔で異端者を逃がした時も」


 メルティアは毎回あと一歩で逃げ切れた。そして毎回、助けを求める誰かを見つけた。


「僕は君を顔で見分けているんじゃない。逃げられる時に、逃げ道の反対へ走る女は一人しかいない」


「……口説いてる?」


「逮捕手順だよ。君専用に第七版まである」


 少女が無事に騎士へ引き渡されたのを見届け、メルティアは反対方向へ飛んだ。


 黒銀の《戒鎖》が足元を薙ぐ。跳び越えて塀へ手を掛けたところで、右手だけが空中へ縫い留められた。

 ジェニエルの固有式《定相》が、掴んだ現在を三秒だけ固定した。


「人の右手を建築物にする気か!」


「三秒だけだよ」


「逃走中の三秒は三年より長い!」


 左手で袖を切り、少年へ縮んで抜けようとする。


 その判断まで読まれていた。変わりきる前に、固定が解ける。

 ジェニエルは落ちてきた手首を取り、関節を痛めない角度で背後へ滑り込んだ。片腕が腰を横切り、メルティアの背中が彼の胸元へ引き寄せられる。


 傍目には抱擁に見えたかもしれない。

 実態は、肩と腰の可動域を同時に奪う聖律院式の拘束術である。ここに色気が発生しているとすれば、それは司法上の事故だった。


 ガチャリ。腰で《戒鎖》が閉じる。

 《封相》が流れ込み、借り物の骨格がほどけて本来の輪郭へ戻る。桃色の長髪が彼の腕へこぼれた。


「捕まえた」


 声が耳のすぐ後ろへ落ちた。


「耳元で言うな。見れば分かる」


「婚約破棄は成功したね」


「婚約から自由になりたかっただけで、手錠付きの自由までは望んでねぇ!」


 メルティアは鎖の留め具へ指を伸ばした。ジェニエルは見もせず、その指だけを鎖でもう一周包む。


 少女は無事。婚約破棄も成立。王宮外への逃走距離はゼロ歩。


 今夜の収支は、判定が難しかった。


 ◇◇


 翌朝、メルティアは望みどおり誰の婚約者でもなくなり、案の定、公開法廷へ立たされていた。


 王族詐称の現行犯は、夜明けの即決法廷へ送られる。ミカゲ公爵家も唯一の取り柄である仕事の早さを発揮し、一晩でメルティアを除籍していた。


 王都で《七貌の悪役令嬢》と呼ばれた女は、晴れて正式な元公爵令嬢である。


 白環教会大法廷の天井には、神が人へ正しい輪郭を授ける場面が描かれている。その真下で、七つの顔を使い回してきた女が裁かれていた。


 神も配置には思うところがあるだろう。


 両手首には黒銀の拘束環。三歩後ろにはジェニエルが、皺一つない法衣で立っている。寝不足も疲労も、彼のあの顔だけ避けて通るらしい。


「被告人メルティア・ミカゲ。王族詐称、王印窃取、王命および公文書偽造、王太子殿下への薬物使用、婚姻記録の不法破棄、異端者逃亡幇助、禁忌指定術式の反復行使──以上十八件」


