俳句 楽園のリアリズム(パート2ーその2)
今回は「俳句 楽園のリアリズム(パート2-その2)をおとどけします
さて、俳句で旅情を味わうというきょうの最初の話にもどることにしよう。部屋のなかで、旅人の心になって旅先で作られた思われる俳句を読んで、旅先の風景のようなイマージュを生きられたなら、旅の旅情、旅の至福を居ながらにして味わうことになる、はず。
旅に出て、旅先の風景を心のなかの特別などこかで受けとめて旅情を味わったみたいに、俳句で、旅先の風景に似たイマージュをおなじ心のなかの湖面のようなどこかで受けとめてあげれば、部屋のなかでもほとんどおなじ旅情を体験することになる、はず。
これから読んでみる旅の俳句でどれほどの旅情=ポエジーが味わえるかちょっと楽しみだけれど、それでも、残念ながら、最初のうちは、この本のなかの俳句を読んでみても旅情ほど大きくて深くてゆたかなポエジーにはなかなか出会えないかもしれない。
なぜって、旅というものの特性が夢想するための条件を満たしてくれる旅先にくらべたら、残念ながら、部屋のなかで俳句を読むときには、いまの段階ではまだレベルの低い幼少時代しかめざめてくれないだろうから。
たとえ散歩のようなほんの小さな旅であっても日常のなにもかもから解放された旅先で世界を眺めるのと、部屋のなかで俳句を読むのとでは、部屋のなかで味わうポエジーのほうにどうしてもハンディがあるみたいだ。
だけど、旅に出て旅情にひたればひたるほど、俳句を前にしてめざめる幼少時代もそのうち次第にレベルアップしていくことが当然のこととして期待される。
部屋のなかで旅先の至福が味わえるなんて、そんな夢みたいなことがそう簡単に実現してしまっていいわけがない。
いまはそうご自分に言い聞かせるようにして、いっぽうでできるだけうんと旅に出ては旅先で旅情を満喫しながら、この本のなかの俳句作品をとおしてポエジーとの出会いをくりかえしていただくのが、あくまでも理想。
まあ、そうは言っても、いまの段階でも、旅先で作られたと思われる俳句を読んでみれば、もしかしたら、それだけで、ひとによっては、旅先でめざめるのにちかいレベルの幼少時代がいきなり目をさましてしまうことになるかもしれないけれど。
そんなわけで、森澄雄の句集から、部屋のなかで、俳句でもって、旅情を味わえそうな句をいくつか拾ってみた。さすがに森澄雄もどこかでこんなことを言っていたのを思い出す。
「人間はこの広大な宇宙のなかの一点。
人間の生もまた、永遠に流れて止まぬ時
間の一点に過ぎない。句はその大きな時
空の今の一瞬に永遠を言いとめる大きな
遊びである。我を捨てる遊びである」
ひとは、我を捨てて、名前をつけて区別する必要のない普遍的な幼少時代を復活させることによって、理想的な、名前のない俳句の作者、名前のない俳句の読者、名前のない旅人として、幼少時代の宇宙的な時空の前に立つことができるのだ。そんなふうにしてはじめて、俳句の作者は、いまの一瞬に、その一句に、永遠を言いとめることができるのだろうし、俳句の読者は、その一句に、幼少時代の永遠の世界をみいだすことになるのだろう。
「わたしたちは名前のついていない幼少
時代、生の純粋な水源、最初の生、最初
の人生に到達する。しかもこの生はわた
したちの内部にある ―もう一度強調し
ておこう― わたしたちの内面に残存し
ているのだ」
我を捨てて、だれもがおなじものとして共有する幼少時代を復活させるその度合に応じて、ぼくたちはより幸福な夢想を遊び、満喫することができる。ぼくたちの心を子供のたましいが占めるその度合によって、ひとは、より純粋な、詩人、詩や俳句の読者、旅人となったりすることができるのだ。
「人間を世界に結びつける原型、人間と
世界との詩的調和をあたえる原型」
それではさっそく、旅先で作られたと思われる森澄雄の俳句作品を、少しだけまとめて読んでみよう。旅先のなつかしい風景を眺めたりするときとおなじように、この部屋のなかで、どのような旅情に、ぼくたち、満たされることになるだろうか。
