第23話:終わりではない
大部屋の入口の二、三歩手前で立ち止まると、アルキュオネは息を整えた。
「おはようございます!」
いつものように明るい声でそう言いながら、しかし俯いたままで、彼女は真っ直ぐザウテルの枕元を目指した。
「おはよう、アーネ!」
彼女に向けられたザウテルの顔は、心なしか、いつもより嬉しそうに見えた。その視線が、自然に自分の左頬に止まる。冷やしたり、軟膏を塗ったりはしてみたが、松葉杖で打たれた赤みは消えなかった。
「昨日は本当に済まなかったな」
彼女が腰を下ろすと、ザウテルは頭を下げた。
「いえ。私の方こそ申し訳ありません。その……ちょっと取り乱してしまって、ダランベール様に掴みかかるなんて……」
昨夜、ベッドの中の彼女を責め苛んだのは、初等院の時と同じような醜態を、よりによってザウテルの前で晒してしまったことであった。激しい怒りが間違いだったとは思わない。しかし、もっと違う抗議の仕方があったはずだ。あれではまるで……感情に振り回される幼子と一緒だ。どうしてこんな時に……。できれば、ザウテルとは暫く顔を合わせたくなかったが、状況がそれを許さなかった。怖いのは、同室の人々の目だけではない。ザウテルが、母のことを知らないのだとしたら、それを問われることだった。
「いや、来てくれて助かった」
ザウテルの言葉に、アルキュオネは驚いて顔を上げた。彼は窓の外に目をやった。病院の中庭は、桜が満開になっていた。
「来なかったらどうしようかと思っていた……」
彼の言葉に、アルキュオネは小さく安堵の息をついた。眠れぬまま夜を明かし、それでもここに来ると決めた。その決意が報われたように感じた。
彼女は強張った微笑みを浮かべた。
「大丈夫です。今日は大切な日ですから……」
そう言われて、ザウテルは彼女に向き直った。
「そうだな……」
それは、包み込むようなまなざしに思えた。彼は、昨日の一件を聞かないでいてくれるのだろうか? もちろん、聞かないで欲しい。しかし、それはそれで居心地の悪さを感じる。身勝手な想いだ。
彼の視線に堪えられずに、彼女は席を立った。シオンを挿した花瓶が目に止まる。昨日、水を替えたばかりの花瓶。だが、彼女はそれを手に取った。
「……花瓶の水、替えてきます……」
廊下に出たところで、アルキュオネはラスティリアードに出くわした。
「ラスティ?! あ、おはよう」
「ああ、おはよう」
アルキュオネとの遭遇に一瞬驚いた彼だったが、すぐに彼女の左頬に気付いた。
「どうしたんだ、それ……?」
苦笑いした彼女は、赤くなった頬を手で隠した。
「……昨日、ザウテルの叔父様とちょっとね……」
「ぶたれたのか?」
ラスティリアードは顔を顰めた。
「まあね……世の中これだけ人間がいるんだもの、全部が全部、ものわかりがいい人って訳にはいかないわ」
「……すまない……」
深刻な表情で、ラスティリアードは頭を下げていた。
……違う。あなたのせいじゃない。もはや、あなたが反逆者かどうかすら関係ない。母と弟の件を、あなたはきっと詳しくは知らない。あの頃、病弱だったあなたと会うことは、殆どなかったから……。でも、だからいいの。
彼の肩を、彼女は軽く叩いた。
「ラスティが謝ることじゃないわ。あなたはあなた、私は私でしょ?」
開かれた窓から、春風が吹き込んでいた。窓を背にしたラスティリアードの輪郭が、ぼんやりと光っているように見えた。いや、気のせいだ……。
「……今日は、行くから……」
声の調子を落として、アルキュオネは呟いた。
「叔父上は?」
彼に聞かれて、彼女は口を噤んだ。クロネッカ宗家での口論の後、父とはまともに口をきいていない。彼女もそうだったが、父もずっと自室に籠りがちだった。今朝は少しだけ迷ったが、結局、父とは顔を合わせることなく、彼女は家を出ていた。
「……そうか……」
答えを悟って、彼は呟いた。
アルキュオネは黙ったまま、大部屋の入口に向かって手を広げた。頷いた彼は中へと入った。
廊下から、彼がザウテルの枕元に座るのを見る。
「……水、どこまで替えに行こうかしら……」
彼女は呟いた。
* * *
裁判所裏の広場には、なかなかすんなりと入れなかった。馬車から降りたアルキュオネが目にしたのは、そこかしこに立つ近衛府の兵士達だった。広場の真ん中を開けるように、傍聴にやって来る馬車を誘導している。
「何?……」
その中に、きびきびと指示を出す女性士官がいた。先日王宮で出会ったアマルティア将位であった。彼女は、アルキュオネの存在に気付くと、小さく微笑んだ。アルキュオネは眉を顰めた。
「……まさか、陛下が?……」
「アーネ!」
声を掛けられて、彼女は振り返った。ロージェスタだった。それ以上の挨拶はなかった。神妙な面持ちで小さく頷き合う。近づいた彼女もまた、アルキュオネの左頬に気付いた。
「どうしたの? それ……」
「大丈夫。何でもないわ。ちょっと……失敗しただけ」
アルキュオネは微笑んだ。しかし、その赤みは、女性の頬にはあまりにも目立っていた。ロージェスタは心配そうに見つめたが、彼女がそれ以上語る気はないことを悟って、口を噤んだ。