 公訴官が一息で読み上げた。


「犯行は長期かつ計画的であり、再犯の可能性も極めて高い。よって本官は──」


「待て!」


 王族席から、本物のエリオット王太子が立ち上がった。目の下には、眠り薬を盛られた者特有の深い疲労が残っている。


「その前に、昨夜の婚約破棄を無効とせよ。偽物による宣言で王家の契約が左右されたなど、認められるか!」


 法廷書記が婚姻台帳を確認した。


「不可能です。宣言者の詐称は刑事責任を生じさせますが、焼却済みの婚約証書を復元する条項はありません。再契約には、両名の同意が必要です」


 法廷中の視線が、メルティアへ集まった。


「私の同意でしたら、先見の明を発揮して既に逃げました。向こう百年は戻りませーん」


「お前自身はここにいるだろう!」


「捕まったのは身体だけです。同意は逃げ切りました」


「不同意として記録します」


 傍聴席から笑いが漏れる中、法廷書記だけは仕事が早かった。


「静粛に。これより判決を言い渡す」


 裁判長の木槌が鳴ると、傍聴席の笑いが止んだ。


「判決。被告人メルティア・ミカゲを、《静眠刑》に処する。執行は七日後とする」


 今度は、メルティアも笑わなかった。


 《静眠刑》では、罪人を白い寝台へ横たえ、薬で苦痛と恐怖を取り除いたのち、眠らせたまま心臓を止める。

 死刑判決。

 法廷の音が急に遠のいていく。百年先まで戻らないと言った女の余命が七日に決まった。逃げることばかり考えてきたメルティアの頭から、初めてすべての道が消えた。


 七日。短すぎる。

 国境までの距離も、牢の錠も、騎士の交代時間も何一つ分からない。膝から力が抜け、拘束された指先だけが冷たくなる。


 死にたくない。ようやく誰の婚約者でもなくなったのに、自分の顔で生きられるのが、あと七日だなんて冗談ではない。


(……いや、待てよ)


 執行直前には、判決を受けた真紋と処刑される肉体が同一か確かめる《終相確認》がある。


 その間だけは、《封相》が弱まる。


 声を執行司祭へ写す。異常を装って治癒師を近づける。その指紋で薬品庫を抜け、換気口から地下水路へ。


 成功率は、よく見積もって一割。昨日よりは高い。

 メルティアの肺へ、急に空気が戻った。


「……っはは。よし、死刑だ!」


 メルティアの声に、第一公開法廷が凍りついた。

 国選代言人は頭を抱えた。傍聴人は、死刑そのものよりもそれを喜んだ被告人を恐ろしそうに見ている。

 誤解である。死にたいのではない。生き残れる勝算が一割もあることが嬉しいだけだ。


「恐れ入ります。執行手続きに異議を申し立てます」


 背後で黒銀の鎖が鳴った。

 ジェニエルだった。


「ヴァイスレイン首席審問官。判決は既に言い渡されました」


「判決に異議はありません。ただし、公訴事実が不完全です。罪状が三件足りません。白環教会禁書庫への不法侵入、一級聖印の複製、指定禁書三冊の窃取および隠匿」


 メルティアは勢いよく振り返った。


「増やす側かよ! ってか、三冊目まで割れてたの?」


「証拠を集めるのが職務だからね。君の犯罪歴については、君より詳しい」


「きっしょ。最高級ストーカーだな」


 ジェニエルは黒い縁取りの命令書を差し出した。


「追加三件は未回収の異端資料へ繋がる継続事件です。また、《写身》には七人分の肉相が保存されている。その由来も、本人の同意も、別件利用の有無も確認されていません」


「要点を述べてください」


「被告人の肉体そのものが、七件以上の未分離証拠です」


「今、人を証拠品って言った?」


「法的な保全分類について述べているよ」


 ジェニエルは平然と続けた。


「復元不能な生体証拠は、照合完了まで破壊してはならない。『特級異端術保全命令』により、死刑の執行停止を求めます」


 命令書の末尾には、聖律院、王法院、白環教会の印章が並んでいた。

 昨夜捕まえた女のために、今朝偶然揃えられる数ではない。


「……ちょっと待って。あんた、私が捕まる前から私の死刑の先を用意してたの?」


「君が王都へ戻った日から」


「こいつの方が計画的な監禁犯だろ!」


 裁判官たちは短い確認だけで命令書を承認した。


「『特級異端術保全命令』を発効する。静眠刑の執行を停止し、対象を関連事件の解明まで特級術式保全下へ置く」


 死刑判決は消えなかった。執行日だけが消えた。


 一週間後に開くはずだった、たった一つの逃げ道と一緒に。


「保全責任者は、ジェニエル・ヴァイスレイン首席審問官」


 嫌な予感がした。


「保全場所は、王都で唯一、七つの肉相を損なわず同時に封相管理できる、聖律院認定特級保全施設──白玻璃館(はくはりかん)