旅人の心になりきるようにして5・7・5と言葉をたどってみれば、そこに見えてくるのは、旅情を誘う旅先のひとつの情景……
雪上につながれし馬も車窓過ぐ
雪国や停車して煙直上す
雪ふりをり薄暮うどんの香が満ちて
汽車過ぎていよいよ暮色一冬木
椿見て一日雨の加賀言葉
部屋のなかで旅先の至福が味わえるなんて、そんな夢みたいなことがそう簡単に実現してしまっていいわけがない……
梅干してきらきらきらと千曲川
木々の芽に雨ふりその他うちけぶる
花杏旅の時間は先へひらけ
汗ふくや飛騨も晩夏の白木槿
早稲は黄に晩稲は青し能登に入る
日常から完全に解放されて旅先に身を置いているわけではないのだし、ぼくたちの幼少時代が目をさますのはやっぱりまだ無理だったかもしれず、したがって、残念ながらたいした旅情も感じられなかったのではないかと思うけれど、それでも、そのうち、ほんとうに、この本のなかの俳句を読むだけで、実際に、旅情のようにレベルの高い夢想の幸福を味わってしまうことは可能かもしれない、と、どなたにもそんな気持にはなっていただけたのではないだろうか。
旅になんか出なくたって、この本のなかの700句の俳句や、ふつうの詩を読んで、部屋のなかで旅情に負けないポエジーを味わえるようになれたなら、それは、最高の人生を手に入れたのもおなじこと。けれども、そのためには、そうしてそれまでは、とにかく何度も旅に出ては、旅先で、いくども幼少時代の目をさましてあげることが、なんといってもいちばんの近道。
「わたしの意見では、人間のプシケの中
心にとどまっている幼少時代の核を見つ
けだせるのは、この宇宙的な孤独の思い
出のなかである」
そういえば、旅について書かれたバシュラールの文章って、あまり読んだことがないような気がする。バシュラールときたら、いつでも自在に、宇宙的な孤独の思い出のなかで「幼少時代の核」をみつけだして、毎日部屋のなかで詩を読んでは旅先よりもさらに魅力的な詩篇の数だけある〈詩的世界〉を旅していたようなものだったのだから、旅なんてぜんぜん必要としていなかったのだろう。
「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ
らゆるバリエーションはとりもなおさず、
わたしたちのなかにある幼少時代の核が
休みなく活動している証拠なのである」
ところで、湖面のイメージがあればそれだけで用が足りてしまうのでこんなことはどうだっていいのだけれど、もちろん5・7・5の音数律にあわせて言葉を選んで一行に並べたのは作者だとしても、いま読んだ森澄雄の俳句の美しいイマージュを作りあげたのは、ほんとうのところ、旅先の作者、森澄雄なのだろうか、あるいは(そのうちだれもが確実にこう言えるようになるはずだけれど。つまり……)その俳句作品を読んでポエジーを味わうことのできた読者であるこのぼくたち自身なのだろうか。
「イマージュは、現前したし、わたした
ちのなかにありありと出現した。それは、
詩人のたましいのなかでそれを生みだす
ことを可能にした一切の過去から切り離
されて現前したのである……
雪上につながれし馬も車窓すぐ
「イマージュの創造の過程を知らないた
ましいのなかに、イマージュがなぜ同意
の気持を目ざますのか。詩人はかれのイ
マージュの過去をわたしたちに教えてく
れない。しかしかれのイマージュはわた
したちの心のなかにたちまち根をおろす。
ある特異なイマージュが伝達できるとい
うことは、存在論的にたいへん重要な事
実である……
花杏旅の時間は先へひらけ
「ああ、わたしの前にあたえられたイマ
―ジュが、わたしのものとなるように、
正真正銘わたしのものとなってくれるよ
うに、とわたしは願う。わたしの前のイ
マージュがわたしの作ったものとなるよ
うに、これは読む者の自尊心の最高のあ
りかたではないか……
汽車過ぎていよいよ暮色一冬木
「イマージュがわたしたちの気に入るの