「いよいよね……」
アルキュオネは裁判所の建物を見上げた。屋上には、雲の天蓋を背に、ティレリナの国旗が翻っている。
「そうね……」
ロージェスタは、ゆっくりと彼女の傍へ歩み寄った。手の甲同士が軽く触れる。二人は一度手を引いたが、再び求めるように指を伸ばすと、絡め合い、やがて握り合った。お互いの緊張と不安を振り払うように、力を込める。二人は同時に大きく息をついた。
こんな事態になるなんて、半年前には想像もできなかった。あの頃は、平凡ながらも、愛おしい日常が永遠に続いていくものだと思っていた。ロージェスタとペアを組んで、ハンザ・ミルの大会で優勝する――それが、最大の目標であり、挑戦だった。半年前までは――
今の私達にとって、それは、どうしようもなく小さな出来事になってしまっている。でも――できることなら、またあの日常を取り戻したい。抱き締めたくなるような、何の変哲もない日常を――
「行きましょうか?」
アルキュオネは呟いた。
* * *
どこをどう歩いてきたのか、アルキュオネには分からなかった。気が付くと、今朝立ち止まった大部屋の手前の廊下に、また立っている自分がいた。ロージェスタともいつ別れたのか、覚えていない。裁判所へ入る時には、確かに手を握っていた。それなのに、いつ、その手を離したのか――それすら思い出せなかった。
また、私は失った――
どうして? 私は、何を間違ったの?……
そして、それを今、口にしなくてはいけない。口にすることで、全てが確定してしまうような気がした。
アルキュオネはふらふらと大部屋に入った。窓際のベッドに身を起こしたザウテルと目が合う。言いたくない……
彼は察したようだった。アルキュオネは倒れるように椅子へと座り込んだ。
「……ダメでした……」
言いたくない言葉を、無理矢理口から押し出す。
「……死刑です……」
その言葉に引き摺り出されたように、目からは涙が溢れた。
「それで?!」
ザウテルは身を乗り出していた。
「……それで?……」
呆然とアルキュオネは呟いた。これ以上、何が必要なの?……
「執行猶予は付いたか?!」
「執行猶予?……」
そう言えば――急に裁判長の声が蘇った。
「……確か、一ヶ月の執行猶予が……その間、行動の自由は保証されると……」
「よし!」
ザウテルは力強く拳を握り締めた。アルキュオネは眉を顰めた。彼の喜びが理解できなかった。
大きく息をついた彼は、頬を濡らしたままの彼女を見据えた。
「いいか、アーネ。早まるな。ラスティはまだ生きている。ならば、まだ終わりではない!」
……終わりではない?……
「……でも、一ヶ月手に入れたところで……」
そう、処刑されることに変わりはない。それを待つ恐怖と絶望の時間が増えただけだ。
「アーネ。お前は知らんかもしれんが、哲学者アルナ=オートリュースの禁書に、『龍の眠る日』のことが書いてある」
「『龍の眠る日』?」
「そうだ。大気上層の気流が止まる日のことを言う。それが、百五十六年ごとに繰り返されているらしい。次の『龍の眠る日』は、三一三二年の丁の月。今から三十七日後、猶予期限の五日前だ」
アルキュオネは眉根を寄せた。風の龍が止まる?……生まれてから今まで、一度として止んだことのない風が止むというの?……
「今の人間の技術では、風の龍に打ち勝つことは限りなく難しい。だが、龍が眠るとなればどうだ? 空飛ぶ機械で天蓋を突破することも夢ではない!」
「そんなことが、本当に?」
訝るアルキュオネに、ザウテルは微笑んだ。
「オートリュースの本には、龍が眠る予兆として、降天が不規則になり、祝福の光を見る者が現れると書いてある。今、龍の降天は不規則になっているだろう? それに、俺は、査察からの帰りに、海の上で祝福の光を見た。天蓋が裂けるのを見たんだ! 全ては本の通りにな」
アルキュオネは目を見開いた。
「天蓋が裂ける?」
彼女は大きく身を乗り出していた。
「天蓋の向こうを見たのですか?! そこには一体何が?!」
突然の食いつきに、気圧されたザウテルは身を引いた。
「いや……見たのは眩いばかりの光だけだ……何があるかまでは分からなかった……」
「そうですか……」
……やはり、本当のことは分からないままだ……
落胆の色を見せるアルキュオネに、ザウテルは眉を顰めた。
やがて気を取り直すと、彼は窓の外に目をやった。その視線の先には、雲の天蓋があった。
「もし、ラスティが天蓋を突破して無事に戻ってきたらどうなる? もう裁判どころではない。確実に、世界は変わる!」
ザウテルは、痛快で堪らないという顔をした。アルキュオネへと向き直る。彼はアルキュオネの手を握った。
「だから終わりではない! 我々にはまだ打つ手がある。それを忘れるな」
そんなことが……俄かには信じられなかった。でも、もしそうなら……
祈りの根拠は、まだある……
「……わかりました……」
アルキュオネは小さく微笑んだ。安心したように、ザウテルも微笑み返した。二人で、窓の外、桜の花の向こうの天蓋を見上げる。
「……哲学者アルナ=オートリュース……」
アルキュオネは呟いた。