「どこ、それ」


 答えたのは法廷書記だった。


「ヴァイスレイン首席審問官の私邸兼保全別館です」


「…………は?」


 メルティアの頭から、再びすべての逃走経路が消えた。


 今度は、七日後にも戻ってこれない。膝から力が抜けた。被告人席の縁を掴み、祈るような声で言った。


「……死刑に戻して」


 公訴官の口が半開きになる。


「被告人、自分が何を言っているかわかっているのですか?」


「あんたら、さっきまで死刑求刑してたでしょ。一度言い渡した判決に責任持てよ。七日後に殺すって約束しただろ」


「判決は約束ではありません」


「じゃあ検察、もっと頑張れよ。罪状は二十一件もあるんだぞ!」


「被告人に応援される筋合いはありません」


 裁判長が眉間を押さえながら、命令書を読み上げた。


「対象には個室、一日三度の食事、衣服、治療、浴室、庭園、図書室の利用を保証する。労役は課さない。ただし外出、無許可の変身、保全区画からの離脱、保全責任者の監督を離れる行為は認めない」


 安全な私室。十分な食事。庭と図書室。労働なし。そして、二十三歳の美貌の首席審問官による、つきっきりの保護。


 条件だけ読めば、死刑台から美しい男の私邸へ救い上げられる恋物語だった。

 被告人だけが、必死にジャンル詐欺を訴えている。


 傍聴席から、困惑した声が漏れた。


「それは本当に処分なのですか?」


「私なら喜んで──」


「じゃあ代わる!?」


 メルティアは傍聴席へ身を乗り出した。


「一晩で返却不可になるけど、それでもいいなら今すぐ代われよ! あいつ、魚を一口残したら治癒師を呼ぶし、夜中に窓を開けたら『風に当たりたいのか、脱走経路の確認か』を朝まで尋問するし、寝返りの回数まで日報に書く男だぞ!」