は、あらゆる責任とは無縁の、夢想の絶
対的自由の状態で、わたしたちが創造し
たからである……
雪ふりをり薄暮うどんの香が満ちて
詩のなかでも特に俳句だと、そのイマージュを作ったのは読者であるこのぼくたち自身なのだと思えるほどにも、だれもがそのポエジーをこんなにも深く味わえてしまうのも(あるいは、そのうちいやでも例外なく味わえるようになるはずなのも)俳句のイマージュのほんとうの意味での作者とは、一句を書きとめた俳人とそれを読んだぼくたち読者のなかに等しくいまでも生きている、名前をつけて区別する必要のないひとりの子供にほかならなかったから、と考えると、やっぱり、すべて納得できるようだ。
「幼い頃のイマージュ、ひとりの子供が
作りだすことのできたイマージュ、詩人
がわたしたちにそれを作ったのはひとり
の子供だといったイマージュは、わたし
たちのために間断なく存続する幼少時代
を表すものである。それこそ孤独のイマ
―ジュである。このイマージュははるか
な幼少時代の夢想と詩人の夢想が連綿と
継続していることを示している」
それだから、俳句のイマージュを作りだしたのは、自分の、というより、普遍的な幼少時代をおなじように復活させることに成功した、その俳句作品の作者であり、また、その読者でもある、というべきだろう。さらにいうなら、一句の背後に普遍的な子供のたましいを召喚した俳句形式そのものでもある、と。
そうして、俳句のイマージュを作りあげるのに必要な、ぼくたちの心のなかの詩的財産ともいうべき汽車や冬木や木々の芽や雨といった「世界」の感覚的な記憶に個人差などというものは考えられないのだし、そうしたおなじようなイマージュを、だれもがおなじものとして共有する心のなかの湖面のような特別などこかで受けとめることになるのだから、ぼくたちが受けとる俳句のイマージュにも、断じて、個人差などというものはありえない、ということになりそうだ。
「このイマージュははるかな幼少時代の
夢想と詩人の夢想が(俳句の場合、こ
の詩人を、俳人はともかくとして俳句
の読者、つまりこの本のなかで俳句を
読んでいるぼくたちの夢想、と言い換
えることもできるだろう。すなわち、
俳句のこのイマージュは、はるかな幼
少時代の夢想とぼくたち俳句の読者の
夢想が)連綿と継続していることを示
している……
木々の芽に雨ふりその他うちけぶる
「このようにして子供は孤独な状態で夢
想に意のままにふけるようになるや、夢
想の幸福を知るのであり、のちにその幸
福は俳句の読者の幸福となるであろう」
幼少時代の<イマージュの楽園>の事物たちとまったくおなじ美的素材で作られたもの、それこそが、まさに、俳句のイマージュ。それだから、幼少時代の色彩で彩られたこれら俳句のイマージュのなかには、もっとも純粋なかたちで幼少時代の《美》が連綿と継続している、と、そんなふうにもいえそうだ……
梅干してきらきらきらと千曲川
「旅先で作られたと思われる俳句のこれらの詩的情景は、はるかな幼少時代の夢想と、旅先でこれらの句を書きとめた旅人の夢想、そうして、ぼくたち俳句の読者の夢想が、連綿と継続していることを示している……
雪上につながれし馬も車窓過ぐ
雪国や停車して煙直上す
「のちにその幸福は詩人の幸福となるであろう」
旅情と俳句のポエジーは、体験する「場」がちがうだけで、その本質は、詩人の幸福とおなじように、遠い日の〈イマージュの楽園〉における限りなく甘美な宇宙的幸福を遠い源泉とするもの。旅先で作られたと思われるこれらの俳句が、旅になんか出なくたって、この部屋のなかで、旅先の風景とおなじように、ぼくたちに旅情という極上の喜びを味わわせてくれるのではないかと期待させるのも、旅情とは、まさに、旅先でだれでも味わうことのできる、詩よりも純度の高い詩情そのものにほかならないからだった……
雪国や停車して煙直上す
椿見て一日雨の加賀言葉
部屋のなかで旅先の至福が味わえるなんて、そんな夢みたいなことがそう簡単に実現してしまっていいわけがない!
「このようにして幼少時代を歌う詩人と
読者とのあいだには、心のなかに生きて
いる幼少時代を媒介にコミュニケーショ
ンが成立する」
俳句の場合は、ぼくたち俳句の読者の心のなかに生きている幼少時代と、一句一句の俳句作品の背後に召喚された幼少時代が媒介となって、ということになるのだろうか。いずれにしても、だれもの心のなかに生きている幼少時代がもっとも直接的に媒介となって詩的コミュニケーションを成立させてくれる、最高に理想的な詩。それこそが、まさに、世界に類をみない俳句という一行詩なのだ。
「ひとのたましいは幼少時代の価値に決
して無関心ではない」
それにしても、幼少時代を過ぎてから身につけた記憶や知識で作られていることの少なくない俳句作品、たとえば、子供のころ落葉松を見た記憶なんてまったくないはずなのに、つぎの一句が、どうして、幼少時代の<イマージュの楽園>の事物たちとまったくおなじ美的素材で充たされてしまって、そうして、どうして、ぼくたちに幼少時代の夢想の幸福を追体験させてしまうのだろう……
落葉松が立つ寒明けの星空へ
「子供の夢想のなかではイマージュはす
べてにまさっている。経験はその後にや
ってくる。経験はあらゆる夢想の飛翔の
抑制物となる。子供は大きく見るし、美
しく見る。幼少時代へ向う夢想は最初の
イマージュの美しさをわたしたちに取り
戻してくれる……
行く汽車のなき鉄橋の夕焼くる
「わたしたちの夢想のなかでわたしたち
は幼少時代の色彩で彩られた世界をふた
たび見るのである……
村役場までアカシアの花の道
こうした俳句のイマージュがぼくたち自身の幼少時代の記憶に根ざしているかどうかなんて、やっぱり、そんなことはどうだっていいこと。ぼくたちの夢想のなかでは、あらゆるイマージュが、幼少時代の色彩で塗りなおされることになるのだから。
「このイマージュは原則として、完全に
わたしたちのものであるとはいえない。
それはわたしたちの単なる思い出よりも
つと深い根をもつからである。わたした
ちの幼少時代は人間の幼少時代、生の栄
光に達した存在の幼少時代を証言してい
る」
最初のイマージュの美しさが充満している俳句作品の一句一句は、それがぼくたち自身の記憶に根ざしているかどうかに関係なく、バシュラールの教えのとおり、なぜか生の栄光に達した存在の幼少時代を素晴らしくよみがえらせてくれる……
山鳩よみればまはりに雪がふる
まあいずれにしてもことは、幼少時代の復活という一点にかかっている。幼少時代を復活させて、詩のイマージュを創りだすのが詩人。幼少時代をめざめさせて、詩や俳句のイマージュを受けとるのが詩や俳句の読者。幼少時代を召喚して、俳句作品を宇宙的イマージュで充たすのが俳句形式。そうして幼少時代を復活させて、旅先にあるのが旅人。
「このようにして子供は孤独な状態で夢
想に意のままにふけるようになるや、夢
想の幸福を知るのであり、のちにその幸
福は詩人の幸福となるであろう」
詩人と詩や俳句の読者と旅人。だれだって旅先では詩人になれるものだし、詩や俳句の読者とはひととき詩人の魂を共有するもののこと。彼らが必然的に追体験することになる夢想の幸福は(つまりイマージュの幸福は)すべてそのイマージュが湖面のようなどかでしっかりと受けとめられてもたらされるはずのもの。
それは、「幼少時代の核」があらわになった状態で、湖面のようなどこかでイマージュを受けとめれば、この世の至福ともいうべき遠い日の<楽園の幸福>が呼びさまされる、というぼくたちの内部の『夢想のメカニズム』のシンプルなイメージを思い出させる。
「イマージュを賞讃する場合にしか、ひ
とは真の意味でイマージュを受けとって
いない」
湖面のようなどこかがイマージュを受けとればだれだってその快さにイマージュを賞讃しないではいられなくなるだろうし、ぼくたちが読みはじめた俳句の場合、そんなふうにして受けとられたイマージュに、ひとによって違いがあるなどとは考えられない。俳句のイマージュを作りあげる、汽車や鉄橋や夕焼や山鳩や雪の感覚的な記憶に個人差などというものは考えられないからだった。
「わたしたちが昂揚状態で抱く詩的なあ
らゆるバリエーションはとりもなおさず、
わたしたちのなかにある幼少時代の核が
休みなく活動している証拠なのである」