「寝返りは睡眠の質を測る重要な指標だよ」


「ほら、本人から裏付けが取れた!」


 傍聴席の反応は引く者と羨む者に割れた。メルティアを信じた者はいない。


「なお、七つの肉相に安全な分離法が存在しないため、保全期間は現時点で終身を見込む」


 終身。

 その二文字が、死刑判決より正確にメルティアの逃走本能を殺した。

 公訴官が、理解できないものを見る目でジェニエルを見る。


「確認しますが、これは刑罰ではないのですね?」


「対象の生命と術式を守るための保護措置です」


「ではなぜ、死刑を言い渡された時より対象が怯えているのですか」


 ジェニエルは手にした《戒鎖》を一度見下ろした。


「僕の監督能力が正しく評価されているからでしょう」


「人の恐怖を職務実績に計上するな! マジでふざけんなよ、司法ちゃんと仕事しろ。私を殺せよ!」


 裁判長の木槌が三度鳴る。


「対象の同意は成立要件ではない。以上」


 法廷の誰もが、死刑より恵まれた処分だと思っていた。


 メルティアだけが、本当に判決を受けた顔をしていた。


 ◇◇


 閉廷後、人目のない回廊へ出ると、ジェニエルの声から公的な硬さが抜けた。


「よかった。君が死なずに済んで」


 記録でも手続きでもない、短い言葉だった。


 この男は、自由を奪ったことを損失に数えず、命を守れたことだけを心の底から喜んでいる。

 それが分かるから、余計に扱いづらい。


「七日後の刑が実質死ぬまでになったんだけど、何がよかったの?」


「僕が監督している限り、死なせないよ」


「その文法で安心する人間を連れてこい」


「今から連れていくところだよ」


 回廊の先には、黒い箱馬車が待っていた。


「最後に確認なんだけど、両手を縛った十九歳の女を、終了時期未定で私邸へ連れ込むのを、世間では監禁って言うよね?」


「監禁ではないよ」


 心臓に悪いほど整った顔で、ジェニエルは言った。


「保護だ」


「犯罪者が一番好きな言い換えやめろ」


 馬車の座席には、メルティアの好む蜜漬けの木の実まで置かれていた。


「餌で収容を正当化できるとでも思ってんの?」


 そう言いながら一つ食べた。毒見である。二つ目は、最初の一つに遅効性の毒がなかったか確認するためだった。

 三つ目を取ったところで、ジェニエルが記録帳を開く。


「護送開始から二分十三秒。食欲は正常」


「その紙今すぐ燃やしてやろうか」


 王都が夕闇に沈む頃、白玻璃館は、腹が立つほど牢獄に見えなかった。


 乳白色の硝子と淡い石で造られた三階建ての館には、鉄格子も武装した衛兵もいない。代わりに窓枠と廊下と階段へ、目に見えない拘束術式が張り巡らされていた。


 館全体が、見栄えよく隠された一つの拘束具だった。


 指定居室には南向きの窓、天蓋付き寝台、湯気の立つ茶器、蜂蜜の焼き菓子。寝具の硬さも室温も好みに合っている。


 机の上には、四十八ページの生活規程まで用意されていた。


「二年間の追跡記録、何に使ってんだよ」


「逃亡意欲を下げる環境調整」


「焼き菓子は食う。逃げるけど」


「両立すると思っていたよ」


 ジェニエルは手首の拘束環を外し、代わりに館内用の長い《戒鎖》を腰へ留めた。黒銀の鎖は、歩行を妨げない長さで館の結界へ溶けている。


「内側から施錠できる。火災、急病、逃走中を除き、許可なく部屋へ入らない」


「窓へ片足を掛けたら?」


「庭は外には続かないよ」


 メルティアが窓の外に目をやる。ジェニエルはそのまま手袋を外した。


「最後に《戒鎖》の接続を確認する」


 彼が一歩近づくと、メルティアは一歩下がった。二歩目。三歩目で腰の鎖が張り、背中が壁へ触れる。


「留め具を見るだけだよ」


 男の私邸。閉ざされた客室。腰へ繋がった鎖。その正面で館の主人が手袋を外し、三歩分の逃げ場を塞いでいる。

 条件だけ並べれば色事だった。ジェニエルの目だけは、緩んだネジを見つけた役人の目をしている。


 それはそれで安心できない。利用しない理由はもっとない。

 メルティアは大きく息を吸った。


「誰か助けてー! 監禁犯が同意なく私の腰を──」


 最後まで言わせまいと、ジェニエルの素手がメルティアの口を塞いだ。


「静かに。事実と違う」


「んむー! んんんー!」


 廊下から複数の足音が迫り、扉が開いた。


 侍女長と二人の女性警備官が見たものは、壁際へ追い詰められ、腰に鎖を巻かれ、口まで塞がれた十九歳の女と、その正面に立つ館の主人。

 逃走経路なら七手先まで読める男が、世間体では一手目から詰んだ。


「ヴァイスレイン審問官。まず、手をお離しください」


「彼女が意図的に誤解を招いている」


「まず、手を」


 ジェニエルが手を離した。

 メルティアは侍女長の背後へ回り、笑いを堪えて肩を震わせた。後ろ姿だけなら怯えている被害者に見える。


「保全対象が故意に誤解を招いたことと、審問官が自らその誤解を完成させたことは別問題です」


「《戒鎖》の最終確認が終わっていない」


「女性警備官が引き継ぎます。今後、緊急拘束を除く身体確認は、接近前に同意をお取りください」


「そもそも、監禁という表現が不正確だ。彼女は王命に基づく特級保全対象であり、ここは僕の私邸であると同時に国家の証拠保全施設で──」


「窓は外から施錠され、腰には《戒鎖》、本人が希望しても外出できない。法的には強制保全ですが、日常語では監禁です」


「日常語で公的処分を評価しないでほしい」


「では日誌には、『強制保全中の女性を私邸の客室で壁際へ追い込み、腰部へ接近したうえ、救助を求める保全対象の口を素手で塞いだ』と記載します」


「……監禁でいい」


 メルティアは侍女長の背後で、とうとう吹き出した。


 侍女長がジェニエルとメルティアの間へ入る。

 館の主人が自分の館の客室から、自分の職員によって、極めて適法に排除されていく。


 閉まる扉の隙間から、メルティアは勝ち誇って手を振った。


「おやすみ、監禁審問官」


 その袖の内側では、ジェニエルの内ポケットから抜き取った黒銀の保全鍵が揺れていた。


 口を塞がれた瞬間、掌から指紋と術式痕を拾った。押し返すふりで胸元へ手を置き、ジェニエルの視線が侍女長へ移った一瞬に鍵を抜いた。


 指紋、術式痕、保全鍵。脱走に必要なものを一度に差し出してくれたのは、保全責任者本人だった。


 ◇


 一時間後、女性職員が退出すると、メルティアは客室へ内鍵を掛けた。

 それから盗んだ保全鍵を腰の留め具へ差し込む。《戒鎖》が床へ落ち、館の結界へ溶けた。


 メルティアの桃色の髪が黒くなり、肩幅が広がる。


 七つの常用肉相とは別に、素肌で触れた相手の肉相を夜明けまで一時保存する《浅写し》がある。ジェニエルにも聖律院にも隠してきた、期限付きの試供品だ。


 数秒後、窓辺にはもう一人のジェニエル・ヴァイスレインが座っていた。

 メルティアは鏡に向かい、いかにも相手を気遣っている顔を作った。


「メル。君の自由は尊重しているよ。僕の館から一歩も出ない範囲で、好きにするといい」


 声も、間も、慈愛に満ちた監禁犯の顔も完璧だった。実際に言ってみると、本人以上に犯罪者っぽい。


「生活規程第三条。保全対象は、監督官の立会いなく《写身》を行使してはならない」


 ジェニエルの声で読み上げ、同じ声で答える。


「監督官、立会い中。問題なし」


 我ながら完璧な解釈だった。


 生活規程を脇へ抱え、窓から庭へ降りる。着地した瞬間、景色が白く裏返り、館の玄関前へ戻された。


「庭が外へ続かないってそういう意味かよ。しょうもないループ結界入れたやつ出てこい」


 だが外門までの手間は省けた。

 メルティアが玄関を出ようとした、その時。


「審問官様、この時間にどちらへ?」


 夜番の侍女に呼び止められ、ジェニエルの顔で振り返った。


「保全対象が選びそうな逃走経路を、本人より先に確認してくる」


「お疲れ様です」


 疑われなかった。日頃の行いが、最悪の形で身分証になった。

 夜番の使用人は主人の顔を疑わず、門衛も外出命令へ従った。


 顔、声、指紋、規程の表紙から写した署名、保全鍵。

 白い門柱が光る。


『肉相・一致。指紋・一致。署名・一致。保全鍵・一致。真紋・不一致』


「あぎっ!」


 メルティアは白光に弾かれ、玄関広間の絨毯へ転がった。片目だけ元の姿に戻りかける。


「最後だけ本人確認ガチ勢か!」


「必要だと証明したのは君だよ」


 同じ声が階段から降ってきた。

 本物のジェニエルが、外套を羽織りながら下りてくる。髪も服も少し乱れていた。初めて見る、準備の終わっていない姿だ。


「君が大人しく眠る可能性を3%ほど見積もっていたんだけどね」


「残り97%に人員を置けよ」


「君の部屋へ入らない約束を優先した」


 二人のジェニエルが、玄関広間で向かい合った。


「侵入者だ。そいつを拘束しろ」


 メルティアがジェニエルの声で命じる。


「動かなかった者には、後で褒賞を出す」


 本物が言った。

 使用人は誰も動かない。主人を拘束するか、脱走犯を見送るか。全員が職を守るため、見覚えのある置物になった。