つまり、ぼくたちが俳句のイマージュを真の意味で受けとったと感じたとしたら、おなじことになるけれど快いポエジーを受けとったと感じたとしたら、それは、まぎれもなくぼくたちの「幼少時代の核」があらわになって、湖面のようなどこかでそのイマージュがしっかりと受けとめられたことの証拠。
「俳句作品を読むことによって、しばし
ばたった一句の俳句のイマージュの助け
によって、わたしたちの内部に、もうひ
とつの幼少時代の状態、わたしたちの幼
い頃の思い出よりももっと昔へと溯る幼
少時代のある状態を甦らせることが可能
になるだろう……
りんご置く風にとびたちそうな海図
つまり、イマージュを受けとるために必要なのは幼少時代。そうして、受けとったイマージュがよみがえらせるのは、さらに理想化されたもうひとつの幼少時代。
「わたしたちの過去への夢想、幼少時代
を探し求める夢想は、実際には起こらな
かった生に、想像された人生に、生命を
ふたたびもたらすように思われる。夢想
のなかで、わたしたちは運命が利用でき
なかったいろいろの可能性と接触する」
「実際の幼少時代を想起するよりも、夢
想のなかで幼少時代を思い起こそうとす
ると、わたしたちは幼少時代のさまざま
な可能性をよみがえらせることができる。
わたしたちの幼少時代がそうでありえた
かもしれないあらゆることを夢想し、歴
史と伝説の境目まで夢想をのばすことが
できる。わたしたちはみずからの孤独の
思い出にふれるために、孤独な子供にす
ぎなかった自分たちの世界を理想化する
のである」
なにはともあれ、何度も旅に出ては「旅の孤独」を幼少時代の「宇宙的な孤独」へと移行させてしまって、そこで、つまり旅先で、隠されていた「幼少時代の核」をいくどもあらわにしては旅情という名の詩情をくりかえし満喫してしまうこと。あくまでも、それが理想。
まあ、それでも、過去の旅や映画のなかとかで実際に旅情を味わったことのあるほとんどの方は、飛騨や能登で作られたと思われるつぎの俳句を読んでほんの少しでも旅情を感じることができたなら、いまさら旅になんか出なくたって、約束どおりこの本だけでも、絶対、なんとかなるはず。旅先で旅情にひたっているときとおなじように、俳句を前にしても、隠されていた「幼少時代の核」はそれなりにあらわになってしまったはずだからだ。
汗ふくや飛騨も晩夏の白木槿
早稲は黄に晩稲は青し能登に入る
どうだったろう。ほんのかすかにでも旅情を感じることができたとしたらしめたものだけれど、まったく旅情を感じられなかったからって気にしないでいただきたい。それは、あなたの幼少時代が人一倍熟睡しているというだけのことでしかないのだから。
「あたかも詩人は(ぼくたちにとって、
いまの段階では、詩人ではなくて旅や俳
句が)充分その役目を果していない幼少
時代、しかもわたしたち自身の幼少時代
であって、おそらく何度もくりかえして
わたしたちが夢想した幼少時代をひきつ
づき持続させ、完成させるかのように思
われる。したがってわたしたちが選びあ
つめる詩作品は(選び集めた700句の
俳句作品は)わたしたちを自然的で、本
源的で、それ以前に比較すべきものをも
たないあの夢幻状態、わたしたちの幼少
時代の夢想と同一の夢幻状態へと導いて
いく」
充分その役目を果たしていないぼくたちの幼少時代をめざめさせてくれる旅や、あるいは、この本のなかの俳句作品のおかげで、それがもうひとつの幼少時代だろうと、だれもが、そのうち例外なく、幼少時代の夢想と同一の夢幻状態へと導かれることになるだろう。
その幸福感ときたら、宇宙的といわれるほどにも大きくて、深くて、ゆたかで、根源的なものだから、それは、人生のあらゆる種類の味わいを味わうために必要な、素晴らしく生き生きした新鮮な感受性を、だれもの内部にしっかりと覚醒させてくれるはずなのだった。
「ただ夢想だけがこういう感受性を覚醒
させることができる」
今回も頑張って乱れた行を訂正してみました。その際に、誤って必要な字を削除したりしていなければいいのですが。それと、作品を使わせていただいているはじめての俳人の名前には感謝の意味もこめてふりがなをつけているのですが、今回の森澄雄のふりがながひどいことになっているのを寛大な気持で読んでいただけたならとお願いします。