「今は動けよ! 正解発表が早いな!」


 メルティアは階段脇の白い幕を引き落とし、本物の頭に浴びせて走り出した。輪郭が隠れた一瞬、ジェニエルの《定相》は対象を見失う。


 同じ体格、同じ歩幅、同じ腕の長さ。追う側と逃げる側が同一仕様なのは、逃亡者にとって最悪のミラーマッチだった。


 外門が駄目なら、物資搬入用の小扉がある。


 背後で《戒鎖》が鳴った。

 メルティアは振り向きざま、四十八ページの生活規程を投げる。

 冊子がジェニエルの顔へ直撃した。


「──っ」


「規則に殴られる気分はどう?」


「……改定が必要だね」


 小扉まで、あと一歩。

 だがメルティアの右足だけが《定相》に縫い留められた。

 身体は前へ行こうとし、足だけが現在に残る。転ぶ寸前、後ろから手首を取られ、そのまま腕が腰へ回った。


 館の主人が、館の主人を背後から抱き留めた。

 使用人たちは、今度は職歴ではなく視線の置き場を守るため、全員そっと壁を見た。


「捕まえた」


 また耳元だった。


「自分の顔を後ろから抱いて、何か思うところはないのか」


「僕はそんな、捕まって嬉しそうな顔をしない」


「誰が嬉しがるか。今すぐその顔を殴るぞ」


 《封相》が流れ込み、腕の中のジェニエルがメルティアの本来の姿に戻っていく。


 玄関広間の絵面は、ようやく人間に理解できるものになった。同時に世間体は悪化した。


 門柱に弾かれた《浅写し》を無理に繋ぎ止めた反動で、メルティアのこめかみが鈍く傷んだ。


「──っ」


 メルティアの顔から鼻血が一滴落ちた瞬間、ジェニエルの目から追跡者の熱が消えた。


「もう変身しないで。これ以上やると、本来の姿へ戻る力まで使い切る」


「命令すんな。私の身体だ」


「だから止めている」


 抱く腕が少しだけ緩み、呼吸できる隙間が生まれる。逃げられる隙間は生まれない。


 メルティアは差し出された布を奪い、血を拭った。


「初回の評価は?」


「外門突破は失敗。規程の穴は成立。今夜の失敗を明日の条文にするよ。……それと、僕は『問題なし』とは言わない」


「は?」


「『現時点で異常は確認できない』だ。将来まで断定するのは正確ではない」


「ついに物真似の監修まで始めやがった!」


 ◇◇


 翌朝、白玻璃館の生活規程は四十九ページになっていた。


 第百二条──保全対象は、保全責任者の肉相、声、指紋、署名、保全鍵または職権を用い、保全責任者本人の立会いを自称してはならない。


 第百三条──生活規程を、鈍器、投擲物その他の武器として使用してはならない。


「規程を自ら武器認定しててウケる。一人に向けて書く条文として具体的すぎるだろ。紙の無駄遣いじゃね?」


「曖昧だとまた解釈の余地が生まれる」


「法の発展に貢献してるな、私」


「悪い判例としてね」


 向かいの席で、ジェニエルは外門の改修図面を読んでいた。

 メルティアは蜂蜜の焼き菓子を一つ食べ、空になった皿を見た。


「ジェニ。焼き菓子、もう一個」


 ジェニエルの指が、紙の上で止まった。


「二年間で、初めてそう呼んだね」


「菓子を寄越せば撤回しないでおいてやる」


 即座に、ジェニエルの皿から一番大きな焼き菓子が献上された。


「逃走計画より菓子が優先?」


「序盤の士気に関わるからな」


 婚約破棄は成功。死刑の執行は停止。自由だけが、どの書類にも残っていない。


 生活規程は一ページ増え、館外への逃走距離は一歩も増えず、焼き菓子だけが一つ増えた。


 死刑より嫌な監禁生活は、腹立たしいことに、退屈だけはしなさそうだった。


挿絵(By みてみん)

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― 新着の感想 ―
柊ナツキ先生、執筆投稿活動、お疲れ様です! 自分の婚約を破棄するために王太子本人へ化け、法の欠陥を力技で悪用する。冒頭からそんな愛すべきメルティアの発想と行動力が鮮烈で、引き込みが強いですね。 王命…
悪役令嬢には詳しくないのですが、メルティアよりもジェニエルの方が怖い存在なのには、なにか猟奇的な物を感じました。 なるほど、こういう書き方もあるのかという気持ちで読ませて頂けました。
最後まで拝読しました!! ナツキさんの小説に一貫して、私が大好きな部分である登場人物同士のコミカルで軽妙な掛け合いが光っていて、とても楽しませて頂きました!! 設定も凝っていて、流石だなと感じまし…
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